市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第28講

32 敵を愛しなさい(6章27〜36節)

しかし、わたしは言う

 イエスは自分の言葉に耳を傾けている弟子たちに語り出されます。この世で富んでいる者たちと対照して、あなたたち貧しい者は幸いだと語りかけられた弟子たちに向かって、「しかし」という語で世の人たちとの対照を背景にして、イエスの弟子の在り方を語り出されます。

 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。(六・二七〜二八)

 冒頭の「しかし」という語は、これまで述べてきた事柄とか主張の反対の事柄とか主張を導入する語ですが、ここでは何に反対の事柄を述べようとしているのか、先行する位置に対照される事柄は明示されていません。直前に先行するのは貧しい者と富める者の対照ですから、この「しかし」は、この世で富み栄えている者たちと対照して、「しかし」貧しい者であるあなたたちはこのように生きなさいと呼びかけている、と一応理解できます。
 ルカはここでイエスが語り出された「敵を愛しなさい」という驚くべき言葉を、この段落の結びの位置(三五節)で繰り返していますが、そこでは明らかに先行する箇所(三二〜三四節)で描かれている、自分を愛してくれる者だけを愛する世の人たちの在り方と対照して、「しかし、(わたしの弟子である)あなたたちは敵を愛しなさい」と言われています。ここの「しかし」が対照している事柄は明らかです。
 ところがここでは、「しかし、わたしはあなたたちに言う」という形で用いられており、何と対照して「しかし、わたしは言う」のかが明示されていません。マタイは、この「しかし、わたしは言う」を「昔、モーセはこう言った」と対照して、イエスが語り出された新しい教えを、モーセ律法と対立する六つの「対立命題」にまとめています(マタイ五・二一〜四八)。

マタイの「対立命題」については、拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』153頁の「対立命題」の項を参照してください。

 ルカは、イエスの語録に出てくる「しかし、わたしは言う」を、マタイのようにモーセ律法との対照ではなく、この世の原理との対照で用いていると言えます。これは、マタイがおもにユダヤ人を対象としているのに対して、ルカが異邦人を対象として福音書を書いていることから生じる当然の結果であると考えられます。

敵を愛しなさい

 イエスが「しかし、わたしはあなたたちに言う」と言って、わたしたちに語り出される言葉を聞いて、わたしたちは驚きます。「敵を愛しなさい」と言われると、どうしてそんなことができようかという驚きを感じます。「敵」という言葉を聞くと、わたしたちは武器を持って攻めてくる敵を思い浮かべるので、その敵を愛することなど不可能だと感じてしまいます。これは、事柄を端的に表現されるイエスの言葉が最初に引き起こす驚きの感情です。しかし、イエスが言おうとされている内容をじっくり聞き取ると、これはイエスが示される恩恵の支配の場に生きる者の当然の姿であることが分かります。
 イエスが弟子たちに最初に求められる生き方は、二組の並行句で表現されています。第一の並行句は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」で、第二の並行句は「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」です。この二組の並行句で用いられている四つの句は、同じ内容の言い換えです。「敵を愛する」は「憎む者に親切にする」、「悪口を言う者に祝福を祈る」、「侮辱する者のために祈る」と同じ姿勢、同じ生き方を指しています。「敵」とは、わたしを憎む者、悪口を言う者、侮辱する者の包括的な表現です。わたしたちに悪を企み、悪意を向けてくる者たちの総称です。
 わたしたちはいつもこのような「敵」に取り囲まれて生きています。そして、そのような敵から憎まれ、悪口を言われ、侮辱されると、思わず悪口を言い返し、呪い、侮辱し返し、相手を憎みます。それが普通の人間の反応です。それに対して、イエスは言われます。「しかし、わたしの弟子であるあなたたちはそうであってはならない。悪口を言う代わりに祝福を祈り、侮辱し返すのではなく相手の幸いを祈り、憎しみには親切をもって応えなさい」。それが敵を愛することです。このような敵に対する対応こそが、イエスの弟子であることの標識になります。
 実は、これとまったく同じことを、パウロは別の表現を用いて、次のように言っています。

