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38 洗礼者ヨハネとイエス(7章18〜35節)

洗礼者ヨハネの質問

 ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。(七・一八〜一九)

一九節で「主《ホ・キュリオス》のもとに」とありますが、この箇所では(一三節の場合よりもはるかに)有力な写本が「イエスのもとに」と読んでいます。一三節では(そこで説明したように)、ルカが用いた伝承に《ホ・キュリオス》とあり、ルカがそう書いた可能性が十分考えられますが、一度《ホ・キュリオス》が用いられた後では、教会の敬虔な写字生が原本にあるイエスを《ホ・キュリオス》と書き換えることは容易に想像できます。この段落で二〇節、二一節、二四節の「イエス」は、原文では「彼」です。

 洗礼者ヨハネはすでに獄にいます(三・二〇)。マタイ(一一・二)では、ヨハネは獄中でイエスの働きを伝え聞いたとあるだけですが、ルカではヨハネの弟子たちが獄中のヨハネに、イエスの働きを知らせたとなっています。洗礼者ヨハネは、その活動が危険なメシア運動になることを恐れた領主ヘロデ・アンティパスによって投獄されたのですから、ヨハネが弟子と会ったり弟子を派遣したりすることは考えられないとする見方もあります。それでこの段落を、復活後のイエスの弟子団が洗礼者ヨハネの弟子団に、イエスがメシアであることを説得しようとした記事であるとする解釈も出てきます。しかし、この記事には復活後の状況を示唆するものはないので、やはり地上のイエスの働きのときに、何らかの形でこのような内容の問答が行われたと見るべきでしょう。

ヨセフスの「古代史」では、洗礼者ヨハネは死海東岸のマケルスの要塞に投獄されていたとされていますが、ヨハネが処刑されたのはヘロデの誕生日の祝いに「高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催した」時とされていますので(マルコ六・二一)、遠い死海東岸の荒れ地の要塞よりもガリラヤ湖西岸の首都テベリアにあるヘロデの宮殿の牢獄ではないかという推察もあります。その方が、イエスの働きが伝わり、ヨハネが使いをイエスのもとに送るという出来事が自然に理解できます。

 洗礼者ヨハネは、バプテスマ活動をしていたときに、自分の後に来られる方についてこう預言していました。
 「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。(三・一六〜一七)
 イエスがまだヨハネのもとでバプテスマ活動をされていたときに、エルサレム神殿で商人を追い出すなどの過激な象徴行為をされたのであれば、ヨハネはそれを知っていたでしょうし、イエスが神の霊を受けた優れた霊的能力を持つ人物であることも理解していました。そして、自分の元から離れて独自の活動を始めたイエスを、もしかしたらこの人物こそ神が約束されたメシア、「聖霊と火でバプテスマを授け」、神に逆らう勢力を「消えることのない火で焼き払われる」方ではないかと期待するようになっていたのでしょう。
 ところが、獄中で伝え聞くガリラヤへ退かれたからのイエスの働きには、一向にメシア的な言動はなく、イエスが民を率いて蜂起される気配もありません。ヨハネも神の終末的な訪れを告知していました。しかし、イエスがもたらしておられる神の訪れは、ヨハネが予期した裁きとは違っていました。ヨハネはイエスが自分の期待していたメシアの姿と異なることを感じたのでしょうか、弟子の中から二人の者を選んでイエスのもとに送り、次のように訊ねます。「二人」を送ったのは、彼らの証言を有効なものとするためでしょう。

 二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです」。(七・二〇)

 イスラエルは「来るべき方」の到来を待ち望んでいました。「来るべき方」の姿はイスラエルの民の間でも一様ではなく、民を異教徒の支配から解放する政治的・軍事的指導者としてのメシアから、雲に乗って天から現れる「人の子」まで、様々な姿でその到来が待ち望まれていました。しかし、どのような形での待望も、イスラエルを解放して栄光に導き入れ、世界に最終的な神の支配をもたらす方として待ち望んでいたことは共通しています。
 ここでは洗礼者ヨハネがイエスに、「『来るべき方』は、あなたでしょうか」と訊ねています。後にイスラエルの民を代表する最高法院がイエスに、「お前はメシアなのか」と訊ねることになります(二二・六六〜六七)。イエスはその活動の期間ずっと、このような民の期待と問いかけに直面しておられるのです。
 ヨハネの弟子二人がイエスのもとに来て、こう訊ねたとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられました。それで、二人にこうお答えになります。

