市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第5講

結び ― ルカ二部作出現の意義

 ルカの福音理解(神学)の傾向や思想的特徴は、二部作の講解を済ませた後にまとめるべき事柄ですので、ここでは触れないで、ルカの著作が二部作として出現したことの意義を再確認して、本稿の結びとします。
 最初期の共同体《エクレーシア》は、復活されたイエスが栄光の中に来臨される時が差し迫っているという待望の中に生きていました。従って、イエスを復活者キリストとして宣べ伝える福音書は、イエスの地上の生涯での教えと働き、その十字架の死の意義と復活の事実を告知し、その復活者イエス・キリストがすぐにも来臨されて救いが完成することを、その中で語るだけで十分でした。パウロも含めて使徒たちはそのように福音を宣べ伝えてきました。使徒時代の直後に成立したと見られるマルコ福音書は、イエス・キリストの十字架と復活を語る中で、「人の子」の来臨を告知する一三章を置いて、それで福音のすべてを告げ知らせていました。
 ところが、ルカの時代には状況が変わっていました。エルサレム神殿の崩壊と一体として語られていた終わりの日の到来、「人の子」の来臨(マルコ一三章)は、実際にエルサレム神殿が崩壊しても起こりませんでした。それから十年、二十年、三十年経っても、キリストの来臨《パルーシア》は起こりませんでした。70年のエルサレム神殿崩壊以後のキリストの民の共同体は、この事実に直面して、この事実を包み込むことができる形で、福音を語り直さなければならなくなっていました。この時期に異邦人環境で成立したコロサイ書やエフェソ書は、もはやキリストの来臨について語らなくなっています。そのような時代の流れの中で、その流れを締めくくるような意義を担って出現したのがルカの二部作です。

70年のエルサレム神殿崩壊以後の時代は、使徒たちが舞台から去り、使徒の後継者たちが使徒の名を用いて書簡を書くなどして指導した時代となるので、わたしはこの時代を「使徒名書簡の時代」と呼んでいます。この時代の特色については前著『パウロ以後のキリストの福音』の終章「パウロとパウロ以後」を参照してください。とくに来臨待望の変化については、同書第三章第一節「来臨待望の変遷」を参照してください。