 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって呪ってはなりません」。
 「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」。
 「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。
 「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。

 これはパウロが、キリストにある者が御霊の愛をもって生きるときの姿を語った箇所(ローマ一二・九〜二一)の抜粋です。パウロは、イエスと同じことを、善と悪という用語を用いて表現しています。わたしたちに悪をもって向かってくる者(それが敵です)に対して、悪を返すのではなく、善をもって報い(それが愛です)、そうすることで「善をもって悪に打ち勝つ」ように説き勧めています。これは、イエスが「敵を愛しなさい」と言われたこととまったく同じです。イエスが端的に「敵を愛しなさい」と表現されたことを、パウロは抽象的な(しかしきわめて常識的な)善と悪という語を用いて語っているのです。

パウロのこの愛の勧告について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音U』150頁の「敵を愛する愛」の項を参照してください。

 イエスの教えの中でもっとも強烈な印象を与える言葉は、「敵を愛しなさい」という言葉です。弟子たちがこの言葉をイエスの教えの核心であると理解していたことは、この言葉がイエスの語録資料の最初に置かれていることからも分かります。「語録資料Q」においても、ルカがそうしているように、「幸いの言葉」の直後に、この愛敵の言葉が置かれていたと推察されます。

B・マックも『失われた福音書』において「Qの教本(オリジナル版)」を復元するさい、最初に貧しい者、飢えている者、泣いている者への三つの幸いの言葉を置き、その直後に敵を愛しなさいというルカの段落を続けています(邦訳104頁)。マタイ福音書では、マタイ独自の編集と構成により、この「敵を愛しなさい」という言葉は、対立命題の最後(五・四四)に置かれています。

 ルカは、イエスが弟子たちに求められる在り方をまとめるにあたって、この「敵を愛しなさい」を最初(二七節)に置き、最後(三五節)にも同じ言葉を置いて、その間に敵を愛するということの具体的な現れ方を語るイエスの言葉を置いています。その間に出てくる、もう一つの頬を向けよとか、上着を奪う者に下着も与えよとか、何も当てにしないで貸してやれというような語録は、様々な機会に語られたイエスの言葉でしょうが、ルカ(あるいはすでに資料の語録集)はそれを「敵を愛しなさい」という標題の中にまとめて置き、イエスの弟子の在り方を一つの段落にまとめています。

悪人に手向かうな

 「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」。(六・二九〜三〇)

 これは、パウロが言う「だれに対しても悪に悪を返さず」ということですが、それをイエス独特の具体的で、かつ強烈な印象を与える表現で語っています。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」というのは、相手の頬を打ち返すなということです。頬を打つという暴力を加えてくる相手に、打ち返すという暴力をもって報復するなということです。持ち物を奪う(強奪する)という暴力行為に対抗して、こちらも暴力を用いて奪い返すようなことはするな、ということです。そのことが「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」という極端な形で表現されています。この一段は、暴力を加えてくる悪人に対しても、暴力という悪をもって対抗したり、報復してはならないと語っています。マタイはこの一段を「悪人に手向かってはならない」という標題的な言葉で始めています(マタイ五・三九)。イエスの「敵を愛しなさい」という教えは、非暴力・無抵抗の形をとります。

ルカのこの箇所(六・二九〜三〇)と並行する表現がマタイ五・三八〜四二にありますが、ルカとマタイの異同について、とくにマタイの記述の意義については、拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』210頁の「悪人に手向かうな」の項を参照してください。

 ただ、その中に「求める者には、だれにでも与えなさい」という、暴力に関係しないように思われる一文があります。「悪人に手向かってはならない」という非暴力・無抵抗の在り方は、悪に対して悪をもって報いないという消極的な面を指していますが、そのような在り方が出てくる源泉が、「求める者には、だれにでも与えなさい」という積極的な言葉で指し示されます。同じ言葉がマタイ(五・四二)では「求める者には与えなさい」という形で伝えられています。
 この言葉は、「だれでも、求める者は与えられる」(マタイ七・八)という、イエスが生きておられる絶対無条件の恩恵の場から出てきています。人間の世界では、与えられるためには厳しい資格が求められます。ところが、イエスが生きておられる恩恵の場では、父はだれにでも、すなわち求める者の資格や価値を問わないで、無条件に良いものを与えてくださるのです。そのような無条件の恩恵の場に生きるように召されているイエスの弟子は同じように、相手がだれであろうと、その資格や自分に対する価値を問うことなく、たとえ相手が自分に敵対する者であっても、良いものを与えるように求められるのです。これも、敵を愛する愛の一つの表現です。「だれでも、求める者には与えなさい」という言葉の背後に、「だれでも、求める者は与えられる」という絶対無条件の恩恵の言葉が響いています。

