市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第17講

21 巡回して宣教する(4章42〜44節)

神の支配を福音する使命

 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。(四・四二)

 ペトロの家で夕暮れから夜にかけて多くの病人をいやされたイエスは、翌朝、おそらく人々がまだ寝静まっている早朝に起きて、人里離れた所に出て行かれます。ルカは書いていませんが、もちろんそれは祈るためであったはずです。イエスは祈りの人でした。人の前で祈るのではなく、隠れたところで、隠れたところにおられる父に祈るように教えられたイエスは(マタイ六・六)、ご自身がまず「人里離れた所」で、ただ一人になって、父との交わりの中で祈ることを習慣とした人でした。
 イエスが早朝、人里離れた所で祈りに没入されたことは、ここに報告されているだけですが、これはこの日だけのことではなく、イエスの日頃の習慣であったと見られます。福音書はここで、この日のことを典型的な実例を挙げていると見るべきでしょう。イエスは、昔の預言者と同じく、荒れ野で一人神と向き合う霊の人でした。「荒れ野の誘惑」の記事も、このようなイエスの日頃の祈りの姿が背景にあると考えられます。
 イエスがおられないことに気づいた人たちは、イエスを捜し回ります。やっと見つけてそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めます。カファルナウムの人たちにとって、イエスのように病人をいやすことができる方が、自分たちの村にいつもいてくださるならば、これほど有難いことはありません。イエスも、自分を慕ってくれる素朴な村人たちのところにとどまり、病人をいやしたり、律法を教えたりしておられるだけであれば、十字架につけられることもなかったはずです。

 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。(四・四三)

 しかしイエスは、とどまるように願う彼らに、このように言われます。イエスの言葉を直訳すると、「わたしは他の町にも神の《バシレイア》を福音しなければならない。わたしはそのために遣わされたのだから」となります。ここで二つの重要な用語が出てきます。一つは「神の《バシレイア》」で、他の一つは「福音する」という動詞です。
 「神の《バシレイア》」は普通「神の国」と訳されています。しかし、《バシレイア》は本来《バシレウス》(王)が統治・支配することを指し、王の権能とか、王の支配体制を意味する抽象名詞です。、したがって、「神の《バシレイア》」は、神が王として統治・支配する行為とか出来事を指し、「神の王権支配」とでも訳すべき表現です。
 《バシレイア》は、この本義から転じて、王によって統治される国とか王国、国民という意味にも用いられますから、「神の国」という訳語も誤りではありません。しかし、聖書での用語は、本来神が王として統治するという神の行為とか出来事を指すので、このことを明らかにするためには、「神の国」という訳語は避け、「神の支配」とか「神の統治」とするほうがよいと考えます。日本語聖書のほとんどが「神の国」という表現を用いていますので、わたしは著作でこの表現も用いながら(とくに聖書引用などで)、それが神の支配・統治行為を指すことを思い起こしてもらうために、「神の支配」という表現を互換的に用いています。どちらの用語も、聖書では神の支配行為とか支配の出来事を指すことを忘れてはなりません。
 「福音する」という表現は、日本語では馴染みのない表現ですが、ギリシア語原文では「福音」という名詞を動詞形で用いています。新共同訳は丁寧に「福音を告げ知らせる」と訳していますが、日本語でもそろそろ「福音する」という動詞を用いてもよいのではないかと考えます。「福音」とか「福音する」という表現は、本来キリストにおける救いの出来事を告げ知らせる言葉とか行為を指す用語ですが、ルカはそれを洗礼者ヨハネにも(三・一八)、イエスにも(ここと八・一、九・六)用いています。苦悩に満ちたこの世界で神の救済を待ち望む者たちにとって、「神の支配」の到来は、キリストにおける救済の出来事と同じく、まことに喜ばしい救いの到来の知らせであるからです。

