市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第13講

17 ガリラヤで伝道を始める(4章14〜15節)

ユダヤからガリラヤへ

 イエスは御霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。(四・一四前半)

 このような性格の土地ガリラヤでお育ちになり、また生活してこられたイエスは、「およそ三十歳」になられた時(前七年の誕生とすると三十三歳、前四年の誕生とすると三十歳の時)、ヨルダン川の流域に広く響き渡った洗礼者ヨハネの声に神の呼びかけを聞かれます。そして、「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられ」ます。それがどこかは明示されていませんが、ヨハネ福音書(一・二八)によると「ヨルダン川の向こう側、ベタニア」であったとされています。ベタニアがどこかは確定できませんが、エルサレムの視点から書いているヨハネが「ヨルダン川の向こう側」というときは、(ガリラヤではなく)ユダヤのヨルダン川東岸であると見られます。マルコ福音書(一・五)も、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨハネからバプテスマを受けた」と書き、イエスも「ガリラヤのナザレから来て」(一・九)バプテスマを受けられたとして、その場所がユダヤであることを示唆し、その後荒れ野で試みに遭われたのもユダヤの荒れ野であるとしているようです。

先に見たように、フルッサーはイエスがバプテスマを受けた場所を、ヨルダン川がガリラヤ湖に注ぐあたりとしていますが、四福音書の記事からすると、バプテスマがどこであれ、少なくともその後の「荒れ野の誘惑」やイエスのバプテスマ活動はユダヤとしなければなりません。

 ルカは、「荒れ野の誘惑」の記事の後すぐに、「イエスは御霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」と続け、ガリラヤの諸会堂で教える活動が始まったとしています。ルカはイエスをガリラヤの人とする視点から、「ガリラヤに帰られた」という表現を用いています。
 ルカはマルコに従ってそう記述したのでしょうが、事実はそう単純ではなかったようです。ヨハネ福音書によると、ユダヤの荒れ野で御霊の満たしと試練によって召命を確認されたイエスは、その後もユダヤでバプテスマを授ける活動をしておられます。イエスがバプテスマを受けてからガリラヤで公の宣教活動を開始されるまでの行動については、ヨハネ福音書が詳しく伝えていますので、ここにそれを要約しておきます。
(数字はヨハネ福音書の章節)
1 ユダヤの地でヨハネからバプテスマを受ける (一・二八)
2 ヨハネの弟子数名を召してガリラヤへ(一・四三)
3 ガリラヤのカナの婚礼に参加 (二・一〜一一)
4 カファルナウムに滞在(二・一二)
5 過越祭でエルサレムへ上り、神殿で商人を追い出すなどの象徴行動(二・一三〜二五)
6 エルサレムでニコデモと対話(三・一〜一五)
7 ユダヤに行きバプテスマ活動―洗礼者ヨハネはまだ投獄されていない(三・二二)
8 サマリア経由で再びガリラヤへ―洗礼者ヨハネの投獄を聞いて? (四・三〜四)
9 サマリアでの活動(四・五〜四二)
10 ガリラヤでの宣教活動(四・四三〜五四)             
 ヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体は、イエスのエルサレム近辺の活動を目撃して熟知している証人の指導で形成された共同体であり、その記述は歴史的事実に基づいていると考えられます。ペトロ系の伝承に基づいて福音書を書いたマルコは、このようなイエスの初期の行動を伝える伝承を知らなかったのか、あるいは知っていて省略したのかは断定できませんが、それは福音の提示には不必要だとして、2から9までの項目をとばして、イエスはユダヤでバプテスマをお受けになり、荒れ野での試みに打ち勝たれた後、洗礼者ヨハネの投獄を聞いて、ガリラヤに行かれたとしています。しかし、エルサレム神殿での象徴行為は省略できませんので、イエスの最後の過越祭での出来事としています。

神殿での象徴行為がいつ行われたのかについては、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』102頁を参照していください。

 エーゲ海地域で活躍したルカは、エフェソで成立したヨハネ福音書の伝承を知っていたと推察されますが、それを無視してマルコの記述に従ったのは、先に見たように、すでにマルコ福音書が当時のキリスト信仰の共同体に広く受け入れられ、十二使徒の代表であるペトロの権威によって尊重されていたので、ルカはその枠組みの中でイエスの出来事を記述することを原則としていたからであると考えられます。

ガリラヤの諸会堂で教える

 その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。(四・一四後半〜一五)

 ルカは最初に、ガリラヤでのイエスの活動をごく一般的な記述でまとめています。「周りの地方一帯」とはどこを指すのか、具体的な地域名はあげられていません。後に続くガリラヤでの活動を語る記事からすると、ガリラヤでのイエスの活動範囲は、カファルナウムを拠点として、マグダラ、コラジン、ベトサイダなどを含む、おもにガリラヤ湖の西岸北部から北岸にかけての農漁村地域であったと見られます。故郷のナザレやカナなど、ガリラヤ湖から少し離れた山地にも入っておられますが、ナザレの近くの大都市セッフォリスやガリラヤ湖畔に最近に建設された州都ティベリアスなどのギリシア風の都市に足を踏み入れられた形跡はありません。
 同じマルコ福音書に依拠しながら書いたマタイは、イエスのガリラヤ伝道を次のようにまとめています。
 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気をいやされた」。(マタイ四・二三)
 このマタイの総括と較べると、ルカはイエスが病気を癒されたことに触れていませんが、それは「イエスは御霊の力に満ちて」という記事と、「その評判が周りの地方一帯に広まった」という記事に含まれています。御霊の力が一般の民衆の目にもっとも顕著に表れて評判になるのは、病気のいやしなどの「力ある業」ですから、ルカの記事にも病気のいやしの働きが含まれていると見ることができます。ルカはイエスのいやしの働きを別の場所(六・一七〜一九)で詳しくまとめていますが、ここのまとめ方を見る限り、ルカは御霊の力の現れを、第一にイエスの教えの力と新しさに見ていることになります。
 「イエスは、皆から尊敬を受けられた」とありますが、実際にはすぐに続くナザレでの出来事が示すように、反対や非難も多く、この表現はイエスのポピュラリティ(人気)を語るだけで、「その評判が広まった」と同じことを言っています。
 イエスの「教え」、すなわち御国の福音を宣べ伝える働きは、まず会堂で行われました。会堂で教えるとはどういう形でなされるのか、それが次のナザレの会堂での出来事を扱う段落で描かれていますので、そこで詳しく見ることにします。