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33 人を裁くな(6章37〜42節)

恩恵の場に生きる

 イエスは父の絶対無条件の恩恵を告知されました。そして、その恩恵が支配する場に生きる者に、父と同じように恩恵の原理で隣人に関わるように、すなわち「慈愛深い」者であるように求められました(三六節)。続いて、その慈愛深い在り方が、まず消極面から「裁くな、断罪するな、赦しなさい」という三つの動詞で具体的に描かれ(三七節)、次に「与えなさい」と積極面を示す動詞で描かれます(三八節)。

 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」。(六・三七)

 ここで「裁くな」という語の意味は、並行する「罪人と決めるな」で説明されています。イエスはここで民事や刑事の裁判のことを言っておられるのではなく、わたしたちが関わりを持つ隣人に対して宗教的・道徳的判断をすることを取り上げておられます。「罪人と決める」は、もともと法廷用語で有罪と判決すること、「断罪する」ことです。これは「義とする」(法に背いていない、正しいと判決する)の反対の動詞です。それはユダヤ教社会では、モーセ律法による神の前での有罪の判定を指していました。
 人間は何らかの規準を用いて他人を裁く(=価値を決める)ことをしたいものです。その規準は、ユダヤ教社会ではモーセ律法であり、他の社会ではその社会の道徳観念とか文化価値ですが、結局人間は自分を裁く者の立場に置いて、自分を規準として他人を裁く(価値判断をする)ことをしたいのです。自分と同じであるとか自分に好都合であれば価値があり、違っていたり不都合であれば価値がないとか悪であると判定するのです。
 恩恵が支配する場では、このように自分を裁く立場に置いて他人を裁くことはありえません。恩恵の場に生きる者は、自分が無価値であるにもかかわらず神の恩恵によって受け容れられていることを自覚しているので、自分を価値ある者の立場において他者を判断することはできません。もし自分を裁く者の立場において他者を判断するようなことをするならば、それは自分も神の規準で神から判断される(裁かれる)場に置くことであって、恩恵の場から自分を追い出すことになります。
 「裁くな、断罪するな、赦しなさい」という勧告に従った結果を示す文は、「裁かれない、断罪されない、赦される」と、すべて受動態で語られています。神の事柄を述べるとき受動態を用いるのは、イエスの特徴的な語し方です。これらの受動態の文の隠された主語は神です。「神は裁かない、神は断罪しない、神は赦す」のです。
 この消息は、イエスが決算をする王と家臣のたとえで語っておられます(マタイ一八・二一〜三五)。王は、返しきれない巨額の負債を負っている家臣を憐れんで、負債を赦してやります。ところがその家臣は、自分が僅かの金を貸している同僚に、厳しく返済を求めて訴え、裁判にかけます。それを知った王はその家臣に、「わたしがお前を憐れんでやったように、自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、その家臣を獄に投じます。このたとえはマタイだけにあってルカにはありませんが、恩恵の場に生きる者は、仲間にも同じ恩恵の原理で対し、裁くことなく、赦すべきことを見事に語っています。三八節の「与えなさい」の理由としてつけられている「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」という秤の比喩は、この三七節の「裁くな、断罪するな、赦しなさい」の理由でもあります(マタイ七・二はそうしています)。わたしたちは「自分の裁く裁きで裁かれる」のです。
 だから、自分が赦されるためには、仲間を赦す必要があります。ところが人間にとって赦すことは本性的に難しいことです。自分になされた悪には報復したいものです。自分に借りがある者からは厳しく取り立てたいものです。自分と違う者は厳しく排除しようとします。赦すとは、自分に対してなされた悪に報復しないだけでなく、自分と違う者を無条件に受け容れることも含んでいます。このような意味を含め、わたしたちがどのような相手も、無条件に隣人として受け容れ愛していくことは、人間本性には難しいことです。しかし、わたしたちが恩恵の場に生きるときには、そうしないではおれない必然の生き方になります。そしなければ、自分が恩恵の場にとどまれないからです。

