市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第35講

第三部 神の愛に生きる(4章1節〜5章12節)

9 偽りの霊と真実の霊(4章 1〜6節)

 1 愛する者たちよ、すべての霊を信じるのではなく、神から出た霊かどうかを吟味しなさい。多くの偽預言者が世に出て来ているからです。2 あなたたちはこうして神の霊を見分けるのです。すなわち、イエスを肉の形をとって来られたキリストと言い表す霊はすべて神からの霊です。3 そして、このイエスを言い表さない霊は神からのものではありません。これは反キリストの霊であり、かねてあなたたちはそれが来ることは聞いていましたが、今やすでに世に来ているのです。
 4 子たちよ、あなたたちは神に属しており、彼らに打ち勝っています。あなたたちの内にいます方は、世にいる者よりも大いなる方だからです。5 彼らは世に属しており、それゆえ世から語り、世は彼らに耳を傾けます。6 わたしたちは神に属しており、神を知る者はわたしたちの言うことを聞きます。神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。このことによって、わたしたちは真理の霊と偽りの霊を識別するのです。

イエス・キリストを言い表す霊(四・一〜三)

 長老は前段の最後で、御子イエス・キリストとの親しい交わりとそこに生まれる神認識は、「彼がわたしたちに与えてくださった御霊によって知る」と言いましたが、その御霊による体験と認識を語る前に、長老は霊を見分ける必要を説きます。霊の働きを受けるとき、それが霊の働きというだけで見境なく身を委ねるのではなく、それが神からの霊であるかどうかを確かめる必要があります。日本や世界の各地で見られるように、多くのカルト集団が出現して、純粋な青年や悩みを抱える魂を誘惑し、自己の支配下に引き込み、光と命の中にではなく、闇と死の中へと陥れています。そこに働くのは偽預言者の霊であり、反キリストの霊です(一節)。
 では神の霊と偽預言者の霊はどうして見分けることができるのでしょうか。長老は、神の誡めの二つの条項に対応して二つの基準を示しています。先に長老は、神の誡めを「神の御子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちが互いに愛し合うこと」の二つにまとめていました(三・二三)。神の霊は、当然この神の誡めを実現する霊でなければなりません。長老はまずこの段落で、「神の御子イエス・キリストの御名」を言い表すかどうかを基準としてあげ、次の段落(七節以下)で、その霊が愛《アガペー》をもたらす霊であるかどうかを問題にします。
 霊を見分ける第一の基準は、「イエスを肉の形をとって来られたキリストと言い表す霊はすべて神からの霊であり、このイエスを言い表さない霊は神からのものではない」という形で示されます(二〜三節)。この表現の背後には、「このイエスを言い表さない」で、交わりから出て行った人たちのことがあるのでしょう。
 彼らがイエスをどのような方として言い表していたのか正確なことは分かりませんが、先に見たように仮現論的なイエス告白であった可能性があります。すなわち、イエスは普通の人間であるが、バプテスマを受けたときにキリストが御霊としてイエスに降り、イエスを通して働かれたが、十字架にかけられる直前にイエスから去ったとする見方です。イエスはキリストの仮の現れだとする見方です。
 それに対して長老ヨハネは、イエスを「肉の形をとって来られたキリスト」と言い表します。直訳は「肉において来られたキリスト」です。ヨハネのいう「肉」は、パウロのように御霊に対立する人間本性という意味ではなく、身体と同じ意味で用いられています。イエスを肉体という形をとって世に来られたキリスト御自身であると言い表す信仰です。

この箇所をすべての日本語訳は「イエス・キリストが肉となって来られたことを言い表す」としています。外国語聖書も同じです。しかし、「イエス」という名は地上の現実の人を指す名ですから、「肉において来られた」をイエスにかけるのは(同意反復的で)不自然です。それに対して、「キリスト」は様々な様態の存在が意味されえます。天上にいまして、世界ではただ人間の霊性の内に働くだけのキリストという理解も可能です。「霊なるキリスト」は、このようなキリスト理解に至る可能性もあります。グノーシス主義の「キリスト」は、この方向を突き詰めたものでしょう。それに対してヨハネは、イエスを「肉において来られたキリスト」、すなわち完全に人間の身体をとって世界に現れたキリストとし、イエスこそそのようなキリストであると言い表します。この私訳は、「イエスをキリストと言い表す」という基本的な信仰告白形式を、グノーシス主義的傾向のキリスト理解に対抗するために、キリストに「肉において来られた」という句を付した形として理解した結果です。この私訳は、内容的には「イエス・キリストが肉となって来られたことを言い表す」という標準的な訳と変わらないと思いますが、あえて一つの試訳として用います。なお、三節で「イエスを言い表す」のイエスに(普通は固有名詞にはつかない)定冠詞がついています。この場合の定冠詞は(定冠詞本来の)指示的な意味があり、「このイエス」という意味になります。すなわち、前節で言い表された「肉の形をとって来られたキリストとしてのイエス」という意味です。「このイエス」を言い表さない霊は神からではないということになります。

 長老は、「このイエスを言い表さない霊」、すなわち「肉の形をとって来られたキリストとしてのイエスを言い表さない霊」を反キリストの霊と断じ、彼らの出現を共同体が受け継いでいる伝承にある終末預言の成就とします(三節)。これは先(二・一八)に述べていたことの繰り返しです。この預言に関しては、二章一八節の講解を参照してください。

神に属する者と世に属する者(四・四〜六)

 長老は、どのようなイエスを言い表すかを霊の真偽を見分ける基準として述べた上で、「このイエス」を言い表す長老と共に共同体に残っている人たちに向かって「子たちよ、あなたたちこそは」と(強調して)呼びかけ、「あなたたちこそは(この真理の霊に従うことによって)神に属する者であり、彼ら(反キリストたち)に打ち勝っている」のだと励まします(四節前半)。
 そして、「あなたたちは彼らに打ち勝っている」のは、「あなたたちの内にいます方は、世にいる者より大いなる方だから」と、その理由をあげます。「あなたたちの内にいます方(単数形)」は、直接には御霊を指すのでしょうが(二・二七)、御霊の形における復活者イエス・キリスト、さらにキリストにおける神の臨在という霊的現実を含んでいると考えられます(ヨハネ一四・一五〜二四)。「世《コスモス》にいる者(単数形)」は、《コスモス》(世・宇宙)を構成する原理として、《コスモス》の中に働き、《コスモス》を支配している霊の総体を指しています。ヨハネにおいては、世《コスモス》は、神の領域と対立する霊の領域ですが、対等に対峙する二元論ではなく、神は《コスモス》の内にいる霊よりも大きい方であり、最終的には《コスモス》を克服して、神の支配と栄光だけになります。だから、神に属するあなたたちは世に属している彼ら(反キリストたち)に惑わされることなく、誤りに引き込まれることなく、真理にとどまり、神の栄光にあずかるという勝利に至るのだと、長老は共同体を励まします(四節後半)。
 長老は、共同体から出て行った「彼ら」と、長老と共に共同体に残っている「わたしたち」を、「世に属す」者たちと「神に属す」者たちとして対比します(五節〜六節前半)。長老は、その鋭い霊的判断力によって、「彼ら」を世に属する者、世(の原理)から語り出す者であるとし、したがって世に属する者たちが多く耳を傾けるのだと、彼らの「成功」を同類が集まる結果だとします。共同体の交わりから出て行った者はかなりの多数になり、長老と共に残ったのはむしろ少数派であったとする見方もあります。長老の危機意識は深刻だったのでしょう。

