市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第34講

第二部 反キリストへの警戒 (2章18節〜3章24節)

5 反キリストの出現(2章 18〜27節)

 18 子たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来るとあなたたちが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れました。このことによって、わたしたちは終わりの時が来ていると知るのです。19 彼らはわたしたちから出て行きました。しかしむしろ、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのです。もし彼らがわたしたちに属する者であれば、わたしたちのもとにとどまっていたことでしょう。しかし出て行ったのは、彼らすべてがわたしたちに属する者でないことが明らかになるためでした。
20 けれどもあなたたちには、聖なる方からの油が注がれており、あなたたちは皆分かっています。21 わたしがあなたたちに書き送ったのは、あなたたちが真理を知らないからではなく、あなたたちが真理を知っており、偽りはすべて真理から出たものでないことを知っているからです。
 22 偽り者とは、イエスはキリストでないと言って否認する者でなくて誰であろうか。このような者こそ反キリストであり、父と御子を否認する者です。 23 御子を否認する者はすべて父を持たず、御子を言い表す者は父をも持つのです。24 あなたたち自身が初めから聞いていたことが、あなたたちの内にとどまっているようにしなさい。あなたたちが初めから聞いていたことがあなたたちの内にとどまっているならば、あなたたち自身もまた御子と父の内にとどまることになるのです。25 これこそ彼がわたしたちに約束した約束、すなわち永遠の命です。
26 以上のことを、あなたたちを惑わす者たちについて、わたしはあなたたちに書き送りました。27 しかしあなたたち自身は、彼から受けた油が内にとどまっているので、誰かがあなたたちを教える必要はありません。むしろ、その油御自身がすべてのことについてあなたたちを教えます。それは真実であり、偽りではありません。それがあなたたちに教えたとおり、彼の内にとどまっていなさい。

反キリスト出現の予言(二・一八)

 第一部でこの手紙を書き送る目的を一般論の形で述べた長老は、ここからこの手紙を書くようになった具体的な問題を取り上げます。それは、共同体から出て行った者たちの偽りの教えが共同体の信仰を損なうおそれがあったからです。長老は、出て行った者たちの教えが誤りであることを指摘し、残っている人たちが正しい信仰にとどまるように言葉を尽くして説き勧めます。
 長老は、今や終わりの時が来ていると宣言します。それは、終わりの時に出現すると予言されていた反キリストが多く現れているから、今は終わりの時であることを知るのだとします(一八節)。この語り方から、長老が率いる共同体も、周囲の一般の共同体と同じように、反キリストの出現を含む終わりの日の預言を知っており、キリスト来臨《パルーシア》の待望を共有していたことが分かります(三・二参照)。
 では、反キリスト出現の預言とはどのような預言だったのでしょうか。実は「反キリスト」という用語はこのヨハネ書簡だけにしか出てきません(ここと二・二二、四・三、U・七)。それでこの用語を手がかりにして新約聖書における「反キリスト」の像を描くことはできませんが、新約聖書が語る終わりの日の預言には、キリストが栄光の中に来臨されて世界を裁き完成される前に、この業を妨げる勢力が出現することは、様々な表現を用いて語られています。たとえば、パウロ系の共同体では、「まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならない」と語られていました(テサロニケU二・三)。

このような預言の成立とその内容については、このパウロ名書簡の箇所を講解した、拙著『パウロ以後のキリストの福音』170頁以下を参照してください。

 長老は、「あなたたちが聞いていたとおり」と言って、共同体がこのような預言を聞き知っていることを前提として、終わりの日に神の業に敵対するために出現する者を「反キリスト」と呼び、イエスについて長老が語る告白に従わず、違った教えによって共同体の分裂を引き起こした教師たちこそ、まさにこの「反キリスト」だとします。したがって、長老が言う「反キリスト」は単数ではなく、複数です。「今や多くの反キリストが現れた」のです。

ヨハネ共同体の分裂(二・一九)

