市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第12講

補説 2 イエスの生い立ち

ガリラヤ社会の中のイエス

イエスの家系と両親

 先に「系図」のところで見たように、イエスの父となったヨセフはダビデの家系に属しますので、イエスの家系はイスラエル十二部族の中ではユダ族に属すことになります。先の「系図」には「ヤコブ、ユダ・・・・・ダビデ・・・・ヨセフ」の系列が見られます。そうすると、ユダ族に割り当てられた土地は南のユダヤですから、ヨセフあるいは彼の先祖はもともと南のユダヤの住人であった可能性が高いことになります(ディアスポラのユダヤ人であった可能性も否定できませんが)。イエスがお生まれになった土地の問題は後で取り上げますが、少なくともイエスの幼少の頃から、両親はガリラヤのナザレに住んでいます。おそらくヨセフ自身か、あるいはヨセフの父とか祖父の世代にユダヤからガリラヤに移住した可能性があります。先にマカバイ時代のところで見たように、ガリラヤがマカバイ家の勢力下に入るようになったマカバイ時代の中期(前一〇〇年前後)から、南のユダヤからガリラヤに移住するユダヤ人が多くなっていました。
 母のマリアについては、詳しいことは分かりません。ヨセフと婚約したときは、年若い(一〇歳代の)信仰深いユダヤ人の処女であったことは間違いないでしょう。当時のユダヤ教社会の状況からしますと、婚約する若い女性が処女であることを当然であり、疑う理由はありません。

マリアについては、「ヤコブ原福音書」と呼ばれる外典文書が、マリアの奇跡的な誕生、その成長、神殿での養育、ヨセフとの縁組み、イエス出産の物語を伝えています。この文書は、処女降誕の教義を擁護するために書かれた後代の文書であり、旧約聖書のサムエルの誕生物語をモデルとし、マタイとルカの誕生物語に基づいて巧みに構成されています。この文書によれは、マリアもダビデの家系であり、エルサレムの子のない富裕な夫妻に奇跡的に与えられた娘です。汚れを受けないように神殿の一室に隔離されて養育され、神託により選ばれた(妻を亡くし息子もある)寡夫ヨセフの保護の下に置かれます。その期間中に妊娠し不義を疑われますが、神聖裁判で疑いが晴れ、ヨセフと正式に結婚します。皇帝の人口調査の命令により、ベツレヘムへ行く途中の洞窟で、マリアはイエスを産みます。その後、ヘロデの幼児殺害の手を逃れて、ユダヤを避け、「自分の国」へ帰ります。
 この文書はオリゲネスも知っており、三世紀前半までに成立していると見られます。この文書は広く流布し、ギリシア正教会は、イエスの処女降誕を擁護するために、この文書に基づいて、ヨセフを年老いた寡夫とし、イエスの兄弟とされているヤコブらを先妻との間にできた息子たち(従ってイエスより年上の異母兄弟)とします。本書は、このヤコブの作とされています。「原福音書」とは、福音書が扱う内容以前の物語という意味で用いられています。内容と様式は聖者伝説的な物語ですが、歴史的な痕跡が断片的に含まれている可能性もあります。たとえば、マリアはエルサレムの娘ですし、ヨセフも当然のようにエルサレム(またはその近郊)の人として扱われています。この伝承は、ヨセフのユダヤからガリラヤへの移住説を補強します。

イエス誕生の時と場所

 イエスの誕生の次第については、マタイ福音書とルカ福音書の「誕生物語」が語っています。そこで語られている物語、とくに処女降誕の物語をどのように受け取るかは、信仰の問題として「誕生物語」の講解で扱いますが、ここではイエスがこの世に誕生されたという歴史的事実に関連する問題だけを見ていきます。
 「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」という伝承(マタイ二・一)は、最初期の共同体で広く受け入れられていました。その伝承で、イエスが「ヘロデ王の時代に」お生まれになったことは、現代の研究者にも広く認められていて問題はありません。ヘロデ王が没したのは前四年ですから、イエスはそれ以前に生まれておられることになります。ルカ(二・一〜二)があげているシリアの総督キリニウスが行ったとされる「最初の住民登録」の記述の歴史的正確さについては、現代でも論争が続いていて、イエス誕生の年を決める決定的な根拠とすることはできないとされています。現在では、イエスの誕生はヘロデの最晩年、おそらく前七年と前四年の間であろうとされています。