 「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。(七・二一〜二三)

 洗礼者ヨハネの使者たちの質問に対して、イエスは現に彼らの目の前で行っておられる病人をいやすなどの働きを指してお答えになります。現にあなたたちの見ている事実があなたたちの問いに答えているではないか、とお答えになっているのです。しかし、ここにあげられているイエスの働きのリストは、現に目の前で行われている働きだけでなく、福音書が伝えているイエスの力ある業(奇跡)の中でもとくに顕著な奇跡、一般の霊能者が行う病気のいやしや悪霊の追い出しというようなレベルを超えた奇跡を列挙しています。いったい今まで誰が、生まれながら目の見えない人を見えるようにし、生まれてから歩いたことのない足の不自由な人を立ち上がらせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、死んでしまった人を生き返らせたでしょうか。このような人間にはできない奇跡は、神が預言者を通して、終わりの日に神が恵みをもって民を訪れるときに、そのしるしとして起こると預言しておられたことです(たとえばイザヤ書二六・一九、二九・一八〜一九、三五・五〜六)。今それがイエスの働きにおいて起こっているのです。その事実が、イエスこそ「来るべき方」であることを指し示しています。
 そして、最後に「貧しい人は福音を告げ知らされている」という事実が加えられます。これは、以上に列挙された奇跡の働きと並んでイエスの働きを構成するもう一つの働き、すなわち言葉による福音告知の事実を指しています。イエスは「貧しい者」に福音を告げ知らされました。これも終わりの日に、神の霊を注がれて遣わされる方によってなされる働きとして預言されていたことでした(イザヤ六一・一)。そして、この「貧しい者」への福音告知こそ、前章の「平地の説教」講解で詳しく見たように、イエスの働きの根幹なのです。
 そこで見たように、「貧しい者」への福音とは、律法の規定を満たすことができず、自分の側には神の民として受け入れられる資格が何もない者に対して、神が無条件に赦しとか御霊という善いものを与えて、救いの働きをなし、神の子として受け入れてくださるという、神の無条件絶対の恩恵を告知する働きでした。終わりの日に到来すると預言されていた、神の恩恵が支配する時が、今や到来しているという告知でした。ところが、イエスがこのような恩恵の時を告知されたとき、神の民イスラエルはその告知につまずいたのです。
 イエスが告知される恩恵の支配の福音を聴き、イエスがなされるいやしの働きを身に受けた「貧しい人たち」は、イエスを通して働かれる神の大きな恵みを賛美しました。しかし、祭司や律法学者などイスラエルの当時の指導者たちは、律法をどれだけ順守しているかを問題にしないで、無条件に神の民とするようなイエスの教えをとうてい認めることはできませんでした。そのようなことを認めれば、律法を順守することは意味がなくなるではないか、と反発しました。彼らはイエスを、民衆に律法違反をそそのかす異端の教師として厳しく監視することになります。これも先に見たように、イエスがガリラヤで神の国の福音を宣べ伝える働きを始められた当初から、エルサレムから来た律法学者たちがイエスの言動を厳しく監視していました。そして、イエスが神の御霊の力で悪霊を追い出し、病気をいやされる働きをも、悪霊の頭であるベルゼブルの働きとして批判しました(マルコ三・二二)。彼らにとって、律法違反をそそのかすような教師が行う奇跡は、神からのものではありえないからです。
 イエスはヨハネの弟子たちに答えて、ご自身がされている力ある業と貧しい者への福音告知の働きを指し示された後、最後に「わたしにつまずかない人は幸いである」と言っておられます。現代人は奇跡につまずきますが、古代の人たちは奇跡を願望し、奇跡を素直に認め、現代人のようにつまずくことはありません。イスラエルがイエスにつまずいたのは、その奇跡のためではなく、律法を無視するかのように見える、イエスの恩恵の支配の告知です。当時のユダヤ教指導層のイエスへの反感と批判はますます強くなり、ついにイエスを取り除く(=殺す)陰謀にまで発展します。
 ヨハネの使者に対するイエスのお答えは、獄中の洗礼者ヨハネに対する答えにとどまるものではなく、復活後の共同体が洗礼者ヨハネの弟子団に対して、イエスこそ終わりの時に神から遣わされた救済者であることを宣言する言葉であり、さらに現代においても福音が世界に告知する言葉です。すでに地上で神だけがなしうる奇跡により、神から来られた者であることを示されましたが、当時の宗教指導者に憎まれ、ローマの権力に引き渡されて十字架刑に処せられた一人のユダヤ人が、復活して世界の救済者となっておられるという告知につまずかない者は幸いです。このイエスにつまずくことなく、イエスを主として受け入れ、言い表す者は、聖霊を与えられて、神の救いの働きを受けるからです。

