市川喜一著作集 > 第17巻 ルカ福音書講解T > 第4講

第四節 ルカの資料と叙述

歴史家としてのルカ

 ルカには歴史家としての面があります。もちろん、ルカは単なる歴史家ではありません。ルカの重要性は、相克する時代の様々な信仰の傾向や潮流を一つの総合的体系にまとめあげて、神学的・思想的に統合されたシステムとし、次の時代への指針として福音を提示する仕事を成し遂げたこと、すなわち神学者としての面にあります。ただ、ルカはその仕事を(自身が序文で宣言したように)「歴史的説明」の書を著すことによって成し遂げたことが、新約聖書諸文書の他の著者たちと違う点です。
 ルカの二部作は、ギリシア・ローマ世界の古典的な歴史書と較べても、勝るとも劣らない優れた作品であると、その方面の専門家が評価しています。古典的な堂々たる序文(一・一〜四)で始まり、新約聖書随一の流麗なギリシア語で、先に見たように綿密に構想された構成をもって、一貫した物語が語り進められていきます。その文体や引用、叙述の仕方は、著者の古典的な歴史書や文芸作品の素養を示しているとされています。しかし、文芸作品としての評価はわたしの能力を超えることですし、また、ルカの二部作が提示する福音の特質を理解しようとする本稿の目的にとっても、深く立ち入る必要はないと考えられますので、その方面の専門書に委ねて、ここでは歴史家としてのルカの一面を、ごく簡単に見ておきます。
 古代の歴史家は何よりも旅行家でもありました。「歴史の父」と呼ばれるヘロドトス(前5世紀のギリシアの歴史家)は、同時に古代ギリシア最大の旅行家でもあり、直接の見聞を求めて東方世界を広く旅し、エジプトからインダス川にまで行っています。その見聞を基にして大著「歴史」を書きます。また、ローマの勃興期を描く「歴史」を書いたポリュビオス(前2世紀のギリシア人歴史家)は、スキピオに従って地中海各地を広く旅し、ポエニ戦役のことを書くためにハンニバルの全行程を自分で歩いたと伝えられています。
 ルカもまた旅行家であったことは、先に見ました。「われら章句」の著者は、旅行、とくに航海のことに詳しく、体験も豊富であったことがうかがわれます。著者は、少なくともパウロの最後の時期の伝道旅行に同行し、マケドニアからアカイア州を経てパレスチナ・シリアの地に行き、最後はローマまで旅して、各地の実態を自分の目でつぶさに見ています。さらに、パウロ亡き後も広く旅行をして、行き先の各地で関係者から証言を集め、その地方の伝承を聞き取っていたはずです。文書があれば、当然その写しを持って帰ったことでしょう。そのことをルカ自身がこう言っています。

 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」。(ルカ一・一〜二)

 「わたしたちの間で実現した事柄」というのは、キリストとしてのイエスの出来事を指しており、それを目撃した人たちが、その出来事の証人として召されて、「御言葉のために働いた人々」となり、それを語り伝えました。「御言葉」《ホ・ロゴス》というのは、キリストとしてのイエスの出来事を語り伝える言葉、すなわち福音を指す術語(仲間内の用語)です。彼ら(使徒たち)が語り伝えたことを「書き連ねて」文書にする動きも、すでに始まっていました。そのような試みについて、「多くの人々が既に手を着けています」と言っています。ルカは、そのような文書を《ディエーゲーシス》(歴史的説明)と呼んでいます。
 このような文書の中に、マルコ福音書が含まれていたことは明らかです。ルカはマルコ福音書に基づいて自分の福音書を書いています。また、イエスの語録を集めた「語録資料Q」も手元に持っていたはずです。他にも、イエスの奇跡集なども持っていたことでしょう。このような文書資料だけでなく、ルカは各地で集めた証言や伝承を資料として持っていました。そのことは、ルカ自身が「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので」(ルカ一・三)という表現で示唆しています。歴史家としてのルカは、これらの資料を用い、その内容を「順序正しく書いて」(この表現の意味については後述)、この二部作を著述します。この著述の目的は、先に見たように、これを読む者が、「受けた教えが確実なものであること」を確認するための《ディエーゲーシス》(歴史的説明)とするためです(ルカ一・三〜四)。

