市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第24講

28 手の萎えた人をいやす(6章6〜11節)

監視する律法学者たち

 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。(六・六〜七)

 麦畑での安息日論争に続いて、ルカはマルコの順序に従い、手の萎えた人のいやしの記事を置きます。この記事は、基本的にはマルコと同じですが、細かい点では違うところもあります。マルコでは「片手の萎えた人」ですが、ルカは利き手である「右手の萎えた人」にして、その人の苦しみを具体的にしています。病人や障害者のいるところでは、そのような人たちをいやされるイエスの日頃の働きを知っている「律法学者たちやファリサイ派の人々」は、イエスが安息日にも病気をいやされるかどうか、注目してイエスの言動を見つめます。マルコではただ「人々は注目していた」ですが、ルカは「律法学者たちやファリサイ派の人々」が注目していたと明言しています。そのような人たちがイエスの言動を監視するためにエルサレムから来ていたことの意義については、すでに述べました。
 彼らが成り行きを見つめるのは、イエスを訴える口実を見つけるためです。病人を治療する行為も一種の仕事ですから、口伝律法の細則(ハラハー)では原則として「安息日にしてはならないこと」とされていました。ただ生命にかかわる緊急の場合には例外として認められていました。この人の場合は明らかに緊急の場合ではありません。もしイエスがこの人をいやす働きをされたならば、それは明らかに安息日の律法を破る行為であり、民衆に律法違反を唆す異端の教師として最高法院に告発することができます。

 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。(六・八〜九)

 イエスの言動を監視するために会堂に来ていた律法やファリサイ派の人たちの思いを見抜いて、イエスはあえて挑戦されます。イエスは片手のなえたその人に、「立って、中に出てきなさい」と言われます。その人は身を起こして立ち、人々の前に出て来ます。その人を前に立たせて、イエスは彼ら律法学者やファリサイ派の監視団に向かって、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と言われます。
 病人を癒すことは命を救うことの一つの現れであり、いつも善です。それに対して、行うべき善があるのに行わないのは悪であり、救うべき命を救わないのは、その命を滅ぼすことであり、悪です。いま目の前にいる病人をいやして命を救うことと、それが安息日の律法(じつは人間の言い伝えに過ぎないのであるが)で禁じられている行為であるからといって見過ごしにすることとでは、いったいどちらが真に律法にかなうところ、すなわち神が求めておられるところ、神が喜ばれるところであるか、とイエスは病気で苦しんでいる人を目の前に立たせて批判者たちを問い詰められます。

善と悪

 ここで本題から少し外れますが、「善と悪」の問題に触れておきます。ここでイエスが、「善を行うこと」と「命を救うこと」を、「悪を行うこと」と「(命を)滅ぼすこと」を等置しておられることが注目されます。善とは何か、悪とは何かという問いには、実に様々な答えがなされています。見る人の立場と視点によって、その問いへの答えは違ってきます。しかし、命を救うことは善であり、命を滅ぼすことは悪であるという答えは、どのような宗教や文化の中にいる人にとっても、どのような立場の人にとっても納得できる答えです。それは、いかなる人間にとっても、命は最高のもの、価値の源泉であるからです。命が十分に生きることを妨げる障害から救い出し、命が十全に生きるように助けることは善であり、命が生きることを妨げ、ついには命が滅びるように仕向けることは悪である、ということは万人の同意をえることができるでしょう。
 神は善なる方であり、善をなされます。善だけを行われます。神は「完善」なる方、すなわち絶対無条件に善をなす方です。神のいのちを受けて、神の子として歩まれたイエスは、この神の完善を生きたかたです。このイエスにとって、人間が作り上げた律法の細則が善を行うのを妨げることはできません。イエスはあえて安息日の律法を破って善を行われます。
 イエスは弟子たちにも完善を求められます。イエスが「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい」と言われるとき、その「完全」は、「だから」という言葉が指し示しているように、この言葉に先行する「敵を愛し、迫害する者のために祈る」とか、「悪人にも善人も太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる父」のように、無条件絶対の善を行うこと、すなわち完善を指しています(マタイ五・四三〜四八)。
 パウロもキリストにあって生きる者に、「悪を憎み、善から離れず、・・・・悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように、・・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と勧めています(ローマ一二・九〜二一)。その箇所の講解で書きましたように、ここでの善と悪は、哲学的に定義する必要はなく、ここで見たような「命が十分に生きることを妨げる障害から救い出し、命が十全に生きるように助けることは善であり、命が生きることを妨げ、ついには命が滅びるように仕向けることは悪である」という実践的な定義で十分でしょう。そのような悪は、たとえ悪をなされた場合でも、その悪への対抗として悪をなすことなく、善だけをなすように使徒は求めています。すなわち「完善」を求めています。
 ここで、律法を破っているように見えるイエスが、実は神が求められる善を行うことによって律法を満たしておられるのです。愛から出る完善は、律法を満たします(ローマ一三・一〇)。それに対して、安息日律法を絶対化してイエスを違反者として訴えようとしている律法学者たちは、イエスに殺意を抱くことによって、殺人という最大の悪をなしているのです。彼らがイエスに対して殺意を抱いたことは、この段落の最後(とくにマルコの並行記事)に明言されています(後述)。