洗礼者ヨハネについてのイエスの証言

 ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められます。

 「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」(七・二四〜二七)。

 イエスは自分のもとにとどまっている群衆に向かって語りかけられます。その群衆は、先には荒れ野で叫ぶ洗礼者ヨハネのもとに集まった群衆でした。イエスは彼らに言われます。「あなたたちは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦(そのようにこの世の風潮にこびる思想家)か。まさか、そのようなものではあるまい。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。そうではあるまい。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす権力者なら宮殿にいる。荒れ野はそのような権力者を見る場所ではない。
 では、何を見に荒れ野に出て行ったのか。預言者か。そうだ。たしかにヨハネは預言者である。ヨハネは荒れ野に叫ぶ声であり、あなたたちは権力に屈しないで神の言葉を語る預言者の声を聴くために荒れ野に行ったのではないか。そうだ、その通りである。しかし、わたしはあなたたちに言っておく。ヨハネは預言者以上の者である」。
 こう言って、イエスは聖書を引用されます。「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」。これはマラキ書三章一節の預言です。この引用により、イエスは洗礼者ヨハネこそ預言されていた「使者」であるとし、彼の活動によって道が備えられ、今は神の訪れを迎えるべき時になっていると宣言しておられるのです。

マラキ書三章一節は、ヘブライ語聖書では「見よ、わたしは(わたしの)使者を送る。彼はわが前に道を備える」となっています。神が到来される前に、それを告知して道備えをする使者が送られるという預言になっています。この預言が、「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる」というイスラエルへの語りかけ(出エジプト記二三・二〇)と合成されて、「あなたの前に道を準備させよう」となったと見られます。この合成はマルコ福音書一・二にも見られます。この二カ所が合わせて解釈されることは、すでにユダヤ教の聖書解釈に見られるということです。このような形で引用されるマラキの預言は、神が最終的に世界に送られる救済者に向かって「あなた」と呼びかけ、その「あなたの前に」道備えをする「使者」が送られることを預言する言葉となります。ヨハネがその「使者」であり、この使者によって道が備えられ後に登場するイエスこそ、この預言で「あなた」と呼びかけられている終末的救済者ということになります。マラキの預言をこのような形で引用して、洗礼者ヨハネをメシア・イエスの先駆者とすることは、福音活動のごく初期から行われていたようです。これがイエスご自身から始まるかどうかは議論があるところですが、すでにユダヤ教においてこのような合成がなされていたとすれば、十分にありうることです。

 「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。(七・二八)

