市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第11講
第二章 ガリラヤ伝道の開始

       ― ルカ福音書 四章(一四節〜四四節)―


補説 1 ガリラヤの歴史と社会

はじめに ― イエスとガリラヤ

 ルカは、イエスが舞台に登場されたときに系図を掲げてイエスの家系を提示するだけで、このようなユダヤ人の家系にお生まれになったイエスが、そのユダヤ教社会でどのようにお育ちになり、「およそ三十歳」になって活動をお始めになるまで、どのように生きてこられたのかには触れていません。ルカだけでなく、どの福音書もみな、イエスの容貌などの身体的特徴、受けた教育、経歴、職業、家族、社会環境など、人間的な側面にはほとんど触れていません。このような面については、福音を提示するさいに必要なごく僅かの情報を断片的に伝えるだけです。しかし、わたしたちは少しでも正確に、そして深くイエスの使信と働きを理解するために、イエスのこのような面についても、できるだけ詳しく知りたいと願います。現在では、イエスの時代のユダヤ教社会についての知見は増し加わり、研究も進んでいます。それらを駆使して「イエスの生い立ち」を記述するならば、それだけで一冊の著作が必要です。ここでは、これから福音書を読む上で必要で有益と考えられる最小限のことに触れておきたいと思います。詳しいことは、必要があるときに、その都度触れることにします。
 イエスは、ユダヤ教社会では「ナザレのイエス」として知られていました。両親のヨセフとマリアは、ガリラヤの小さな村ナザレの住人であり、イエスはナザレでお育ちになり、三十歳の頃に「ガリラヤのナザレから来て」洗礼者ヨハネからバプテスマをお受けになるまでは(マルコ一・九)、ナザレとその近辺のガリラヤで人生を過ごされました。後に見るように、イエスの「神の国」宣教の主要な舞台もガリラヤです。したがって、ガリラヤのユダヤ教社会を正確に知ることは重要です。同じユダヤ教社会と言っても、ガリラヤはエルサレムを中核とする南部のユダヤとは、様々な点で違っています。イエスのガリラヤでの伝道活動に入る前に、ガリラヤという地域の歴史と社会についてその概要を簡単にスケッチして、イエスの生い立ちの背景とその活動の舞台を見ておきましょう。

当時のガリラヤの状況を知るための基本的な資料は、この時代に生きた歴史家ヨセフスの著作です。それを用いて、イエスの生涯と活動の舞台となった社会状況について解説した著作は多くありますが、たいていパレスチナ全般の社会と歴史を扱っており、ガリラヤの特殊な状況を詳しく研究し解説した文献は少なく、とくに日本語の文献は皆無でした。ところが最近ガリラヤに関してよくまとめた研究書が出ましたので、ガリラヤの状況についての詳細はそれを参照してくださるよう、紹介しておきます。この著作も、当然ヨセフスに依存していますが、最近の考古学上の発掘の成果や研究もよく取り入れています。
山口雅弘『イエス誕生の夜明け ― ガリラヤの歴史と人々』(2002年、日本キリスト教団出版局) 本講解では「山口『ガリラヤ』」と略記