 長老は、最近共同体の一部の者たちが共同体の交わりから出て行って、別のグループを形成した事実を見ています。長老が「彼らはわたしたちから出て行きました」と言うときの「彼ら」は、「わたしたちが見たこと、聞いたことを告げ知らせます」とする長老の主イエスの告白(一・一〜三)を否認して、自分なりの別の救済思想を説く偽りの教師たち、長老が「多くの反キリストたち」と呼ぶ者たちです(一九節前半)。
 この教師たちについて出て行った者たちは、別の交わりを形成し、ヨハネ共同体は分裂します。しかし、これは組織の分裂ではありません。ある組織の一部の者が脱退して別の組織を作ったのであれば、それは分裂です。しかし、ヨハネ共同体はもともと組織体ではなく、目撃証人である長老のカリスマ的説教と指導の権威によって形成された自由で緩やかな交わりであったと考えられます。長老は組織の分裂を憂いているのではありません。出て行った者たちの偽りの教えの出現、すなわち反キリストの出現を憂い、彼らの偽りの教えが共同体の信仰に影響して、共同体が正しいイエス・キリストの信仰から逸脱することを恐れているのです。
 彼らが出て行ったという出来事を、長老は「彼らすべてがわたしたちに属する者でないことが明らかになるため」であったと意義づけます(一九節後半)。彼らはもともと「わたしたちに属する者」ではなかったからだとします。わたしたちと真に命の質を同じくする者であれば、わたしたちのもとにとどまっていたはずです。出て行ったのは、彼らがその霊性の奥底でヨハネ共同体のそれと違っていたからです。長老は、彼らを突き動かしている霊は自分たちの内にいます霊とは違う霊であるとしています(四・一〜二参照)。

油を注がれた者たち(二・二〇〜二一)

 ここで長老は、共同体の交わりに残っている人たちに向かって呼びかけます。二〇節冒頭の「あなたたち」は強調されています。出て行った者たちにはないが、あなたたちには「聖なる方からの《クリスマ》」があり、あなたたちは全員が事態をよく理解しているはずだとします(二〇節)。

二〇節後半は、「あなたたちはすべてのことを理解している」と読む写本も多くあります。しかし、底本に従って、「あなたたちすべての者は理解している」と読みます。

 この《クリスマ》という用語も、新約聖書ではこの手紙に三回(ここと二七節の二回)出てくるだけです。このギリシア語は、油を塗るとか油を注ぐ行為を指す場合と、塗られた(注がれた)油そのものを指す場合があります。ここでは《クリスマ》が「とどまる」とか「教える」の主語として用いられていることから(二七節)、塗油の行為ではなく、用いられた油そのものを指すと理解しなければなりません。

旧約聖書では王や祭司が任命されるときには「油注ぎ」の儀礼が行われました。七十人訳ギリシャ語聖書では、この油注ぎを《クリスマ》で指していますが、注がれた油そのものを指す用例もあります。終わりの日に現れる救済者も「油注がれた者」と呼ばれ、それがギリシア語で「油注がれた者」を意味する《クリストス》と訳されました。ここで長老が《プニューマ》(御霊)ではなく《クリスマ》という語を用いている動機とか意味が議論されますが、これはおそらく、「反キリスト」《アンティ・クリストイ》に対して、キリストに属する者は《クリストイ》(油注がれた者たち)であることを示唆するために、同系の《クリスマ》という用語を使ったと推察されます。なお、この《クリスマ》は、後にグノーシス主義たちが、自分たちこそ神から霊の油を注がれた者であって真の知識を持っていると誇って、この用語を好んで用いるようになります。

 長老は、「あなたたち」(強調)が受けた《クリスマ》は、彼ら(出て行った者たち)とは違い、「聖なる方」(神に属する方、御子であるイエス・キリスト)から受けたものですから、それの霊が教えることこそ真理であると保証します。
 長老は、この手紙を書くのは、真理を知らないあなたたちに真理を教えるためではなく、あなたたちがすでに知っている真理を確認し、その真理に反する教えは偽りであることを知っている者たちを励ますためです(二一節)。長老がここで「真理」と言っている内容は、すぐに続く節から分かることですが、「イエスはキリストである」という事実です。

偽りの教え(二・二二〜二三)