律法学者たちの殺意

 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。(六・一〇〜一一)

 そこでイエスは、「彼ら一同を見回して」、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われます(一〇節前半)。ルカはただ「彼ら一同を見回して」とだけ書いていますが、この時のイエスの様子をマルコは次のように伝えています。
 「そこでイエスは怒りをもって彼らを見回し、その心のかたくななことを深く悲しみ、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた」(マルコ三・五)。
 福音書が「怒り」とか「悲しみ」というようなイエスの感情を描くことはごく稀です。マルコの描写は、おそらくその場に居合わせて、イエスの感情の動きを察知した弟子たちによって語り伝えられたものでしょう。このイエスの怒りと悲しみは、かたくななイスラエルに対して預言者たちを通して示されていた神の怒りと悲しみと同質のものです。かたくなに主に背き続けるイスラエルの民に、アモスやイザヤは主の怒りと裁きを告げ、ホセヤやエレミヤは背く者を受け入れようとされる主の憐れみと悲しみとを体験して語りました。そのような主のしもべたちを殺してきたイスラエルは、今最後に遣わされた神の御子に殺意をもって対しています。イスラエルのかたくなさは頂点に達し、神の怒りと悲しみも極限にきているのです。それがイエスの怒りと悲しみとに反映していると見られます。
 ルカやマタイは、マルコに基づきながら、イエスの感情など細かい状況は省略して、奇跡の事実だけを伝える傾向があります。ここでもルカはイエスの感情には触れず、ただイエスが「手を伸ばしなさい」と言われ、その人が言われたようにすると、手は元どおりになったという奇跡の事実だけを伝えます(一〇節後半)。
 この奇跡を目の当たりに見て、一般の民衆は驚き、神を誉め称えたことと思われますが、ここではもはや民衆の驚嘆は当然として書かれることなく、ここで決定的となった律法学者たちのイエスに対する殺意がこの段落の結びとなります。マルコははっきりと彼らの殺意を明言しています。
 「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人たちと一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」。(マルコ三・六)
 マタイは、「ヘロデ派の人たちと一緒に」を削除していますが、同じ文言で彼らの殺意を明言しています。ところが、ルカは「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」と書いています(一一節)。ルカでは「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀った」と明言されるのは、イエスが最後の過越祭のとき、神殿で商人を追い出すなどの過激な象徴行為をされた時が初めてです(一九・四七)。ルカは、律法学者たちは初めからイエスを殺そうとしたのではなく、律法に対するイエスの態度に疑念を抱き、イエスの律法違反を唆すような行動が重なるに従って、告発などの対応を考えるようになり、最後に神殿でイエスの側から指導層に対する過激な告発が行われるに至って殺意を固めた、という過程を見ていたと理解することもできます。
 しかし、これまで見てきたように、神殿での過激な象徴行為がイエスのガリラヤ伝道以前の初期に行われていたとすれば(これが事実であると見る方が順当です)、エルサレムから派遣されていた律法学者たちの監視団が、イエスの確信犯的な安息日律法違反の言動を見て、イエスに対する殺意を固め、その実行方法を相談し始めたとしても不自然ではありません。マルコの記事は十分歴史的事実として受け取ることができます。
 マルコは、「ファリサイ派の人たちは出ていって、すぐにヘロデ派の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談を始めた」と書いています。ファリサイ派の者たちにとって、どのような目覚ましい奇跡を行う者も、律法(律法学者たちが定めた口伝律法の細則も含めて)を守らない者は異端者であり、イスラエルの民に律法を破るように計画的に扇動する教師は「背教の説教者」として最高法院に告発して処刑すべき者でした。そうすることが、律法に忠実なユダヤ教徒の義務でした。ただガリラヤではイエスは多くの民衆に慕われ支持されていますから、下手に扱うと、それでなくても反ローマ運動やメシア運動が多発する不穏な情勢のガリラヤに暴動の火種を持ち込むことになりかねないという心配からでしょう、彼らも直ちに行動を起こすことはできなかったようです。それで「ヘロデ派の者たち」と、どうすれば民衆を刺激することなくイエスを殺すことができるか、その方法を相談し始めたと考えられます。