ガリラヤの歴史

東方諸帝国の支配とガリラヤ

 ガリラヤは、モーセに率いられてエジプトを脱出した十二部族の一部がその地を得て住みました。その後、イスラエルの十二部族がダビデ王の下に統一されて王国を形成し、ガリラヤもその王国の一部となります。ところがダビデの王国は、次のソロモン王の後すぐに分裂して北王国イスラエルと南王国ユダヤに分かれます。ガリラヤは北王国の一部として、南王国のダビデ王朝に対立するようになり、同じイスラエルの宗教的伝統を持ちながら、南王国のユダヤとは別の歴史をたどることになります。
 北王国イスラエルは、北から勢力を伸ばしてきたアッシリアに征服されて滅びます(前七二二年)。そのさい、首都のサマリアが陥落する前にガリラヤはすでにアッシリアの属州として編入されていたので、首都サマリア陥落後、首都を中心として編成された属州とは違った扱いをうけることになります。北王国南部のサマリアにはアッシリアは住民混合政策をとり、外から移住させた五つの異民族をサマリアに定住させてイスラエルの民と融合させます。ところが、北部村落社会のガリラヤには住民混合政策をとった痕跡がなく、ガリラヤは北王国イスラエルの宗教的・文化的伝統を比較的よく守りながら村社会の生活様式を維持します。
 その後、南王国ユダヤもバビロニアに滅ぼされます(前五八六年)。しかし、バビロニアを滅ぼしたペルシャ王クロスから帰還の許可を得て、エルサレムに神殿を再建します。そのさい、サマリアが神殿再建を妨害したとして、ユダヤとサマリアは仇敵の間柄になります。こうして、ガリラヤとサマリアとユダヤは、それぞれ違う歴史をたどりながら、ペルシャの支配下に暮らすことになります。

ヘレニズムの波とガリラヤ

 ところが、マケドニアの若き将軍アレクサンドロスがペルシャに打ち勝ち、地中海からインドにおよぶ広大な帝国を打ち立てます(前三三〇年)。アレクサンドロスの死後帝国は四つに分裂しますが、イスラエルの民が暮らすパレスチナは、交通の要衝として戦略的に重要な位置をもつことから、南のエジプトを支配したプトレマイオス王朝と北のシリアを支配したセレウコス王朝の間の勢力争いの地となり、激しい戦いがこの地を戦場として繰り返され、交互の支配を受けることになります。ガリラヤも(サマリアやユダヤと共に)、前二〇〇年頃までは南のプトレマイオス王朝に支配され、それ以後は北のセレウコス王朝に支配されます。いずれにせよ外国王朝の支配は、ガリラヤの農民には重税を課せられる過酷なものとなります。
 この時期の歴史にとって重要なことは、政治・経済的な状況よりも、アレクサンドロスから始まる世界のギリシア化の流れです。ギリシア文化の信奉者であるアレクサンドロスは、征服した地域にギリシア風の文化と生活様式を持ち込み、地元の伝統的な宗教や文化と融合させようとします。この傾向また風潮は、アレクサンドロス亡き後も後継の王朝によって推し進められ、被征服各地はギリシア化の波にさらされることになります。ガリラヤを含むパレスチナも例外ではありませんでした。このようにギリシア化された地域と時代を、歴史家は「ヘレニズム世界」とか「ヘレニズム時代」と呼んでいます。「ヘレニズム」とは、ヘレネス化(=ギリシア化)された文化とか世界という意味です。
 この時代の大きな事件は、前二〇〇年以降パレスチナを支配したセレウコス王朝が、過激なギリシア化政策をとって、エルサレムに再建された神殿を中心にして形成されたユダヤ教を弾圧したため、熱烈なユダヤ教徒が蜂起して独立戦争が起こったことです。この「マカバイ戦争」で、ついにハスモン家の一族に率いられたユダヤ教徒が勝利し、神殿を解放し、セレウコス王朝の支配を脱して独立します(前一六四年)。その後ユダヤは、ハスモン家の一族が世襲する、王としての権力をもった大祭司に統治される独立の宗教国家となります。この宗教国家を統治した王朝を、「ハスモン王朝」と呼び、この王朝が支配した時代を「ハスモン時代」と呼びます。この時代は、パレスチナが前六三年にローマの支配下に陥るまで続きます。
 このハスモン時代の初期には、ガリラヤは(北イスラエルの宗教的伝統を維持する勢力もわずかに残っていたでしょうが)長年の異教諸王朝の支配下にあって浸透した異教文化と、最近押し寄せてきたヘレニズムの波に押し流されて、ハスモン王朝下の南のユダヤのように熱烈なユダヤ教一色の社会ではありませんでした。それで南のユダヤ教側からは、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。
 ところがハスモン時代に、ガリラヤは南のユダヤ教神殿国家体制に徐々に組み込まれていきます。ハスモン王朝は、軍事力を保有する宗教国家であり、大祭司ヨハネ・ヒルカノス一世(在位前一三四〜一〇四年)は、強大な軍事力を用いて、南はイドマヤ、ネゲブから、北はサマリアまで支配領域を広げます。アリストブロス一世(在位一〇四〜一〇三年)の時には、ガリラヤもハスモン家支配の地として扱われるようになります。ハスモン時代中期には、ユダヤ教宗教国家はダビデの国をしのぐ大きな領土国家となります。
 新しい地域に支配を広げたハスモン王朝は、土地の住民に割礼を強制してユダヤ教化し、エルサレムの神殿宗教国家体制に組み込んでいきます。このハスモン王朝の支配下に入ることによって、ガリラヤはユダヤ教徒が住む地域としての色彩を濃くしていきます。このように、イエスの時代においても、ガリラヤはユダヤ教の地になってから百年ぐらいしか経っていません。このような歴史的経緯からも分かるように、ユダヤ教の本拠地であるエルサレムとそこのユダヤ教指導層からは、ガリラヤはユダヤ教の辺境の地と見られ、なお「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、「ガリラヤから預言者が出ることはない」(ヨハネ七・五二)とさげすまれていました。

