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31 幸いと不幸(6章20〜26節)

貧しい者としての弟子

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。(六・二〇〜二一)

 「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て」語り出されます(二〇節前半)。原文での書き出しは、いやしを求めて押し迫る群衆と対比して、イエスご自身の方はこうされたと、イエスの姿勢を強調しています。イエスは「弟子たちの方に目を向けて」語り出されます。これから語られる言葉は、事実を客観的に描写する言葉ではなく、人格が人格に「目を見て」直接語りかける言葉です。
 これから語られる言葉は、イエスを信じ、イエスに身を委ね、イエスに従う弟子たちに向かって語りかける言葉です。すでにイエスに従う決意をして自覚的に弟子である者もいますが、その周囲にはイエスを通して働く神の力に驚き、いやしを求めて来ているだけの人たちも多くいます。そのような人たちにも、イエスは弟子が受ける祝福とその道を語って、弟子として生きるように招いておられるのです。
 すでに自覚的に弟子である者も、弟子となるように招かれている可能態の弟子も含めて、弟子である者に向かって発せられる最初の言葉、したがってもっとも根本的な言葉は驚くべき言葉です。イエスはこう宣言されます。

 「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」(二〇節後半)。

 イエスは弟子たちを「貧しい者」と呼ばれます。「貧しい者」という表現は、語られるイエスにも聴く者にも、聖書に親しんでいるユダヤ教徒にはなじみ深い句です。もちろんこの表現は、イスラエルでも第一に、貧乏で生活が苦しい階層の人たちを指していますが、それだけでなくイスラエルでは、貧しくて社会的に弱い立場であるゆえに、ひたすら神にすがる他はない敬虔な人たち、へりくだった魂の人たちを指す表現でもありました。すでに預言書においても「貧しい者」がこのような意味で用いられる場合が多くありますが、とくに詩編によく出てくるようになり、イスラエルの人々の日々の祈りに用いられて親しまれていました。イエスの時代の敬虔なユダヤ教徒の一派であるエッセネ派の人たちは、自分たちを「貧しい者たち」と呼んでいました。イエスの弟子は「貧しい者」です。
 このような意味であることを明確にするため、マタイはこの箇所を「霊の貧しい人々は幸いである」と表現しています(マタイ五・三)。しかし、ルカは「貧しい人々」だけにして、「富める人たち」との対比を際だたせ、「貧しい人々は幸いである」という、イエスに特有の逆説的な表現を維持しています。イエスの語録には付加することはあっても、削除する可能性は低いという傾向も考慮に入れますと、ルカの方がイエスの語られた元の言葉に近いと考えられます。

神の国はあなたたちのもの

 貧しい者たちこそ神の祝福を受ける幸いな者たちであるという驚くべき宣言に続いて、「神の国はあなたがたのものであるのだから」と、その理由が語り出されます。原文には理由を示す接続詞が明示されています。神の国を受け継ぐとか、神の国に入ることは、当時のユダヤ教徒の究極の目標でした。来たるべき神の国で受ける命が「永遠の命」ですから、神の国を受け継ぐとは永遠の命を受け継ぐのと同じです。今は悪しき者が支配する苦難の時代であるが、やがて神が直接支配される栄光の時代が来る。その神の支配(=神の国)に入り、栄光にあずかり、永遠の命を受けるために、ユダヤ教徒は律法順守に励んだのです。神の《バシレイア》(王としての支配)に入り、永遠の命を受け継ぐことこそ当時のユダヤ教徒の目標であったことは、イエスになされた「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができますか」というユダヤ教徒の代表的な質問によく表れています(一八・一八以下)。
 イエスの「神の国」告知には、洗礼者ヨハネの神の支配切迫の使信を継承して、神の終末的な支配が迫っていることを告知するという一面があります。イエスの「神の国」告知は、現在すでに到来している神の支配を語っているという面があることは事実であり、本講でもその面を強調することになりますが、神の支配の終末的切迫の使信がなくなったわけではありません。とくにここのルカの「祝福と禍いの宣言」(六・二〇〜二六)では、貧しい者が「満たされる」とか「笑う」ようになり、富める者が「飢える」、「悲しむ」、「泣く」ようになるという動詞はみな未来形であり、やがて神の正しい裁きが現れる終末時の出来事を指しています。
 すべてのユダヤ教徒が終わりの日の顕現を待ち望んでいるあの「神の国(=神の支配)」はあなたたちのものである、とイエスは「貧しい者」である弟子たちに宣言されます。だから「貧しい者」は幸いなのです。神から祝福されているのです。すでに神の国が自分のものであり、そこでの命と栄光が自分のものであることが確かであるならば、地上で何を欠いていても、これにまさる幸いはありません。いや、地上では貧しいがゆえに神の国を受けているのであれば、貧しいことこそ幸いであることになります。