 長老はここで交わりから出て行った教師たちを「偽り者」と呼んで、その偽りの核心を指弾します。彼らの教えは結局「イエスはキリストでない」と言っていることになり、「主イエス・キリスト」という福音の基本的な告白を否認しているのだと、彼らの教えの本質を暴きます(二二節前半)。
 長老は「偽り者」と呼ぶ教師の主張がどのようなものであるのか、その詳細を記述していません。それで、その内容について様々な推測がなされることになります。「偽り者」は、あからさまに「イエスはキリストでない」と主張したのではないでしょう。彼らも長年キリストの民に所属してきたのであり、表向きは「主イエス・キリスト」を信じる者であるという看板を掲げていますが、しかし、彼らが説いていることを突き詰めると結局「イエスはキリストでない」と言っていることになり、そこに「偽り」があるというのです。
 「偽り者」の主張を詳しく描くことは不可能ですが、それに反対するこの手紙の内容からすると、後(二世紀以降)に「グノーシス主義」として知られるようになる教説の萌芽的な形態ではないかと推察されます。「グノーシス主義」と呼ばれる複雑な宗教思想をここで描くことはできませんが、総じて、天地を創造し義をもって裁く旧約聖書の神はユダヤ人の神であるとして低く見て、イエスが説かれた慈愛の父なる神こそ真の神であり、人間はイエスから受ける霊界の知識《グノーシス》によって眠りから目覚め、魂が真の故郷である父のもとに帰ることが救いであるとする宗教思想です。
 この傾向の思想の中で「仮現論」と呼ばれるキリスト理解があります。それは、イエスは普通の人間であるが、バプテスマを受けたときにキリストが御霊としてイエスに降り、イエスを通して働かれたが、十字架にかけられる直前にイエスから去ったとする見方です。この見方によると、十字架の上で苦しみを受けたのは普通の人であるイエスであって、キリストではないことになります。イエスとキリストは分かれており、イエスは十全な意味でキリストではないことになります。イエスの十字架は神の子キリストがすべての人の罪を負って死ぬ贖罪の出来事ではなくなります。人間イエスが完全な意味で神の子キリストであって初めて、十字架につけられたイエスが人類の救済者キリストでありうるのです。
 長老は、このような仮現論のキリスト信仰を「イエスはキリストでない」とするもとのだとして厳しく批判していると見られます。そのことは別の箇所で、「イエスを肉体をとって来られたキリストと言い表さない者は、偽り者であり、反キリストです」(U・七私訳)とか、「イエスを肉体をとって来られたキリストと言い表す霊は、すべて神からのものです」(四・二私訳―この訳については後述)と言っていることからも分かります。二世紀の伝承は、長老ヨハネと同時代のケリントスという教師がこの仮現論を唱えたとし、ヨハネはこのケリントスを真理の敵と呼んで非難したと伝えています。また、エフェソの浴場でケリントスを見かけ、「真理の敵がいるから浴場が壊れるかもしれない」と叫んで裸で飛び出したというエピソードも伝えられています。

ケリントスの仮現論については、エイレナイオス『異端論駁』一・二六・一が伝えています。エイレナイオスは、ヨハネはケリントスに反対するためにヨハネ福音書を書いたとしています(同書三・一一・一)。エフェソの浴場のエピソードについては同書三・三・四で、エイレナイオスはポリュカルポスを引用して、そのような物語を伝えています。

 このように、イエスとキリストが一つであることを否定する者は、イエスはキリストでないと言ってイエス・キリストを否認する者であり、反キリストです。そして、こうして御子であるイエスを否定する者は、御子であるイエスを通してご自身を現された父をも否認しているのです(二二節後半)。イエスこそご自身を現すために父が世に遣わされた御子、父と一つなる御子なのですから(これがヨハネ福音書の基本的な使信でした)、「御子を否認する者はすべて父を持たず、御子を言い表す者は父をも持つ」ことになります(二三節)。

すべてを教える御霊(二・二四〜二七)