ルカの資料

 そこで、ルカがこの二部作を著述するさいに用いた資料について、簡単に見ておきます。歴史家としてのルカが用いた資料を詳しく詮索することは、眼前のルカ文書を信仰的に理解する上で、決定的に重要なことではありませんので、なお議論の多い資料問題は専門書に委ねて、ここでは必要最小限にとどめます。
 共観福音書の成立に関しては、現在では二資料説が広く認められています。これは、マルコ福音書が最初に成立し、マタイとルカはマルコ福音書とイエス語録資料(略号はQ)という二つの資料を用いて、それぞれの福音書を書いたと見る説です。そのさいマタイとルカは、それぞれだけが持っている独自の資料も用いたとされ、マタイの独自資料はM、ルカの独自資料はLという略号で呼ばれています。
 ルカが福音書を執筆した一世紀末には、70年前後の成立と見られるマルコ福音書は広く流布していて、ルカもそれを自分の福音書の基本的な枠組みとして用いることができたと考えられます。ただ、それが現在わたしたちが手にしているマルコ福音書と同じものか、または、それ以前の版の「原マルコ福音書」と呼ぶべきものであったかは議論されていますが、この問題は当面のわたしたちの課題には取り上げなくてもよいと考えられます。
 ルカが用いたイエスの語録資料(Q)も、マタイが用いたものと同じ版であるのか、または違う版であるのかが議論されていますが、これもここではとりあげる必要はないと考えられます。必要なときに講解で触れることにします。

「語録資料Q」については、前著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』の序章第一節「語録福音書」を参照してください。

 ルカ福音書だけに現れる特殊な伝承は、ルカ独自の資料(L)からと見られますが、この資料がどのようなものであったのかが問題になります。先に見たように、歴史家ルカは福音宣教運動に関わる地域を広く旅行して、直接目撃証人から聞き取り、またその地の伝承を集め、流布している文書を持ち帰り、自分の福音書執筆のさいの資料としていると考えられます。詳しいことは専門書に委ね、ここではルカの特殊資料の一部に関してごく概略を見ておきます。
 ルカはアンティオキアで得られた資料(アンティオキア資料)を用いていると見られます。ルカはアンティオキアで「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」(使徒一三・一)と接触し、おそらく彼を通して「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」(ルカ八・三)を知ったと推察されます。このようなヘロデに近い人物を通して、イエスに対するヘロデの態度や扱いを知ることができ、ルカだけがそれを福音書に取り入れることができた(ルカ一三・三一〜三三、二三・七〜一二)と考えられます。ルカは使徒言行録でアンティオキア集会のことを詳しく報告しています。

カトリック系のフィッツマイアなどは、ルカをアンティオキア出身の人と見ています。しかし、「われら章句」の著者と見ると、マケドニアの出身とも推察されます。ルカの出身地はあまり重要ではないでしょう。ルカがどこの出身であっても、地中海世界(とくにエーゲ海地域)を広く旅行したり居住して、活動したことを知るだけで十分でしょう。

 ルカは、パウロの最後のエルサレム行きの旅に同行し、カイサリアに上陸しています。カイサリアは伝道者フィリポの活動拠点であり、パウロ一行はエルサレムに入る前の数日彼の家に泊まっています(使徒二一・八)。パウロはエルサレムで逮捕されてカイサリアに護送され、そこで二年間拘禁されますが(使徒二四・二七)、ルカも二年間カイサリアに滞在したと見られます。この二年間にルカはフィリポから彼自身の活動の経緯だけでなく、最初期のエルサレム共同体やその活動を詳しく聞くことができたはずです。このフィリポは(十二弟子の一人のフィリポではなく)七人の《ヘレーニスタイ》伝道者の一人であり(使徒六・五)、サマリアから沿岸地方に伝道し、カイサリアを拠点として活動した人物です(使徒八章)。このフィリポから聞き、カイサリアに伝えられている伝承を集め、ルカはカイサリアで多くの資料(カイサリア資料)を得たことと推察されます。
 ルカはエーゲ海地域で活動したと考えられますが、この地域の中心地でありパウロの最晩年の活動拠点であったエフェソと当然密接な接触があったとしなければなりません。エフェソにはパウロに関する伝承が多く残されていたと考えられ、ルカはそれを利用することができたでしょう。しかし、パウロ書簡の大部分がエフェソで書かれ、また後にはエフェソ近辺でパウロ名書簡が成立して、パウロ書簡集が収集されたことを考えると、ルカがパウロ書簡を知らないように見えるほど利用していないことが問題にされます。パウロ書簡にある歴史的事実と違っていたり(たとえばパウロが重視しているエルサレムへの献金が使徒言行録では触れられていないことなど)、パウロ書簡の神学思想とルカのそれがかなり違っていることから、ルカはパウロの同伴者ではありえないとする議論も行われています。しかし、この相違は、ルカが執筆した時にはまだパウロ書簡集は成立しておらず、流布していなかったので、ルカはパウロ書簡集を手元に置いて資料として用いることはできなかったからであると考えられ、ルカ二部作の成立が比較的早い時期であったことを推察させる根拠の一つになります(パウロ十書簡集の成立は二世紀に入ってからと見られます)。パウロの同伴者ルカが献金に触れないのも、知らないからではなく、彼の執筆方針から不適切と判断して省略したと見ることができます。また、パウロ書簡の神学思想との違いは、ルカも時代の子として、若いときに接したパウロ自身よりも、執筆した晩年には使徒名書簡時代の神学思想を共にしていたからであると説明できます。パウロの同労者であり後継者となった人たちの神学思想が、コロサイ書やエフェソ書に見られるように、かなりパウロから離れていることを見ると、ルカがパウロと違ってきていることは当然であると言えるでしょう。

