市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第39講

43 「種を蒔く人」のたとえの説明(8章11〜15節)

比喩の寓喩化

 弟子たちの質問に答えて、イエスは「種を蒔く人」のたとえを説明されます。

 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」。(八・一一〜一五)

 パレスチナの農夫は、種を空中に散布して種を蒔きます。それで、道端や石地や茨の中に落ちる種も多く、多くの種が実を結ぶことなく失われます。しかし、よく耕されたよい地に落ちた種は、大地の力によって多くの実を結び、蒔かれた種の何十倍の収穫をもたらします。このような農夫の体験を比喩として用いて、イエスは今は不信と圧迫の中で失われたかのように見えるイエスの「神の国」告知の働きも、神の働きによってかならず栄光の中に実を結ぶことを語っておられることを、先に見ました。
 しかし、ここに語られている解説は、そのような「対照の比喩(パラブル)」ではなく、寓喩(アレゴリー)化されて、一つの教訓的・勧告的説教になっています。寓喩化というのは、イエスが語られた比喩の物語の中の一つひとつの語句を象徴とし、それによって具体的な内容を指示させて、全体として一つの(多くの場合教訓的な)象徴的物語にすることです。ここでは、道端や石地や茨の中やよい地という語句が、それぞれ御言葉を聞いた人たちの態度を指す象徴とされて、不信仰や浅薄な心、世の思い煩いや欲望に満ちた心で御言葉を聴くことなく、立派な善い心で聴き、聴いた御言葉をよく守り、忍耐して御言葉に従うように説き勧める説教になっています。

福音告知の状況との重なり

 さらに、この説明の段落に用いられている用語が、イエスが用いられた用語というより、使徒たちが福音を宣べ伝えた状況にふさわしい用語であることが注目されます。ここで主題として用いられている「御言葉」は、原語では単数形の《ホ・ロゴス》(定冠詞つきの《ロゴス》)ですが、これは最初期の福音活動で「福音」を指すのに用いられた術語(専門用語)です。ところが、イエスが語られたとされる言葉の中では、この「種を蒔く人」の説明以外では出てきません。ルカは表現を簡潔にしているのであまり出てきませんが、並行するマルコ(四・一三〜二〇)では、「御言葉を受け入れる」、「御言葉につまずく」、「御言葉のために迫害される」、「御言葉が実を結ぶ」というような、福音の告知に関する使徒時代の典型的な表現が集中的に現れています。このような事実からも、この説明は使徒時代の共同体から出たものと見ざるをえません。
 使徒たちは、福音を告げ知らせる働きの中で、イエスから聞いていた「種を蒔く人」のたとえが、見事に福音を聴く人たちの対応の仕方を象徴的に描いていることを見出したのです。そして、そのようなたとえの理解を主イエスから賜ったものとして、福音を聴く者たちへの信仰の勧めの説教としたのです。
 ここにも、福音書の本質をなすイエスの状況と福音告知の状況の重なりがあります。福音書は、地上のイエスの言葉と働きを語ることによって、復活者キリストの福音を世に告知する文書です。このような性格から、福音書はイエスがなされた働きや語られた言葉を忠実に伝えようとする試みの中に、復活者キリストの福音を告知する最初期共同体の言葉が重なって響く場合が多く見られます。ここもその重要な事例です。
 このような重なりをもっとも素朴な形で出しているのがヨハネ福音書ではないかと思います。よくヨハネ福音書はキリスト論がもっともよく発展した段階の後期の著作だと言われますが、地上のイエスの発言と共同体が告知する復活者イエスの言葉が「継ぎ目なく」重なっている語り方を聴いていると、わたしはむしろ福音告知のもっとも初期の形態を保存している福音書ではないかと感じるときがあります。

K・ベルガーは、その新約聖書翻訳で、ヨハネ福音書の成立を七〇年以前に置いて、四福音書の中で最初に成立した福音書としています。