市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第7講

第一章 洗礼者ヨハネとイエスの登場

       ―― ルカ福音書 三章 〜 四章(一三節) ――


洗礼者ヨハネのバプテスマ運動

13 洗礼者ヨハネ、教えを宣べる(3章 1〜20節)

 講解は三章から始めますが、段落の通し番号は一章から数えますので、新共同訳の段落に一章から番号を振ると、この段落の番号は13 となります。

洗礼者ヨハネ登場の時代背景

 イエスが公の舞台に登場されるのは、洗礼者ヨハネのバプテスマ運動の中からです。それで、イエスの宣教とその働きを語り伝える福音書は、洗礼者ヨハネの登場から始まるのが基本的なパターンです。ルカの著述も、マルコ福音書と同じく、もともとは洗礼者ヨハネの登場から始まっていたと考えられます。ただ、マルコ福音書が洗礼者ヨハネの登場を、あくまでイエスの先駆者としての意義だけに絞って簡潔に描いているのに対して、ルカは歴史家らしく、洗礼者ヨハネの活動の歴史的状況と、その宣教内容の実際をやや詳しく描きます。まず、歴史的状況から見ましょう。これはイエスの活動の歴史的状況でもありますから重要です。

 1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。(三・一〜二)

 ルカはこの著作をローマの高官テオフィロに献呈しています。それで、これから述べる出来事が、いつ、どこで起こったのかを、ローマの歴史の中に位置づけます。まず、それが皇帝ティベリウスの治世の時代の出来事であり、その発端が「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」であることを明示します。この年代の明示はルカだけが行っており、ルカの歴史家としての面をのぞかせています。
 ティベリウスは、ローマに皇帝制を導入し初代の皇帝となったアウグストゥスの後を継いで第二代の皇帝となり、紀元14年から37年までローマ帝国を統治します。その「治世の第十五年」は紀元28年か29年になります。この年は、洗礼者ヨハネの宣教活動の開始の年であると共に、イエスの登場の年でもありますから重要です。

「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」は、当時のローマ式計算法によると紀元28年か29年になりますが、ルカはシリア式計算法を用いている可能性があり(C・シュトゥールミュラー)、この計算法だと27年秋から28年秋の一年間を指すことになります。E・シュタウファーはイエスのバプテスマを28年2月頃と推定しています。

 ルカは続いて、この出来事が起こった場所とその政治状況を述べます。これから述べる洗礼者ヨハネの活動(とそれに続くナザレのイエスの活動)は、「ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」に起こったことだと、世界の歴史の中に位置づけます。
 ヘロデ大王が前四年に死去したとき、彼は支配領域を三つに分け、三人の息子に統治を委ねました。彼らはローマから「領主」の称号を与えられて、その統治を認められました。南のユダヤ・サマリア・イドゥメアを支配したアルケラオスは、領民を残酷に支配したので、民は皇帝に訴え、アウグストゥス帝は彼を解任します(六年)。それ以後、この地域はローマから派遣される総督が統治する総督直轄領になります。洗礼者ヨハネとイエスの時代の総督がポンティオ・ピラトです(二六〜三六年)。ピラトはユダヤ人やサマリア人の宗教感情を無視する統治をしたため、絶えず紛争を招き、最後にサマリア教徒虐殺の咎を問われて召還されます。
 ヘロデ大王の息子の一人ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレア(ヨルダン川東岸)を受け継ぎ、前四年から三九年まで統治します。洗礼者ヨハネとイエスの活動はこのヘロデ統治の地域と時期になりますので、深い関わりをもつことになります。
 同じくヘロデ大王の息子の一人(従ってヘロデ・アンティパスの兄弟)のフィリポがイトラヤとトラコン地方(ガリラヤ湖北東に広がる地域、現在のゴラン高原を含む)の領主となります。
 アビレネというのはフィリポの領地のさらに北に続く細長い地域ですが、その領主のリサニアについては正確なことは分かりません。また、この領主は福音書の出来事とほとんど関わりはありません。
 このような政治的な支配者よりも重要なのは、当時のユダヤ教共同体の宗教的指導者である大祭司です。政治的には三分割されていますが、以上の地域は、サマリアとアビレネを除いて、ユダヤ教徒が多数を占める地域です。ユダヤ教徒でないギリシア人もいましたが、この地域のユダヤ教徒共同体を統治する大祭司は王のような強大な権力をもち、その地位は絶えず争奪の的でした。大祭司は原則として一人ですが、この時期の大祭司としてアンナスとカイアファの二人の名があげられています。アンナスは六年から一五年まで大祭司職にありましたが、退いてからも絶大な権勢をふるい、五人の息子と孫までも大祭司の地位につけて背後から権力をふるいました。このようにアンナスによって操られる大祭司の一人で、洗礼者ヨハネとイエスの時代に大祭司職にあったのがカイアファ(アンナスの女婿、在位一八〜三六年)です。このような実情をルカは「アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」と伝えています。この二人の大祭司の関わりは、イエスの裁判の時に問題になります。