使徒名書簡時代の神学思想がパウロとは違った面が出てきている点については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』409頁以下の終章第一節「使徒名書簡のキリスト信仰」を参照してください。

 ルカがエフェソで得た資料(エフェソ資料)には、パウロに関するものだけでなく、ヨハネ共同体と共通の資料があるようです。ヨハネ共同体はユダヤ戦争の前後の時期にパレスチナ・シリア地域からエフェソへ移住したと考えられ、パレスチナの最初期の伝承をエフェソに携えてきていたと推察されます。ルカのエルサレム中心主義はヨハネの影響であると見る学者もいます。また、ヨハネ共同体を率いた長老ヨハネは、イエスから母マリアを託された弟子として、エフェソにマリアを伴ってきていたので、ルカはマリアから出たイエスの誕生と幼少時代に関する伝承を聴いていた可能性があります。

ヨハネ共同体のエフェソへの移住とエフェソでの活動については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解U』292頁以下の附論第二章第一節「長老ヨハネの生涯U」を参照してください。また、長老ヨハネと母マリアの関係については同書197頁以下の「イエスの母と愛弟子」の項を参照してください。

 ルカは、皇帝に上訴してローマに護送されるパウロに同行し、パウロがローマで監禁されていた二年間をローマで過ごしたはずです。そうすれば、当時ローマにいたプリスキラ・アキラ夫妻や、パウロよりも前から使徒として働いていたアンドロニコとユニア(おそらく夫妻)などの有力な働き人たち(ローマ一六・三以下)から、イエスに関する伝承や使徒たちの働きについて詳しく聞くことができたと考えられます(ローマ資料)。
 このように、ルカが各地で得た資料がルカの特殊資料(L)を形成しますが、その内容はイエスや使徒たちの働きや出来事に関するものだけでなく、イエスの教えの言葉に関するものもありました。たとえば、有名な「放蕩息子」のたとえなど、ルカ福音書だけに伝えられているイエスのたとえ話は、ルカがこのように各地で得た特殊資料に含まれていたものです。このようなルカ福音書だけにある物語やたとえが、この福音書をきわめて魅力的なものにしていることを考えると、このルカ特殊資料(L)の重要性が分かります。