 イスラエルの預言者たちは、時代に向かって神の言葉を語りつつ、時代を超えて終わりの日に神が成し遂げられる救済を預言しました。そして今、その終わりの日の救済が到来する直前に、その出来事の準備をする預言者として現れたのが洗礼者ヨハネです。ですから、ヨハネは預言者でありながら、終末的救済の一翼を担う者として、預言者以上の者であるということになります。イエスは「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」と言って、洗礼者ヨハネの救済史上の偉大さを承認されます。しかし同時に、イエスによってもたらされる「神の国」の現実がいかに優れたものであるかを語り出されます。イエスは言われます、「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。
 イエスは、ヨハネによって告知されている終末の待望に生きる領域と、ご自身によって告知されている恩恵の現実に生きる領域が、質的に違う段階であることを見ておられ、それをこのような印象深い言葉で語り出されます。ヨハネは預言と待望の領域ではもっとも偉大な人物です。しかし、終末的な恩恵の現実に生きる者は、どのように小さい者でも、ヨハネが味わっていない偉大な現実を味わっているのですから、また、ヨハネが見ていない偉大な栄光を見ているのですから、ヨハネより偉大です。居る階が違うのですから、下の階にいる最大の人よりも、上の階にいる最小の人の方が高いところにいることになります。
 このことをイエスは他のところで、次のように表現しておられます。イエスは、イエスの名によって働く大きな神の力を体験して帰ってきた弟子たちに、こう言われます。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。(一〇・二三〜二四)

マタイは並行する箇所で、「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」という言葉の後に、「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ一一・一二〜一四)という語録を置いています。これに相当する語録は、ルカでは違う文脈で一六・一六に置かれています。この語録の解釈については、ルカの当該箇所で取り上げます。ルカは、この語録の代わりに、洗礼者ヨハネに対する民衆とファリサイ派や律法学者の態度の違いを置いています。

 「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもそのバプテスマを受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」。(七・二九〜三〇)

 この部分は、民衆に語りかけるイエスの言葉としては、あまりにも客観的な歴史事実の記述であって、イエスの語録ではなく、むしろルカが挿入したコメントと見なければなりません。この二節を括弧に入れている翻訳(たとえばNRSV)や注解書もあります。ヨハネに関するイエスの言葉を伝えてきたルカは、ここでその言葉を中断して、ヨハネに対するイスラエルの態度を取り上げ、ヨハネの働きがイスラエルに引き起こした分裂を記述します。
 神に選ばれた民であるイスラエルも、民衆はヨハネからバプテスマを受けて、ヨハネを通して語られた神の終末審判の告知を真剣に受け止め、悔い改めました。そのことによって彼らは、「神を正しいとした」のです。彼らはバプテスマを受けることで、自分たちが間違っていたことを認め、悔い改めを求められる神を正しいとしたのです。
 ところが、神の民イスラエルを導くべき立場の律法の専門家やファリサイ派の人たちは、律法を順守している自分たちは正しいと自任して、ヨハネが告知する悔い改めによる罪の赦しを必要とせず、バプテスマを受けませんでした。そうすることによって、彼らはヨハネを通して告げ知らされた神の御計画、すなわち悔い改めと罪の赦しによって実現するはずの神の終末的救済の御計画を自ら空しくした(無効にした)のです。

三〇節にある「彼ら自身へ」という句は、多くの翻訳で「自分に対する神の御心(御計画)」と訳されていますが、この句を「神の御計画」にかけるのは、その句の位置からするとやや無理があります。むしろ、「空しくした」にかけて、強調の句とする方が自然です(アラム語の用例からそう主張する説もあります)。なお、「律法の専門家」《ノミコス》という用語は、福音書ではルカ福音書だけに出てきます。これはローマ社会で「法律家」を指す用語ですが(テトス書三・一三参照)、ルカはそれをユダヤ教の律法学者を指すのに用いています。

今の時代の人たち

 最後にルカは、洗礼者ヨハネとイエスを共に拒否した当時のイスラエルの民の態度についてイエスが語られた語録を置いて、この段落を締めくくります。イエスは、民に「神の支配」という終末的事態の到来を告知した洗礼者ヨハネとイエスを共に拒否したイスラエルを、とくにヨハネのバプテスマを拒否し、イエスの恩恵の告知に反対したファリサイ派の人たちや律法学者のような指導層の人々を、「今の時代の人たち」と呼んで、その姿勢を比喩を用いて告発されます。

 「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった』」。(七・三一〜三二)

