市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第8講

イエスの登場

14 イエス、バプテスマを受ける(3章21〜22節)

イエスに聖霊が降る

 21 民衆が皆バプテスマを受け、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(三・二一〜二二)

 ここからイエスが舞台に登場されます。イエスという名をあげるだけで、読者には周知のあの方、そしてますます詳しく知りたいと熱い視線を向けているあの方が指し示されています。ルカはすでに一〜二章の誕生物語でイエスの出生と育ちの一端を語っていますが、ここに登場されるイエスは、その物語がなくても読者が「あの方だ」と知っているイエスです。それは、誕生物語のないマルコ福音書やヨハネ福音書がここからイエスの物語を始めていることからも分かります。
 この一段でルカが言いたいことは、イエスの働きはすべて神の霊をお受けになったところから始まるのだということです。民衆は皆、差し迫っている神の裁きの日に備えて、罪の赦しに至らせる悔い改めのバプテスマをヨハネから受けていましたが、イエスだけはバプテスマをお受けになったときに、神の霊、聖霊を受けられたのです。この事実が、イエスをイエスならしめるのです。これはどの福音書も同じですが、ここでルカ特有の伝え方に見られる特徴を見ておきます。

ルカの記事の特徴

 まずルカの記事には洗礼者ヨハネが出てきません。イエスはヨハネによってバプテスマをお受けになったことは当然の事実ですが、ルカはヨハネがイエスにバプテスマを授けたとは言わず、イエスは民衆の間に交じってバプテスマを受けている一人のように描き、「民衆が皆バプテスマを受け、イエスもまたバプテスマを受けて」と言うだけです。
 実際の出来事の順序としては、イエスはヨハネからバプテスマをお受けになったのであり、洗礼者ヨハネはイエスにバプテスマを授けた後に投獄されたとしなければなりません。ところがルカは、先に見たように、洗礼者ヨハネ投獄の記事を先に置いて、イエスのバプテスマよりも前に洗礼者ヨハネを舞台から退場させ、イエスのバプテスマの場面にヨハネを登場させません。これは、イエスがヨハネからバプテスマを受けたという事実を述べることを避けるためであると考えられます。
 イエスがヨハネからバプテスマを受けた事実は、時が経つと共にイエスをキリストと言い表す信仰共同体《エクレーシア》には重荷になってきていたと見られます。洗礼者ヨハネをメシヤと仰ぐユダヤ教徒共同体との競合関係に立つようになったとき、イエスはヨハネからバプテスマを受けたのであるからヨハネの弟子であり、ヨハネこそメシヤであるとする洗礼者ヨハネの教団の主張に対抗するため、イエスがヨハネからバプテスマを受けた事実に触れることを避ける傾向が出てきます。
 最初の福音書マルコ(一・九)は、率直にイエスがヨハネからバプテスマをお受けになったことを伝えていますが、後になるほどこの事実を避ける傾向が見られます。マタイ(三・一三)はマルコを忠実に継承し、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった事実を伝えていますが、本来はヨハネがイエスからバプテスマを受ける立場であることをヨハネ自身が認めているという文章を入れて、イエスの優位を主張しています(三・一四〜一五)。
 ルカはここで見たように、先にヨハネを退場させることで、この問題を回避しています。ヨハネ福音書になると、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった事実そのものが語られなくなります。そして、ヨハネは水でバプテスマしたが、イエスは聖霊によってバプテスマする方であることが、ますます強調されるようになります。
 次に、聖霊が鳩のようにイエスに降ったという描写は四福音書に共通しています。マルコ、マタイ、ヨハネの三福音書はただ「鳩のように」というだけですが、ルカは「鳩のように目に見える姿で」という表現を用いています。イスラエルの宗教的伝統には霊を鳩で象徴することはないと言われており、この「鳩のように」は霊の形ではなく、霊が降るときの波動を体験することが、鳩の羽音にたとえられて語られているのだとわたしは理解しています。しかし、時代が降るほど霊的体験を肉体的表現で具体的に描く傾向が出てきます。たとえば復活者との遭遇体験を食事を共にするという肉体的行動で描くようになります。この傾向はルカが一番強いようです。ここでもルカだけが、「鳩のように身体的な形で」(直訳)というように、明らかに霊の形のこととして描いています。

「鳩のように」という比喩については、拙著『マルコ福音書講解T』38頁の「聖霊降臨」の項を参照してください。

 イエスが聖霊をお受けになった時に、天からの声が言った言葉については、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というマルコの表現を、ルカはそのまま引き継いでいます。マタイは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、三人称に変えています。ヨハネ福音書は、イエスに聖霊が降ったのを見た洗礼者ヨハネに、イエスが神の子であることを証言させています。