このように洗礼者ヨハネとイエスが活動した時代と地域の状況については、現在ではかなり詳しく分かってきていますが、それを詳述することはこの講解の限度を超えますので、ルカの記事を簡単に解説するにとどめます。詳しくは、E・ローゼ『新約聖書の周辺世界』(加山宏路・加山久夫訳、日本基督教団出版部)、H・ケスター『新しい新約聖書概説・上』(永田竹司訳、新地書房)などの解説書を参照してください。

洗礼者ヨハネとクムラン共同体

 ヨハネがバプテスマ活動を始めたのは、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」からです。ここでそれが「荒れ野」で起こったと言われていることを検討しておきます。
 荒れ野は、イスラエルの民がその神ヤハウェと遭遇し、ヤハウェから啓示を受け、ヤハウェの民として形成される場所でした。それはモーセに率いられてエジプトを脱出し、荒れ野を四十年間旅をした期間の物語に典型的に示されています。それだけでなく、イスラエルの預言者たちの多くは、荒れ野で神の啓示を受けたのでした。洗礼者ヨハネが啓示を受けたのも「荒れ野」においてです。
 このような一般的な啓示の場所としてだけでなく、洗礼者ヨハネの場合は特別な具体的意味があります。すでに誕生物語で洗礼者ヨハネの誕生のことを語った後、「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」と語られていました(一・八〇)。ルカはこの誕生物語の中に伝えられている伝承に従い、洗礼者ヨハネの召命を「荒れ野」で起こったこととします。では、この「荒れ野」とは具体的にはどのような場所、またはどのような環境を指しているのでしょうか。
 現在、多くの研究者がこの「荒れ野」とはクムランにあったエッセネ派の修道院的共同体ではないかと推察しています。エルサレムから東に下り死海に至る地域は荒涼とした荒れ野で、死海西北岸のクムランの山地には建造物の廃墟があり、それがエッセネ派のユダヤ教徒が共同生活を営んだ建物跡であると推定されています。その近辺の洞窟から多数の古文書の巻物や断片(死海文書)が発見され、その共同体の信仰や思想が明らかになりました。その内容からこの共同体が、エルサレム神殿の大祭司支配から離脱して荒れ野で共同生活をしたエッセネ派の共同体であると推定されるのですが、この見方は現在ではほぼ定説となっていると見てよいでしょう。
 祭司の子であるヨハネは、幼いときからこのクムラン共同体に預けられ、そこで育ったのではないかと推察されます。ヨハネの宣教と活動に、このクムラン共同体と深いつながりが見られるからです。洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ者の声」であり、イザヤ書四〇章三〜五節の預言を成就する者とされていますが(三・四〜六)、この預言はまさにエッセネ派の人たちがエルサレム神殿体制を批判して荒れ野に逃れたことを根拠づける預言の言葉でした。
 クムラン共同体が生み出した死海文書は、黙示思想的傾向が強く、終末審判の到来を熱く説いています。これは(すぐ後に見るように)洗礼者ヨハネの「差し迫った神の怒り」の説教と通じるものです。さらにヨハネは、この神の審判に備えて悔い改めるように説きましたが、その悔い改めをバプテスマで表現しました。バプテスマは水に浸される儀礼ですが、これはまさにクムラン共同体が罪の汚れを清めるために日々励み行っていた儀礼でした。クムランやエッセネ派が居住していたエルサレムのシオン地域には多くの水槽跡が発掘されています。
 洗礼者ヨハネはクムラン共同体の一員であったか、少なくともエッセネ派と深いつながりのある人物であったと見られますが、ヨハネが「荒れ野」で神の言葉を受けてバプテスマを授ける活動を始めたときには、エッセネ派の枠の外にいました。クムラン共同体のバプテスマはあくまで共同体内部の成員だけに繰り返し行われた汚れを清める儀礼ですが、ヨハネはイスラエルの民一般に悔い改めを呼びかけるために用いました。それでヨハネのバプテスマは、繰り返される儀礼ではなく、一回限りの告白行為となっています。ヨハネがクムラン共同体にいたときに神の言葉が降ったのか、またはヨハネがクムランの在り方に限界を感じて出て行った後、それが起こったのかは確認できません。とにかく、ヨハネはクムラン共同体から、あるいはエッセネ派の枠から出て、独立で、差し迫った終末到来の使信をイスラエルの民に広く宣べ伝えたと言えます。