黄金律

 そのように、悪に対して悪を報いることなく、誰にでも無条件で良いものを与えるようにという愛敵の教えを、ルカはイエスが語られた「黄金律」の言葉をここに置くことによって根拠づけます。おそらく「語録資料Q」においても愛敵の教えの中に置かれていたと推察されますが、マタイは独自の編集と構成から別の位置に置いています。

 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。(六・三一)
 この原則は、人間の倫理的規範のすべてを要約する原理として、「黄金律」と呼ばれています。「黄金律」は古代インド思想にも、中国の儒教にも、古代ギリシア文学にも出てきており、人類の知恵といってもよい世界的な広がりをもっています。ただ、新約聖書以外では圧倒的に、「人からされたくないことを、人にするな」という否定の形で述べたものが多いようです。
 新約聖書の直接の源流となったユダヤ教においても、自分自身のように隣人を愛することを求めたモーセ律法(レビ一九・一八)が、ヘレニズム時代にギリシアの知恵と合流して、律法全体を要約する言葉としてこの黄金律が用いられるようになります。イエスの少し前に活躍した代表的な律法学者ヒレルは、ある異邦人が片足で立っている間に律法の全体を教えるように頼んだとき、「おまえにとって痛みとなるようなことは、他人にしてはならない。これが律法の全体である。他はみなその解説である」と答えたという有名なエピソードが伝えられています。
 イエスはこの黄金律を肯定形で語られます。それは、父の慈愛に促されて愛を行うように求められた文脈の中でふさわしい形です。このような肯定形の黄金律が、愛敵の教えと並べて置かれることによって(原文は「そして、また」ではじまっています)、愛敵の教えは人類の知恵である黄金律と別のものではなく、むしろ黄金律の徹底した形であることを指し示しています。人間は、人に悪を行っていても、自分にはよいことをしてもらいたいと願うものです。そうであれば、自分にそうしてもらいたいように、自分に悪をなす人にも、よいことをすることが、黄金律が求めるところとなります。
 マタイはこの黄金律を「山上の説教」の主要部をしめくくる位置(七・一二)に置いて、その後に「これこそ律法と預言者である」という言葉を加えています。マタイはおもにユダヤ人に向かって書いていますから、イエスの教えがモーセ律法と預言者に代表されるイスラエルの宗教を成就完成するものであることを強く主張しています(五・一七)。したがってここでも、イエスが語られた黄金律を律法と預言者の全体を成就するものと意義づけています。しかし、ルカはおもに異邦人に向かって書いていますので、このような意義づけは必要なく、「これこそ律法と預言者である」という文は入れていません。

マタイにおける黄金律の位置と意義づけについては、拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』339頁の「黄金律」の項を参照してください。

相対的な愛

 ルカはこの段落の主題である敵を愛する愛の具体的な現れ方(二九〜三一節)を描いた後、そこで描かれたイエスの弟子の愛と対比して、弟子でない人たちの愛、世間の人たちの間で行われている愛の姿を描きます(三二〜三四節)。その上で、その一般社会での愛と対極にあるイエスの弟子に求められている愛、敵を愛する愛の主題に戻り、段落を締めくくります(三五〜三六節)。

 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」。(六・三二〜三四)