 このような反キリストの偽りの教えに惑わされることなく、正しいキリスト信仰に踏みとどまり、命に至るように、長老は交わりに残っている者たちを励まします。命に至る正しいキリスト信仰は、「あなたたち自身が初めから聞いていたことが、あなたたちの内にとどまっている」ことによって維持されます。「あなたたちが初めから聞いていたこと」とは、長老が親しく接した主イエスのもとで見たり聞いたりしたことを伝えた言葉、長老が初めに「わたしたちが見たこと、聞いたことを、あなたたちにも告げ知らせます」(一・三)と言っていたことです。長老は、共同体(ヨハネ共同体)に保持されているこの使信に忠実にとどまるように説き勧めます。この長老の使信は、後にヨハネ福音書という形に結集されるようになりますが、この手紙が書かれた時にはどの程度まとめられ文書化されていたかは分かりません。しかし、その使信は「初めから聞いていたこと」として、共同体の共有資産であり、各員がよく承知していることです(二四節前半)。
 その「初めから聞いていたこと」が心と告白の言葉の中にとどまり、生活の中に生かされているならば、その人は「御子と父の内にとどまることになる」ので、永遠の命に生きる者となります。御霊による御子キリストとの交わり、そのキリストにあって実現する父との交わりこそ、上からの命、新しい命、「永遠の命」なのです(二四節後半〜二五節)。
 ここで「永遠の命」が、「彼がわたしたちに約束した約束」とされています(二五節)。この「約束」には二つの意味が考えられます。一つは、最初期の福音宣教において共通している、キリストに属する者に終わりの日に与えられると約束された永遠の命です。他の一つは、福音を信じる者に約束された御霊の命を指す場合です。ヨハネ福音書では後の意味で、信じる者はすでに約束の御霊を受けて、永遠の命を持っているという面が強調されています。しかし、この手紙では(とくにこの二・一八〜三・一〇の第二部では)、終わりの日の出来事が前面に出ており、この約束を終わりの日に与えられる永遠の命の約束と見ることもできます。両者を強いて区別する必要はありませんが、手紙が周囲の福音宣教との一致を示そうとしていることから、ここでは終わりの日の約束と見るのが順当でしょう。
 反キリストに対する警告を説いたこの段落(一八節以下)を、長老は、すべてのことを教える聖霊が共同体の内にとどまっていてくださる事実を思い起こさせて結びます(二六〜二七節)。先に見たように、ここで二回用いられている《クリスマ》は、塗油の行為(儀式)ではなく、注がれた油そのもの、すなわち聖霊を指しています。この御霊が別の「同伴者」《パラクレートス》として、キリストの民の内にとどまっていてくださるのです(ヨハネ一四・一五以下)。この聖霊こそ、御子キリストから受けた真理をわたしたちに示し、わたしたちをすべての真理に導き入れてくださる方です(ヨハネ一六・一三以下)。この御霊によってイエス・キリストの内にとどまることが永遠の命です。

6 神の子の待望(2章28節 〜 3章10節)

 28 さて、子たちよ、彼に内にとどまっていなさい。それは、彼が現れるときに確信をもち、彼の来臨にさいして彼の面前で恥を受けることがないためです。29 あなたたちが彼は義なる方であることを知っているのであれば、義を行う者もまたすべて彼から生まれたことが分かるはずです。
 3 1 わたしたちが神の子と呼ばれるようになるために、父がどのような質の愛をわたしたちに注いでくださったのか、よく考えてみなさい。事実、わたしたちは神の子なのです。世がわたしたちを理解しないのは、父を知らないからです。2 愛する者たちよ、わたしたちはいま現に神の子です。しかし、わたしたちがどのような者になるのかは、まだ明らかにはされていません。わたしたちは、彼が現れるならば、わたしたちは彼に似る者となることを知っています。わたしたちは彼をあるがままの姿で見ることになるのですから。
 3 彼にこの希望をかけている者はみな、あのお方が清いように自分を清くします。4 罪を行う者はみな、不法を行っているのです。罪は不法です。5 あなたたちも知っているように、あのお方が現れたのは罪を取り除くためでした。彼の内には罪はありません。6 彼の中にとどまっている者は、誰も罪に陥ることはありません。罪に陥っている者はみな、彼を見たこともなく、彼を理解したこともないのです。
 7 子供たちよ、誰にも惑わされないように。義を行う者が義(ただ)しい者なのです。あのお方が義(ただ)しい方であるのと同じです。8 罪を行う者は悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を行っているからです。神の子は悪魔の働きを滅ぼすためにこそ現れたのです。9 神から生まれた者はすべて、罪を行いません。神の種子がその人の内にとどまっているからです。また、その人は神から生まれたのですから、罪を行うことができません。10 これによって、神の子と悪魔の子との区別は明らかです。義を行わない者はすべて、神から出た者ではありません。自分の兄弟を愛さない者も同じです。