イエスの召命体験

 イエスに聖霊が降ったとき、イエスは「あなたこそわたしの子、愛される者。わたしはあなたを喜ぶ」(直訳)という天からの声を聴かれます。これは、イザヤの書にある「主の僕」の詩の冒頭の言葉です(イザヤ四二・一)。この預言者の言葉は、ヘブライ語原語では「見よ、わたしの僕」で始まっています。この「僕」《エベド》の召命と働き、またその苦難を語る詩が第二イザヤ(イザヤ書四〇〜五五章)に四カ所ありますが、ここはその最初の行になります。イエスは、この天からの声により、聖書に預言されている「主の僕」を成就する者として召されていることを自覚されたことが、この記事からうかがえます。同時に、イエスはこの語りかけの中に、自分を子と呼びかける父の声を聞き取られたことが、この後のイエスの言行からうかがえます。イエスの子としての自覚については、すぐ後に出てくる「荒れ野での試み」(四・一〜一三)の段落で詳しく扱うことになります。

この《エベド》は七十人訳ギリシャ語聖書では《パイス》となっています。マタイ(一二・八〜二一)は、この「主の僕」の詩を引用するとき《パイス》を用いています。ところが、このギリシア語は、「僕」と同時に「子」を意味します。それで、イエスを神の子《フィオス》と宣べ伝えた最初期の宣教は、イエスの召命を語るこの箇所を「息子」を意味する《フィオス》に変えて引用したと推察されます。しかし、最初期の共同体がイエスをイザヤ書の「主の僕」の詩を成就する方と理解したことは事実であり、この理解は何らかの形でイエスご自身の自覚から出たものとしなければなりません。詳しくは、拙著『マルコ福音書講解T』41頁の「御言体験」の項を参照してください。

 マルコは、この出来事(イエスに聖霊が降った出来事)が起こった時のことを、「天は裂け」という激しい語で表現しています。これは、イザヤ(六四・一)が「どうか、あなたが天を裂いて下ってくださいますように」と祈った、新しい時代、終末の時の到来を告知する表現です。ルカはこれを「天が開け」という一般的な表現に変えていますが、この句が終末の到来を象徴する表現であることを聞き逃してはなりません。「天」は、新約聖書においてはしばしば、空間的に地に対立するものではなく、地上の時間に対して終末の永遠を象徴する語です。この時、終末が地に突入してきたのです。イエスは、終わりの時に現れる「主の僕」として召され、その召しに従って生涯を貫かれた方です。
 マルコはイエスの召命体験をイエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった時の出来事としています。マタイとルカもそれに従っていますが、事実はそう単純ではなかったのではないかと推察させる記事がヨハネ福音書にあります。
 先にも触れたように、ヨハネ福音書にはイエスがヨハネからバプテスマをお受けになったことを語る記事はありません。したがって、バプテスマをお受けになったときに聖霊が降ったという記事もありません。イエスがいつ聖霊をお受けになったかについては何も説明していません。ただ、洗礼者ヨハネが「わたしは御霊が鳩のように天から降り、この方の上に留まるのを見た」と証言したことを伝えています。この証言から、イエスが聖霊をお受けになったのは、イエスがヨハネのもとにおられた時期であるということは分かります。ヨハネからバプテスマを受けて、ヨハネと共にバプテスマ運動に加わっておられた時期に(このような時期があったことはヨハネ福音書だけが伝えています)、しばしば荒れ野で一人祈り、その深い祈りの中で聖霊を受け、「主の僕」として召される父の声を聴かれたのではないかと推察されます。イエスご自身から出たこの召命体験の(おそらく断片的な)証言が、後に伝承の過程で単純な形にまとめられて現在のマルコ福音書のような形の物語になったのではないかと考えられます。
 イエスの実際の姿を探求しようとするとき、おもにマルコ福音書とそれに基づく共観福音書だけが資料とされ、ヨハネ福音書はあまりにも霊的・神学的議論に集中していて歴史的資料としては価値がないとして排除されがちですが、子細に検討すると歴史的事実についてはヨハネ福音書の方が信頼できると判断せざるをえない場合が多くあります。かえってマルコ福音書の方が、自分の神学的構想によってイエスの生涯の事実を単純な枠組みの中に押し込んでいると考えられます。このことは、これからもイエスの御生涯を追求するさいに、しばしば取り上げることになります。

マルコ福音書のイエス受洗の記事は、死者からの復活によって神の子として立てられたイエスの告知と重なっており、地上のイエスを物語ることによって復活されたイエスを告知するという二重性の端緒となっていることについては、拙著『マルコ福音書講解U』340頁の終章の中の「復活者イエスの登場」の項を参照してください。