 世間では普通、「自分を愛してくれる人を愛し」ています。ルカはその世間の人の愛を「罪人でも、愛してくれる人を愛している」と表現してます。マタイ(五・四六)は同じところを「徴税人でも、同じことをしているではないか」としています。ここでも、マタイはユダヤ人が罪人として軽蔑している「徴税人」を用い、ルカはどの民族にも通用する「罪人」という用語を使っています。
 このように「自分を愛してくれる人を愛する」ことは、世間の人が誰もすることであって、それに対して「あなたがたにどんな報いがあろうか」とマタイは書いています。同じところをルカは「あなたがたにどんな恵みがあろうか」と表現しています。ルカは「どんな《カリス》があろうか」と書いています。この《カリス》は、新約聖書では(とくにパウロにおいて)普通神の恩恵を指す用語であって、圧倒的に「恵み」と訳される場合が多い語です。しかし、ここで「恵み」と訳すると意味が分かりにくくなります。おそらく「恵み」という訳は、そのような愛は神からの恵みを受けるに値しないという意味で用いられているのでしょう。しかし、「恵み」は値しない者に与えられる神の賜物ですから、この訳は不自然に感じられます。ほとんどの英訳はここを「あなたたちにどんなcreditがあろうか」と訳しています。creditは「賞賛、賛美、名誉、栄誉、手柄」という意味です。マタイが「報い」という語を用いていることからも、ここは英訳のように、「あなたたちにとってどのような手柄、栄誉(神から受ける誉れ)になるだろうか」と理解するのが順当でしょう。
 同じことが表現を変えて、「自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている」と言われています。これに相当するマタイの箇所(五・四七)では、「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」となっています。自分の仲間内の者にだけ挨拶して(交際をして)相互に助け合うのは、神を知らない者たちとして軽蔑している異邦人(異教徒)でさえしていることであって、神の民として何の優れたところもない、というユダヤ人向けの語り方です。ルカはここでも「罪人」を用いています。
 さらに、現によいことをしてくれているのではないが、将来同じものを返してくれることを期待して貸すのは、「罪人でさえ」仲間同士の間でしていることであって、何の誉れにもならないと言います。

ルカは、イエスの弟子以外の世間の人たちのことを「罪人」という語で指しています。これは、ユダヤ教徒が「異邦人」(異教徒)を神を知らない罪人であると呼んでいた(マタイがそのように用いています)のと同じように、キリストにある者たち(信者)が自分たちの共同体の外の人たちを指すのに用いた可能性があります。ルカの時代にはそのような用法が始まっていたとも考えられます。

 ここで言われている「自分を愛してくれる人を愛する」とか、「自分によくしてくれる人に善いことをする」とか、「返してもらうことを当てにして貸す」という人間の愛のあり方とか姿勢は、「相対的な愛」と呼ぶことができます。ここで「相対的」というのは「相手の出方に対応して」という意味です。相手が自分を愛してくれるならば愛する、自分によくしてくれるならば相手にも善いことをする、という愛のあり方です。相手が与えてくれた善いものに相応する善いものを与える愛、相手から自分が与えたものに相応するお返しを求める愛です。

絶対的な愛

 その相対的な愛に対して、イエスは弟子たちに「絶対的な愛」を求められます。ここで「絶対的」というのは、「相手の価値とか出方に絶して(と関係なく)」という意味です。相手が善い人か悪い人かに関わらず、相手が自分によくしてくれるか、悪をもって向かってくるか、すなわち敵として向かってくるかに関わらず、こちらからは相手に善いことをなすという性質の愛です。このような意味の「絶対的な愛」を、イエスは「敵を愛しなさい」という一語で表現されるのです。

 「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」。(六・三五)