長老ヨハネと共同体の来臨待望

 長老は、異説を唱えて交わりから出て行った人たちの中に反キリストの出現を見て、終わりの日が来ていることを実感します(二・一八)。そうであれば、終わりの日を完成するキリストの来臨も近いはずです。長老は、交わりに残っている人たちに、改めて「子たちよ」と呼びかけ、この段落(二・二八〜三・一〇)でその日に備えるように説き勧めます。
 ここで長老は、「彼が現れるとき」とか、「彼の来臨《パルーシア》にさいして」と言って、イエス・キリストの「来臨」《パルーシア》を待ち望んでいることを明言しています(二八節)。この段落全体は、キリストの来臨に備えて義を行い、自分を清く保つように説き勧める内容になっています。この段落(とくに二・二八〜三・二の箇所)は、ヨハネ共同体が最初期のキリスト者共同体に一般的であった来臨待望を共有していることを明白に示しています。この事実は、ヨハネ共同体とヨハネ文書の理解にとって重要です。
 ヨハネ福音書が《パルーシア》については語らず、もっぱら現在すでに永遠の命を持っていることを強調しているので、ヨハネ共同体には本来終末待望がなかったか希薄であったのに、長老(福音書の著者)が世を去った後に状況が変わって、後の編集者がこのような終末待望を前面に出してきたという説明がよくなされます。この見方では、福音書(六章)に見られる終末時の復活なども後の時代の編集者による挿入とされます。わたしは逆だと考えます。
 わたしは、三通の手紙は長老ヨハネの肉声であると信じています。若き日に「イエスが愛された弟子」として、イエスの身近に侍り、長年復活者イエスとの交わりに生きて、イエス・キリストを宣べ伝えてきたヨハネは、最初期のパレスチナ共同体の来臨待望を共有していたはずです。ヨハネは六〇年代にパレスチナからエフェソに移住し、晩年はエフェソで活動して彼の共同体を形成したと考えられます。そうすると、彼の活動の前半(三〇年ほど)はパレスチナで行われていたことになり、彼がこの時期(六〇年代のユダヤ戦争までの時期)のパレスチナの信仰共同体に深く浸透していた《パルーシア》待望を共有していたと見るのが当然です。そのヨハネが、後半のエフェソ時代のある時期(おそらくかなり晩年)に、共同体の分裂という事態に直面して、預言されていた背教が始まり、終わりの日が到来していると感じ、《パルーシア》の接近を語ったとしても、それはごく自然なことです。
 一方、ヨハネはその深い霊性から、聖霊によって復活者イエスとの交わりに生きる現実がどのようなものであるかを深く把握して、その命の事実を現在のこととして説いて来ました。ヨハネの福音提示(説教)には、ひたすら未来の救済を待ち望む黙示思想を克服して、永遠の命を現在の事実として説く面が強く出てきていました。実はすでにパウロも、黙示思想的な枠組みで思考しつつも、聖霊の体験によってキリストにある命の現実を深く把握し、それを明確に語っていました。ヨハネの福音提示がどの程度パウロから影響を受けて形成されたのか、なお検討すべき問題ですが、ここでは扱えません。とにかくヨハネは、パウロが指し示していた方向をさらに徹底して、救いと命の現在性を告知したと言えます。
 その長老ヨハネの福音提示(証言とか説教)が、それを受けて形成されたヨハネ共同体において蓄積され、書きとどめられ、(おそらく数次にわたって)編集され、ついに長老が召された後に現在の最終形態で流布するにいたります。それが「ヨハネ福音書」です。手紙は長老の生存中の成立ですから、すくなくともその最終形態において福音書は手紙より後の成立となります。その福音書では、共同体の終末待望は背後に退き、長老ヨハネの福音提示のきわだった特色である救いと命の現在性が前面に出てくることになったと見られます。

ヨハネ文書における救いの現在性と終末待望との関係については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解T』 271頁以下の「補論 ― 永遠の命と死者の復活」の項も参照してください。

終末待望と倫理(二・二八〜二九)

