市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第30講

34 実によって木を知る(6章43〜45節)

人間の中身の現れとしての言葉

 イエスの弟子として父の絶対恩恵の場に生きる生き方を、敵を愛することと人を裁かないという主題にまとめたルカは、その本論部分(六・二七〜四二)の結びとして二つのたとえを置きます。「良い木と悪い木」のたとえと「家と土台」のたとえです。

同じくマタイもその「山上の説教」で、本論部分(五・一七〜七・一二で囲い込まれた部分)を終えて、結びとして三つのたとえを置いています。後の二つはルカと同じ「良い木と悪い木」と「家と土台」のたとえですが、最初に「狭い門・狭い道」のたとえ(七・一三〜一四)を置いています。マタイのこの比喩は、「狭い門から入りなさい」という、ルカも用いているイエスの語録と、ユダヤ教で広く知られている「二つの道」の教えを結び合わせたものと考えられます。ルカは「狭い門から入りなさい」という語録を別の文脈で用いています(一三・二四)。マタイにある「狭い門・狭い道」について詳しくは、拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』334頁以下を参照してください。

 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」。(六・四三〜四四)

 この「良い木と悪い木」のたとえを、ルカがどのような意味で用いているのか、ルカの特色を理解するために、マタイの用い方と較べてみましょう。マタイ(七・一五〜二〇)はこの比喩を明らかに偽預言者を警戒するようにという文脈で用いています。この部分は「偽預言者を警戒しなさい」という言葉で始まっています。これは、マタイ共同体の諸集会が巡回してくる預言者たちによって指導されていた状況で、その中でマタイから見て弟子を間違った道に導く危険のある偽預言者を警戒するように呼びかけ、「良い木と悪い木」のたとえで、偽預言者を見分ける規準として、彼らの行為の善し悪しを見るように促しています。

マタイにおけるこの比喩の意義について詳しくは、拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』348頁以下を参照してください。

 ルカは違った状況で著作しています。エーゲ海地域のパウロ系異邦人諸集会の間で成立したと見られるルカ福音書では、そのような状況はなく、ルカはこの語録伝承に伝えられたこの比喩を、偽預言者についての警告としてではなく、人間の心と行動の関係についてのきわめて一般的な真理を指し示す比喩にしています。そして、この比喩が指し示す真理を、倉のイメージを用いて次のように語ります。

 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」。(六・四五)

 良い木が良い実を結ぶように、善い人はその心の倉(心という倉)から良いものを出します。その心という倉に良いものが入れられているからです。それに対して、悪い木が良い実を結ばず、悪い実だけを結ぶように、悪い人はその心の倉から悪いものを出します。その心という倉には悪いものが詰まっているからです。このように木と実の関係が、人間における心と行動の関係を指し示す比喩として用いられています。
 そして、その行動が口の行動として、人が語る言葉に集中して問題とされ、「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と続きます。先に「敵を愛しなさい」というところで、その中身を語るとき、「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と、言葉による対応が大きな部分を占めていました。傲慢とか憎しみという悪いものが詰まった心からは、呪いとか侮辱の言葉が出て来ます。愛が詰まった心からは、いたわりや励ましの言葉が出て来ます。人間の中身は、その人が語る言葉にまず表れてきます。人間の中身は結局言葉です。
 このことを、ルカのこの部分と並行するマタイ福音書の記事(一二・三三〜三七)が明言しています。マタイ福音書はここで、ルカと同じく「良い木と悪い木」のたとえの後に、倉のイメージを用いて「人の口からは、心にあふれることが出て来るのである」と言って、人は自分が語る言葉に神の前で責任を問われると明言しています。すなわち、人間の中身は、その語る言葉で表現されているということになります。

ルカとマタイが用いた共通の語録資料には、ルカの形で書かれていたと推察されます。その形をマタイは一二章で用いていますが、その中の「良い木と悪い木」のたとえを偽預言者を警戒するようにという勧告(七章)にも使って、この比喩を二重に用いていることになります。