洗礼者ヨハネの水によるバプテスマの宗教史的背景については、拙著『マルコ福音書講解T』24頁を参照してください。

洗礼者ヨハネのバプテスマ活動

 3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。 4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。5 谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」。(三・三〜六)

 神の言葉を受けたヨハネは、「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝え」ます。バプテスマは水に浸す儀礼ですから、水のあるところでしか行えません。ヨハネは特定の場所に水槽を造って、そこでバプテスマを授けるのではなく、広くイスラエルの全土に呼びかけるため「ヨルダン川沿いの地方一帯」に出て行ってバプテスマを宣べ伝えます。「荒れ野」には、呼びかける相手(聴衆)はいません。ヨハネがバプテスマを行った「ヨルダン川沿いの地方」について、ヨハネ福音書は「ヨルダン川の向こう側のベタニア」(一・二八)とか「サリムの近くのアイノン」(三・二三)というような地名をあげていますが、それがどこかは確認できません。

「サリムの近くのアイノン」という地名については、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』131頁を参照してください。

 ヨルダン川は北の山地から発してガリラヤ湖に注ぎ、ガリラヤ湖を出て南に流れて死海に注ぎます。ヨハネはその沿岸地方一帯でバプテスマを行います(洗礼者ヨハネの活動をユダヤ地方だけに限定することはできません)。ベトサイダの住人であるペトロたちは、ヨルダン川がガリラヤ湖に注ぐ場所の近くでヨハネからバプテスマを受けたのでしょう。イエスも同じ場所でバプテスマを受け、そこでペトロたちと会ったと推測する学者もいます(フルッサー47頁)。

ダヴィッド・フルッサーはウイーン生まれのユダヤ人で、プラハで西洋古典学を修め、22歳からエルサレムのヘブライ大学で長年教え、80歳のとき生涯の研究の集大成として英語版の Jesus をヘブライ大学から出版(改訂第二版1998年)。フルッサーはルカ福音書を歴史的にもっとも信頼できるとして用いています。本書はユダヤ教環境に生きたイエスの理解に多くの示唆を与えていますので参照することが多くなりますが、本稿ではその日本語訳、ダヴィッド・フルッサー『ユダヤ人イエス』(池田裕・毛利稔勝訳、教文館)を、「フルッサー」として引用・参照します。今の時代にユダヤ人の立場で「イエス」を書くことの意義は、本書の解説を参照してください。

 すでにマルコ(一・四)が、ヨハネのバプテスマを「罪の赦しへの(=赦しに至らせる)悔い改めのバプテスマ」と呼んでいます。ルカはそれを字句通りに引き継いで用いていますが、マタイ(三・二)はこのようなバプテスマの意義を説明する表現を用いないで、ただ「悔い改めよ。天の支配は近づいた」という告知の言葉だけにしています。おそらく、マタイは洗礼者ヨハネの活動を伝える「語録資料Q」の内容に忠実に従っているのに対し、ルカは「罪の赦し」を福音の中心とする立場(二四・四七)から、すでにマルコに見られるこの表現をそのまま受け継いだと見られます。
 洗礼者ヨハネの告知は、すぐ後に見るように、神の終末審判が迫っているというものでした。その裁きに備えて悔い改めることを求める説教でした。当然、悔い改めは神に受け入れられることを予想していますから、悔い改めは「罪の赦しのための」と表現することができます。このような洗礼者ヨハネの告知を「罪の赦しに至らせる悔い改め」と意義づけたのは、キリストの十字架を贖罪として告知した最初期のキリスト信仰の共同体であったと考えられます。すでにマルコがそれを用い、ルカは(マタイと同じく語録資料Qを用いて洗礼者ヨハネの本来の告知を伝えていますが)マルコの「罪の赦しに至らせる悔い改め」をそのまま引き継ぐことになります。
 共観福音書はみな洗礼者ヨハネのバプテスマ運動を預言の成就として、イザヤ書を引用しています。これは、洗礼者ヨハネの活動から始まるイエスの出現が、預言者が終わりの日に起こるとしたことの成就であるとする福音の基本的な使信の表現です。ただルカは、マルコが引用しているマラキ(三・一)の「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」という預言を省略しています。マルコ(九・九〜一三)とマタイ(一七・九〜一三)は、変容の山から下りるときにイエスと弟子たちの間で行われたエリヤに関する問答で、洗礼者ヨハネをメシヤ到来の前に現れると預言されていたエリヤであるとしているのに対し、ルカはこの問答そのものを完全に省略しています。ルカは、イエス御自身を終末時に現れる預言者とし、洗礼者ヨハネからエリヤの役割を取り除いたと考えられます。
 ルカはイザヤ書を引用するさい、四〇章三〜五節を引用しています。これはマルコとマタイが三節だけを引用しているのと較べると詳しい引用となります。おそらくルカは、異邦の諸国民に福音を告げ知らせようとする立場から、五節最後の「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という言葉を入れたかったのでしょう。イザヤ書四〇章は、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民がやがて解放されるという預言ですが、それが洗礼者ヨハネの出現によっていよいよその終末的な成就、すなわち人間の罪と死の捕囚からの解放が始まったと宣言しているのです。