今飢えている者・今泣いている者

 現在必要なものを欠いている状態が「今飢えている者」と表現されます。それは「貧しい者」の具体的な姿です。必要なものを欠くゆえに、そしてそれを満たすために自分では何もできないことを知っているゆえに、神の無条件の恩恵にすがる他のない砕けた魂は、幸いだというのです。それは、神の支配が現れる終わりの日に、すべての必要が満たされ、命と栄光にあふれるようになるからです(二一節前半)。
 地上での不幸を慰めるものがなく、ただ泣くことしかできない者は幸いだとイエスは言われます。泣く者が幸福だとは、何という逆説でしょうか。このような逆説が成り立つのは、現在に神の終末という将来が突入してきているからです。現在泣いている者は、ひたすら神の恩恵に依り縋るので、すぐに来る終わりの日には、恩恵の神が与えてくださる命の喜びに満たされて笑うようになるからです(二一節後半)。
 ルカは「飢えている」とか「泣いている」という動詞に「今」という語を添えて、「満たされるようになる」と「笑うようになる」という将来との対比を際だたせ、強調しています。この「今」という語は、ルカとマタイの共通の資料となった「語録資料Q」にはなく、ルカが付け加えたものと見られます。そのことによって、ルカは終末時の大逆転を強調しています。
 何も持たない貧しい者が幸福であるという逆説が成立するのは、神の無条件の恩恵が支配している場においてです。神の恩恵は、自分に何も持たない貧しい者に注がれるからです。自分に必要なものはすべてあると高ぶっている「富める者」は、無資格の者に無代価で与えられる神の恩恵を受けることはできません。「富める者」は、自分が持っているものに満ち足りているので、神の恩恵を受けようとしません。ルカは、貧しい者の幸いを際だたせるために、続いて富める者の不幸を描きます。
 その前に貧しい者の幸いへの付加として「人々に憎まれるとき」の幸いが(散文で)語られますが(二二〜二三節)、これは「すべての人にほめられるとき」の不幸とまとめて後で扱います。幸いの宣言(二〇節後半〜二一節)には、同じ詩形の不幸の宣言(二四〜二五節)が対応しています。

富める者の不幸

 「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」。(六・二四〜二五)

 貧しい者の幸いと対比して、富める者の不幸が、「しかし」という反対の事柄を導入する接続詞に導かれて描かれます。「富んでいる者」が不幸であるのは、「もう慰めを受けているから」です。この文章も理由を示す接続詞で始まっています。この地上で(=このアイオーンで)満たされているので、来るべき世《アイオーン》では神から受けるものが何もないからです(二四節)。
 続いて「富んでいる者」の現在の姿が、「今」という語を添えて「今満腹している者」と「今笑っている者」という形で具体的に描かれ、それと対比して、来たるべき世で受けるものが何もなく、来るべき世での命と栄光に関しては「飢えるようになる」、「悲しみ泣くようになる」と、その不幸が宣言されます(二五節)。
 この富める者の不幸を宣言する言葉(二四〜二五節)は、マタイ福音書にはそれに対応する言葉がありません(マルコ福音書にもありません)。これはルカ福音書だけの独自の言葉になります。これは、元のイエスの語録伝承には「富める者の不幸」の言葉がなく、ルカが自分で付け加えた言葉であるのか、あるいは、元の語録伝承にはあったが、マタイがそれを略して独自の「幸いの言葉」(マタイ五・三〜一〇)を形成したのかが問題になります。わたしは、次の二つの理由から、後者(マタイが略した)と考えます。
 第一の理由は、イエスの語録伝承の忠実な継承者であるエルサレム共同体が「富める者への断罪」を強調している事実です。ヤコブ書は「主の兄弟ヤコブ」自身が書いたものか、ヤコブの後継者が書いたものかは議論されていますが、いずれにしてもヤコブ書がエルサレム共同体の「ユダヤ教内キリスト信仰」の証言であるという事実は変わりません。直接イエスの言葉を聞いてそれを伝えた十二使徒と主の兄弟ヤコブによって形成され指導されたエルサレム共同体が、貧しい者への祝福を語り(ヤコブ一・九、二・五)、同時に富める者への厳しい断罪を語っている(ヤコブ二・六〜七、五・一〜六)のは、それがイエスの語録伝承にあったからだと考えられます。「貧しい者は幸いだ」という逆説を宣言されたイエスが、それを裏側から「富める者はわざわいだ」と語られたことは、イエスにふさわしいことです。
 第二の理由は、マタイには「祝福の言葉」に「富める者の不幸」を取り入れない理由があるからです。マタイは「山上の説教」の始めに「祝福の言葉」を置きましたが、マタイはその祝福の言葉を、ユダヤ教知恵文学の伝統に従って、倫理的な勧告の視点で再構成しています(それは「山上の説教」全体の視点です)。たとえば、「飢えている人々は幸いである」という祝福は、「義に飢え渇く人々は幸いである」とされて、地上のものではなく、「神の前に義であることを飢え渇く者のように慕い求めよ」という勧告となっています。また、「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」という祝福は、だから柔和であることを追い求めよという勧告の意味で入れられています。このように、倫理的勧告の視点から構成された「祝福の言葉」には、富める者の不幸は勧告の材料としては使いにくいという面があって、取り入れなかったと考えられます。