キリニウスは紀元六〜七年にシリアの総督であり、紀元六年にユダヤがローマ総督直轄の属州となったときのシリア州総督として人口調査(住民登録)を行っています。しかし、これはヘロデの死後一〇年ほど経っているのですから、「イエスはヘロデ王の時代にお生まれになった」という事実と矛盾します。その他、アウグストゥスの時代に帝国全体に対する住民登録が布告されたことはないとか、ヘロデ王が支配している領地に王の在世中にローマの住民登録が行われることはありえないとか、またヨセフスは紀元後六年に行われた人口調査を最初のものとしているなどの理由で、ルカの記述は歴史的正確さを欠くという議論があります。それに対して、E・シュタウファーはその著『イエス』(高柳伊三郎訳、日本基督教団出版部)において、その一つ一つに反論して、ルカの記事を擁護しています。シュタウファーによると、新たに支配下に組み入れた属州の住民登録は、数十年の年月を必要とする困難な事業で、皇帝の「布告」から始まり、現地民の激しい抵抗を鎮圧しながら、「税額査定」で完了します。キリニウスはアウグストゥス帝の腹心であり、帝から東方の統治を支えるために派遣され、様々な地位で活躍します。総督在任中もそれ以外の立場の時も、彼はシリア州の徴税活動を進めます。彼は前一二年から後一六年まで、帝国の東部を副王のように統治します。一方、ヘロデ王はその独裁的な統治がローマから嫌われ、前八年には徴税権を含め、大幅に権力を失っています。したがって、キリニウスが前七年に何らかの高位の資格で(特使として)シリアに派遣されてアウグストゥスの「布告」をもたらし、シリア州の総督であったとき(六年)に、パレスチナで「税額査定」を完了して、住民登録事業を完成させたと見ることができます。十四年で困難な属州の住民登録を完了したことは彼の大きな功績とされました。シュタウファーは、マタイに報告されている星の記事も根拠にして、イエスの誕生を前七年としています。

 一方、「ユダヤのベツレヘムで」お生まれになったとされる誕生の地については、議論があります。イエスは、ユダヤ教社会では「ナザレのイエス」として知られていた方であり、当然ガリラヤのナザレでお生まれになったと考えられていました。もしわたしたちがマルコ福音書とヨハネ福音書しか持っていなかったら、わたしたちも当然イエスはガリラヤのナザレでお生まれになったと考えたことでしょう。それにもかかわらず最初期の共同体は、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」という伝承を形成し、伝えてきました。マタイとルカは「誕生物語」で、それぞれ違った形で、イエスがユダヤのベツレヘムでお生まれになったことを物語っています。では、「ナザレのイエス」がどうして、遙かに遠いユダヤのベツレヘムでお生まれになったとされたのでしょうか。
 まず、ユダヤ人に向かってイエスをイスラエルに約束されたメシア・キリストであると宣べ伝えるためには、イエスがダビデの家系に属す方であることを示す必要があります。当時のユダヤ教では、メシアはダビデの子孫でなければならないという確信が強くなってきていました。それで、ユダヤ人に向かって福音書を書いているマタイは、イエスがダビデ家の出身であることを、系図と本文で繰り返し強調しています。ユダヤ人の信仰共同体で形成された告知の定式《ケリュグマ》も、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」という形をとります(ローマ一・三〜四)。この告知の形は、異邦人への宣教においても保持され、イエス・キリストはダビデの子孫であることが、復活の事実と並んでいます(テモテU二・八)。
 さらに、当時の律法学者たちは、メシアはダビデの家系に属すだけでなく、預言(ミカ五・一〜三)によれば、ダビデが生まれ、王として油を注がれた「ダビデの町」ベツレヘムから出るとしていました(マタイ二・五〜六、ヨハネ七・四二)。それで、最初期のユダヤ人に向かってなされた宣教において、イエスが預言を成就する方としてお生まれになったことを補強するために、イエスがベツレヘムで生まれたことを語るようになり、ベツレヘムでの誕生に関する伝承が形成されます。
 ただ、その語り方がマタイとルカでかなり違うことが問題になります。マタイは、ローマ総督による住民登録には全然触れず、ヨセフとマリアがベツレヘムの住民であることを当然のこととして前提しています。ただ、自分の王位を脅かす男子の誕生の預言に恐れを感じたヘロデ王がベツレヘム一帯の男の幼児を殺戮したので、ヨセフとマリアは難を逃れてエジプトに下り、ヘロデが死んだ後、その子のアルケラオスがユダヤを治めていると聞き、彼の支配の及ばないガリラヤに移住し、ナザレに住むことになったとしています。
 他方、ルカはヘロデの虐殺には一切触れず、ナザレに住んでいたヨセフとマリアが、ローマ総督の命令により住民登録のためにベツレヘムに行き、その旅先の馬小屋でマリアがイエスを出産し、再びガリラヤのナザレに戻ったとしています。