ブラウンは、出て行った者たちは後にグノーシス主義教会を形成して正統派と対立することになり、残った者たちは(ペトロを代表使徒とする)周囲の主流の共同体に吸収されていくことになったと見ています。また、「彼ら」はヨハネ福音書を自分たちの福音書として携えていったので、グノーシス主義者たちはヨハネ福音書を愛好し、正統派共同体は長らくこの福音書を受け容れることを躊躇したと見ています。
R.E.Brown, The Community of the Beloved Disciple, p.166 Chart One ( The History of the Johannine Community )を参照。

 長老は、「彼ら」と対比して「わたしたち」を強調し、「わたしたちこそは神に属する者(神から出た者)である」とし、「神を知る者はわたしたちの言うことを聞き、神に属していない者はわたしたちに耳を傾けない」と述べて、「わたしたちの言うこと」を聞くかどうかが、神に属す者であるかどうかを示す標識であるとします(六節前半)。
 長老は自分を「使徒」と呼んではいませんが、直接イエスに接し、その教えを聴き、復活者イエスの顕現を体験して、このイエスを世に宣べ伝えるために遣わされた者の一人として、「使徒」の立場で語っています。したがって、「わたしたちの言うこと」とは、使徒および使徒と共にいる共同体が言い表す信仰ということになります。これが後に「使徒性」として正統信仰の基準となり、正典も使徒性を基準にして選ばれることになります。
 ここで長老は、「このことによって、わたしたちは真理の霊と偽りの霊を識別するのです」言っています(六節後半)。文の流れと形からすると、「このことによって」は、直前に述べたこと、すなわち「わたしたちの言うこと」を聞くかどうかを指し、それが真理の霊と偽りの霊を識別する基準となると言っていることになります。しかし、ヨハネの文章では、文頭の「このことによって」は、しばしば後に続く内容を指しています(二・三、三・一〇、三・一六、三・二四、四・二など多数)。わたしは、この文を書いたとき長老の念頭にはこれから語ろうとする「愛」の問題があり、思いは「愛」《アガペー》のことでいっぱいであったのではないかと推察します。長老にとっては《アガペー》をもたらす霊であるかどうかが、真理の霊と偽りの霊を識別する基準であったと見られます。これは、先に見たように、霊の真偽を見分ける基準として、神の誡めの二つを満たすことを基準としていたことと一致します。すなわち、使徒たちが言い表すように「イエスを肉において来られたキリスト」と言い表し、お互いに愛するようにという神の誡めを満たす霊が真理の霊であることになります(四・一の講解を参照)。

10 神は愛である(4章 7〜21節)

 7 愛する者たちよ、わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は神から出るものであり、愛する者はすべて、神から生まれ、神を知っているからです。8 愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は、その方によってわたしたちが生きるようになるために、御自身の独り子を世にお遣わしになりました。このことによって、神の愛がわたしたちに明らかにされたのです。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、その独り子をわたしたちの罪過のための贖いとしてお遣わしになりました。ここに愛があります。
 11 愛する者たちよ、このように神がわたしたちを愛されたのですから、わたしたちもまた互いに愛し合うべきです。12 いまだかって神を見た者はありません。もしわたしたちが互いに愛するならば、神はわたしたちの内にとどまり、神の愛がわたしたちの内に全うされるのです。
 13 神は御自身の御霊をわたしたちに分け与えてくださいました。そのことによって、わたしたちは神の内にとどまっており、神がわたしたちの内にとどまっていてくださることが分かります。14 そしてわたしたちは、神が御子を世の救い主として遣わしてくださったことを見て、証ししています。15 イエスは神の御子であると言い表す者があれば、神はその人の内にとどまり、その人は神の内にとどまっています。16 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じています。神は愛です。愛にとどまる者は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまっておられます。
 17 このように愛がわたしたちの間に全うされているので、わたしたちは裁きの日に確信を持つことができます。それは、この世において、あのお方がそうであったように、わたしたちもまた同じ在り方をしているからです。18 愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを外に追い出します。恐れは処罰と関わり、恐れている者は愛において全うされていないからです。19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。20 もし誰かが、「わたしは神を愛している」と言いながら、自分の兄弟を憎んでいるならば、その人は偽り者です。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません。21 神を愛する者は自分の兄弟をも愛すべきです。これこそわたしたちが彼から受けた誡めです。

神の愛の啓示(四・七〜一〇)

 長老は、共同体の分裂の危機にあたって、自分のもとに残った人たちに、イエスへの正しい信仰告白と共に、互いに愛する愛の重要性を、この書簡で言葉を尽くして訴えてきました。その愛の訴えがここで頂点に達します。おそらくかなりの高齢になっている長老は、自分の長い生涯を通して主イエスから聞いてきた神についての教えを一点に絞り、もはや枝葉のことに触れることなく、その一点を繰り返し語ります。その一点とは、神は愛であるから、神からの者(神に属する者)は互いに愛すべきであるということです。この一点は、用語は違いますが、イエスが「父が慈愛深いのであるから、あなたたちも慈愛深い者であれ」と言われたのと同じです。ヨハネはこれを「愛《アガペー》」という用語で表現します。神は愛ですから、愛は神から出るものであり、愛する者は神から生まれ、神を知る者であり、愛さない者は神を知らないということになります(七〜八節)。
 ヨハネの神認識はきわめて実践的です。「愛する者はすべて、神から生まれ、神を知っている」のです。互いに愛するという実践的な場で、人間は神を知るのです。民族とか宗教とか文化の差異を超えて、人間は互いに愛するならば、その愛の中で人は誰でも神を知るのです。ある特定の宗教の者だけが神を知ることができるのではありません。厳しい修行と瞑想に没頭する者だけが神を知るのではありません。どの宗教の人間でも、もしその人が愛に生きているならば、その人は神を知っているのです。
 では、その愛に生きることが直ちに神を知ることであるという「愛」とは、どのような愛でしょうか。人間は誰でも生まれながらに愛を知っています。男は女を愛し、女は男を愛します。親は子を愛し、子は親を慕います。肉親の兄弟姉妹を愛し、友人・同胞を愛します。もしそのような愛に生きることが直ちに神を知ることになるのであれば、生まれながらの人間は全員神を知るはずであり、啓示も贖いも要りません。しかし、それは人間の愛であって、その愛で神の愛を知ることはできません。神の愛は人間の愛と異なる別種の愛であり、神がそれを啓示してくださらなければ知ることができない愛です。
 ヨハネは、「このことによって、神の愛がわたしたちに明らかにされたのです」(九節文頭)と言って、神が独り子を世に派遣された出来事、すなわちイエスが神を啓示する者として働き、わたしたちを命の領域に導き入れてくださった出来事を指さします(九節)。さらに、「ここに愛があります」(一〇節文頭)と言って、神の独り子イエス・キリストがわたしたちのために死なれた十字架の出来事を指し示します(一〇節)。ヨハネもイエスの十字架の死を、神の独り子によるわたしたちの罪過のための贖いと理解し、そう宣べ伝えています。これは、パウロが「わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対する御自身の愛を示された」(ローマ五・八)と言っているのと同じです。