「福音する」という動詞の用例については、三章一八節の講解につけた注記を参照してください。

 それで、「神の《バシレイア》を福音する」という表現は、病気をいやし悪霊を追い出すという目立ったカリスマ的な(=霊能者的な)働きと並んで、イエスの働きの重要な側面を指し示す表現になります。マルコやマタイは、イエスの働きを要約するところでいつもこの二つをあげています(マルコ一・三九、マタイ四・二三など)。ルカもこの二つの面を伝えながら、この段落の文脈からすると、病人をいやす働きよりも、「神の《バシレイア》を福音する」ことこそ、イエスが地上に遣わされた本来の使命であるとしていることになります。この点で、ルカはマルコ(一・三五〜三九)に従っていますが、マルコがイエスの本来の使命を「宣教する、宣べ伝える」《ケーリュッセイン》という一語で指しているのに対して、ルカは「神の《バシレイア》を福音する」という特色ある表現で指しています。しかし、この「宣教する、宣べ伝える」《ケーリュッセイン》という動詞を次の節で、イエスの働きを要約するさいに用いています。

 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された(四・四四)。

 ルカはここで、イエスの働きを要約する文章で「宣教する、宣べ伝える」《ケーリュッセイン》という動詞を用いています。この動詞は本来、王の伝令《ケーリュクス》が王の布告などを大声で町や村に告げて回ることを指す動詞です。イエスの復活後、使徒たちはイエス・キリストの十字架と復活の出来事を神の救済の出来事として、世界の諸都市に告げ知らせていきました。このキリストの出来事を告げ知らせる行動を《ケーリュッセイン》という動詞で指したのです。キリストの出来事を世界に告知する働きをこの動詞で指すことは、パウロ以前に始まっていますが、パウロの書簡に「キリストを告げ知らせる」とか「福音を告げ知らせる」という形で繰り返し用いられるようになります。
 会堂での実際のイエスの説教は、律法の真意を解き明かすという性質のもので、「教える」という表現の方が適切です。事実、福音書はイエスの会堂での働きを語るとき、ほとんどの場合「教える」という動詞を使っています。しかし、福音書の記者たちはすでに何十年も「福音を告げ知らせる」活動をしてきた時代に福音書を書いています。それで、イエスの言葉による働きもこの「告げ知らせる」《ケーリュッセイン》という動詞で指すことにもなります。それは、先に見たように、本来復活後の用語である「福音する」という語をイエスにも用いたのと同じ消息です。

《ケーリュッセイン》の名詞形が《ケーリュグマ》です。この名詞は、《ケーリュッセイン》する行為を指す場合と、《ケーリュッセイン》される内容を指す場合があります。この告知された内容を指す《ケーリュグマ》という名詞は、最初期の福音告知の内容(たとえばコリントT一五・三〜五)を指す専門用語として、神学上重要な概念として用いられるようになります。しかし、その意味での《ケーリュグマ》はここでは関係がありませんので触れません。

 なお、ここでルカは「ユダヤの諸会堂へ行って」と書いています。ガリラヤでの活動開始を語るこの箇所で突然「ユダヤ」という地名が出てくるのは、唐突で不自然な感じを免れません。この「ユダヤ」を北方のガリラヤ対して南方のユダヤの地域を指すとすると、これは明らかに変です。それで、「パレスチナの地誌に不案内なルカのミスか」という説明がなされることになります(岩波版佐藤訳)。しかし、著者がパウロの同伴者のルカであるとすると、彼がガリラヤとユダヤを混同するとは考えられません。これは、ルカがかなり年月が経ってから異邦人世界でこの福音書を書いたとき、遠いエーゲ海地域の異邦人世界から見れば、ガリラヤもユダヤも含めて、「ユダヤ教徒が住んでいる地域」という意味で、漠然とした地名として使ったと見ざるをえません。