 ルカが福音書だけでなく使徒言行録を含む二部作によって福音を提示した事実そのものが、《パルーシア》待望の退潮と、新しい救済史理解の登場を示しています。ルカはエルサレム神殿が崩壊した後も《パルーシア》(キリストの来臨)は起こらず、キリストの民の共同体《エクレーシア》が舞台に登場して、歴史の中を歩み始めている事実を見ています。しかもその共同体《エクレーシア》は、ますます異邦人が多くなり、エルサレム陥落以後の時代にユダヤ人のエルサレム共同体の指導力がほとんど消滅しているという状況で、異邦人が主要な担い手となっている共同体です。ルカはこの歴史的事実の中に、神の人間救済のご計画(救済史)における新しい相を見ています。そして、その救済史の新しい理解を、イエス・キリストの出来事と使徒たちの働きという二部作で表現するのです。
 ルカは、ユダヤ人である使徒たちの救済史理解を忠実に継承しています。すなわち、使徒たちが伝えた福音では、イエス・キリストの出来事はイスラエルの歴史が待望し、神がイスラエルの歴史の中で(=旧約聖書において)約束してこられた終わりの日の救済の成就であるという理解です。これは、イエスの出来事を語る第一部の福音書でも繰り返し表現されていますし、第二部の使徒言行録でも、福音を語る使徒たちはイエス・キリストの出来事を旧約聖書の成就として告げ知らせています。ルカはこの理解と確信を他の福音書と共有しています。
 さらにルカは、使徒たちの来臨信仰の継承者として、「キリストの来臨」《パルーシア》の待望を維持しています。ルカは、マルコ福音書一三章の黙示思想的終末預言を(細部の変更はありますが)ほぼそのまま受け継いでいます。この点で、同じくパウロ以後の時代(しかしルカ二部作よりは前と考えられる時期)に成立したと見られるコロサイ・エフェソ書とは違います。コロサイ・エフェソ書では将来の《パルーシア》は語られなくなり、もっぱらキリスト共同体《エクレーシア》におけるキリストの充満が追い求められています。また、同じような時代に成立したヨハネ福音書も、現在の霊的現実に集中していて、将来の《パルーシア》待望は著しく後退しています。それに対してルカは、使徒たちの福音における救済史的構造を受け継ぎ、将来のキリスト来臨による完成を確かな希望として掲げています。
 ただ、ルカはエルサレム神殿崩壊の後も来臨は起こらず、共同体はこれからも地上の歴史の中を歩んで行く覚悟をしなければならない時代に書いています。ルカは、歴史の中における《エクレーシア》の存在と歩みを救済史の中に位置づけなければなりません。イエス・キリストの十字架・復活の出来事における決定的な救済の出現と、キリスト来臨による終末的完成の間に、地上におけるキリストの民《エクレーシア》の歴史が入ってくることになります。ルカは、第一部のイエス・キリストの出来事を語る福音書と共に、第二部の《エクレーシア》の成立と歩みを語る使徒言行録を書いて、神の救済の働きの全体を描くことになります。こうして、来臨遅延の状況において、ルカの福音提示は福音書と使徒言行録の二部作とならざるをえないのです。ルカが二部作で福音を提示した事実が、時代の状況に即した救済史の新しい理解の出現を指し示しています。
 キリスト共同体《エクレーシア》は、ルカ二部作の執筆時には、すでに五、六十年(あるいは七、八十年)の年月を歩んできています。ルカは、その中で使徒たちが直接福音を宣べ伝え、指導した最初の時期を範例として描きます。この時期の共同体の歴史を描くのは、使徒たちの時代を範例とするという目的だけでなく、もう一つの重要な意図があります。それは、キリスト信仰がユダヤ教の枠から出て、異邦人世界に広がり、異邦人がキリスト共同体の主要な構成員となり、救済史の担い手となることの正統性を、歴史的物語として描くことです。それで、ルカの《エクレーシア》歴史物語は、「エルサレムからローマへ」、すなわち、ユダヤ教の聖地エルサレムでの福音宣教開始から始まり、異邦世界の頂点であり象徴であるローマに福音が到達するところで終わることになります。
 このように異邦人のキリスト共同体が救済史の担い手となる時代を、ルカは「異邦人の時代」と呼んでいます(ルカ二一・二四)。使徒言行録は全体で、「異邦人の時代」への移行を、歴史物語の形で描いています。第一主要部の中心人物であるペトロは、本来ユダヤ人への福音を委ねられた使徒ですが(ガラテヤ二・七)、ルカはペトロをあたかも異邦人への使徒であるかのように描きます。ルカの使徒言行録ではペトロは、最初期のエルサレム共同体において、福音を異邦人にもたらすための門戸を開いた人物として描かれています(とくに一〇〜一一章のコルネリオの記事)。ペトロはエルサレム会議で、異邦人に割礼なしの福音を宣べ伝えるパウロを擁護しています(一五章)。
 第二主要部でルカは、異邦人への使徒パウロの活躍を詳しく物語ります。パウロの働きにより、異邦人は異邦人のままで(=割礼を受けてユダヤ教に改宗ことなく)キリストの民となり、新しい時代の救済史の担い手となります。パウロが書簡で激しく主張した「無割礼の福音」を、ルカはパウロの働きを記述する歴史物語で確認しています。総じてルカは、ペトロやパウロの働きを聖霊による出来事として描くことによって、この救済史の担い手が異邦人に移行したことを、神のご計画によるものとして提示していることになります。
 ルカ二部作の第二部「使徒行伝」はよく「聖霊行伝」と呼ばれるように、使徒たちの働きの全体を聖霊が導き、聖霊がその原動力となっておられます。聖霊による使徒たちの働きを目撃し、また自らもその聖霊の働きを体験して、使徒たちの働きが聖霊によるものであることを深く理解しているルカは、このように使徒たちの働きを「聖霊行伝」として描くことができたのでした。そして、ルカの聖霊理解は第一部の福音書においても示されており、イエスの生涯は、その誕生から「神の国」宣教の働き、癒しの働きすべてを聖霊によるものとして描いています。聖霊の働きを強調するのはルカ福音書の特徴です。このように、ルカがその二部作を通して聖霊の主導を強調するのは、この二部作が全体として示している救済史の進行が、人間の思いから出たものではなく、神の御計画・御旨から出るものであることを示すためであると考えられます。
 ルカは、歴史物語を書くことによって、現在の自分たちの世代と、後に続く次の世代に新しい救済史理解を提示し、キリストの民がこれから世界のただ中で歩むための指針を与えたことになります。ここに、ルカ二部作が出現したことの意義があります。実際に、二世紀以後のキリスト共同体は、ルカの路線を歩むことになります。この結果から見ても、ルカ二部作は新約聖書の最後の段階に属し、使徒時代の使信をまとめて次の世代に引く継ぐ連結器の位置にあるといえます。

ルカの救済史理解についての詳細な議論は、H・コンツェルマン「時の中心」(田川建三訳・新教出版社)を参照してください。