市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第19講

23 重い皮膚病を患っている人をいやす(5章12〜16節)

「重い皮膚病」

 イエスがある町におられたとき、そこに、全身らい病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。(五・一二)

 ここから十二人の選びまで、ルカはマルコの順序に従って物語を進めていきます。ただし、マルコでは十二人の選びの記事の前にある「湖の岸辺の群衆」の段落を、「平地の説教」の導入とするために十二人の選びの記事の後に置きます。内容もマルコと同じですが、マルコの記事をただ引き写しにするのではなく、ルカは自分の文体で、自分の著述の目的に合わせて書き改めています。ルカは、シモンの召命から始まり十二人の選びに至るこの区分の段落を、レビの召命と断食についての問答の段落以外はみな、《エゲネト》(〜が起こった)という語で始めており、出来事が立て続けに起こったことと、この区分の一体性を印象づけています。
 この重い皮膚病の人の清めの記事においても、この物語の核心部をなす、「主よ、もしあなたの御心であれば、あなたはわたしを清めることができます」という病人の言葉と、それに対する「わたし意志だ。清くなれ」というイエスの言葉は、ルカはほぼマルコの文章をそのまま引き継いでいますが、その他の物語の部分では、マルコとは違う用語と文体で語り進めています。たとえば、その人がイエスを見て「ひれ伏して」願ったと、ルカはマルコにはない「ひれ伏して」を入れています。しかし、マルコが《スプランクナ》(五臓六腑)を語幹とする動詞を用いて「イエスが深く憐れんで」と言っているところを、ルカは省略しています。また、マルコが「厳しく注意して追いやられた」という語で、この時イエスがある種の憤りを示されたことを示唆していますが、ルカはここを「お命じになった」という一般的な動詞で表現しています。
 しかし、このような用語や文体の相違は、福音の本質を理解する上で重要ではないでしょう。重要なことは、イエスがその言葉で重い皮膚病の人を清められた事実です。これが何を意味するのか、いかなる事態を指し示しているのかを見ましょう。

この病人の病気を新共同訳は「重い皮膚病」と訳しています。協会訳(口語訳)、新改訳、岩波版佐藤訳、塚本訳はみな「らい病」と訳しています。新共同訳も当初は「らい病」と訳していましたが、「らい」とか「らい病」が差別語としてその使用が批判されるようになったので、後に「重い皮膚病」と改めています。ギリシア語原語では《レプラ》です。この語は、現代医学が「ハンセン病」と呼んでいる病気よりずっと広範囲の皮膚病を指しています。このギリシア語は、旧約聖書の《ツァーラアト》の訳語として七十人訳ギリシア語聖書で用いられた語です。この《ツァーラアト》というヘブライ語は、レビ記一三〜一四章に集中して用いられていて、人間の皮膚だけでなく、布や皮、家の壁についても、それらの表面の醜く恐ろしい崩れの中で、祭司の判定で他の異常とは区別され、祭儀的に不浄とされる状態を指しています。《ツァーラアト》と判定された者は、イスラエルの祭儀共同体から排除され、一般社会から隔離された指定の場所に住み、公の場に出ることは許されず、人が近くに来ると「汚れた者、汚れた者」と叫んで、その存在を知らせなければなりませんでした。《ツァーラアト》というヘブライ語は、語源的には「打たれた、砕かれた、崩れた」という語から来ていますが、これが「神から打たれた者」という意味で用いられるようになり、不治の天刑病として恐れられていました。
 現代語には、一語でこのような広範囲の症状を指す用語はないので、大多数の現代語訳では《レプラ》の直訳として「らい病」という訳語を用い、それに「これは形崩れを伴う皮膚病のことで、祭儀上の汚れとされるものである。現在らい病と呼ばれているものとは別である」( New English Bible )というような注をつけています。「重い皮膚病」という訳では、ここの記事もイエスが重症の病人をいやされただけの意味になり、汚れた者を清めて、厳しい祭儀律法を克服されたという面が見えなくなる恐れがあります。それで、日本の現代史において「らい病」人が法律によって隔離された場所に住むことを強制された事実との類比で、それ以上に激しい社会隔離の状態に置かれた《ツァーラアト》の患者を、あえて「らい病人」と訳すことにも理由があります。先に刊行した拙著『マルコ福音書講解T』において、わたしもこのような観点から「らい病」と訳しています。本稿は新共同訳に従って講解を進めていますので、「重い皮膚病」を用いますが、これがこのような性質の差別語であることを念頭に置いて読まなければ、イエスがなされた働きの意味が見えなくなる恐れがあります。むしろ「特殊皮膚病」とか「不浄皮膚病」とでもすべきでしょうか。