 主イエスの来臨を前にして、長老は共同体の各員に改めて「彼の内にとどまっている」ように説き勧めます。そうしなければ、来臨される主イエスの前に確信を持って立つことができないからです。「確信を持って立つ」と同じことが、「彼の面前で恥を受けることがない」とも表現されます。この表現には、共観福音書に伝承されている、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(マルコ八・三八、ルカ九・二六)という語録が響いています。ヨハネもこの語録伝承を知っていて、この表現を使って主の来臨に備えるように説いていると考えられます(二八節)。この二つの表現は共に、主の来臨のときに、わたしたちが主に所属する者として、主との栄光の交わりに受け容れられることを指しています。
 主の来臨に対する熱烈な待望は、ときには地上の生活に対する無関心を引き起こし、倫理的な弛緩を生み出すことがあるようです。パウロもテサロニケにおけるこの問題に対処しなければなりませんでした。ヨハネは、共同体の分裂を終わりの日の到来のしるしと見て、分裂の事態に現れている倫理的危機を主の来臨への心備えによって克服しようとします。この段落(二・二八〜三・一〇)がこのような性格のものであることは、この段落に、義、清さ、罪、不法というような用語が溢れ、義を行うことと罪を行うことが厳しく対比されていることからも分かります。
 主の来臨に備えて「彼に内にとどまる」必要があります。その「彼は義なる方である」ことを知っている者は、「義を行う者」こそ彼から生まれた者であることが分かり、義を行う者となるはずです(二九節)。この「義を行う」とはどういうことかが、ヨハネ特有の表現で続きますが(三・三〜一〇)、その前に、わたしたちが義を行う者として「彼(神)から生まれた者」、すなわち神の子であることの意義が挿入されます(三・一〜二)。ここでの「彼」は、イエスから自然に神に移っています。

神の子における「すでに」と「まだ」(三・一〜二)

 神から遠く離れていたわたしたちが、いま神の子と呼ばれて、神を父として信頼して生きる交わりに入れられていますが、そうなるためには父が「どのような質(種類)の愛」をわたしたちに注いでくださったのか、「よく考えてみなさい」と長老は促します(一節前半)。それは、背く者を赦して受け容れる無条件・絶対の愛です。それは、今まで人間が世で体験してきた愛とは種類が違う愛です。そのような無条件・絶対の愛《アガペー》はイエス・キリストの出来事において初めて人に啓示されたものです。その愛の質は後(四章)で詳しく語られることになりますが、ここでは、義を行うように説き勧める根拠として、それを考えてみるように促されるだけです。
 長老は「事実、わたしたちは神の子なのです」と言って、共同体の各員に自分が神から生まれた神の子であることを自覚するように促します。わたしたちが世間の人々と違った種類の人間になっていることを、周囲の人々は理解しません。彼らは、わたしたちがなぜ彼らとは違った生き方をするのか理解できません。それは彼らが、わたしたちの命の源となってくださった父を知らないから当然です。彼らに理解されないからといって、驚いたり落胆することはありません(一節後半)。
 わたしたちが神の子であるということには、「いま現に神の子である」という面と共に、それが将来どのような姿で現れるのかが「まだ明らかにはされていない」という面があることを長老は認めます。わたしたちが時間の中にいる限り、将来という面があり、それが最後にどのような姿で現れるかは、誰も正確に理解したり語ったりすることはできません。時間と空間の枠の中でしか思考できない人間にとって、時間を超えた世界の姿は想像を超えたことであり、理解できないのが当然です。しかし、現に神の子である以上、神の子の命の質が十全な姿で現れることは確実です。そのことが、「わたしたちは、彼が現れるならば、わたしたちは彼に似る者となることを知っています」と表現されています。今はわたしたちの目には隠されている栄光の主イエス・キリストが「現れる」とき、わたしたちは「彼をあるがままの姿で見る」ことになり、栄光のキリストとわたしたちの間を妨げるものがなくなり、わたしたちもキリストの栄光の姿に化せられるからです。これは、パウロが「わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリントT一三・一二)と言っていることです(二節)。
 ここで長老ヨハネが言っていることは、パウロがローマ書(八・一八〜二五)で「神の子たちの顕現」とか「神の子たちの栄光への解放」と言っていることと同じです。ヨハネは、それを「彼に似る者となる」と、平易に、しかもその方の姿を見た者として具体的に語っています。
 ここでヨハネが主の来臨のことを語るのに、おもに「現れる」という表現を用いて語っていることが注目されます。これは、このヨハネ書簡も、「使徒名書簡の時代」(ヨハネ書簡もこの時代のものです)において、来臨の遅延が問題になり、それを克服するために「来臨」《パルーシア》という表現よりも「キリストの顕現《アポカリュプシス》」という表現が多く用いられるようになった流れの中にあることを示しています。

この使徒名書簡の時代における「終末待望の変化」については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』 412頁「終末待望の変化」の項を参照してください。とくに「キリストの《アポカリュプシス》」という表現の用例については、同書 315頁の注記を参照してください。

