市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第37講

41 「種を蒔く人」のたとえ(8章4〜8節)

たとえで語られるイエス

 先の段落(八・一〜三)でガリラヤにおけるイエスの働きを総括的に記述した後、ルカはその時期の個々のイエスの働きを伝えます。そのさい、ルカはほとんどマルコの記述に基づいて物語を進めます。ルカは「十二人の選び」の記事の後、しばらくマルコから離れて独自の記述を進めてきましたが(六・一七〜七・五〇)、八章に入って、総括的な要約記事の後、再びマルコに従って記述を進めていきます。もっとも、そのさい独自の視点から多少の変更は加えています。たとえば、マルコでは「イエスの母、兄弟」の段落はたとえ集の前に置かれていましたが、ルカでは後に置かれています。また、マルコではイエスがたとえを語られたのはガリラヤ湖畔で小舟の上からでしたが、ルカでは湖畔の状況は触れられていません。
 この区分(八・一〜九・五〇)では、ルカは基本的にはマルコに従っていますので、その内容はほとんど前著『マルコ福音書講解』で講解しています。それで、ここでは個々の段落の使信内容については要約にとどめ、その段落を扱うルカ独自の視点と特徴に重点を置いて講解します。いちいち断りませんが、その内容については拙著『マルコ福音書講解T』を参照してくださるようにお願いします。

 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。(八・四)

 イエスがあるところにおられたとき、イエスが巡回された町々でなされた病人をいやすなどの働きを見た人たちが大勢、イエスのもとに集まってきます。マルコではそれがガリラヤ湖畔であったとされていますが、ルカは場所を特定していません。「方々の町から」という句で、巡回伝道での一場面であることを示唆するだけです。こうして集まってきた大勢の群衆に、イエスはたとえを用いてお話になります。たとえを用いて話す理由は後で取り上げられます(八・九〜一〇)。
 イエスは「神の国はこのようなものである」と言って、「神の国」のことを多くの比喩を用いて語られました。その比喩は、ガリラヤの農村生活の体験を用いたものが多いようです。それは、イエスご自身がガリラヤの農村の木工職人の家で育たれた方ですし、聴衆も農村の人たちが多かったからです。マルコはその福音書の四章に、イエスが語られた比喩を集めていますが、農業関係の比喩が多く含まれています。ルカは、その中から代表的な「種を蒔く人」のたとえを取り上げ、たとえを用いて語る理由や、そのたとえの説明などを付けて、マルコと同じく、イエスのたとえに関する包括的な提示としています(八・四〜一八)。

「種を蒔く人」のたとえ本来の使信

 では、そのたとえを聴いてみましょう。

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので、枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。(八・五〜八a)

 マルコ(四・三〜八)にあるたとえと較べますと、細かい点では表現に違いがありますが、基本的には同じ内容です。イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われたとされている点も、マルコと同じです。
 このたとえは、すぐ後にイエスご自身が語られたとされる説明(八・一一〜一五)がついていますので、その説明通りに理解すれば十分ではないかとも考えられます。しかし、その説明の部分は、最初期の共同体が福音を宣べ伝えたときの状況が色濃く反映した「寓喩(アレゴリー)」になっているので、このたとえの本来の使信を聴き取るためには、ひとまず寓喩化した説明のところはお預けにして、イエスがいつも語られた「比喩(パラブル)」として聴かなければなりません。

「比喩」(パラブル)と「寓喩」(アレゴリー)の違いについては、拙著『マルコ福音書講解T』194頁の「比喩の寓喩化」の項を参照してください。

 イエスは「比喩《パラボレー》」を用いて神の国のことを語られました。すなわち、神の国の一つの側面に焦点を当てて、その内容に対応する日常生活の体験を横に並べて(《パラボレー》は「並べて置く」という意味の動詞から出た名詞)、それによって見えない霊的現実である「神の国」を指し示されるのです。そのような「比喩」としてこの「種を蒔く人」のたとえを聴くと、これは当時の農法の体験で、イエスにおいて到来している「神の国」の現実を指しているたとえであることが聴き取れます。すなわち、耕す前に種を散布するという当時の農法では、悪い地に落ちて失われる種も多いのですが、畑全体としては必ず蒔いた種の何十倍かの収穫はあったのです。種を蒔く農夫は、失われる種が多い事実は知っていますが、必ずもたらされる豊かな収穫を信じて、土地の良し悪しを問題にせず広く種を散布するのです。
 これは「対照のたとえ」です。道端、石地、茨の中に落ちて失われる種も多いが、よい地に落ちた種はさらに豊かな収穫をもたらします。農夫は、失われる種に失望することなく、大地は必ず豊かな収穫をもたらすことを信じて種を蒔きます。この忍耐強い農夫はイエスご自身の比喩です。イエスは、ご自身の中に到来している「神の国」を宣べ伝えられますが、それは周囲の不信の中に埋もれて実を結ばないように見えます。事実、イエスは当時のユダヤ教社会から拒否されて死なれます。しかし、ご自分が蒔かれた種は必ず豊かな稔りをもたらし、神の支配が実現することを信じて、イエスは種を蒔き続けられます。しかし、イエスはたんに「種を蒔く人」ではありません。それ以上の方です。そのことは他のたとえとイエスの生涯そのものが明らかにします。