 「重い皮膚病」《ツァーラアト》と判定されて社会から隔離され、人に近づくことも許されていなかったこの病人は、あえてイエスの前に出てきてひれ伏します。彼が当時のユダヤ教の枠の中にとどまりイエスの前に来なければ、彼は救われることはなかったでしょう。彼がユダヤ教の不浄の者の禁令を超えて、イエスの前にひれ伏したところから救いが始まります。彼はイエスのことを聞き及び、またその働きを遠くから見て、この方こそ神から遣わされた方、その内に神の力が働く方であると知って、その方に身を投げ出します。
 彼はイエスに言います。「あなたが(清めてやろうと)ただ意志してくだされば、あなたはわたしを清めることができる方です」(私訳)。彼の言葉は、自分が部下に命じる言葉が必ず実行されることを知っているローマ軍の百人隊長が、ただイエスの言葉だけを求めた(マタイ八・五〜一三)のと同じく、イエスの言葉に対する絶対の信頼を示しています。彼は人間の力が絶するところで、ただイエスの内に働く神の力だけにすがり、自分の生死をイエスの意志に委ねます。イエスはこの信仰に応えられます。

終わりの日のしるし

 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまちらい病は去った。(五・一三)

 イエスは「手を差し伸べてその人に触れ」られます。このような重い皮膚病の者に触れることは、感染の恐れだけでなく、自分も祭儀上の不浄に陥ることとして、極度に嫌われていました。しかし、イエスはこのような祭儀上の浄・不浄の差別を超えた命の次元におられ、この絶望的な病人への深い憐れみから、その人に手を置いて、その人と一つになられます。そして言われます、「わたしはそれを意志する。清くなれ」(私訳)。この神の憐れみ(恩恵)と病人の信仰が出会うところに神の力が注がれ、「たちまち重い皮膚病は去った」という驚くべき出来事が起こります。
 「重い皮膚病」《ツァーラアト》を清めることは、人間には不可能で、ただ神だけができることであるとされていました。それは普通の病気のいやしとは次元の違う奇跡として、終わりの日に神がなされる「しるし」でした。獄中の洗礼者ヨハネが弟子を遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねたとき、イエスは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と答えておられます(七・二二〜二三)。重い皮膚病《ツァーラアト》を清めることは、生まれながら目の見えない人を見えるようにしたり、死人を生き返らせるのと同列の、神だけがすることができる奇跡であり、終わりの日の到来を指し示す「しるし」でした。それで、マルコも《ツァーラアト》の清めや、生まれながらの麻痺で歩けない人が歩いた出来事を、他の大勢の病人のいやしの中に埋没させないで、特別の意義をもった出来事として扱ったのでした。ルカもそれに従って、別扱いで取り上げています。

清められた者の社会復帰

 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」。(五・一四)

 イエスはこの重い皮膚病の病人をいやしたとき、「だれにも話してはいけない」と厳しく命じておられます。この場合だけでなく、奇跡が行われたとき、イエスは繰り返し、それを言い広めることを禁じておられます(とくにマルコ福音書で)。これは、このような奇跡期待が一人歩きして、イスラエルの民がイエスを自分たちの期待通りのメシアとして歓呼し、ご自分が召されている「主の僕」としての道を歩むことを妨げる結果になることを心配されたからではないかと推察されます。
 イエスはこのように命じてから、「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」と指示しておられます。イスラエルの祭儀に参加し、社会復帰を果たすためには、その祭儀共同体が定めた規定の手続きをとる必要があります。イエスは、神の恵みと力によって清められた者に、そのような人間社会の規定に従って復帰するように指示されます。

 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。(五・一五〜一六)

 この病人はそのような手続きをして社会に復帰したのですが、その喜びのあまりにイエスが自分にしてくださったことを言い広めます。マルコ(一・四五)は、「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」と書いています。それまでは町に入り会堂で教えておられたのに、この出来事以降は「もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられ」て、海辺や家の中、山辺や旅路で教えられることになります。おそらく、イエスの周囲に多くの人が集まるようになり、権力者や宗教指導者が不穏なメシア運動になることを恐れて監視を強めたからでしょう。イエスがこの病人にある種の憤りを示して追い出されたのは、このようなご自身の意図に反する結果を予見されたからではないかと考えられます。
 このようにマルコがイエスの働きの場が変わり、状況が変わったことを明言しているのに対して、ルカは、その病人が言い広めたことには触れず、ただ「イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」と、その結果だけを描き、その上で「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」と、イエスの祈りの生活の場面にしています。このような書き方の変化は、ルカが福音運動と支配階層との対立をできるだけ目立たないようにしようとする護教的意図からと考えられます。