ローマとヘロデ家支配下のガリラヤ

 一〇〇年ほど続いたハスモン王朝の支配も、前六三年のローマの将軍ポンペイウスの侵攻以来傾き始め、ローマの傀儡政権としてようやくその地位を保ちます。その間、イドマヤ出身のヘロデ家のアンティパトロスは軍隊の実権を握り、暴動の鎮圧に功績を挙げ、カエサルに協力して認められ、カエサルからユダヤ州の総督に任じられます。彼はユダヤ州を分けて五人の息子たちに治安を担当させます。ガリラヤを担当したのが次男で、後に大王と呼ばれることになるヘロデです。ヘロデはその巧妙な軍事作戦で、ガリラヤで頻発する「盗賊集団」《レースタイ》を鎮圧し、ハスモン家の対抗勢力を打ち破ります。ここで「盗賊」《レースタイ》というのは、ローマやヘロデの過酷な支配に抵抗する宗教的・民族的武闘集団をローマ側から呼んだ名称です。
 ところが、反ローマのパルティア人の支援を受けて、ハスモン家のアンティゴノスがエルサレムを占領し、ローマの支配を排除して王と大祭司の地位に就きます。ヘロデはローマに逃れ、ローマ支配層に取り入って、元老院から「ユダヤの王」の称号を得ます(前四〇年)。パレスチナに戻ったヘロデは、ガリラヤで激しい抵抗を受けますが、ついに全ガリラヤを制圧し、エルサレムに上り、ローマ軍の支援を受けてアンティゴノスを打ち破り、パレスチナ全土の支配者となります(前三七年)。こうしてヘロデ王朝が始まります。
 ヘロデはローマの「同盟王」として、軍事力を強化して、その強権支配によって政治的安定を図ります。とくに若いときから騒乱に苦しめられたガリラヤには、要塞を強化するなど軍事支配を強化します。イドマヤ出身のヘロデは、ユダヤ教徒からは半ユダヤ人としてあまりよい感情をもたれていなかったので、ユダヤ教徒を懐柔するためにエルサレム神殿を再建する事業を始めます(前二〇年頃)。ヘロデは建築好きで、各地に多くの壮大な建造物を残しています。ヘロデは本質的にはヘレニズム信奉者であり、彼の建築事業にはギリシア風の都市や建築物が多く見られます。サマリアを再建して「セバステ」とし、カイサリアを建設してローマ皇帝に捧げるなどしています。しかし、農業地帯のガリラヤにはそのようなギリシア風の大きな建設事業は見られません。
 贅沢な宮殿、ローマ高官への贈り物、強大な軍事力を維持するための経費、マニア的な建築事業に要する莫大な費用など、すべての経費は農民たちから吸い上げられる税金でまかなわれます。ガリラヤの農民が重税で苦しんだことは十分推察できます。
 ヘロデの支配が残酷で過酷であったことは有名です。密告を奨励して警察国家体制を強化し、少しでも抵抗する者、その疑いのある者を容赦なく投獄処刑しました。とくに晩年は猜疑心が強くなり、すこしでも自分の権力を危うくする疑いのある者は、妻や息子でも処刑しました。このヘロデの最晩年にイエスがお生まれになります。
 ヘロデの没後(前四年)、彼の王国は彼の三人の息子に分けられて統治されます。南のユダヤ・サマリア・イドマヤはアルケラオスに、ガリラヤ湖の北と東の北方はフィリッポスに、そしてガリラヤとペレアはアンティパスに委ねられます。フィリッポスの統治は比較的安定し三四年まで続きますが、アルケラオスは悪政のゆえに追放されます(六年)。この年、ユダヤはローマ帝国の属州として編入され、ローマ総督が直接統治するようになります。
 ガリラヤを支配したヘロデ・アンティパスは、建設事業に力を注ぎます。反乱の砦となったためにローマ軍によって焼き払われたセッフォリス(ナザレから北6キロ)を立派なヘレニズム都市に再建します。さらに、ガリラヤ湖畔に大きなヘレニズム風の都市を建設し、時の皇帝ティベリウスに捧げて「ティベリアス」と名付け、ガリラヤの首都とします(二〇年頃)。このような建設事業はイエスの若いときの時期と重なります。
 ヘロデ・アンティパスは、東隣のナバテア国の王女を妻としますが、この妻を離縁して兄弟の妻であるヘロディアと結婚します(この結婚が洗礼者ヨハネによって厳しく批判されます)。怒ったナバテア国王から挑まれた戦いに敗れ(三六年)、甥のヘロデ・アグリッパ一世との抗争にも敗れ、三九年にはガイウス帝によってガリアに流刑されます。このヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネを処刑し、イエスの裁判にも関わるなど、領主としてイエスの生涯に深く関わります。福音書(三・一、一三・三一)に「ヘロデ」として名指される領主は、このヘロデ・アンティパスです。