ヨハネはここで「贖い」《ヒラスモス》という語を用いています。この用語については二章二節の講解を参照してください。

 そして、このイエス・キリストの出来事によって啓示された神の愛は、生まれながらの人間がもつ愛と別種であるので、ヨハネはそれを別の用語で語ります。ギリシア人は、男女とか親子とか友人とか人間の間の自然の情愛は《フィリア》とか《エロース》という語で指しました。そういう情愛とは別種の愛が現れたので、その愛を受けて体験した新約聖書の証人たちは、それを《アガペー》という別の語で語りました。その中でもヨハネはとくにこの《アガペー》を多く用いて、自分の福音告知の中心に置いています(ヨハネ三・一六など)。
 「神の愛」と言っても、それは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった」ことを指しています。ヨハネの言う愛は、高みに向かう人間の愛、より高い価値を慕う人間の愛《エロース》ではなく、低いところにいる人間、罪の中にいる人間に向かう神の愛です。《アガペー》は「降下する愛」です。

新約聖書における《アガペー》・《フィリア》・《エロース》の用法と、ヨハネにおける《アガペー》の用例については、拙著『キリスト信仰の諸相』の第三部第三講「愛はすべてに勝つ―新約聖書における《アガペー》」、とくにその中の178頁以下「ヨハネにおける愛」を参照してください。そこでかなり詳しく触れていますので、ここでは簡略にします。また、《フィリア》とか《エロース》と呼ばれる人間の本性的な情愛と《アガペー》がどのような関係になるのかについては、同書195頁以下の「本性的な愛とアガペー」の項を参照してください。

愛における神の内住(四・一一〜一六)