マタイ福音書の「祝福の言葉」の視点と構成については、拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』の「第二章幸いの言葉」
52頁以下を参照してください。そこで、ルカ福音書との比較、および「語録資料Q」との関係も詳しく扱っています。

ルカの終末的逆転の思想

 ルカは、貧しい者には「あなたたちは幸いだ」と呼びかけ、富める者には「あなたたちはわざわいだ」と断罪するイエスの語録を伝えました。そうすることによって、「今」という語を加えて描く現状と、未来形の動詞を用いて描く将来の姿を対比して、来るべき終末に神の支配が現れるときに起こる大逆転を宣言しています。これはユダヤ教黙示思想の待望に他なりません。ルカは、ユダヤ教黙示思想に特有の《アイオーン》というような用語は用いていませんが、その内容は黙示思想そのものです。このような黙示思想的逆転の待望は、先に「ルカ二部作の成立」で見ましたように、ユダヤ教黙示思想を脱却して新しい救済史理解を提起しているルカの著作の中では、異質に感じられます。
 このような現象は、おそらくルカが歴史家として資料に忠実に伝えようとしたからではないかと考えられます。ルカは(七〇年以前の)エルサレムやアンティオキアの共同体に伝えられているイエス伝承を集めたと見られますが、その伝承の基本的な性格を成している黙示思想的待望を、そのまま忠実に伝えたからでしょう。
 その結果、ヘレニズム世界での異邦人向けの福音を総合するような位置にあるルカの著作と、ユダヤ教内のキリスト信仰の典型的な証言として対極の位置にあると見られるヤコブ書との間に、この貧しい者と富める者の扱いについては共通の面が出てくるという不思議な現象が起こっています。この点については、知恵文学の倫理的勧告の視点からイエスの語録を再構成したマタイより、ルカの方がイエスの本来の言葉に近いのではないかと見られます。

人々に憎まれる時とほめられる時

 「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いであるその日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」。(六・二二〜二三)
 「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」。(六・二六)

 かなり厳密な対称形をなして詩の形で述べられた、貧しい者への幸いの言葉と富める者への不幸の言葉に、ルカはそれぞれ散文で、人々に憎まれる時の幸いとほめられる時の不幸を付け加えます。人々に憎まれる時の幸いを語る部分(二二〜二三節)はマタイ(五・一一〜一二)にもあり、おそらくルカが共通の資料となった「語録資料Q」に従った結果だと考えられます。しかし、用いられている語句は、マタイとルカでは違っています(次の補注)。富める者の不幸を語る言葉がマタイにはない事実と対応して、すべての人にほめられる時の不幸を語る言葉(二六節)は、マタイにはありません。
 この「人々に憎まれる時の幸い」を語る言葉は、貧しい者の幸いを語る部分と、文の形が違う(詩形でない)だけでなく、性格が違います。貧しい者というのは、人の在り方とか状態を指しているのに対して、「憎まれる時」というのはある時に起こる出来事を指しています。このような出来事が起こる時には、あなたたちは幸いだという宣言です。その出来事とは、イエスを信じて言い表すときに受ける迫害を指しています。
 この地上でイエスを「人の子」と言い表したために周囲の人々に憎まれ迫害されるときには喜び踊れ、と励まされています。「天には大きな報いがある」からです。地上での苦難の体験と天での報酬が対照されていますが、実際の中身はこの世《アイオーン》での苦難と来るべき世《アイオーン》での栄光の対照です。この地と天の対照がこのような意味であることは、後にパウロがローマ書八章(一八〜二五節)で明確に語り出すようになります。
 このようにイエスを信じるゆえに受ける苦難は、昔の預言者たちが受けた苦難と同列・同質のものとされます。昔の預言者が神の霊を受け、神の言葉を語ったゆえに苦難を受けたように、今イエスを信じる者は神の霊によって神の言葉を生きているのです。それは人の思いを超えた生き方であり、人間の思いで生きている周囲から迫害されることになります。それゆえ迫害されることは預言者の系統に連なり、預言者と同じ報い、すなわち神の栄光にあずかるという報いを受けることになります。
 それに対して、「すべての人にほめられるとき」は警戒しなければなりません。昔イスラエルの民は、自分の思い、自分の夢を語る偽預言者、聞く耳に心地よく響く言葉を語る偽預言者をほめそやしました。もしわたしたちが「すべての人間から」誉められるならば、それはわたしたちが生まれながらの人間本性の次元に生きている者であることを示すことになり、この世で満ち足り、天において受ける報いはありません。「今笑っている者」として、来るべき《アイオーン》では悲しみ泣くことになります。