「ヘロデ派の者たち」というのはどのような人たちであるのか、詳しいことは分かりません。エルサレムでの最後の週の税金論争で再びファリサイ派と組んで登場します(マルコ一二・一三、マタイ二二・一六)。ヘロデ王家から好意的に扱われていた「エッセネ派」を指すと見ることもできますが、確定的なことは分かりません。ルカは「ヘロデ派」に言及することはありません。

福音書の二重性

 この区分(五・一〜六・一六)は、形式からすると、最初と中間と最後に弟子の召命の記事を置き、弟子団の形成を主題とする区分となっていますが、実質は、その弟子たちによって形成される新しいキリスト信仰の共同体が、古いユダヤ教体制といかに違う次元のいのちに生きているかを提示する部分になっています。それがイエスと律法学者たちとの対立として描かれています。
 この二重性、すなわち、一つの記事においてイエスの出来事と共同体の体験とが重なって描かれているという二重性は、福音書の性格から必然的に出てくるものです。それは、福音書はイエスの出来事を世に伝えるための単なる伝記ではなく、イエスの出来事を語ることによって復活してキリストとされたイエスを世に告知する文書であるからです。その告知をする共同体の現在の体験と状況が、イエスの出来事を語るときに重なって出てくることは避けられません。この区分においても、イエスの名による罪の赦し、罪人と呼ばれる人たちの受容、もはや断食をしない事実、安息日(土曜日)ではなく「主の日」(日曜日)を守る習慣など、ユダヤ教会堂との激しい論争の中で確立してきた共同体の在り方が、イエスと律法学者たちとの対立を描くさいに影を落としています。
 しかし、福音書はイエスの出来事の事実から離れることはありません。物語の枠組みとか語り方には福音を提示するという目的が染みこんでいますが、素材はあくまでイエスの生涯の事実です。この区分においても、福音を告知する共同体の主張が響いていますが、その中にイエスの生涯の事実が伝えられています。イエスは、ここに見られるように、ガリラヤ伝道の初期からユダヤ教体制と対立し、その体制を代表する者たちからの殺意にさらされ、ついには十字架の死に至るのです。エルサレム神殿におけるあの過激な象徴行為がガリラヤ伝道に先立つ初期に行われたとするならば(それが事実であると見ざるをえません)、イエスのガリラヤ伝道は、以前よく言われたような、のどかな「ガリラヤの春」ではなく、初めから厳しい監視の目と殺意にさらされる激しい戦いの日々であり、イエスの働きの最後の局面をなす時期となります。