市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第15講

19 汚れた霊に取りつかれた男をいやす(4章31〜37節)

 この段落から「平地の説教」(六・二〇〜四九)の前までは、ルカはほぼマルコと同じ内容の記事を、マルコの順序に従って書き進めています。例外は、マルコではガリラヤ伝道の最初に(したがってカファルナウムでの活動の前に)置かれているガリラヤ湖畔でのシモンの召命を、カファルナウムでの伝道活動の後に置き、その出来事の経緯もマルコと違う内容になっているところ(五・一〜一一)です。

カファルナウム

 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。(四・三一)

 ルカは異邦人読者のために、カファルナウムに「ガリラヤの町」という説明の句をつけています。「町」《ポリス》という語を用いていますが、その規模は一〇〇〇人程度と推定され、都市ではなく、大きめの村です。山地にあるナザレから湖畔のカファルナウムに来るのは「下る」という動詞が用いられるのは自然です。
 カファルナウムはガリラヤ湖北岸に面した農業と漁業を主要な産業とする村で、ガリラヤ湖周辺の村々の間では主要な村であり、地中海岸の重要な港湾都市プトレマイス(現在のハイファの北)からダマスコに至る幹線道路の中程にある中継地点として重要視され、収税所が設けられ(マタイ九・九)、ローマの軍隊も駐留していました(七・一〜一〇)。
 イエスがカファルナウムに来られたのは、しばらくの間そこで活動するための滞在ではなく、そこに住み、そこを拠点として活動するためです。マタイ(四・一三)は、「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」と書いています。カファルナウムはイエスのガリラヤ伝道の拠点となり、イエスは「自分の町に帰ってこられた」(マタイ九・一)とか、「家におられる」(在宅しておられる)と語られる町になります(マルコ二・一)。
 「安息日には人々を教えておられた」というのは、当然会堂に入って(四・一五)、安息日にそこに集まる人たちに教える活動をされたということです。安息日に会堂で説教する様子については、前段のナザレの会堂の記事で見たとおりです。

イエスの言葉の権威

 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。(四・三二)

 故郷のナザレでは、自分たちがよく知っている木工職人の息子が、自分を聖書を成就する者だとするような発言をしたので驚いたのですが、ここではイエスの言葉の権威に圧倒されて驚いたと、マルコの記事をそのまま引き継いでいます。ただ、マルコ(一・二二)では、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」としているところを(マタイも同じ)、律法学者との比較は異邦人読者には必要ないとしたのか、ルカは省略しています。

 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。(四・三三〜三四)

 霊的な権威ある言葉が語り出されると、それに対抗する霊が叫び出すことはしばしば実際に起こります。イエスが神の支配について権威ある言葉を語り出されたとき、会堂にいる一人の男が大声で叫び出します。この男のことをマルコ(一・二三)は「汚れた霊に取りつかれた男」と言っていますが、ルカは「汚れた《ダイモニオン》の霊に取りつかれた男」と言っています。
 《ダイモニオン》はもともと人間に働きかける神的・霊的な力とか存在を指すギリシア語ですが、新約聖書では《ダイモニオン》はもっぱら悪を為す霊力を指し、「悪霊」と訳されています。これはマルコの「汚れた霊」と同じであり、ルカの「汚れた《ダイモニオン》の霊」は重複した表現になりますが、ルカはヘレニズム世界の読者に親しまれている《ダイモニオン》という用語を使って丁寧に説明したのでしょう。
 霊界の住人は、地上の人間よりも霊界の消息をよく知っています。この男に取りついている悪霊《ダイモニオン》は、霊界におけるイエスの地位を知っており、そのイエスが自分のところにまで来られた目的を知っています。悪霊は取りついている男の口を通して叫びます。
 「ああ、ナザレのイエスよ、お前は我々と何のかかわりがあるのか。お前は我々を滅ぼしに来たのだ。わたしはお前が誰であるか知っているぞ、神の聖者だ」。(三四節私訳)
 この悪霊は「我々」と言っています。一人の人に多くの悪霊が取りつくこともありますが、「わたしは知っている」とか、次節の悪霊が単数形であることから、この人に取りついている悪霊は一霊であると見られます。ここの「我々」は、自分のような悪霊仲間一般を指して、イエスが悪霊を追放し滅ぼすために来られたことを知っていて、今自分が居座っているこの男から追い出さないように抵抗し、哀願しているのです。

底本もそれに従っている新共同訳も、「滅ぼしに来たのか」と疑問文にしていますが、「滅ぼしに来たのだ」と読むこともできます。元の写本には句読点や疑問符などは用いられていないのですから、どちらに読むかは解釈に委ねられています。

 地上の人間がまだ誰もイエスが誰であるか、その霊界の地位を知らないとき、霊界の住人である悪霊はそれを知っていて、「神の聖者だ」と叫んでいます。「神の聖者」は、神から遣わされた人、神に属する人を指す表現であり、後に弟子たちがイエスへの信仰を言い表すときにも用いています(ヨハネ六・六九)。

 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。(四・三五)
 放っておけば悪霊は叫び続けたことでしょう。イエスは、悪霊がそれ以上イエスの身分について語ることをお許しにならず、叱りつけて「黙れ。この人から出て行け」と命じられます。すると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、その人から出て行きます。マルコが「けいれんを起こさせ」と書いているところを、ルカは「人々の中に投げ倒し」と変え、マルコにはない「何の傷も負わせずに」という医者らしい説明を加えています。これは、イエスの悪霊追放の業が何の危険も伴わない完璧なものであることを印象づけるためでしょう。

 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」。(四・三六)

 ここは「すべての者に驚愕が起こった」という強い表現が用いられています。「驚愕」は、驚きと恐怖が混じった感情です。会堂にいる全員は、人間が聖なる現実に直面するときに覚える畏怖の念に襲われます。その驚愕は、イエスの教えの内容よりもまず、イエスの言葉が示す権威と力に対する驚愕です。イエスが命じられると、悪霊はその言葉に従って出て行くのです。このような次元の言葉には、人間はまだ出会ったことがありません。わたしたちも、カファルナウムの会堂の人たちと共に、イエスの言葉に驚愕し、イエスの中にまったく新しい事態が到来していることを知ることになります。その新しい事態こそ、「神の支配」と呼ばれる福音書の主題です。

 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。(四・三七)

 イエスの働きは、福音書では「病気をいやし、悪霊を追い出す」という二重の表現でまとめられていますが、この二つは深く重なっています。それは、当時では病気は「病気の霊」の仕業とされていたからです。イエスが神の霊の力によって悪霊を追い出す働きをされたことは、これ以後繰り返し福音書において報告されることになりますが、ルカもマルコに従い、カファルナウムの会堂での悪霊追放の出来事を代表的な事例として最初に置き、この出来事によってイエスの噂が辺り一帯に広まったとします。