ルカの歴史叙述

 このように、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けている」ルカ以前の文書と、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べています」として、ルカが長年にわたって(「初めから」と訳されているギリシア語は「長らく」という意味もあります)調べてきた証言や伝承を資料として、彼の二部作を著述します。その叙述の仕方は、ルカ自身によって「順序正しく」と表現されています(ルカ一・三)。では「順序正しく書く」とはどういうことでしょうか。その意味を、出来上がったルカの著作から探ってみましょう。
 ルカは、彼の二部作の第一部(福音書)においては、マルコ福音書を基本的な枠組みとして物語を書き進めています。洗礼者ヨハネの宣教活動から始まり、ガリラヤで病人をいやし、「神の国」を宣べ伝え、最後にエルサレムに上って、そこでユダヤ教指導層と対決し、ローマ総督に引き渡されて十字架につけられる、というマルコの構成の大枠に従っています。そして、各部における物語の順序もマルコ福音書に従っています。
 もしルカがヨハネ共同体と共通の伝承を知っているとすれば、ガリラヤ伝道の前のユダヤにおけるイエスの活動(バプテスマを授ける活動を含めて)やエルサレムでの活動があったこと、また、ガリラヤで活動中もイエスは繰り返し祭りのためにエルサレムに上っておられることを知っていたと考えられます。しかしルカは、このようなヨハネ共同体の伝承(おそらくこちらの方が歴史的事実に近いと考えられます)には従わず、マルコの構成に従い、ガリラヤでの活動の前のユダヤでの活動に触れることなく、エルサレム上りも最後の一回だけにしています。
 この事実からも、ルカが「順序正しく」と言うとき、それは事実が起こった順序の通りにという意味ではなく、著述の意図を表現するのにふさわしい順序で書くということを意味していることが分かります。そもそも歴史家が歴史を書くとき、その記述は事実を出来事の順序に羅列するのではなく、自分の歴史観を表現する構成と表現を用いるものです。ルカも、自分の神学的思想を表現するために、イエスの生涯と働きを記述するのですから、その記述の原理は出来事の順序ではなく、著述の目的にふさわしい順序となるのは当然です。
 では、そのためにルカがマルコ福音書の構成に従ったのは何故でしょうか。それは、当時すでにマルコ福音書がペトロの権威を背景として広く受け入れられていて、共同体主流の福音書になっていたからではないかと考えられます。ヨハネ共同体は、主流からやや離れた位置にあり、ペトロを権威とする共同体主流に対抗する一面があります。ルカは、この特異な性格のヨハネ共同体よりも、主流の共同体の基準に従ったのだと考えられます。ヨハネ共同体内部にも、後期には共同体主流との溝を埋めようとする傾向があったことが、ヨハネ福音書の最終的な編集過程(たとえば二一章の付加)から読み取れるとされています。
 しかし、ルカの叙述はマルコと違ってきている点も多くあります。本体が洗礼者ヨハネの登場から始まるのはマルコ福音書と同じですが、ルカはその前にイエスの誕生と少年期の物語(ルカ一〜二章)を置いています。これは、イエスの生涯を描く物語をより完全にするためですが、ルカの誕生物語はイエスの伝記の最初の部分というよりは、福音書全体の使信を要約して象徴的に提示するという、オペラの序曲のような性格の物語です。
 イエスの働きが、ガリラヤでの宣教、エルサレムへの旅、エルサレムでの活動という三部で構成されているのはマルコ福音書と同じですが、先に見たように、ルカはエルサレムへの旅の部分を、ガリラヤとエルサレムでの活動を描く部分(この部分では基本的にマルコの順序に従っています)よりもずっと大きくし、そこに多くのルカ独自の物語やたとえなどを置いています。この部分ではルカはマルコの順序から大きく離れ、ルカ自身の個性を発揮しています。
 さらにルカは、マルコによく見られる同じような出来事の繰り返し記事を省略し、記述もシンプルにしています。荒野で群衆に食物を分け与えられた記事は、マルコでは二回(五千人と四千人)繰り返されていますが、ルカでは一回(五千人)になっています(ルカ九・一二〜一七)。ゲツセマネの園で祈られたとき、イエスは眠り込んでいる弟子のところに三回戻ってきておられますが、ルカでは一回だけです(ルカ二二・二九〜四六)。マルコ福音書では逮捕されたイエスはユダヤ教の法廷で二回尋問されますが、ルカでは一回になっています(ルカ二二・六六〜七一)。
 その他、ガリラヤからエルサレムへというルカの基本線を明確にするためでしょうか、マルコが伝えているイエスと弟子の一行がガリラヤから北方のティルスやシドンに行かれた記事は省略され、ルカ福音書ではイエスはガリラヤからまっすぐにエルサレムに向かわれます。このような順序の面で大きい違いを示す代表的な事例は、マルコがガリラヤ伝道の最後の時期に置いている故郷ナザレでの拒否の事件(マルコ六・一以下)が、ルカではガリラヤ伝道の最初に置かれていることです(ルカ四・一六以下)。この置き換えでルカが何を言おうとしているのかは、その箇所の講解で扱うことになりますが、ここでは、ルカが単純にマルコに従っているのではなく、構成の大枠はマルコに従いながらも、自分の神学的意図を表現するために大胆に順序を変えている面があることを指摘するに止めます。