市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第31講

35 家と土台(6章46〜49節)

「主よ、主よ」と呼びながら

 イエスの言葉を聴こうとして集まってきている人々に、以上のように神の恩恵の支配を語られた後、イエスは最後に今聴いた言葉を実際に行うように求められます。ところで、この最後の勧告は、「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」という警告で始まっています(六・四六)。これはどのような人たちを指しているのでしょうか。ここでも比較のためにまずマタイの解釈を見てみます。
 マタイは、イエスを「主よ、主よ」と呼びながらイエスの言葉を行わない者に関する記事を、偽預言者に対する警戒を呼びかける言葉(七・一五〜二〇)の直後に置いて、彼らが主の御前から追い出されるという偽預言者に対する裁きの記事にしています(七・二一〜二三)。彼らは、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言っています。この場合の「主よ、主よ」は、復活されたイエスを主《キュリオス》として呼びかけていることを指し、この一段は巡回預言者が「主イエス」《キュリオス・イエスース》という御名を用いて奇跡を行い、預言して主の言葉を教えるカリスマ的な伝道活動をしていた状況を前提にしています。
 そのように復活されたイエスを「主」と呼んでカリスマ的な伝道をする預言者たちの中に、マタイから見れば聖なる神の律法を無視するような者たちがいて、彼らを危険な偽預言者として警戒するように共同体に呼びかけることになります。イエスの教えはモーセ律法を廃止するのではなく完成するのであるというマタイの立場(五・一七)からすれば、自分の霊的能力を誇り、あえて律法に違反するような生活をし、そう教える巡回伝道者は「不法を働く者ども」であり、「父の御心を行う者」ではなく、天国に入ることはないのです。この「山上の説教」で語られたイエスの言葉を実行する者こそ、父の御心を行う者です。
 このように、マタイの記事は、イエス復活後の福音活動の状況で書かれていますが、ルカにはそのような状況はありません。復活されたイエスを「主」《キュリオス》と呼んでいた復活後の共同体の状況で読むこともできますが、必ずしもそう理解しなければならないことはありません。地上のイエスがこの時の聴衆に語りかけておられる言葉として、十分理解することができます。
 この当時「主よ」という呼びかけは、家の主人や、目上の人、宗教的な指導者であるラビに対する呼びかけとして、日常的に用いられていました。福音書にも、弟子がイエスに「主よ」と呼びかけている実例は多くあります。ここに集まってきている人々も、イエスを主と呼んで尊敬し慕っている人々でしょう。イエスはそのような人たちに語りかけられます。「あなたたちはわたしを主と呼んでいる。そうであれば、わたしの言葉を行いなさい。そうすれば、もっとも確かな土台の上に自分の人生を建て上げることになるのだ」。
 このように構成しているルカの形の方が、マタイよりも元の語録資料の形に近いと考えられます。マタイはこの「主よ、主よと呼びながら」の語録を、マタイ共同体の特殊な状況に適用して構成しています。わたしたちはそのような限定にとらわれず、現在のわたしたちに語られる言葉として聴くべきです。

人生の土台の岩としての神の恩恵

 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」。(六・四六〜四九)

 イエスの教えをまとめて提示するこの「平地の説教」の締めくくりとして最後に、聴いた言葉を実行することの重要性が語られます。それも、イエスの語り方の特色である比喩を用いてなされます。
 この比喩そのものは一読してすぐ理解できます。イエスの言葉を聴いて行う人は、確かな土台の上に家を建てた人のようで、人生の困難や迫害などの逆境になっても、信仰を失ったり神の子としての立場を失うことなく、しっかりと立ち続けることができます。それに対して、イエスの言葉を聴くだけで行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人のようで、このような困難が押し寄せると、たちまち信仰を失い、神の子としての喜びを失ってしまいます。
 ここで重要なことは、イエスの言葉を「聴いて行う」という時の、「行う」の意味内容です。それは、イエスの言葉をどのようなものとして聴くかと深く関わっています。もしイエスの言葉を、ユダヤ教徒がモーセ律法の言葉を聴くように、モーセ律法をさらに厳しく内面化した律法として聴くならば、それはわたしたちをいっそう厳しい律法の支配の下に置くだけです。この場合の「行う」は、律法の規定を守り行うという意味になります。
 イエスの言葉は、しばしば誤解されるように、モーセ律法をさらに厳しく内面化したものではありません。イエスの言葉は、これまで強調してきたように、恩恵の支配を告知する言葉です。したがって、イエスの言葉を聴いて「行う」とは、イエスが告知される恩恵の場に実際に生きることです。恩恵の場に実際に生きるということは、激しい行為です。激しい生き方です。
 イエスは「敵を愛しなさい」と言われました。この言葉は、先に見たように、絶対無条件の父の恩恵の場に生きる者は、同じように相手の価値とか在り方に絶して無条件に善を行うことを端的に表現した言葉でした。これは、世の常識とか倫理基準を超えた激しい生き方です。イエスは弟子に、このような激しい生き方、行動を求められます。それは、イエスご自身が父の恩恵の場で激しく生きておられるからです。そのような恩恵の場に生きる者に求められる生き方は、「あなたたちの父は慈愛深いのだから、あなたたちも慈愛深くありなさい」という言葉に集約されていました。この言葉を実際に生きることが、ここでイエスが求められる「わたしの言葉を聞き、それを行う」ことです。
 父の恩恵の告知を聴いているだけで、その恩恵に身を投げ出して、その恩恵の場に実際に生きることをしなければ、恩恵は空虚な言葉であり、実際に聴く者を変えていくことはありません。この恩恵の告知に全存在を投げ入れ、その恩恵の場に生きることによって敵を愛する慈愛に生きるようになるとき、父の絶対無条件の恩恵という岩の上に自分の人生を築くことになります。逆に、この恩恵の言葉に身を委ねないで、自分の努力や力で生きていこうとする者は、土台のない家のように、人生の困難や世の迫害に押し流されるだけです。
 以上、ルカがまとめた「平地の説教」の内容を見てきましたが、その内容はマタイの「山上の説教」よりもいっそう明確に、それが倫理的説教ではなく、恩恵の告知であり、恩恵の場に生きる者の姿であることを指し示しています。