補注 ― 迫害に関するマタイとルカ

 ここで迫害のことを語る表現を見ますと、マタイでは「わたしのために」とあるのが、ルカではユダヤ教独特の「人の子のために」となっていることが目立ちます。さらに、ルカでは「人の子のために」受ける迫害が、「追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」という、ユダヤ教会堂で用いられた特殊な表現である三つの動詞で表現されています。この三つの動詞は、イエスを「人の子」と言い表す者に対するユダヤ教会堂の厳しい態度を示しています。「追い出される」は、会堂からの追放処分を受けることです。「ののしられる」は、預言者の受ける定めとして旧約聖書に定着した表現で、ユダヤ教徒にあるまじきことをなす者として、ユダヤ教社会全体から悪罵を浴びることです。「汚名を着せられる」は、直訳すると「あなたたちの名が汚れたものとして(会堂とかユダヤ教社会から)投げ出される」こと、すなわちユダヤ教会堂からの除名処分を指しています。ユダヤ人にとって会堂から追放されることは、社会から抹殺されることであり、殺されるのと同じくらいの激しい迫害であったのです。このように、ルカのテキストは、「人の子」待望を固持したエルサレム共同体とか、「語録資料Q」を形成したユダヤ人の信仰運動が、周囲のユダヤ人社会から受けた迫害をかなり忠実に伝えています。

会堂からの追放について詳しくは拙著『対話編・永遠の命 ―ヨハネ福音書講解T』357頁の「会堂からの追放」決議の項を参照してください。

 それに対してマタイは、ユダヤ人だけに理解される「人の子のために」を「わたしのために」として、ユダヤ人社会だけでなく、どこでも起こりうる出来事として一般化しています。比較的一般的な意味で使える「ののしられる」は保持されていますが、「追い出される」とか、「あなたたちの名が汚れたものとして投げ出される」というユダヤ教会堂の専門用語は、「迫害される」とか「偽ってさまざまな悪口を言われる」というような一般的な表現に変えられています。マタイでは、迫害の記述がユダヤ教社会の外でも通用する一般的な表現になっていると言えます。
 この事実は、異邦人を対象とするルカ福音書と、ユダヤ教の体質を色濃く残しているマタイ福音書とでは逆の特色を示しているように感じられます。しかしこの現象は、マタイの場合はこれから異邦世界に乗り出して行こうとする姿勢のために起こった一般化の現象であり、ルカの場合は、先に「富める者へのわざわい」のところで述べたように、使用した資料への歴史家としての忠実さが、資料のユダヤ教的性格を残した結果であると理解できます。
 ルカとマタイに見られるこの違いは、預言者に対する態度について語るところにも出ています。ルカでは、「この人々の先祖も、預言者に同じことをしたのである」と、明らかにユダヤ人に向かって、彼らの先祖が昔のイスラエルの預言者たちにしたことを語っています。ところがマタイでは、「彼らはあなたがたより前の預言者たちをも、同じように迫害したのである」(マタイ五・一二直訳)となっていて、迫害したのはユダヤ人の先祖には限定されていません。イエス運動の預言者も含んでいます。

マタイとルカにおける迫害される時の幸いの言葉の比較ついて詳しくは、拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』の「第二章幸いの言葉」111頁以下「迫害についてのイエスの語録」の項を参照してください。