終末審判の切迫

 7 そこでヨハネは、バプテスマを授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。(三・七〜九)

 洗礼者ヨハネの告知に応えて、バプテスマを受けるために「群衆」がヨハネのもとに集まってきます。マルコ(一・五)は「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て」としています。マタイ(三・五)は、洗礼者ヨハネの活動がユダヤ地方に限られてはいないことを知っていたのでしょう、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て」と、マルコを修正しています。それに対してルカは、すでにヨハネの活動地域を「ヨルダン川沿いの地方一帯」としているのですから、ここではただ「群衆」と言っています。
 聴衆の描写の前後で、マルコ(一・五)とマタイ(三・四)は洗礼者ヨハネの風貌について、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と伝えています。それに対してルカは、洗礼者ヨハネの風貌については何も書いていません。異邦人の読者に、パレスチナの荒れ野の預言者の風貌を伝えることはあまり意味がないと考えたのでしょう。あるいは、エリヤ預言を無視したルカにとって、エリヤの風貌(列王記下一・八)を思い起こさせるこの描写は、必要ではなかったのでしょう。
 ここの洗礼者ヨハネの告知の内容は、マタイの並行箇所(三・七〜一〇)と同じです。原語でも(ごく僅かの例外がありますが)字句通り一致しています。これは、マタイとルカが共通の文書資料を用いていることを示しています。この現象はこれからもしばしば現れます。このマタイとルカが用いている共通の文書資料は、イエスの語録をおもな内容としているので「語録資料Q(キユー)」と呼ばれています(Qは資料を意味するドイツ語のクウェレの頭文字)。この「語録資料Q」には、洗礼者ヨハネに関する資料がかなり多く含まれています。これは、この「語録資料Q」を生み出した最初期のパレスチナ・ユダヤ人の信仰運動が、洗礼者ヨハネの集団と深い関わりがあり、洗礼者ヨハネの集団に伝えられていた伝承を多く取り入れていたからであると考えられます。

マタイ福音書とルカ福音書における洗礼者ヨハネに関する記事と「語録資料Q」との関係については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』86頁の注記を参照してください。

 ヨハネはバプテスマを受けに来た群衆に、「蝮の子らよ」と、厳しい非難の言葉を投げつけています。マタイ(三・七)の並行箇所を見ますと、ヨハネはこの激しい非難の言葉を「ファリサイ派やサドカイ派の人々」に向けたことになっています。マタイ福音書(とくに二三章)には「律法学者とファリサイ派の人々」に対する激しい非難があり、その中に「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」という言葉があります(マタイ二三・三三、他にも一二・三四参照)。このような激しい非難の言葉はもともと、イエスをメシアと言い表す信仰のゆえに体制派のファリサイ派やサドカイ派から激しい迫害を受けていたパレスチナ・ユダヤ人が、迫害者に向かって投げつけていた非難の言葉であると考えられます。それが「語録資料Q」に書きとどめられ、ルカがそのまま「群衆」に用いたものと見なければなりません。その結果、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れるようにと、だれが教えたのか」(私訳)という断罪の言葉と、一般民衆にヨハネが説く悔い改めにふさわしい実の要求(一〇〜一四節)が、やや整合しない印象を受けることになります。

七節後半のヨハネの言葉は、不定詞を用いた「・・・・するように教える」という構文であり、岩波版佐藤訳「逃れるように入れ知恵したのか」とか、塚本訳「免れるようにおしえたのか」とするべきでしょう。協会訳や新共同訳の(将来の事実を描くような)「免れると教えたのか」は不適切です。ここの「誰がそんなできもしないことをするように教えたのか」という、反語を用いたヨハネの言葉には、迫害者を断罪する響きがあります。

