市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第38講

42 たとえを用いて話す理由(8章9〜10節)

奥義と謎

 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。(八・九)

 この時点での弟子たちは、イエスのたとえを理解することができません。マルコ(四・一〇)では、「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた」となっていますが、ルカは「イエスがひとりになられたとき」を省き、弟子たちだけが尋ねたことになっています。また、マルコでは「たとえ」が複数形で、イエスのたとえ話の性格についての全般的な質問になっていますが、ルカでは「このたとえ」が単数形で、「種を蒔く人」のたとえの意味を尋ねたことになっています。ルカは、弟子の質問と次の段落(八・一一〜一五)のイエスの説明を、よりいっそう整合した形に整えています。
 弟子の質問に答えて、イエスはこう言われます。

 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」。(八・一〇)

 イエスの言葉を敷衍すると、「わたしに従う弟子であるあなたたちには、神の国の《ミュステーリオン》(奥義、秘密)を悟ることが許されているが、わたしに従わない外の人たちには、それは許されていない。私の言葉は、彼らには《パラボレー》(比喩、謎)として残るのだ」ということになります。そして、そうならざるをえないことを、イザヤ(六・九〜一〇)の預言を引用して確証されます。
 ここの《パラボレー》は、《ミュステーリオン》に対立する意味で用いられています。すなわち、神の国の《ミュステーリオン》を理解できない状態、謎として残ることを指しています。イエスのこの語録は、本来イエスの働きと教えの結果全般に関する語録として、独立に伝承されていたと考えられます。イエスが用いられたアラム語に遡って考察すると、イエスはここでヘブライ語の《マーシャール》に相当するアラム語《マトラー》を用いられたと考えられますが、そのアラム語《マトラー》は《マーシャール》と同じく、比喩、寓話、象徴、格言、謎など、広い意味を含む語です。「謎」の意味で用いられたその言葉が、ギリシア語の《パラボレー》で訳された結果、このギリシア語に引きずられて、たとえに関する問答の中に入れられ、イエス自身によるとされるたとえの解説(一一〜一五節)の前置きとして用いられたと推察されます。
 ここの《ミュステーリオン》という用語が示唆しているように、たとえによる奥義の提示と、その意味を解説する部分の組み合わせは、ダニエル書のような黙示文学に見られる、象徴や幻による《ミュステーリオン》の提示と、それを解き明かす霊感を受けた賢者の解説の組み合わせを想起させます。ここでは、イエスが語られた《マーシャール》(謎)が霊の人であるイエス自身によって説明されて、弟子たちに《ミュステーリオン》が解き明かされます。しかし、外の人たちには解説は与えられず、謎のまま残ります。
 そのように謎のまま残ることは、神の定めであり預言されていることだとして、イザヤの預言が引用されます。この預言の引用によって、イエスは御自身を預言者の列に置いておられます。すなわち、イザヤが預言者として神の言葉を語るように召されましたが、イスラエルは「見ても見えず、聞いても理解できない」状態に放置されました。そのように、終わりの時に遣わされた預言者イエスも、神の言葉を語られましたが、不信仰のイスラエルにはイエスの言葉は謎のまま残り、彼らはいやされることはありませんでした。