与える者の幸い

 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」。(六・三八)

 「赦す」には、たんに報復しないという消極面だけでなく、無条件に相手を受け容れるという積極面があることを見ましたが、その積極面が「与えなさい」という言葉でさらに押し進められます。

文型からすると、三七〜三八節の四つの勧告は、二組の並行句で構成されています。一つは「人を裁くな」と「人を罪に定めるな」の否定形の並行句、他は「赦しなさい」と「与えなさい」の肯定形の並行句です。そして、前者の二つの勧告には「そうすれば〜されることはないであろう」と接続法を用いた結果が伴っています。後者の二つの勧告には、「そうすれば〜されるであろう」と、未来形の動詞を用いて結果が表現されています。そして、両者とも結果を示す動詞はすべて受動態であることが重要です。

 わたしたちが人に無条件に与えるならば、その気前の良さの何倍もの豊かさで、わたしたちに与えられるようになるというのです。そして、わたしたちに与えられる豊かさが、「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」という穀物の売買のときのイメージで描かれます。当時のパレスチナでは穀物を買うときに、買い手が衣の裾を巻き上げて穀物を入れてもらいました。もう一杯で入らないと言っているのに、売り手がまだまだ入ると言って、穀物があふれ出るほどに量りをよくして、押し入れ、揺すり入れる様子が、比喩として用いられています。
 ここでも「与えられる」という受動態の隠された主語は神です。人が与えてくれるのではありません。わたしたちが惜しみなく、無条件で与えるならば、神がわたしたちに何倍もの豊かさで良いものを与えてくださいます。その「何倍も」は量ではなく、わたしたちが与えるものの何倍も優れたものという質の豊かさです。
 世の人たちは、返してもらうことを当てにして貸したり与えたりします。しかし、恩恵の場に生きるイエスの弟子は、自分が無条件に神から善いものを与えていただいているのですから、隣人に何も当てにしないで、無条件で与えるように求められています。そして、そのように人からの報いを求めないで与えるならば、わたしたちが人に与えたものとは較べものにならない、はるかに勝る善きものを神から与えられるのです。
 神から与えられる善きものとは聖霊です(一一・一三)。イエスに従う者、キリスト・イエスにあって生きる者には、賜物として、父の無条件絶対の恩恵による賜物として、神の御霊が与えられます。この御霊こそ、わたしたちが父の恩恵の場にあるゆえに、人を赦し、無条件に与えるとき、父から与えられる善きものです。この聖霊が、わたしたちの人生に満ちあふれる幸いをもたらすのです。
 ルカはここに「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」という秤の比喩を置いています。この秤の比喩は、マルコ(四・二四)ではイエスのたとえ話しを聴く者の悟りについて用いられ、マタイ(七・二)では「裁くな」という勧告の理由として用いられています。ルカはその比喩を、与える者の幸いの根拠として用いています。
 「受けるよりは与える方が幸いである」という、四福音書には出てこない語録がイエスご自身の言葉として伝えられています(使徒二〇・三五)。わたしたちはともすれば受けることに幸いを感じます。しかし、ここで見たように、イエスは与える者の豊かな幸いを明確に語っておられるのですから、この語録も同じ線上にある言葉として、確かにイエスから出たものとして受け取ることができます。