 どのようにして神の愛がわたしたちに啓示されたか、そして啓示された神の愛とはどのような愛であるのかを語った上で、長老は改めて、「このように神がわたしたちを愛されたのですから、わたしたちもまた(このような質の愛をもって)互いに愛し合うべきです」と繰り返します(一一節)。そして、「もしわたしたちが互いに愛するならば」、どのようなことがわたしたちに起こるのかを語ります(一二〜一六節)。
 わたしたちが互いに愛するとき、わたしたちに起こることは、一言で言うならば、「神がわたしたちの内にとどまる」ということです。神がわたしたちの内にとどまるようになるという驚くべき出来事(それはわたしたち人間の内に起こる出来事です)が、この一段(一一〜一六節)を貫く主題です。その主題が様々な角度から見られて語り出されます。
 神は人間の五感で直接感知することはできません。「いまだかって神を見た者はありません」。その神がわたしたちの内にとどまり、働かれるのです。その姿を見ることはできませんが、現実に神がとどまって働いてくださり、わたしたちを愛される神の愛がわたしたちの内に貫かれ、現実のものとなります(一二節)。
 長老は、神との関わりの現実を語るとき、御霊のことに言及せざるをえません。神との関わりを現実にしてくださるのは御霊の働きであることを、身をもって体験しているからです。先には《クリスマ》(油)という用語で語られていましたが(二・二〇、二七)、ここでははっきりと《ト・プニューマ》(御霊)が用いられ、「神の御霊から与えられた」(直訳)と言われています。御霊がわたしたちの内に働いてくださっている事実によって、わたしたちは神の内にとどまっており、見えない神がわたしたちの内にとどまっていてくださることを、わたしたちは身をもって知るのです(一三節)。
 長老は、互いに愛する者の内に神がとどまってくださるということを語りながら、本書のもう一つの主題であるイエスを正しくキリストと言い表すことの必要に触れないではおれません。「わたしたち」、すなわち長老とその共同体は、「神が御子を世の救い主として遣わしてくださったことを見て、証しして」きました。その証しが結集されたものがヨハネ福音書です。その証しを受け容れ、「イエスは神の御子であると言い表す者があれば」、その人は「命《ゾーエー》をもつ」と福音書では言われていました(ヨハネ二〇・三一)。そのことがこの書簡では、「神はその人の内にとどまり、その人は神の内にとどまる」と言われます。永遠の命とは、死生を超えて神の内にとどまることに他なりません(一四〜一五節)。
 「もしわたしたちが互いに愛するならば、神はわたしたちの内にとどまる」(一二節)と語り出した長老は、話題を一巡して再び出発点に戻ります。長老は改めて、「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じています」と言います。わたしたちキリストにある者は、キリストの十字架においてわたしたちに対する神の愛が現されたことを見ており、また内に与えられた聖霊によって神の愛が注がれていることを体験しています。わたしたちは神の愛を「知っています」。そして、知っているだけでなく、その神の愛に自分の生涯と存在を委ねています。わたしたちの状況がどうであろうと、どのようなことが起ころうと、わたしたちは神が愛であるという事実に自分を委ねて生きています。この生き方が、「わたしたちは神の愛を信じています」と表現されます。長老は、自分の全存在をかけて、「神は愛です」と言い表し、神は愛であるから、その「愛にとどまる者は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまる」と確言します(一六節)。
 このように、この一段(一一〜一六節)は「愛にとどまる者は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまる」ことを語り出しています。ところが、この「人が神の内にとどまり、神が人の内にとどまる」という神と人との相互内住を明白に語る表現は、実は全新約聖書の中でここだけなのです。
 たしかに、「とどまる」という動詞はヨハネ特愛の表現であり、福音書と書簡に繰り返し出て来ます(計六七回)。しかし、福音書においては、イエスは弟子たちに「わたしにとどまっている」ことを求めておられるのであって(ヨハネ一五・四〜七)、「神の内にとどまる」ことは話題になっていません。書簡においても、「神」という名辞を用いて明白に「神の内にとどまる」ことが語られているのは、ここ(一五〜一六節)の二回だけで、他はすべて代名詞を用いて「彼の内にとどまる」です。
 そこで、この「彼」が神を指すのか、キリストを指すのかが問題になります。たとえば、「彼の誡めを守る者は、彼の内にとどまっており、彼もその人の内にとどまってくださいます」(三・二四)の「彼」は、日本語訳はみな「神」と訳しています。ここに明白に「神の内にとどまる」という表現がある以上、そう訳するのは間違いではありません。
 しかし、その箇所の講解で述べたように、キリストを指すと理解する方が適切ではないかと、わたしは考えます。そこで述べたように文脈からの解釈からもそう考えられますが、それ以上に、ヨハネ福音書に見られるように、ヨハネにおいても「イエスの内にとどまる」、あるいは「キリストの内にとどまる」ことが信仰の基本的表現であると見られるからです。
 パウロは「キリストの内に」《エン・クリストー》ということは繰り返し強調しますが、「神の内に(人がとどまる)」という表現は用いていません。また「神がわたしたちの内に(とどまる)」という意味の表現も用いていません。これは当時のユダヤ教徒においては当然のことと考えられます。捕囚以後のユダヤ教においては、神の超越性が強調されるようになり、神は人間から限りなく遠く離れた高みにいます方、近づきがたい光の中にいます方とされていましたから、「人が神の内にとどまり、神が人の内にとどまる」というようなことは考えられないことでした。それだけに、芯からのユダヤ人であるヨハネが「人が神の内にとどまり、神が人の内にとどまる」と言うようになったことは、福音、あるいはキリスト信仰がユダヤ教にもたらした変革がいかに重大なものであるかをうかがわせます。
 この変革への突破口を開いたのは、やはりパウロではなかったかと考えられます。パウロが《エン・クリストー》と言って、キリストにあって、あるいはキリストの内にあって体験した神との関わりを語るとき、そのキリストは復活して神と共にいます方ですから、自分が「神の内に」あるのだというところまであと一歩です。また、「キリストがわたしの中に生きておられる」(ガラテヤ二・二〇)というのも、神が私の内に生きておられる」という告白へあと一歩です。事実、「あなたたちの内に働いておられるのは神です」(フィリピ二・一三)と言って、神が人の内に働いておられることを明言しているところもあります。しかし、全体として見るとパウロは、その一歩を踏み越えず、あくまでキリストとの内住関係にとどまっています。ヨハネもキリストとの内住関係を信仰体験の基本としていますが、パウロよりも大胆にその一歩を踏み出して、「人が神の内にとどまり、神が人の内にとどまる」という神と人との相互内住まで進んでいます。これはおそらく、ヨハネがパウロよりもキリストを神とする告白において大胆だったからでしょう。ヨハネが「彼の内にとどまる」とか「彼がわたしたちの内にとどまる」というとき、その「彼」はキリストを指すのか神を指すのか、区別できないところまで来ています。
 しかし、超越的な神をいただくユダヤ教の中で、神が人間の内にあって働かれるという現実を地上にもたらされたのは、やはりイエス御自身であったと見ることができます。イエス御自身が内にいます神の霊によって語り働かれたからこそ、弟子たちに「(迫害されるとき)・・・実は、話すのはあなたたちではなく、あなたたちの中で語ってくださる父の霊である」と言われたのです(マタイ一〇・二〇)。この神の霊によって父と一つの交わりに生きられたイエスの現実を、同じ御霊によって体験しているヨハネ共同体は、イエスを「父の内にとどまる」方として、またその内に「父がとどまり、語り、働かれる」方として、その福音書において明確に描くに至ります。そのようなキリスト信仰の質が、ここで「人が神の内にとどまり、神が人の内にとどまる」と宣言させるに至ったと見ることができます。

愛は恐れを取り除く(四・一七〜二一)

 ここで述べたように、神の愛がイエスをキリストと信じる者たちに注がれ、その愛をもって兄弟が互いに愛し合う愛の交わりが生まれ、その愛の交わりの中に愛の神がとどまってくださるという、愛における神と人との相互内住が実現するとき、その愛の交わりに生きる者たちは、もはや神を終わりの日にわたしたちの罪過を責めて裁く方として恐れる必要はなく、神が世界を裁かれる日に、すでに親しい愛の交わりの中にある方として、安心して御前に出ることができます(一七節前半)。
 「愛がわたしたちの間に全うされているので、わたしたちは裁きの日に確信を持つことができる」理由として、長老は「それは、この世において、あのお方がそうであったように、わたしたちもまた同じ在り方をしているからです」と述べます(一七節後半)。長老はここで「あのお方」と言って、明らかにイエスを指しています。イエスが地上で生きられたように生きているので、神は御子イエスを愛されたように、同じように生きる者たちを愛し、御霊によって愛を注いでくださるので、ここに述べた愛の交わりが全うされることになり、その結果「わたしたちは裁きの日に確信を持つことができる」ようになります。
 長老とその共同体は、やがて「裁きの日」が世界に臨むこと、また「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立つ」(コリントU五・一〇)ようになるという終わりの日の待望を、(パルーシア待望と同様に)周囲の主流の共同体と共有しています。それで、イエスと同じように生きることを裁きの日に確信をもって御前に立つことができることの根拠にすることになります。イエスと同じように生きてきた者を、裁き主であるイエス・キリストが断罪されることはないのですから。

17節は、文頭の「このことにおいて」が文末の《ホティ》節を指すと見て、「この世において、あのお方がそうであったように、わたしたちもまた同じ在り方をしていることによって、愛がわたしたちの間に全うされ、わたしたちは裁きの日に確信を持つことができます」と訳すこともできます。この私訳は(新共同訳と共に)文末の《ホティ》節を理由を示す節と理解しています。どちらの訳をとっても、この節の大意は変わりません。