マタイの「誕生物語」が、歴史的記述ではなく、モーセ・ハガダー(会堂の聴衆のためにモーセについて解説的に敷衍した物語)を下敷きにして構成された物語であることについては、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』78頁以下を参照してください。しかし、ヘロデ王の幼児虐殺については、前出のシュタウファー『イエス』は最晩年のヘロデの残虐な殺戮行為を多くあげて、十分史実でありうることを論証しています。
 ルカの「誕生物語」は、キリニウスの住民登録が舞台となっています。その歴史性については先の注記で説明しましたが、誕生地についてはなお以下のような問題点が指摘されています。ナザレに住んでいるヨセフがなぜユダヤのベツレヘムに行って登録をしなければならなかったのか。ローマの住民登録の制度は、実際にそれを求めていたのか。さらに、なぜヨセフはマリアを連れて行かなければならなかったのか。住民登録は戸主が出頭して家族の状況を申告するだけでよいのではないか、というような問題点があります。これらの問題点についても、前出のシュタウファー『イエス』は、ダビデの家系に属するヨセフには父祖からの土地がベツレヘムまたはその近郊にあったのでそこで申告をしなければならかったこと、戸主の申告だけでよいのはイタリア本土だけで属州では本人の出頭が必要であったこと、その出頭要求は病人・妊婦にも容赦はなく過酷であったことを論証して、ルカの記事の歴史性を擁護しています。

 マタイの「誕生物語」は、預言成就をモティーフとするユダヤ人のための聖書物語の感があり、ルカの「誕生物語」は、諸国民の救い主の出現を賛美する賛美歌集のおもむきがありますが、(以上の注記のように)詳細に検討すると両方に歴史的な核があることが分かります。マタイとルカは、それぞれ違った伝承を用いて、自分の著作意図に従って物語を構成していますが、その二つの物語は、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」という歴史的事実を確認しています。イエス誕生の後、ヨセフはガリラヤのナザレに戻り、イエスはナザレで育たれることになります。こうして、イエスはユダヤのベツレヘムで生まれ、ガリラヤのナザレでお育ちになります。