ガリラヤの社会

 ガリラヤの歴史をたどってイエスの時代まで来ましたので、ここでこの時代(一世紀前半)のガリラヤ社会の状況を見ておきたいと思います。この時期のガリラヤの社会こそ、イエスが生まれ育たれた環境であり、宣教活動をされた舞台ですから、それを少しでも正確に知ることは必要であり、有益です。

「ガリラヤ人」

 そもそもガリラヤに住んでいた人たちは、どのような人たちだったのでしょうか。先に「歴史」のところで見たように、北イスラエル王国の宗教的伝統を受け継ぐ農民たちが残っていたことは推察されます。しかし、周囲を異邦諸民族に囲まれ、長年異民族支配下にあり、ある程度の民族混淆があったことは事実でしょう。ただ、サマリアのようなアッシリアによる強制的な民族混淆政策を免れたことから、北イスラエルの宗教的伝統は比較的よく維持されていたと考えられます。「異邦人のガリラヤ」という呼び方は、南のユダヤのユダヤ教から見て、ユダヤ教が支配的でない地域のガリラヤに対する蔑称であり、異邦人だけの居住地という意味ではありません。
 ハスモン時代初期には、ガリラヤは異民族の支配下にありましたが、それでもユダヤのユダヤ教徒たちはガリラヤには自分たちの「同胞」がいるとして、「同胞」の救出に軍隊を送っています(マカバイT五章)。ハスモン時代中期には、ガリラヤもハスモン王朝の支配下に組み込まれ、ユダヤ教体制が浸透していきます。この時期以降は南のユダヤ教徒がガリラヤに移住してくるようになり、ユダヤ教の地域としての色彩が強くなります。イエスの家系もユダヤからの移民であった可能性があります(後述)。
 こうして、この時代のガリラヤには、ユダヤ人と非ユダヤ人が住んでいましたが、住民の多くはユダヤ人であり、イエスもその弟子たちもユダヤ人です。しかし、南のユダヤ(実際にはエルサレム)では、イエスは「ガリラヤ人」と呼ばれ(二三・六、協会訳のマタイ二六・六九)、弟子たちも「ガリラヤ人」と呼ばれています(二二・五九、使徒二・七)。また、ガリラヤの住民一般を指す場合もあります(一三・一〜二)。このような呼び方は、イエスや弟子たちはユダヤ人でありながら、ユダヤ教の本拠地エルサレムでは、特殊な地域的傾向をもつユダヤ教徒として、やや差別的に見られていたことを示唆しています。