 わたしたちの内に愛が全うされるとき、わたしたちは裁きの日に確信をもつことができるという前節の内容を、長老は「愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを外に追い出します」と、「恐れ」という語を用いて言い直します(一八節前半)。ここでいう「恐れ」は裁きの日に断罪されるのではないかという不安とか恐れです。そういう意味の「恐れ」であることを、すぐに続く「恐れは(裁きの日における)処罰と関わるものであるからです」という文で説明します。ですから、もし裁きの日の断罪を恐れている者があれば、その人はまだ「愛において全うされていないから」ということになります(一八節後半)。
 一八節の「恐れ」は、直接的には裁きの日の処罰に関わるものですが、この「愛には恐れがない」という一文は、さらに一般的な意味で愛の本質を語っています。わたしたちの人生には様々な不安や恐れがあります。そのような人生の中で、わたしたちが愛に徹して生きるならば、「愛は恐れを追い出す」ことになり、わたしたちは不安とか恐れのない人生を歩むことになります。それは、聖書のいう愛は、自分をゼロの場に置いて、無条件絶対の神の愛を受け、その愛によって無条件に隣人を愛するのですから、自分や周囲の状況が将来どうなるかは不安とか恐れの対象ではなくなるからです。パウロは愛について、「愛はすべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う」(コリントT一三・七私訳)と言いましたが、この「すべて」をどのような相手をも、またどのような状況でもと理解すると、このような愛は人生における恐れを駆逐することが理解できます。
 「恐れている者は愛において全うされていない」のだと言った長老は、そのような者と対比して、「(この共同体に属する)わたしたちは愛している」のだと強調します。「わたしたち」は強調されています。そして、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」と、共同体の内に宿る愛の根拠を改めて指し示します。神がまずわたしたちを愛してくださったからこそ、その愛を受けてわたしたちも互いに愛し合うことができるのです(一九節)。
 長老は、これまで繰り返し、神を愛することと兄弟を愛することが一体であることを強調してきました。神の愛を語るこの段落を、やはりこのことを説いて締めくくります。長老が、神を愛していると言いながら兄弟を憎む者を偽り者だと決めつけるのは、おそらく共同体の交わりから出て行った者たちのことを語っているのでしょう。彼らは自分たちが霊なる神との深い交わりを持つことを誇り、神に愛され神を愛していることを標榜していたのでしょう。ところが、自分たちの知識に誇り、長老の証しに飽きたらないとして共同体から出て行った者たちは、その際に長老のもとに残る兄弟たちに軽蔑とか反感を露わにして出て行ったのでしょう。長老はそれを「兄弟を憎んでいる」と表現しています。そして、「現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません」と、その行動を神を愛していないことの証拠として突きつけます(二〇節)。
 最後にもう一度、「神を愛する者は自分の兄弟をも愛すべきです」と説き、「これこそわたしたちが彼から受けた誡めです」と締めくくります。「彼から受けた誡め」とは、ヨハネにおいては、神から主イエス・キリストを通して受けた誡めという意味になっています。神から受けた愛をもって兄弟を愛すること、これこそイエス・キリストを通して御自身を示された神、新約の神の唯一究極の誡めなのです(二一節)。

「壁の中の愛」?

 ところで、ヨハネは兄弟を愛することの重要性を繰り返し強調しますが、イエスが語られた「隣人を愛する」という表現を用いていません。それで、ヨハネの説く愛は、イエスを信じる者たちの共同体の内部での愛に限定され、広く社会で接する隣人への愛、敵をも愛する愛は視野に入っていない、すなわち「壁の中の愛」ではないかという批判が出てきます。この問題は、すでに前著『キリスト信仰の諸相』(185頁)で取り上げましたが、ヨハネの手紙の理解において重要ですから、ここでもう一度要約しておきましょう。
 長老が兄弟愛を強調するのは、今までに見てきたように、共同体の分裂の危機に対処するという実際上の必要があるからでしょうが、それだけでなくヨハネの思考の枠組みという基本的な視点から見なければなりません。ヨハネの思考は、福音書に見られるように、命と光の領域と死と闇の領域という、交わることのない二つの領域の対立という枠組みの中で動いています。このような枠組みの中では、愛《アガペー》は命の領域を構成する原理であって、死の領域にはありません。イエスを信じることによって死の領域から命の領域に移った者たちにとって、その領域で出会う隣人はすべて同じ父から生まれた兄弟であり、愛《アガペー》は兄弟の間での愛となります。その愛は、その兄弟の(この世の物差しで測った)価値と無関係に、ただ同じ父から生まれた兄弟であるがゆえに愛する愛となります(五・一参照)。その愛は、特定の価値を共有する仲間内の愛とか、自分にとって価値ある相手に対する愛(相対的な愛)ではなく、人間の物差しを絶した無条件の愛となり、イエスが説かれた相手の価値に絶した絶対の愛となっています。ヨハネが説く兄弟愛は、このような相手の価値に絶した絶対の愛ですから、兄弟愛を意味する《フィラデルフィア》という語が、一視同仁の「博愛」という意味になりうるのです。

11 世に勝つ信仰(5章 1〜12節)

 1 イエスがキリストであると信じる者はすべて、神から生まれたのであり、また、生んだ方を愛する者は皆、その方から生まれた者を愛します。2 このことによってわたしたちは、神を愛し、その誡めを守るときは、神の子たちを愛していることを知ります。3 神を愛するとは、神の誡めを守ることです。そして、神の誡めは難しいものではありません。4 すべて神から生まれた者は、世に打ち勝つからです。そして、わたしたちの信仰こそ、世に打ち勝った勝利です。
 5 世に打ち勝つ者とは誰か。それは、イエスを神の御子と信じる者の他にあろうか。6 この方は水と血とによって来られた方、すなわちイエス・キリストです。この方は、水だけでなく、水と血とによって来られた方です。そして、証しする方は御霊です。御霊は真理だからです。7 証しするものが三つあります。8 御霊と水と血です。そして、この三つは一致します。9 もしわたしたちが人間の証しを受け容れるのであれば、神の証しはさらに大きいものです。神の証しとは、御自身の御子についてなされた証しだからです。10 神の御子を信じる者は、この証しを自分の内にもっています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。それは、神が御自身の御子についてなされた証しを信じないからです。11 そして、その証しとは、神がわたしたちに永遠の命を与えてくださったこと、また、その命が御子の内にあることです。12 御子をもつ者は命を持つのです。神の御子をもたない者は命を持っていません。

愛は打ち勝つ(五・一〜四)