 文頭の「しかし」は、以上に見た世間一般の人たちの相対的な愛とは違って、「あなたたちわたしの弟子は」敵を愛するという絶対的な愛に生きなさいと、世間の相対的な愛とイエスの弟子の絶対的な愛を対照しています。
 最初にイエスが語り出された「敵を愛しなさい」という言葉にわたしたちは驚きましたが、この段落にまとめられたお言葉によって、わたしたちはイエスが求めておられる愛が「絶対的な愛」であることを理解することができるところまで来ました。最後にイエスはその絶対的な愛を、「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」と、簡潔な言葉でまとめられます。
 「人に善いことをし」は、どのような人にも無条件に善いことをするように、という意味です。相手が自分の仲間であろうが敵であろうが、相手が自分にどのような態度で向かってこようが、どのような仕打ちを向けてこようが関係なく、相手のあり方とか態度とか行動に関係なく、無条件に善いことだけをするようにという意味です。これは、先に見たパウロがローマ書一二章で求めていたことの要約です。
 また、「何も当てにしないで貸しなさい」という言葉は、相手から相応の報いを求めない愛、すなわち相対的な愛ではなく絶対的な愛に生きるようにということを、具体的な形で表現したものです。そして最後に、この相手からの報いを求めない絶対的な愛は、神から大きな報いを得ることが語られます。
 「そうすれば、あなたたちの報いは大きく、いと高き方の子となるであろう」(私訳)。「そうすれば」、すなわちわたしたちが絶対的な愛に生きるならば、人からの報いはありませんが、「いと高き方の子となる」という大きな報いが与えられます。ここで「報い」につけられている形容詞は、量的に多いという意味だけでなく、価値が大きいという意味もあります。ここでは受ける報いの価値が大きいという意味であり、報いの質が高いことを指しています。
 その報いの内容は「いと高き方の子となる」、すなわち神の子となるという内容です。神の子というのは、神から子として受け入れられ、子として愛され、子として神の命と栄光を受け継ぐ者として、人間にとって最高の資格です。ただ、ここの文は「報いは大きいであろう、子となるであろう」と未来形で語られていることが注目されます。この未来形は、「幸いの言葉」にあった「満たされるようにようになる」とか「笑うようになる」の未来形と同じく、来るべき世での報いと栄光を語っているとも理解できます。ユダヤ教の世界ではそのように理解されるのが自然でしょう。しかし重点は、来るべき世で神の子としての栄光を受け継ぐ者は、地上ではこのように絶対的な愛に生きることが求められているという点にあります。イエスはご自身が生きておられる場に、弟子として共に生きようとする者に、そのような愛に生きることを求められます。そして、そのような愛が求められる理由がすぐに続けて語られます。

 「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」。

 この文は理由を示す接続詞で始まっています。この文は先行する三五節の理由または根拠を指し示しています。いと高き方(神)は、恩を知らない者にも悪人にも情け深いのであるから、その方の子となるように招かれているあなたたちも、敵を愛するという絶対的な愛に生きるように、と勧めています。わたしたちが敵を愛する絶対的な愛に生きる根拠は、いと高き方(神)は、恩を知らない者にも悪人にも情け深いからです。すなわち、神が相手の在り方に絶した愛、絶対的な愛でわたしたちを愛してくださっているからです。
 この神の絶対的な愛を語るのに、ルカは「恩を知らない者にも悪人にも情け深い」という、比較的抽象的な表現を用いていますが、マタイは同じことを、日常的・具体的体験(とくに農民にとって切実な体験)を比喩として語っています。

 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。
(マタイ五・四五)。

 おそらくマタイの表現の方がイエスが語られた言葉に近いのでしょう。あるいは、別の機会に両方の表現を用いて語られたのかもしれません。両方とも、神は人の在り方に関係なく、受ける側の資格に条件をつけることなく、無条件に善いことをしてくださるという、神の無条件・絶対の愛を指し示しています。このように、神の愛が相手の価値とか資格に関係なく無条件に与えられるという相を、聖書は《カリス》、日本語では「恩寵」とか「恩恵」、「恵み」と呼んでいます。この《カリス》は、とくにパウロが目立って多く用いています。パウロは「恩恵の使徒」と呼ぶことができます。
 わたしたちはこのような無条件絶対の神の愛によって生かされているのですから、わたしたちがこの神との交わりの中にとどまろうとするかぎり、わたしたちもお互いの間でこのような無条件絶対の愛に生きなければならないのです。イエスが弟子たちに絶対的な愛を求められるのは、神の絶対的な愛を深く体験しておられるからであり、ご自分に従う者にもその神の絶対無条件の愛にとどまり、その愛を受けて、神と同質の愛に生きるようにならせるためです。そのように、神と同質の愛に生きる者こそ、神と同質の命に生きる者、すなわち神の子となるのです。そのように生きる者にとって、神は実質的に父となります。わたしたちが神の子であるならば、神はわたしたちの父です。ここに至って、絶対的な愛への招きが、父と子の関わりの中で語られることになります。