 もしこの言葉が(マタイ福音書のように)「ファリサイ派とサドカイ派の人々」に対して向けられたものであれば、「悔い改めにふさわしい実を結べ」という要求は、自分たちだけが正しいとする傲慢から反体制の批判者を迫害することを止めて、洗礼者ヨハネが伝える神の言葉に謙虚に耳を傾けよ、ということになります。しかし、ルカはこれを「群衆」に向けられたものとしていますから、その「悔い改めにふさわしい実」は、別に改めて説明されることになります(次の一〇〜一四節)。
 洗礼者ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派だけでなく、一般のユダヤ人に潜む根源的な傲慢を突きます。ユダヤ人は「我々の父はアブラハムだ」と誇っていました。我々はアブラハムの子孫であり、神がアブラハムに与えられた契約(約束)の下にある民だと誇っていました。だから、神が世界を裁かれるとき、諸国民は裁かれても、アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、アブラハムに与えられた契約のゆえに、実際の姿がどうであっても、神の民として栄光の中に受け入れられるのだとしていました。ヨハネは、ユダヤ人がもつアブラハムの子孫としてもっているこの傲慢を粉砕します。
 ヨハネは、このユダヤ人の傲慢を粉砕するために、「言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言います。お前たちは自分たちがアブラハムの血統を引く子孫だと誇っているが、神はアブラハムの血統と何の関わりのない人間からでも、いやこのような石ころからでも、「アブラハムの子」を造り出して、御自分の民とすることができる方である。人が神の民であるかどうかは、神が一方的にお決めになる事柄であって、人間の側の血統とか宗教とか価値は、一切根拠にもならないということを、「石ころからでも」という言葉で印象深く表現します。
 神が最終的に世界を裁かれるとき、アブラハムの子孫だからといってユダヤ人を特別扱いして、他の民と違った基準で裁かれることはありません。すべての民を同じ秤、同じ基準で計られます(ローマ書二章)。そうであれば、アブラハムの子孫であることを誇るユダヤ人も、自分たちが神がアブラハムに与えた契約の下にあるということに根拠を求めることなく、他の異邦人と同じ地面に立って、人間として神に喜ばれる生き方をすることこそが求められていることになります。それが「悔い改めにふさわしい実」を結ぶことです。
 その神の審判が迫っています。そのことが「斧は既に木の根元に置かれている」という比喩で語られます。木を切り倒すための斧が、すでに(この語は文頭に置かれて強調されています)木の根元に当てられているのです。木を切る者の一振りで、木は切り倒されるばかりの状況です。木が切り倒されるのは、その木がよい実を結ばないからです。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」のです。
 この比喩は、洗礼者ヨハネが活動した実際の歴史的状況に置いてみると、イスラエルの民、とくにエルサレム神殿を拠点とするユダヤ教体制派の支配に対して、神の審判が迫っており、それが崩壊する時が目前に迫っているという告知です。「よい実を結ばない」というのは、昔の預言者たちが繰り返して用いた比喩であり、契約の民であるイスラエルが、神が期待しておられた生き方をしないことを糾弾するための比喩です(たとえばイザヤ書五章)。洗礼者ヨハネは、その時が来たことを告知する預言者とされたのです。そして、その後の歴史の経過も、これがエルサレム神殿の崩壊をクライマックスとするユダヤ教神殿体制の崩壊を預言する告知であることを示しています。この点で、洗礼者ヨハネの審判の告知を「ファリサイ派とサドカイ派の人々」に対して向けられたものとするマタイの方が、歴史的な状況を正確に反映しているとしなければなりません。
 実は、イエスもエルサレム神殿体制の崩壊を預言するのに、この比喩を用いておられます。ルカ(一三・六〜九)だけが伝えている「実のならないいちじくの木」のたとえは、実のならないいちじくの木が切り倒されるまでの神の忍耐という要素を入れていますが、やはり最終的に木が切り倒されることを主題としています。そして、イエスは最後の過越祭のとき、葉っぱだけで実のないいちじくの木を枯らすという象徴行為(マルコ一一・一二〜二六)で、神殿体制の崩壊を預言し、それを「一つの石の上に他の石が残ることはない」と、明白な言葉で弟子たちに語られることになります(マルコ一三・一〜二)。イエスは、この預言に関しては、洗礼者ヨハネと同じ線上におられます。

悔い改めにふさわしい実

 10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。12 徴税人もバプテスマを受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。(三・一〇〜一四)