イエスの家族と職業

 ヨセフとマリア夫妻にはイエスの後に、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの四人の男の子と何人かの女の子が生まれます(マルコ六・三)。イエスは、四人の弟と何人かの妹をもつ長兄として育たれます。
 父のヨセフは「大工」《テクトーン》でした(マタイ一三・五五)。《テクトーン》とは、家を建てる大工ではなく、家具や家の木造部分を造る職人を指し、むしろ「木工職人」と呼ぶ方が適切です。村に住む職人は、農民たちと一緒に暮らす村落社会の一員であり、社会階層としては都市に住む支配階級ではなく、農民階層に属します。イエスが都市の富裕な支配階層や祭司階級の出身ではなく、このような農民階層の出自であり、農民たちと生活感覚を共有しておられたことは、イエスの宣教活動の性格を決める一つの重要な要素になります。
 当時の社会では、息子は父親の職業を見習って技術を身につけ、社会に出ました。イエスも父親から木工職人としての技術を習い、父親の仕事を手伝い、長じては大家族の長兄として、その職業に励み、家族を支えてゆかれました。イエスが公の宣教を始められた時、故郷のナザレの人たちは、イエスについて「この人は大工《テクトーン》ではないか」と言ったと伝えられています(マルコ六・三)。
 父親のヨセフは、イエスの十二歳の時の物語(二・四一〜五二)に出てくるのを最後に、イエスが公に活動を始められた後には、舞台に登場しません。それで、イエスが宣教の活動を始められた時には、すでに亡くなっていたと推察されています。それがイエスの何歳の頃からであったのかは確認できませんが、イエスはヨセフ亡き後、一家を支えてその職業に励まれたことでしょう。
 イエスの時代には、ナザレから北6キロのセッフォリスやガリラヤ湖畔のティベリアスで大規模な建設事業が行われています。イエスも木工職人として工事に参加して、都市の支配階級の贅沢な暮らしを見ておられる可能性があります(七・二五参照)。
 ユダヤ教徒は成人すれば結婚することが宗教的な義務でした。結婚してユダヤ教徒の子孫を残すことがユダヤ教団の存続にとって必要だったからです。しかしイエスの時代には、エッセネ派のように結婚しないで宗教生活に励むことを勧める宗派もありました。洗礼者ヨハネも結婚していませんでした。イエスはどの程度エッセネ派と接触されたのかは確認できませんが、おそらくイエスはひとり神の霊に導かれて深く聖書に沈潜し、結婚して自分の家族をもつことなく(エレミヤの先例もあります)、「天の国のために結婚しない者」(マタイ一九・一一〜一二)の一人として、祈りに専心されたのではないかと見られます。

イエスとユダヤ教

 ヨセフは熱心なユダヤ教徒でした。ヨセフの家系は(ダビデの家系に属する家族として)代々ベツレヘムの住人であって(ヨセフ自身またはヨセフを育てた父親もベツレヘムの住人であった可能性があります)、ヨセフはエルサレムを本拠とするユダヤ教の直系に属する熱烈なユダヤ教徒であったと見られます。そのことは、ヨセフが「義人」と呼ばれており(マタイ一・一九)、その息子であるヤコブもエルサレムのユダヤ教徒たちに「義人」として名を知られていたことからも推察されます。
 ヨセフは大工《テクトーン》であって、祭司ではありませんから、彼が励んだユダヤ教はファリサイ派ユダヤ教であったと考えられます。とくにガリラヤに移住してからは、ガリラヤの会堂で支配的なファリサイ派ユダヤ教の中で、律法(聖書)を学び、律法に基づく生活に励んだと見られます。当時エッセネ派も(クムランだけでなく)エルサレムやパレスチナ各地で在家の生活をする教徒もいたのですから、エッセネ派の影響を受けていた可能性もありますが、エッセネ派との関わりは確認できません。
 イエスも幼い頃は父親からユダヤ教の基本である「シェマ」や十戒を繰り返し聞かされ、また父祖の物語を聞かされたことでしょう。敬虔なユダヤ教徒の家庭では、自家の巻物(律法の基本的な部分の巻物でしょうが)を持っていて、イエスも父親から文字を教えられて、聖書の巻物を読めるようになっていたことでしょう。
 子供が成長すると、会堂の学校に送られて、会堂付属の学校で律法(聖書)を学びます。聖書(旧約聖書)はヘブライ語ですから、イエスは日常生活で用いるアラム語の他に、ヘブライ語にも習熟されていたと見られます。イエスは(後で見るように)律法の学習で天才的な能力を見せられたと考えられます。イエスはエルサレムの高名な律法学者(ラビ)の下に送られて、その門下で律法を学ばれたのではありませんが、幼い時からの深い霊感による聖書理解は天才的な鋭さを見せていたようです。