神の報酬

 このように、わたしたちが人を裁かず、断罪せず、赦し、与えるならば、神から裁かれず、断罪されず、赦され、豊かに与えられるという扱いを受けます。これは神からの報酬です。これはわたしたちの行動や在り方に対する報酬ですから、当然わたしたちの行動の後に起こるものとして未来形(またはそれに相当する形)で描かれます。しかし、この未来形は、そのような当然の論理的順序を示すだけでなく、恩恵の場に生きる者の将来に待っている神の報酬を指し示しています。すなわち、神が終わりの時に世界を裁かれるとき、恩恵の場にあって、人を裁かなかった者は裁かれることなく、人を断罪しなかった者は断罪されず、人を赦した者は赦され、人に無条件に与えてきた者は、神の豊かな栄光をあふれるまでに与えられるという、終末的な報酬を指しています。
 このような終末時における神の豊かな報酬の約束は、「幸いの言葉」にも見られた現在の貧しさと終末の豊かさの逆転の宣言と同じ線上にあり、イエスの福音の基本構造、すなわち、悪が支配する現在の世と神が支配される栄光の来るべき世(終末)の対比を保持しつつ、同時にその終末がすでにこの世界に突入して来ているという構造に由来しています。

人を裁くことの愚かさ ― 二つのたとえ

 ここでルカは、イエスが語られた人を裁くことの愚かさを示す二つのたとえを置きます。それは「盲人の道案内をする盲人」(三九節)のたとえと、「おが屑と丸太」(四一〜四二節)のたとえです。その間に師と弟子の関係を扱う語録(四〇節)が入れられていますが、この挿入の意義は議論の多い問題です。それで、先にこの二つのたとえを取り上げ、その後に師と弟子の語録を扱います。

 「イエスはまた、たとえを話された。盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」。(六・三九)

 恩恵の場に生きる者から見れば、人を裁く思いや行為は自分を恩恵の場から追い出して裁きの場に追いやる愚かなことです。イエスが告知される父の絶対無条件の恩恵を律法の意義を破壊する立場だとして批判し、イエスを追及した周囲のユダヤ教指導者たち、とくにファリサイ派の律法学者たちを、イエスは盲人の道案内をする盲人という比喩で、その愚かさを指摘されます。この比喩がファリサイ派の人たちを指していることは、マタイ(一五・一二〜一四)が明言しています。
 ファリサイ派をはじめ当時のユダヤ教指導者たちは、モーセ律法の順守によって民を神の民として導こうとしていました。モーセ律法と派生する細かい規定によって民の生活を規定し、違反する者を裁いていました。ところが、彼らは神と民との関係の根本を理解していないのです。神の絶対無条件の信実と慈愛こそが、神と民の関係を形成するのであって、民が律法を行うことが土台となるのではありません。この根本を理解しないで民を導こうとするユダヤ教指導者たちは、まさに盲人の道案内をする盲人です。盲人が盲人の道案内をすれば穴に落ち込む結果になります。現在のユダヤ教指導者たちは、この愚かな道案内であると、イエスは暴露されます。根本問題が見えていない指導者たちに指導される民の悲惨は、多くの歴史的事件が証明しています。
 この根本の問題が見えていないのに、他者の細かい行為の善悪を批判する者の愚かさが、次の「おが屑と丸太」のたとえで、さらに誇張した形で語られます。

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」。(六・四一〜四二)