ガリラヤの都市と農村

 ほとんどの古代社会と同じく、ガリラヤの社会も都市と農村という二つの性格の違う社会から成り立っています。ガリラヤには大規模の都市はなく、せいぜいセッフォリスとティベリアスが二万四〇〇〇人程度の都市であったと推定されています。ヨセフスは、他にガバラという都市があったこと、また「ガリラヤには二四〇の都市と村がある」と報告しています。カファルナウム、ナザレ、カナ、ナインなどは、新約聖書で町とか村とか呼ばれていますが、カファルナウムで約一〇〇〇人、他は五〇〇人程度の農村です。当時のガリラヤの総人口は一五万人ほどではなかったかと推定されています。ガリラヤは、一部ガリラヤ湖の漁業(実際は半農半漁)で生計を立てる人もいますが、地域全体としては農業地域であるといえます。
 都市は周辺地域を支配するための拠点です。都市には支配階級(=領主や地主など貴族階級)、軍隊や徴税を担当する人たちが住んでいます。都市はまた、地域の経済活動の拠点でもあります。生活用品を生産する職人や、地域の産物を流通させる商人たちが活動しています。人口からすれば、支配層や富裕層に仕える使用人や、下積みの労働者が多かったことでしょう。また、都市はヘレニズム文化の拠点です。都市はギリシア風の宮殿、劇場、浴場、図書館などの建造物を持ち、そこでギリシア風の文化活動や生活が営まれます。都市の住民の多くはギリシア語を話したと考えられます。
 それに対して、農村は古くからの伝統的な宗教と生活様式を守り、昔からの地域の言語であるアラム語で暮らしています。ガリラヤの農村(漁村も含む)で生まれ育ったイエスとその弟子たちは、アラム語を話したことは確実ですが、ギリシア語を話したかどうかは確認できません。生活の必要上、また都市のギリシア語階層との接触から、ある程度のギリシア語を使った可能性はありますが、日常はギリシア語ではなくアラム語で生活する人たちであったはずです。
 農村で注目すべきは、地主と小作農民の関係です。イスラエルの民はもともと先祖から受け継いだ土地を耕し、自給自足で暮らす自営農民です。しかし、貨幣経済の流れの中で農産物が商品化されるようになり、干魃などの自然災害や戦争や厳しい租税のため貧窮した農民は、都市の富裕階級から金を借り、返済できない場合は土地を手放して小作人になります。ガリラヤでは、時代と共に農民の小作人化が進んだようです。小作人は、収穫の一定割合を地主に納めましたが、その割合は三分の一から二分の一に及んだとされています。
 このような地主と小作人の関係は、福音書のたとえ話にも用いられています(マルコ一二・一〜一二)。この「ぶどう園と農夫」のたとえで、不在地主から派遣されて収穫を取り立てる僕たちを農夫(小作人)が殴ったり殺したりしたという話は、実際の小作人の抵抗や暴動を下敷きにしていると見られます。
 自営農民や小作農民は、不足する収入を補うために季節労働者とか日雇いとして出稼ぎに行きます。日雇い労働者のことは、福音書の「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ二〇・一〜一六)に描かれています。その他、農村には零細な職人や行商人たちが一緒に暮らしていました。そのような下層の人たちの中で、負債のために奴隷となった人たちもいました。奴隷はおもに都市の富裕階層の生産活動や家事のために厳しい労働を強いられました。本来奴隷はいないはずのイスラエルの社会に奴隷がいた事実は、モーセ律法の中に奴隷を人道的に扱うように求める規定が、時代と共に多くなっていった事実が雄弁に物語っています。
 それから、これはガリラヤ社会特有のことではありませんが、どの古代社会でもそうであるように、ガリラヤの女性たちは男性に従属する存在でした。ここで女性の社会的立場を詳しく描くことはできませんが、ガリラヤも一世紀のローマ社会の父権制社会であったことを指摘するにとどめます。
 農村は、都市の支配階級によって徴収される小作料や各種の税金によって都市の生活と活動を支えます。都市の支配階級による収奪や強権的な徴税に対して、また古くからの宗教的伝統文化を否定するようなギリシア文化で繁栄する都市に対して、農村は敵意とか憎悪の感情を潜在させていたと考えられます。ヘロデ家とローマの支配が強くなり、横暴になるに従い、ガリラヤは抵抗と武装蜂起の温床となっていきます。