 神の終末審判の切迫を告知し、悔い改めの告白としてバプテスマを受けることを求めた洗礼者ヨハネは、バプテスマを受ける者たちに「悔い改めにふさわしい実」を結ぶように説きます。それを聴いた群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねます。その質問に対して洗礼者ヨハネは、各人の立場とか状況に応じた生き方を指示します。
 民衆の社会生活一般について、ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えます。少しでも多く自分のものを持とうとする貪欲を戒め、正義を愛し貧しい者(持たざる者)を憐れまれる神に受け入れられるようになるための行動規範を具体的に指示しています。これは、神の審判の切迫を動機とする終末論的倫理の典型です。
 バプテスマを受けるために来た徴税人や兵士に、ヨハネはバプテスマを授けることを拒んでいません。このヨハネの態度は、このような職業の者を異教徒(ローマ人)の支配に荷担する汚れた裏切り者とし、「罪人」と呼んでイスラエルの民から排除していたサドカイ派、ファリサイ派、そしてエッセネ派とも違っています。ヨハネは、このような職業の人たちにもバプテスマを施し、神の民として受け入れています。彼らには、「規定以上のものは取り立てるな」とか、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」とだけ言って、節度のある職業倫理を説くだけです。イスラエルの人間を「罪人」とするその職業をやめなければ神の民となれないとは言っていません。
 この一段(一〇〜一四節)はルカだけにあり、同じく洗礼者ヨハネの終末審判の告知を伝えているマタイにはありません。マタイ福音書を生み出したユダヤ人信者のマタイ共同体は、ユダヤ教会堂側から激しい迫害を受け、厳しく対立していましたから、洗礼者ヨハネの告知も「サドカイ派とファリサイ派」に対する断罪の面だけが出てきています。それに対してルカは、洗礼者ヨハネを諸民族の救い主として到来されるキリストの先駆者として、一般民衆にその到来を準備させる預言者と見ています。この一段で洗礼者ヨハネが一般の民衆や徴税人や兵士たちに言っていることは、イエスもこう言われたのではないかと思わせるような内容です。このルカ独自の記事の背後には、当時の社会にあった抑圧、暴虐、不正義に対するルカ自身の激しい批判があるように思われます。同じ「語録資料Q」を用いながら、マタイとルカの視点の違いが見えてきます。

時代のメシア待望

 15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。(三・一五)

 洗礼者ヨハネの声がイスラエルの民の中に響き渡った一世紀前半は、ユダヤ教の中にメシア待望が燃え上がっていた時代でした。異教徒であるローマ人の支配を覆し、純粋にユダヤ教律法に基づく支配を実現しようとして、「律法への熱心」を合い言葉にして活動する運動が、様々な形で始まっていました。その中には、ローマに税を納めることを拒否し、武力を用いてでもローマの支配を打ち破らなければならないとする一派の人たちもいました。彼らは「熱心党」《ゼーロータイ》と呼ばれていました。すでに一世紀の初めに、ガリラヤのユダがこのような反ローマ運動を起こしていました。その後、ザドク、チゥダ、「あるエジプト人」など、「わたしこそがメシアである」と唱えて、律法に熱心な人々を糾合してローマへの反乱を企てる指導者が後を断ちませんでした。ユダヤの民衆も、神から油を注がれた者《メシア》が到来して、イスラエルの民を異教の支配者から解放し、栄光の時代をもたらしてくれるのを待望していました。

当時のユダヤ教におけるメシア待望の熱気については、拙著『マルコ福音書講解U』90頁「ユダヤ教のメシア待望」の項を参照してください。「熱心党」は、現代の表現では「ユダヤ教原理主義」の運動であると言えるでしょう。この運動は多分に現代のイスラーム原理主義運動と共通の特徴をもっています。

 洗礼者ヨハネは、このような信仰のゆえに反ローマ運動を扇動する行動預言者ではありません。彼は神から受けた言葉をイスラエルの民に告知する、イザヤやエレミヤのような言葉の預言者でした。しかし、ヨハネの霊の力に溢れ、権威ある言葉を聴いた民衆は、彼こそ終わりの日にイスラエルに遣わされると約束されていたメシアではないかと考えるようになります。そして事実、洗礼者ヨハネがヘロデによって処刑されて殉教した後、彼ををメシアと仰ぐユダヤ教徒の集団が形成されるようになります。この集団は、後にイエスをメシアと仰ぐユダヤ教徒集団と競合したり、協同したりする複雑な関係に立つことになります。

火による審判

 16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。(三・一六〜一七)