 広場で行われた当時の子供の遊びがどのようなものであったのかは正確には分かりません。それで、この比喩がどのような遊びをさすのか、その理解も様々に分かれますが、この比喩はすぐ後にその適用が明言されていますので、それに従って理解することができます。これはおそらく、二組に分かれて座った子供たちが、互いに相手の組の子供にジェスチャーで何か動作をすることを求める遊びだと考えられます。笛を吹くジェスチャーで相手の組に踊ることを求め、婚礼の真似をして遊ぼうとしたのに、相手はそれに応えてくれなかった。また、他の組が葬式の歌をうたったのに、相手は泣かないので、葬式の場面を作れなかった、と言って互いに非難している様子が語られています。

普通イエスはたとえを語るだけで、その解説はされなかったという事実から、「広場の子供」のたとえ自体はイエスが語られたものであっても、それに続く解説は語録資料Qのものであるとする見方もあります。また、解説の部分でイエスが「人の子」と呼ばれているのも、イエスを「人の子」として宣教した語録資料Qの文であることをうかがわせます。しかし、三三〜三四節はたとえの解説というよりは、時代に対するイエスご自身の告発の言葉として理解することができます。そうすると、イエスはここでは比喩と預言者的な告発を並置しておられることになります。

 「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。(七・三三〜三四)

 たとえの部分と順序は逆になりますが、たとえで「葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」は、洗礼者ヨハネがパンも食べずぶどう酒も飲まず、厳しい荒れ野の預言者の姿で神の審判の迫りを告げ、悔い改めを求めたのに、イスラエルは灰に伏して悔い改めなかったことを指しています。この時代の人たちはヨハネを「あれは悪霊に取りつかれている」と言って、彼の呼びかけを無視しました。「悪霊に取りつかれている」という表現は、当時のユダヤ人が自分たちの常識とはかけ離れた主張や生活をする者を拒否するときに投げつけたレッテルです。
 次にイエスが現れて、神の恵みの時を告知し、婚礼の喜びの時が来ているとして、飲食を共にして喜びをすべての人と分かち合い(イエスは実際、カナの婚礼では水をぶどう酒に変えて婚礼の宴を祝福されました)、徴税人や遊女というようなユダヤ教社会から除外されているような人たちとも食卓を共にされたとき、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言って、イエスを批判し、イエスが告知される「神の国」、すなわち恩恵の支配を拒否したのです。
 このような「今の時代の人たち」の拒否に対して、イエスはご自身とヨハネの働きの正当性を、次の一言葉で示唆して、イスラエルの民への呼びかけを締めくくられます。

 「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」。(七・三五)

 当時のユダヤ教では、「知恵」は擬人化されて語られていました。知恵が預言者や使者を世に遣わして働きをするとも言われています(一一・四九参照)。ここの「知恵」は、先に(三〇節で)ファリサイ派の人たちや律法の専門家が拒否した「神の御計画」に近い意味で用いられていると理解してよいでしょう。彼らはヨハネとイエスを拒否しましたが、ヨハネとイエスが神の御計画に基づいて世に遣わされた者であることは、「そのすべての子ら」(直訳)によって証明されるとされます。すなわち、ヨハネとイエスが、知恵によって、あるいは神の御計画によって遣わされた者であることは、二人をそのような者として受け入れて従う多くの人たちの存在によって、また、その人たちが受ける神からの祝福によって証明されることになると、イエスは言われます。イエスはここではご自身とヨハネを一体として、終わりの日に神から遣わされた者として受け入れるように、イスラエルに迫っておられます。

マタイ(一一・一九)は、「知恵の正しさは、その働き《エルガ》によって証明される」としています。これは、その段落の初め(一一・二)に出てくる「メシアの働き《エルガ》」に対応していると見られ、イエスの教えが神の知恵であること、またイエスが神から遣わされたメシアであることは、イエスが行っておられる《エルガ》(働き、奇跡)によって証明されるという意味にしています。マタイとルカのどちらがイエスの本来の言葉に近いのかは、決定困難です。知恵の正しさの証明を、マタイは直前のイエスの働きに求め、ルカは彼の時代までに福音によって起こされたすべてのキリストの民の存在に求めているのでしょうか。