 目の中にある丸太(あるいは梁)とは誇張した表現ですが、針の穴とらくだの比喩のように、イエスの語り方の特色でもあります。イエスは、人を驚かす意外な表現で、根本問題が見えていない者たちの愚かさを印象づけられます。この比喩は、他人の欠点はよく見えるが、自分の欠点には気づかないという程度のことではなく、自分の根っこの問題に気づかないで、他人の枝葉の問題ばかり見ている者の愚かさを語っています。丸太とおが屑(協会訳では「梁とちり」)は根本問題と枝葉の問題の対比を示しています。根が悪ければ木は枯れます。枝葉には欠陥があっても、根がしっかりしている限り、再生して、よい実を結ぶことができます。
 そして、ここでの根本問題とは、イエスが「神の支配」と呼んでおられる恩恵の支配の事実です。恩恵の支配が到来しているのに、それに気づかず、それを告知するイエスを迫害する者たちの盲目が、「自分の目の中の丸太に気づかない」者と言われています。そのように根本問題が分かっていないのに、他人の日常の些細な行為がモーセ律法やその細則に違反していないかどうかということだけを問題にして、他人を裁いている者の愚かさが、自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と言う者の比喩で語られます。このように言う者は、自ら盲人でありながら盲人の道案内をしようとする者と同じです。
 それは愚かさであり、偽善です。自分で勝手に自分を善として、他人の善悪を決める(裁く)立場に自分を置いている偽善です。このような者たちに向かってイエスは、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」と呼びかけられます。もし彼らが自分の目から丸太を取り除くならば、すなわち自分が無価値・無資格であるにもかかわらず神の恩恵によって存在しているのだという事実に気づくならば、その恩恵の光に照らし出されて、人間の諸問題の実相が「はっきり見えるようになり」、具体的な問題もその根本から解決する道が開けます。
 根本問題が見えれば、枝葉の問題、ここでは日常の行為の問題はどうでもよい、というのではありません。おが屑は取り除かれなければなりません。しかし、おが屑が取り除かれるためには、恩恵の場にしっかりとどまり、そこから見るという根本問題が解決していなければなりません。
 なお、ここで裁く仲間内の相手が「兄弟」と呼ばれていることが目を引きます。この呼び方はユダヤ教でも行われていて、イエスが用いられた可能性は十分にありますが、キリストの民がお互いに呼ぶ呼称でもありますから、この比喩は福音書を読むキリストの民の中でお互いに裁くことの愚かさを語り続けることになります。

師と弟子

 ところで、人を裁くことの愚かさを語る二つの比喩、「盲人の道案内をする盲人」と「おが屑と丸太」の比喩の間に、師と弟子とについての語録が置かれています。

 「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」。
(六・四〇)

 この語録は、その文意と、その位置(それがここに置かれている意義)が問題になります。両者は深く関わっています。
 この語録は、マタイとルカが用いた共通の資料である「語録資料Q」にあったものと考えられますが、マタイは全然別の文脈で用いています。マタイでは、イエスが弟子を宣教に派遣されるとき、迫害を予告されるところ(マタイ一〇・一六〜二五)にこの語録が用いられています。神の国を告げ知らせる弟子たちは、行く先々の町で迫害されるであろうと予告された後、こう言われます。

 「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。
(マタイ一〇・二四〜二五)

 マタイでは、師であるイエスが迫害されたのであるから、その弟子が迫害されるのは避けられない。師と同じように扱われるならば、弟子としてはそれで十分である、という意味で用いられています。
 ところがルカではこの「弟子は師にまさるものではない」という格言が違った文脈で用いられ、違った意味になっています。ここに置かれている意義を考えるために、その文意を正確に理解する必要があります。ここで「十分に修行を積めば」と訳されているギリシア語は、「整える」とか「完全にする」という動詞の受動態です。「十分訓練を受けた者は」(新改訳)とか「整えられたならば」(岩波訳)が近いと考えられます。「修行を積む」という人間の側の精進努力を求める思想はルカにはありませんし、新約聖書にも無縁です。この語録は次のように訳すべきでしょう。

 「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも十分に鍛えられたならば、その師のようになるであろう」。

 このような意味の言葉が、根本問題が見えていない指導者を批判する二つのたとえに挟まれて出てくると、その解釈はその文脈でなされなければならないことになります。師とは知識を与える教師ではなく、自分のような人物にするために導く指導者、道案内です。弟子は訓練を受けて、師のような人物になることを目標にして従います。その師が、根本問題の見えていない盲人であって、弟子の知識や生活の枝葉のことだけを問題にするような偽善者であれば、弟子は同じ盲目と偽善に陥るだけです。弟子たちは、今は師のイエスが見ておられるように根本問題が見えていないかもしれないが、イエスに従い、十分に鍛えられるならば、師のイエスと同じように根本問題を理解して、兄弟たちの目からおが屑を取り除くことができる良き指導者、すなわち具体的な諸問題を正しく解決できる良き指導者となるであろう、と言っていると解釈できます。