 洗礼者ヨハネこそメシアではないかという期待を持つようになったイスラエルの民に、ヨハネ自身がはっきりと自分はメシアではないと宣言します。自分の後に、自分よりもはるかに優れた方が来られる。自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない。あなたたちはその方の到来をこそ期待して待つべきであると、ヨハネは民衆に告知します。
 自分とその方の違いをヨハネは、「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」からだとします。この表現には、最初期のキリスト信仰共同体の信仰告白が重なって響いています。最初期のキリスト信仰共同体《エクレーシア》は、洗礼者ヨハネをメシアと言い表すユダヤ教徒の集団に対して、復活されたイエスこそメシアであり、最終的な救済者であることを主張しました。そのさいヨハネとイエスの違いを、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、復活されたイエスはキリストとして聖霊によってバプテスマされる方であり、それによって終末的な救済をもたらされる方であるからであるとしました。
 実は、洗礼者ヨハネの終末審判切迫の告知はもともと、「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。その方(やがて到来されるメシア)は、火であなたたちにバプテスマをお授けになる。その方は、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」というものではなかったかと考えられます。
 洗礼者ヨハネは、やがて到来する最終的な審判を収穫の時の比喩で語っています。収穫の比喩は昔の預言者がよく用いた比喩でした。イエスもこの比喩を用いておられます(マルコ四・二九、一二・二、マタイ一三・三〇)。「箕」というのは脱穀場で用いられる農具で、木製の熊手状の道具です。打った穀物と籾殻をそれで空中に放り上げて、風によって実と殻に吹き分けました。実である麦は集められて倉に入れられますが、殻は火で焼き払われます。そのように、神が最終的に世界を裁かれるとき、実質のある神の民は栄光の国に入れられますが、中身のない外形だけのイスラエルは「消えることのない火」で焼き払われることになるぞという警告です。
 洗礼者ヨハネは、やがて到来されるメシアのなさることを、自分がしているバプテスマのイメージで語っています。すなわち、自分は悔い改める者を水に浸しているが、その方は「火でバプテスマされる」、すなわち世界を火に浸して、火の審判に耐える者を栄光の中に迎え、耐えない者を焼き尽くすという形で裁きを行われるというイメージです。このイメージはパウロが用いていますが(コリントT三章)、ヨハネが用いている収穫の比喩は少し違います。吹き分けるのは風であって、火は吹き分けられた殻を焼くだけです。バプテスマのイメージと収穫の比喩はずれがありますが、審判が火によって行われるという告知は同じです。
 この時代には、ユダヤ教では黙示思想が盛んになっていました。黙示思想は、罪と苦しみとに満ちた「今の世《アイオーン》」が終わって、神が直接世界を支配される「来るべき世《アイオーン》」がやがて到来することを説く終末的な信仰思想です。黙示思想にも様々な形態があり一様ではありませんが、この時代には、その「来るべき《アイオーン》」をもたらす神の終末審判は火をもって行われるという思想が広がっていました。洗礼者ヨハネの終末審判の告知も、この火による審判が用いられています。もっとも、火は清める力の象徴でもありますから、来るべきメシアは、水ではなく火をもって民を清められるのだという理解もありえます。しかし、先の「切り倒されて火に投げ込まれる」や、ここの「消えることのない火で焼き尽くす」というのは、やはり審判のイメージです。

最終的な審判が火によって行われるとの思想については、 拙著『パウロによるキリストの福音U』100頁の注記を参照してください。

聖霊によるバプテスマ

 洗礼者ヨハネが、自分が行う水のバプテスマと対比して、来るべき方が行われるバプテスマを「火によるバプテスマ」としたことを、最初期のキリスト者の共同体は、現在自分たちが体験している、復活者キリストが行われる「聖霊によるバプテスマ」の象徴とし、ヨハネの宣教をこの「聖霊によるバプテスマ」の予告と意義づけました。最初の福音書であるマルコ福音書は、洗礼者ヨハネの本来の終末審判切迫の告知をすべて省略し、ヨハネの宣教をただこの一点に絞って伝え、「わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊であなたたちにバプテスマをお授けになる」と書いています(マルコ一・八)。 
 それに対してマタイ福音書とルカ福音書は、洗礼者ヨハネの本来の終末審判の告知を伝えるために、「火によるバプテスマ」という表現を保持しようとします。それで、マルコ福音書と同じように、洗礼者ヨハネの告知を復活者キリストが行われる聖霊のバプテスマの先駆であるとするために、火を聖霊の象徴として扱い、「聖霊と火でバプテスマを授ける」という表現を用います(三・一六、マタイ三・一一)。火は古来聖霊の象徴として用いられてきたのですから、この「聖霊と火で」という並置は自然に受け取ることができます。

火が霊による神の臨在の象徴であることについては、旧約聖書にもモーセの燃える柴の体験や、出エジプトの時の火の柱、イザヤの祭壇からの燃える炭の体験など多くあります。ルカが火を聖霊の象徴として用いていることは、使徒言行録二章のペンテコステの記事からも明らかです。
 なお、「聖霊と火で」という二重表現を、復活のキリストが聖霊でバプテスマして民を清め、再臨のキリストが火で世界を裁かれると理解する二段階説もありますが、マルコが聖霊のバプテスマだけに絞っていることが最初期キリスト共同体の共通の理解であり、マタイもルカもこの線で理解しているとすべきでしょう。すぐ後に見るように、復活されたイエスが語られたとされる言葉には、「火」は出てきません。

 このようにしてルカも、マルコ福音書と同じく、来るべきメシアの働きについてのヨハネの預言を「聖霊によってバプテスマする」という一点に絞ります。この「水によるヨハネのバプテスマ」と「聖霊によるキリストのバプテスマ」の対比は、ルカ二部作全体を通して重要な対比となり、第二部の使徒言行録でも、復活されたイエス御自身が弟子たちに、「ヨハネは水であなたがたにバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と語り、その聖霊の力によって地の果てまで復活者イエス・キリストを証言するように命じられたとされています(使徒一・五、八)。