 最後に長老はこの段落(五・一〜一二)で、イエスをキリストと信じる信仰こそ世に打ち勝つ力であることを語ります。ヨハネにおいては、世《コスモス》とは、神に背き、神に敵対する霊的な力が支配する闇と死の領域に他なりません。その闇の支配から救い出されて光と命の領域に移ることが救いです。そして、その「世から救い出される」ことを、ここでは積極的に「世に打ち勝つ」と表現します。
 人間は、自分の力と努力で世に打ち勝つことはできません。命と光の領域から遣わされてこの世に来られたイエス・キリストを信じ、その方に合わせられることによってのみ、世の支配を脱し、光と命の領域に移ることができるのです。これがヨハネの使信の核心です(ヨハネ六・二九参照)。この使信がここで、「世に打ち勝つ」という表現を用いて詳しく展開されます。
 段落の前半(一〜四節)では、イエスを神が世に遣わされたキリストであると信じる者は、神から生まれた者であるゆえに世に打ち勝つのだと、その勝利の消息が語られます。神から生まれた者は、生んだ方(親)を愛し、生んだ方(親)を愛する者は皆、その同じ親から生まれた者(兄弟)を愛するので、互いに愛しなさいという神の究極の誡めを守っていることになります。こうして、イエスがキリストであると信じる者は、このキリストを通して賜る愛の命(それは神の命です)によって、自我性を原理とする世に打ち勝ち、神の命の領域に生きることになります。愛《アガペー》は、先に見たように、すべてに打ち勝つ力だからです。
 ところで、長老は「イエスがキリストであると信じる者はすべて、神から生まれたのである」と言って、神を「(わたしたちを)生んだ方」と呼んでいますが、奇妙なことに、ヨハネの手紙には神を父と呼ぶ用例がありません(唯一の例外はヨハネ書U三節の定型的な挨拶文だけ)。これは、ヨハネ福音書のイエスがいつも神を父と呼んでおられただけに、奇妙だという印象を避けることができません。イエスが神を父と呼んでおられたことは、共観福音書の伝承が一致して伝えるもっとも確実な伝承であり、ヨハネ福音書も他のどの福音書よりも多く、イエスが神を「父」と呼ばれた事例をあげています。それだけに、この手紙で一度も神を「父」と呼ぶ事例がないのが不思議です。イエスが神を父と呼ばれた事例を繰り返し語った長老も、自分の言葉で手紙を書くときには、ユダヤ人としての生地が出て、神という呼び方しかできなかったのでしょうか。

神の証し(五・五〜一二)

 段落の後半(五〜一二節)では、同じ「世に打ち勝つ者」という主題が、「イエスを(キリストの代わりに)神の御子と信じる者」と言い換えられて続きます(五節)。後半では、イエスを神の御子と信じる根拠となる「神が御自身の御子についてなされた証し」が取り上げられます。
 イエス・キリストは「水と血とによって来られた方」とされ、そのことが「水だけでなく、水と血とによって来られた方」と補足されて、「血によって来られた方」であるという面が強調されています(六節前半)。この表現は、長老ヨハネの教えに批判的な教師たちが、イエスが水のバプテスマをお受けになったときキリストが降り、イエスが十字架につけられる直前にキリストはイエスを去ったとする仮現論的なイエス・キリストを説いたことに対する反論であると考えられます。
 イエス・キリストは「水を通して」来られました。すなわち、イエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたとき、聖霊が降り、その聖霊がイエスは神の子であることを証ししました。長老の批判者たちは、イエスはこの時から神の子キリストとして、すなわち霊界の奥義の啓示者として働かれたが、このキリストはイエスが十字架につけられる直前にイエスを去って、十字架の上で苦しんだのは人間イエスであるとしました。神の子であるキリストが十字架につけられて苦しむというようなことはありえないとするからです。
 それに対して長老は、イエス・キリストを「水だけでなく、水と血とによって来られた方」とします。すなわち、キリストはバプテスマのときに受けられた聖霊によってキリストとしての働きをされただけでなく、十字架の上で血を流した方として、真に救済者キリストであるのだとするのです。長老がキリストを「血によって来られた方」であると強調するのは、パウロが「十字架につけられたままのキリスト」《クリストス・エスタウロメノス》を強調したのと同じ線上にあります。

六節前半の「水と血とによって来られた方」では《ディア》(を通して、によって)という前置詞が用いられていますが、それを補足する「水だけでなく、水と血とによって来られた方」では《エン》(において、によって)が用いられています。この前置詞の違いはとくに意味があると考えられないので、両方とも「によって」と訳しています。
 なお、ここの「水と血によって来られた方」という記事と、ヨハネ福音書一九章三四〜三五節の「血と水が流れ出た」という記事との関連については、同箇所の講解を参照してください。

 イエス・キリストは「水だけでなく、水と血とによって来られた方」であるという宣言に、「証しする方は御霊です。御霊は真理だからです」と、聖霊の証しが続きます(六節後半)。イエスがバプテスマをお受けになったとき聖霊が降り、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声があったことは、各福音書が伝えています。キリストが「水を通して来られた方」であることが、聖霊によって証しされたのです。では、キリストが「血によって来られた方」であることは、どのようにして聖霊によって証しされたのでしょうか。
 イエスが逮捕され、裁判を受け、十字架刑によって処刑された様子は、各福音書が詳しく物語っています。しかし、そのとき実は「キリスト(復活者であり救済者であるキリスト)がわたしたちの罪のために死んでくださった」という出来事が起こっていることは、いったい誰が知ることができましょうか。これは「人の心に思い浮かびもしなかったこと」です。ただ神の御霊だけがこの奥義を啓示してくださいました。この啓示の働きはすでに旧約の預言者から始まっています。イスラエルの預言者たちは神の霊を受けて、やがて世に遣わされるメシアは、世の人々に代わって苦しみを受けることによって人々を救うことになると証ししました(たとえばイザヤ書五三章)。そして、その出来事が実際に起こったとき、御霊はイエスに従う弟子たちに働き、イエスが復活して生きておられることを現すと同時に、その十字架上の死が「キリストがわたしたちの罪のために死んでくださった」出来事であることを啓示したのです。
 この「御霊の証し」は、パウロの場合はとくに明確です。イエスを信じる者を迫害していたパウロは、実はイエスを迫害していたのです。そのパウロは復活されたイエスの顕現に接して回心し、その後、聖霊の導きの中で、キリストであるイエスが死なれたのは自分のためであることを深く自覚するようになります(ガラテヤ二・二〇)。そして、「十字架につけられたままのキリスト」《クリストス・エスタウロメノス》を福音として宣べ伝えることに生涯を捧げます。この「御霊の証し」は、その後も連綿として続き、二〇〇〇年後に(イスラエルの地から見れば)地の果てにいる塵のようなわたしにも、御霊は働いてくださり、「わたしはあなたのために死んだ」という「十字架の言葉」そのものである復活者キリストを啓示してくださったのです。
 こうして、「イエスこそ肉を取って来られたキリストである」という長老の告知は、「証しするものが三つあります。御霊と水と血です。そして、この三つは一致します」と、三つの証ししによって保証しされます(八〜九節)。イエスにおける水(バプテスマ)と血(十字架)の出来事は、内なる御霊の啓示と一致して、イエスが肉の形をとって世に来られた神の御子キリストであることを保証ししています。
 この三つの証しは、神が御自身の御子についてなされた証し、すなわち「神の証し」として、人間は当然受け容れるべきものであることが説かれます(九節)。人間社会でも、二人の証人が一致すれば、その証言は真理として受け容れられ、それに基づいて判決が言い渡されます。まして、「神の証し」は人間の証しよりも確かなものですから、すべての人間はそれを受け容れて、イエスを神の御子キリストと信じ、その事実に基づいて生きるべきです。
 この「神の証し」に直面して、人は二つに分かたれます。この証しを受け容れてイエスを神の御子と信じる者は、この証しを「自分の内に」持つことになります。イエスが神の御子であるという事実は、もはや外からそう言い表すように強制される教義や信条ではなく、自分の魂の奥深くに宿る真理となり、そこから神の御子であるイエスに従う生き方が自然にあふれ出てくるようになります。それに対して、この証しを受け容れない者は、神が御自身の御子についてなされた証しを信じないのですから、「神を偽り者とする」という不条理きわまる罪を犯しているのだと、長老は警告します(一〇節)。
 神の証しを受け容れる者と拒む者の対比を明らかにした上で、御子を信じる者が自分の内にもつ証しがどのような内容であるか、「その証しとは、神がわたしたちに永遠の命を与えてくださったこと、また、その命が御子の内にあることです」と明らかにします(一一節)。御子を信じる者は、永遠の命が今自分の内にあるという証し(確証)を持っています。しかも、この永遠の命は御子の内にあるのです。御子がおられないところには、永遠の命はありません。「御子をもつ者は命を持つのです。神の御子をもたない者は命を持っていません」(一二節)。この確信と理解からヨハネ福音書が生み出されています。