神の国の大憲章

 「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。(六・三六)

 ルカ福音書で、神が父と呼ばれるのは、実はここが最初なのです。誕生物語で少年イエスが神を父と呼んでおられるところ(二・四九)を別とすれば(誕生物語は三章以下の本体部分と別に考察すべきことは本稿の最初に述べました)、ここで初めて神が「父」と呼ばれることになります。
 前節で語られた「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも情け深い」という事実が、「あなたがたの父は憐れみ深い」と言い換えられ、それを根拠にして、「(子である)あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と求められます。ルカの文章では「のように」という語が用いられています。これは「と同じように」という意味の語ですが、同じようになることを目標として努めなさい、という意味ではなく、「それを根拠として、同じようにしなさい」、「であるのだから、同じようにしなさい」という意味であることは、前節で同じことが明確に理由とか根拠を示す接続詞を用いて語られていることからも明らかです。
 ここで用いられている「憐れみ深い」という語は、前節の「情け深い」とは違う用語ですが、この「憐れみ深い」は、前節の「恩を知らない者にも悪人にも情け深い」を指しています。すなわち、絶対無条件の愛を日常的な用語で指していると理解できます。父が「憐れみ深い」のであるから、その憐れみ(絶対無条件の恩恵)を受けて生かされているあなたたちも、同じように無条件の愛をもって互いに愛するのが当然である、ということになります。わたしは、訳語としては「憐れみ深い」よりも「慈愛深い」の方が適切ではないかと考えています。
 わたしたちは神の恩恵によって救われ、神の命の世界に導き入れられた者であることは、とくにパウロが強調してやまないところです。神がわたしたちに資格を求めたり、わたしたちの在り方とか道徳的価値に条件をつけられるならば、自分はとうてい救われることはできないことを、わたしたちはよく知っています。福音はキリストにおいて与えられている神の恩恵の告知です。その恩恵を根拠にして、福音はわたしたちが無条件絶対の愛に生きることを求めるのです。
 実は敵を愛する愛を語る言葉は、イエス以前にもあるのです。パウロがローマ書(一二・一九)で引用している旧約聖書や古代の知恵の言葉も、悪に悪をもって報いず、善をもって悪に打ち勝つことを語っています。古代バビロニアのテキストにも同じような言葉があるとされています。イエスとほぼ同時代の死海文書にもよく似た言葉があり、セネカにも「神々に倣おうとするならば、恩を知らぬ者にも善いことをなせ。太陽は悪しき者の上にも昇り、海は海賊たちにも開かれているのであるから」という言葉が伝えられています。
 イエスの独自性は、そのような敵を愛する愛を神の無条件絶対の恩恵によって根拠づけられた点にあります。それはもはや人間の倫理的目標ではなく、神の恩恵の支配の一面として、恩恵によって与えられた事実となります。その消息はパウロ書簡などで詳しく展開されることになりますが、イエスは端的にその事実を宣言されます。
 イエスは神の支配の到来を福音として告知されました。イエスが告知された神の支配の実質は、恩恵の支配です。このことは福音書全体の講解で追求しなければならない主題ですが、ここでは結論を先取りしておきます。この三六節の言葉こそ、イエスが告知された神の国の大憲章です。神が支配される現実を「神の国」というならば、そしてその国に憲法があるならば、その憲法は次のただ一箇条です。

 「あなたたちの父は慈愛深いのだから、あなたたちも慈愛深くありなさい」。
(ルカ福音書 六章三六節 私訳)

この言葉に相当するマタイ福音書の箇所(五・四八)では、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」となっています。ルカの「憐れみ深い」に代わって「完全な」という形容詞が用いられています。これは、マタイ独自の編集によるもので、ルカの表現の方がイエスのもとの言葉に近いと考えられます。マタイが「完全」という用語を使っていることの意義については、拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』224頁の「父が完全であられるように」の項を参照してください。