 18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。(三・一五〜一八)

 ルカはヨハネの説教活動を「福音を告げ知らせる」《エウアンゲリゾー》という動詞を用いて語っています。ルカはイエスの活動もこの動詞を用いて描いています(四・四三、八・一、九・六)。後にルカは洗礼者ヨハネの宣教とイエスの「神の国」告知は救済史上の段階が違うことを強調していますが(一六・一六)、この終わりの時に神の言葉を受けて民に伝える活動をすべてこの動詞で表現するという一面もあることになります。たしかに、ヨハネの激しい審判の告知も、それによって悔い改めるならば赦しを受けるのですから、この「罪の赦しに至らせる悔い改めのバプテスマ」も「福音を告げ知らせる」活動であるわけです。

この動詞は、エーゲ海地域で成立したパウロ七書簡とパウロ系文書(エフェソ書、ヘブライ書、ペトロ第一書簡)で圧倒的に多く(計26回)用いられている動詞であり、パウロ系の福音活動を指し示す標識の一つです。ルカ二部作でも25回用いられており、ルカ二部作がエーゲ海地域で成立したパウロ系の文書であることを示しています。パウロ系ではありませんが、エーゲ海地域で成立したことが確実なヨハネ黙示録でも二回出てきます。それ以外では、マタイ福音書(一一・五)に一回出てくるだけです。

洗礼者ヨハネの投獄

 19 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。(三・一九〜二〇)

 マルコ(六・一七〜二九)は、洗礼者ヨハネの投獄と処刑を詳しく物語っています。マルコは、洗礼者ヨハネの弟子団から伝えられたヨハネの最後に関する伝承を用いたのでしょう。マタイ(一四・三〜一二)は、やや簡単にしてはいますが、マルコの物語をほぼそのまま伝えています。それに対してルカは、詳細はすべて省略して、ヘロデによる投獄の事実だけを伝えます。投獄の理由も、「自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて」ヨハネから律法に違反する行為として責められていたことだけがあげられています。
 ヘロデは、ナバテア国王の娘を妻としていましたが、この妻を離縁してナバテアに送り返し、自分の異母兄の妻であったヘロディアと結婚します。離婚は律法で認められていますが、兄弟の妻をめとることは律法違反になります。預言者ヨハネはこれを非難したとされています。自分の娘が送り返されたことに激怒したナバテア王は、後にヘロデに戦いを挑み、手ひどい敗北を与えます。民衆は、これこそ洗礼者ヨハネを処刑したことへの神の罰だと噂します。たしかに、この結婚問題は非難に値しますが、ヘロデがヨハネを投獄した真の理由は他にありそうです。
 ヘロデ(ヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパス)は先に「ガリラヤの領主」と言われていましたが(三・一)、正確には「ガリラヤとペレアの領主」です。ペレアはユダヤのヨルダン川(中流から下流)と死海の東岸の広い地域です。したがって、ガリラヤとペレアの領主ヘロデは、洗礼者ヨハネが活動した「ヨルダン川沿いの地方一帯」の領主ということになります。この地方一帯における洗礼者ヨハネの活動は、当時盛んになっていたメシヤ運動の様相を見せ始めていたので、ローマの庇護によって領主となっているヘロデは、領地における反ローマ運動の拡大を恐れて洗礼者ヨハネを投獄した、というのが真相でしょう。しかし、ルカは洗礼者ヨハネの投獄や処刑を、自分の福音物語にとっては本質的でないと考えたのか、マルコの記事を大幅に簡略にします。投獄については簡単に触れますが、処刑についてのマルコの物語は一切省略しています。

洗礼者ヨハネの投獄と処刑の実相については、拙著『マルコ福音書講解T』257頁以下の「バプテスマのヨハネの死」の段落講解を参照してください。

 洗礼者ヨハネの投獄についてルカがマルコ・マタイともっとも大きく違う点は、マルコ・マタイにおいてはヨハネはイエスにバプテスマをした後に投獄され、その投獄がイエスのガリラヤ伝道開始のきっかけとなっているのに対して、ルカはイエスが舞台に登場される前にヨハネ投獄の記事を置いていることです。そのためにイエスのバプテスマの記事にはヨハネが登場しません。ルカ福音書では、イエスが舞台に登場されるまでに、ヨハネは舞台から退場しています。したがって、イエスがヨハネからバプテスマを受けたことは明示されないことになります。この点については、次のイエスのバプテスマの段落で扱うことにします。