一二節の「命を持つ」とか「御子を持つ」というのは、日本語としては不自然な表現ですが、ギリシア語原語では「持つ」という同じ動詞を用いて、「その命が御子の内にあること」を語っているので、その点を明確にするため、不自然な日本語になりますが、あえて「持つ」という同じ動詞を用いて訳しておきます。

12 結び(5章 13〜21節)

 13 神の御子の名を信じているあなたたちにこれらのことを書き送ったのは、あなたたちが永遠の命を持っていることを知ってもらいたいからです。
 14 そして、神に対するわたしたちの確信はこうです。すなわち、もしわたしたちが神の御心にかなうことを願うならば、神は聞き届けてくださいます。15 また、わたしたちが願い求めたことは聞き届けてくださることを知っているのであれば、わたしたちが神に願い求めたものはすでに得ていることを知ります。
 16 もし兄弟が死に至らない罪に陥っているのを見たならば、願い求めなさい。そうすれば、その人に命を与えることになります。それは、死に至らない罪に陥っている者たちの場合です。死に至る罪があります。そのような罪については、願い求めるようにとは言いません。17 不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
 18 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪に陥ることはありません。神から生まれた方がその人を守り、悪しき者がその人に触れることはありません。19 わたしたちは知っています。わたしたちは神からの者ですが、世の全体は悪しき者の下に置かれています。20 わたしたちは知っています。神の御子が来て、真理なる方を知る理解力をわたしたちに与えてくださいました。わたしたちは真理なる方の内におり、その方の子であるイエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真正の神、永遠の命です。21 子たちよ、偶像から身を守りなさい。

手紙の意図(五・一三)

 長老はここで、「これらのことをあなたたちに書き送ったのは」と言って、ここまで書いてきた手紙の意図と内容をまとめます。長老は、「神の御子の名を信じているあなたたち」、すなわち自分が告知してきた神の御子イエス・キリストを信じている者たちの共同体に向かって書いてきました。その手紙の目的は、「あなたたち(御子の名を信じている者たち)は現に永遠の命を持っている」ことを悟ってもらいたいからです。原文には「現に」という語はありませんが、長老が言いたいことを明確にするためには補うとよいでしょう(一三節)。
 手紙の全体としての意図を明らかにした上で、長老は筆を擱く前に、なお気にかかることを二三、念を押すように書き加えます(一四節以下)。

祈りについて(五・一四〜一五)

 最初に、「神に対するわたしたちの確信はこうです」と言って、祈りに関する勧告をします(一四〜一五節)。この勧告は、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ一一・二四)と言われたイエスの語録を敷衍しています。この箇所で「神」と訳した原語はすべて「彼」ですが、祈りは本来神に向けられたものであるという理解から、ここの「彼」は神を指すと理解して訳しています。ヨハネ福音書(一四・一三)では、イエスが「あなたたちがわたしの名によって求めることは何でも、わたしがそれをする」と約束しておられます。ヨハネにおいては、神がなしてくださることと、復活者イエス・キリストがなしてくださることが重なっています。
 このイエスの語録は、祈りに関する重要な教えとして広く共同体に伝承されていたと見られます。しかし、実際の祈りの体験においては、「そのとおりになる」とはならない場合も出てきます。それで、このような聞き届けられない願い(祈り)について、「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ四・三)のような説明がなされるようになります。ヨハネも、「もしわたしたちが神の御心にかなうことを願うならば」という一文を加えて、この問題に対処しています。
 しかし、わたしたちが主イエス・キリストの名によって、すなわちイエス・キリストと一つに合わせられた者として、自分の全存在を父の絶対恩恵に委ねて祈り求めるとき、動機とか条件は吹き飛び、父はその祈りを聞き届けてくださっていることを確信することができます(ヨハネ一五・七)。ただ、それがどのような形で自分の身に起こるのかは父に委ねて、「願い求めたものはすでに得ている」と、平安の内に父がなしてくださるのを待つことができます。一五節はこの境地を語っています。

罪に陥っている兄弟について(五・一六〜一七)

 次に、罪に陥っている兄弟のための祈りについて勧告します(一六〜一七節)。長老は、罪にも「死に至らない罪」と「死に至る罪」があるとして、「死に至る罪」については、命への復帰を神に祈り求めるようにとは言いません。ただ、「死に至らない罪」に陥っている兄弟については、「(神に)願い求めなさい。そうすれば、その人に命を与えることになります」と勧告します。
 「死に至らない罪」でも、罪は罪です。神の御心に背き、御霊を悲しませる在り方です。それを悔い改めることなく続けると、ついには命《ゾーエー》を失うことになります。そのような状況に陥っている兄弟については、執り成しの祈りをもって願えば、神は赦して再び命を与えてくださり、その祈りはその兄弟を十全な命の交わりに復帰させることになる、と励まします。