イエス誕生の前後の時期には、エルサレムでファリサイ派の高名な律法学者ヒレルとシャンマイが活躍していました(前二〇年頃〜後一〇年頃)。しかし、少年イエスが彼らの下で学んだという痕跡はありません。イエスが公に宣教を開始されたとき、周囲の人たちは「この人は学んだこともないのに、どうして聖書が分かるのか」(ヨハネ七・一五)と驚きますが、これはラビの弟子として正式の印可を受けた教師でもないのにという驚きです。詳しくは拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』283頁を参照してください。

 そのことを示す一つのエピソードをルカが伝えています(二・四一〜五二)。ヨセフは熱心なユダヤ教徒として年ごとにエルサレムに巡礼して神殿に詣でていました。イエスが十二歳になったとき、(おそらく初めて)イエスを巡礼に連れて行きます。両親は帰途について一日の道のりを行ったとき、イエスがいないことに気づき、エルサレムに引き返します。そして、イエスが神殿で律法学者たちの中に座って、学者たちと律法を論じておられるのを見つけます。その時、周囲の人たちはイエスの鋭い受け答えに驚いていたと伝えられています。この出来事を引いて、フルッサーは、イエスを「無学な農民」とする誤りを指摘した上で、こう言っています。
 「イエスは聖書と口伝律法の双方に完璧なまでに通じており、またこのユダヤ教の学問的伝統をどのように応用すべきかを知っていた。イエスのユダヤ教の教養は聖パウロが受けた教育より比較できないほどすぐれていた」(フルッサー31頁)。

シュタウファーは、イエスの誕生を前七年とし、イエスが十二歳になったのは紀元六年とします。この年はキリニウスの住民登録(正確には税額査定)が行われた年になるので、ヨセフはこの時にベツレヘムに赴いて税務を処理したとしています。そうすると、両親が少年イエスを見失った状況が納得しやすくなります。

 イエスは、生まれたとき神殿で捧げられ、幼いときからユダヤ教律法によって教育され、ユダヤ教徒の中で教え、ユダヤ教の代表者から死刑の判決を受け、ユダヤ教聖書の一節を口にして死なれた方、すなわち誕生から死に至るまで、その生涯を徹底的にユダヤ教徒として送られた方です。そのイエスの福音が、ユダヤ教を超えてすべての人間に救いの使信となる姿を、わたしたちは福音書の中に見ていくことになるのですが、その前提として、イエスが「ユダヤ人イエス」であること、すなわちイエスがユダヤ教徒としてその生涯を歩まれた事実と、それが意味するところを見過ごしてはなりません。

イエスが聖書とファリサイ派の口伝律法以外のユダヤ教文書や思想にどれだけ通じておられたかは難しい問題です。それと関連して、イエスがどれだけギリシア語に通じ、ギリシア語で書かれた黙示文書などの外典に接しておられたかも確認困難な問題です。パレスチナにもギリシア語を話すユダヤ人は多くいたのですから、イエスもある程度の日常的なギリシア語は用いられた可能性はありますが、イエスの母語と日常の用語はアラム語であったことは確実です。イエスの教えや言葉が、当時のユダヤ教各派とどのように関わるのかの問題は、福音書の講解で個々の出来事や語録を扱う時に触れることになります。

 以上、イエスが育たれ、活動されたガリラヤの歴史と社会、およびその中でのイエスの生い立ちを見てきました。ここで本論に戻り、ルカが伝えるイエスのガリラヤでの「神の国」告知の活動を見ていくことにしましょう。