ガリラヤにおけるユダヤ教

 ユダヤ教における神礼拝は、ヨシヤ王の宗教改革以来、エルサレムの神殿だけで行われます。ガリラヤのユダヤ教徒は、年三回の巡礼祭でエルサレム神殿に詣でることでイスラエルの神ヤハウェを礼拝することになりますが、巡礼は大変な負担ですから、ガリラヤのユダヤ教徒が皆、忠実に年三回巡礼に出かけたのではないでしょう。ユダヤ教徒としての日常の生活は、会堂(シナゴーグ)を拠点にして行われていました。
 ユダヤ教徒の生活は、とくに農村においては、会堂を中心に営まれました。どの村にも会堂があり、村人は安息日には会堂に集まり、聖書朗読や、ラビによる聖書解説と説教、祈り(多くは定められた祈祷文の朗唱)などの宗教行事が行われました。しかし、会堂はユダヤ教の宗教行事だけではなく、子供たちに言語や宗教(聖書)を教える教育活動、村の様々な相談事をする場所として、日常生活の中心でした。ときには律法違反行為に対する裁判や懲罰(交わりの停止や鞭打ちなど)を行うなど裁判所の役目も果たしました。会堂は、古来の宗教伝統を維持し、押し寄せるヘレニズム文化に対するユダヤ教の砦としての役割も果たします。
 会堂には、会堂を管理し、そこでの集会を司る「会堂司」がいました。また村の長老たちによって構成される「長老会」が必要に応じて招集され、重要な事柄の決定に当たりました。会堂が宗教行事だけでなく、地域の生活全般にわたる活動拠点であったため、会堂にはユダヤ教徒だけでなく、地域の非ユダヤ教徒も集まっていたと見られる(考古学的)痕跡があります。ガリラヤの農村では、ユダヤ人と非ユダヤ人が、生産や日常生活を共にしていたことがラビ文書にも示されているということです。

会堂(シュナゴーグ)について詳しくは、E・ローゼ著『新約聖書の周辺世界』(加山宏路・加山久夫訳、日本基督教団出版部)195頁以下の「3 シナゴーグ」の項がよくまとめています。なお、『旧約新約・聖書大辞典』(教文館)の「会堂」の項には、詳しい解説だけでなく、会堂建築の見取り図やカファルナウムの会堂遺跡の写真、復元図などもあり、当時の会堂の様子を知る上でよい参考になります。

 ところで、会堂でユダヤ教(=律法)を教えたのは律法学者(ラビ)たちですが、彼らはおもにファリサイ派の律法学者であったと見られます。ガリラヤには神殿はないのですから、サドカイ派の祭司階級はいなかったでしょう。ファリサイ派はもともと神殿の外での日常生活の中で「清さ」を追求する運動ですから、神殿のないガリラヤで支配的になることは自然です。エッセネ派の影響がどの程度ガリラヤに及んでいたかは分かりません。とにかくガリラヤではファリサイ派のユダヤ教が支配的であったと見られます。それで、ガリラヤは有力な律法学者を輩出することになります。たとえば、エルサレム神殿崩壊後のユダヤ教を再建したラビのヨハナン・ベン・ザッカイはガリラヤ出身です。また、エルサレムがローマによって破壊占領された後に、律法学者たちはガリラヤに集まり、そこに学院を建て、ミシュナを編纂し、後にはエルサレム・タルムードを生み出します。こうして、ガリラヤは後のラビ・ユダヤ教の揺籃の地となります。ガリラヤのファリサイ派ユダヤ教は、イエスの生い立ちと宣教活動の両面で最も重要なコンテクスト(背景)となります。