《ハマルタノー》という動詞を「罪を犯す」と訳さず、「罪に陥いる」と訳す理由については、本書348頁の注記を参照。

 この「死に至らない罪」と「死に至る罪」の区別はどこにあるのか、具体的にはどのような罪を指しているのかが注解者の間で議論されてきました。この手紙自体の中では、もはや執り成しの祈りをすることができない「死に至る罪」とは、イエスがキリストであることを否定することを指しているのでしょう。そのような人たちに対しては、もはや神に願い求めることはないと、長老は突き放します。しかし、イエスをキリストと言い表す信仰の交わりの中で、弱さのゆえに犯す罪の行為や罪の状況については、兄弟は互いに執り成しの祈りをもって、命の交わりを保つようにと励まします(ヤコブ五・二〇)。
 ところが、この「死に至らない罪」と「死に至る罪」の区別は、その後のキリスト教の歴史において重大な影響を及ぼすことになります。もともとイエスも「赦される罪」と「赦されない罪」があることを語られました(マルコ三・二八〜二九)。それがどのような罪を指すのか、各時代の教会が様々な解釈をして、改悛を経て赦す場合と、教会から最終的に放逐する場合を規定しました。その解釈の歴史については、この講解の範囲を超えますので、その方面の専門書に委ねることにします。

真理の認識(五・一八〜二一)

 最後に長老は「わたしたちは知っています」を三回繰り返して、共同体が認識し、それによって生きている基本的真理を確認します(五・一八〜二一)。
 まず、「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪に陥ることはありません」と言って、御子を信じることによって神から生まれた者は罪の支配から解放されており、罪を克服して生きることができること、すなわち信仰は実際の生き方を変えることを確認します。そして、その理由として、「神から生まれた方がその人を守り、悪しき者がその人に触れることはありません」と続けます。「神から生まれた方」イエス・キリストが「神から生まれた者」であるわたしたちを守ってくださり、神に敵対し、神からわたしたちを引き離そうとする「悪しき者」がわたしたちに触れるのを許されないからです(一八節)。

ここでわたしたちを指す「神から生まれた者」とイエス・キリストを指す「神から生まれた方」が、同じ「生む」という動詞の受動態分詞形で表現されています。わたしたちを指す形は現在完了形で、イエス・キリストをさす形はアオリスト(過去形)であるという時制の違いだけです。わたしたちの場合は、神から生まれた者として現に今ここにいるという意味であり、イエス・キリストの場合は過去の出来事として見られているのでしょう。しかし、ここで救われる者と救う者の同質性が語られていることが注目されます。この同質性はグノーシス主義の特色の一つです。

 さらに長老は、「わたしたちは知っています。わたしたちは神からの者ですが、世の全体は悪しき者の下に置かれています」と述べます(一九節)。ここで、イエスを神の御子キリストと信じる者の共同体「わたしたち」と、「世《コスモス》の全体」の対立が、「神からの者」と「悪しき者の配下に置かれている者」の対立として、すなわち神と(神に敵対する)悪しき者の対立として語られています。ヨハネにおける「世」は、世間一般を指したり、ユダヤ教共同体を指したり、様々な意味合いで用いられていますが、ここのギリシア語《コスモス》を当時のギリシア人が用いていた「宇宙、全存在界」という意味で受け取りますと、《コスモス》を悪と見るグノーシス主義と同じ方向にあることになります。これは、ヨハネ文書が後の時代のグノーシス主義者たちに愛好された理由の一つとなります(グノーシス主義は「反宇宙論的二元論」を特色とします)。
 最後に長老は、「わたしたちは知っています。神の御子が来て、真理なる方を知る理解力をわたしたちに与えてくださいました」と語ります(二〇節前半)。この「真理なる方」は、続く句に「その方の子であるイエス・キリスト」とあることから、神を指すことが分かります。神の御子である方がイエスとして世に来られて、「真理なる方(神)を知る理解力をわたしたちに与えてくださいました」。ここで「理解力」と訳した《ディアノイア》は、「理解、悟り、心」と訳してもよい語です。《グノーシス》(知識)という語こそ用いていませんが、救い主の働きを、真理なる神を悟る理解力を与えて、悪の世《コスモス》から救い出すこととするのは、まさにグノーシス主義の特色です。
 このような表現(一八〜二〇節)を見ると、ヨハネを「素朴な形のグノーシス主義」とする見方(ケーゼマン)も分からないこともないのですが、やはりヨハネは贖いとか来臨とか終わりの日の裁きというようなユダヤ教の救済史的な理解を核とするユダヤ人であって、それを語るのに当時のギリシア人の思想の枠組みや用語を用いているために、このようなグノーシス主義的な表現が出てくるだけだと見るべきでしょう。それは、エフェソ書がギリシア人にキリストを提示するために、ギリシア思想の土俵でグノーシス主義と戦い、その結果文書自体がグノーシス主義的な雰囲気を染みこませているのと同じ現象でしょう。

ヨハネはここで神を「真理なる方」と呼んでいます。「真理」《アレーセイア》はヨハネ特愛の用語ですが、ここでは、真理の総体、真理を体現する人格存在としての神を指す語として、男性単数形の形で用いられています。イエス・キリストにつけられた「真正の神」という表現も、直訳すれば「真理な神」とでも言うべきでしょうか、「真理」《アレーセイア》の形容詞形が用いられています。

 「神の御子が来て、真理なる方を知る理解力をわたしたちに与えてくださいました」結果、「わたしたちは真理なる方の内におり、その方の子であるイエス・キリストの内にいる」ようになりました。ヨハネにおいては、これまでも繰り返し見てきたように、真理なる方(神)の内にいることと、イエス・キリストの内にいることは重なっています。イエス・キリストはその「真理なる方」(神)の子、すなわち神と同質の方だからです。そのことを長老は、「この方(イエス・キリスト)こそ、真正の神」と断言します。この告白は、福音書においては、最後にトマスが復活者イエスに向かって、「わたしの主、わたしの神」といった言葉で告白されていました(ヨハネ二〇・二八)。さらに一息に「そして(この方こそ)永遠の命です」と続けます。イエスをこのような方と信じ、この方の内に生きることが永遠の命です。この永遠の命を世に示すことがヨハネ福音書の目的でした(ヨハネ二〇・三一)。永遠の命を語るためのこの手紙(一・二)は、「永遠の命」という言葉で結ばれます(二〇節後半)。
 ただ、やや取って付けたように「子たちよ、偶像から身を守りなさい」という警告が加えられます(二一節)。イエス・キリストこそ、まことの神、永遠の命なのですから、この方から離れることは永遠の命を失うことになります。このまことの神であるイエス・キリストに背を向けて、他の何かを神として拝むならば、それは偶像礼拝であり、命を失う行為となります。それこそ「死に至る罪」となります。このことだけは心するようにと、長老は付け加えないではおれなかったのでしょう。