イエスの告知の終末性

 イエスが「神の《バシレイア》を福音された」とか「《ケーリュッセイン》された」というとき、それがどのような内容であり、どのような性格の告知であったのか、ここではまだ何も語られていません。それは福音書全体を通して探求すべき問題ですから、ここで結論を出すことはできません。ところで、ルカ福音書はルカの福音理解に立って書かれていますから、イエスの活動を描くにも、ルカの福音理解という枠の中で描かれています。それで、イエスの告知が実際にはどのようなものであったのかを知るためには、その枠の存在を考慮に入れて考察する必要があります。その枠を超えて、実際のイエスの告知内容を確認することは至難の課題ですが、少なくともイエスの活動が洗礼者ヨハネの運動から出ているという事実から出発しなければならないと考えられます。
 前章で見たように、洗礼者ヨハネはイスラエルの民に神の終末的な審判が迫っていることを告知しました。マタイやルカが伝える洗礼者ヨハネの説教には火による審判が前面に出ていますが、審判は神の支配到来の一面です。神の世界統治は審判を通して来ます。洗礼者ヨハネの告知は、世界の終末に実現される「神の《バシレイア》」切迫の告知です。事実、マタイ(三・二)は洗礼者ヨハネの告知を「悔い改めよ。天の《バシレイア》は近づいた」と要約しています。

マタイは「神の《バシレイア》」を「天の《バシレイア》」と表現しています。これは当時のユダヤ教で神という語を用いることを避けて「天」という語で言い換える習慣に従ったものです。これは「王なる天がなさる統治」(織田『新約聖書ギリシア語小辞典』)とでも訳すべき表現です。

 イエスの「神の《バシレイア》」の告知には、洗礼者ヨハネとは違うイエス独自の面が出てきますが、基本的には「神の《バシレイア》」の切迫という使信は継承されています。そのことをもっとも典型的に示しているのは、マタイがイエスの告知を洗礼者ヨハネの告知とまったく同じ言葉でまとめている事実です(マタイ三・二と四・一七)。マルコもイエスの告知を、「時は満ち、神の支配《バシレイア》は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という第一声でまとめています(マルコ一・一五)。
 ところがルカは、来臨遅延による信仰の動揺を克服するために、来臨《パルーシア》の切迫を前提としない別の枠組みの救済史を提唱しようとして、その二部作を書いています。そのため、イエスの告知をまとめる第一声も、ナザレの会堂での説教で見たように、終末的な神の支配到来の切迫ではなく、神の恩恵の時代の到来という内容になっています。たしかに、この恩恵の支配こそがイエスの告知の本質的な内容ですが、しかしイエスの告知に終末的な神の支配の切迫という面があったことを見落としてはなりません。
 現在の福音書には、その面は痕跡をとどめているに過ぎません。たとえば、イエスが弟子たちを宣教のために送り出されるときに、「行って、『天の支配《バシレイア》は近づいた』と宣べ伝えなさい」と命じておられます(マタイ一〇・七)。弟子たちに病人をいやし悪霊を追い出す権能が与えられたのは、その使信を確証するためのしるしです。その使信は洗礼者ヨハネの使信を継承されたイエスの告知と同じです。イエスはご自分がしておられないことを弟子たちに命じられることはありません。イエスご自身がガリラヤを巡り歩いてなさっていることを弟子たちもするように命じておられるのです。したがって、イエスが「神の支配《バシレイア》」ということを口にされるとき、神の支配という終末の事態の到来が迫っているという面があることを忘れてはなりません。
 ルカはこれと並行する箇所(九・二)で、「神の支配を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり」とだけ書いて、「近づいた」という句を入れていません。ルカの著作全体の意図と構想の枠の中で書かれている記事の背後にある実際のイエスの告知や教えの内容を確認することは困難な課題ですが、イエスが「神の支配《バシレイア》を福音する」ことを使命とされたという要約記事も、このような神の支配到来の終末的切迫が含まれていることを見落とさないようにしなければなりません。