ガリラヤ人の抵抗運動

 ガリラヤは農業地帯といっても、北部ガリラヤと南部ガリラヤではかなり事情が違います。南部は比較的肥沃な平野や丘陵地帯が多い地域ですが、北部は山岳地帯が多く、山腹の洞窟などは武装抵抗集団の格好の拠点となりました。もともとガリラヤ人は北イスラエルの宗教的伝統に育まれ、ヤハウェだけを拝み、異教徒の支配に抵抗してきた体質を受け継いでいて、ローマとヘロデ家の支配に対しては果敢に抵抗しました。ヨセフスは、ガリラヤ人の勇敢さ、自由への愛、律法への熱心を賞賛し、同時にこのような武装蜂起の抵抗集団を鎮圧するためのローマ軍やヘロデ軍とのガリラヤでの激しい戦いを数多く報告しています。「洞窟の抵抗者たち」は、「捕虜よりも死を」と叫んで激しく抵抗し、最後には全滅していったと伝えられています。
 このようなガリラヤ人の抵抗運動の中でとくに注目される一例をあげますと、六年にアルケラオスが追放され、ユダヤがローマ総督の直轄領となったときに行われた徴税のための人口調査に反対して、「ガリラヤのユダ」が蜂起しました(使徒五・三七)。彼はローマに税を納めることは、神の主権を侵害し、第一戒への違反だとしてローマへの納税を拒否するように呼びかけ、抵抗運動を組織します。ユダの抵抗運動は、人口調査が行われたユダヤにおける運動であり、ガリラヤで行われたのではありませんが、「ガリラヤ人ユダ」と呼ばれているように、彼の思想はガリラヤの抵抗運動の中から生まれたものであり、ガリラヤ的な性格を示しています。
 彼は単なる革命的な軍事指揮者ではありません。ファリサイ派の律法学者であり、彼の思想はファリサイ派の中の過激派と見ることができます。彼も、終末的な神の力によるイスラエルの解放が近いことを唱え、信仰によって立ち上がるように説き、民を反ローマの運動に糾合しました。それで、彼の宗教的立場や思想をヨセフスはユダヤ教の一派として扱い、(サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派と並ぶ)「第四哲学」と呼んでいます。このユダの思想と実践によって統合され進展した運動の担い手たちを「熱心党」《ゼーロータイ》といいます。この呼称はユダヤ戦争の時から用いるべきだとする反対論もありますが、ヘンゲルが詳細に論証したように、「ガリラヤ人ユダ」から始まる、この時代のユダヤ教の一派を形成した宗教運動を指す呼称として用いてよいでしょう。イエスの時代は、この「熱心党」がますます影響力を強め、ユダヤ戦争の破局に向かっていく時代であったことになります。

「ガリラヤのユダ」と「熱心党」《ゼーロータイ》については、M・ヘンゲル『ゼーロータイ ― 紀元後一世紀のユダヤ教「熱心党」』(大庭昭博訳、新地書房)を参照してください。先に紹介した山口『ガリラヤ』は、ガリラヤにおける抵抗運動を、抑圧搾取された農民や下層の人たちが支配階級に対して起こした社会的抵抗運動という面から見る傾向がありますが、ヘンゲルがこの大著で詳しく論証しているように、彼らの抵抗運動の本質は終末的な信仰運動です。もっとも、社会的な抑圧に対する抵抗という土壌がなければ、信仰から出る運動も現実の力にはならないといえますが、彼らの抵抗運動の本質を見誤ってはなりません。