 なおこの機会に、ヨハネ文書における救いとか命の現在性と終末待望の関係について一言しておきます。ヨハネ福音書においては、永遠の命が現在のものであるという点が強調されていることは顕著な事実です。それで、福音書の中の将来の救済を語る部分は別の編集者、《パルーシア》待望を前面に出している手紙は別の著者の手によるものであるという見方がなされ、ヨハネ文書の成立と編集の過程について複雑な議論が行われています。この議論には、救いの現在性の主張と終末における救済待望は両立せず、両者が同じ人物の中に共存することはありえないという見方が前提されています。
 この前提は間違っています。御霊によって救いの現在を強く体験すればするほど、今は不完全な姿の救いが将来完全な姿で現れるのだという希望と確信が強くなります。「すでに」という語で語られる救いの現在性と、「まだ」という語で語られる待望は、矛盾するものではなく、互いに強め合う表裏の関係です。この関係は、イエスにおいては「神の国」がすでに到来しているという面と、将来の「人の子」の到来を待ち望む言説となって現れています。パウロにおいては、キリストにある命の御霊の現実を語る告知と、《パルーシア》における栄光の顕現を待ち望む告白となって現れています。ヨハネにおいては、この箇所(三・一〜二)で明言されているように、すでに神の子であるという告白と、「彼に似る者となる」という将来の希望が一息に語られることになります。
 御霊の働きが強くなればなるほど、すでに永遠の命を与えられている喜びも、将来にたいする希望も共に深く強くなります。それを表現する文書は、その成立の状況により、またその文書の性格や目的により、どちらかが前面に出てくることがありますが、背後にいつも両面を含む御霊の現実があります。

神の子は罪を行わない(三・三〜六)

 「彼にこの希望をかけている者」とは、主イエスが栄光の内に現れるときには、この自分も彼に属する者として、「彼に似る者」としてくださるであろう(=彼の栄光にあずからせてくださるであろう)という希望に生きている者です。このような希望に生きる以上、「あのお方」(イエス・キリスト)は清い方ですから、その方に似るように、当然自分も清くあることを願い、清く生きるように努めます(三節)。
 ここで長老が「清い」と言っているのは、すぐ後に続く文章から、「罪を行わない」生き方を指していることが分かります。長老は、「清い」ことを、その反面である「罪を行う」ことから説明します。
 まず、「罪を行う者はみな、不法を行っているのです」と、罪の実質が解説され、「罪は不法《アノミア》です」と、罪が定義されます(四節)。芯からのユダヤ人である長老ヨハネにとって、罪とは神の定めである《ノモス》(法)に違反すること、《ノモス》なしに生きること、すなわち《ア・ノモス》(《ア》はギリシア語で否定辞)の生きざま、《アノミア》に他なりません。
 そもそも神の子キリストがイエスとして世に現れたのは、人間の内に巣くい、世を支配している罪を取り除くためでした。世の罪を負い、十字架の死によって罪を贖うために、キリストは世に来られたのです。ヨハネはこのイエス・キリストを指して「見よ、世の罪を負う神の子羊」と告げ知らせていました(ヨハネ一・二九)。この「負う」は「取り除く」と同じ語です。この告知は、共同体の全員が初めから聞いていることであり、当然「あなたたちも知っている」こととされます。罪のないあのお方が、世の罪、わたしたちの罪を負い、罪を取り除かれたのです(五節)。
 このような罪のない方、罪を取り除く方と結ばれ、その方との交わりにとどまっている者は、「罪に陥る」ことはありません(六節前半)。ここの《ハマルタノー》という動詞は普通「罪を犯す」と訳されます。しかし、この訳語は個々の行為を指す感じが強いので避け、罪の支配下に生きる状態を指すと理解して、「罪に陥る」と訳しています。このような意味で「罪に陥っている」者は、彼の内にとどまっていない者、そもそも「彼を見たこともなく、彼を理解したこともない」者であることを示しています。

神の子と悪魔の子(三・七〜一〇)

 「罪を行う」の反対は「義を行う」です。ここで「罪を行う者」と「義を行う者」が対比され、改めて「義を行う者が義(ただ)しい者」という真理が強調されます。それは、偽りの教師たちが救いは(霊の悟りによるのであって)行為と関係ないと説いていたことに対する反論であると考えられます。長老は、そのような偽りの教えに「惑わされないように」呼びかけます。そして、「義を行う者が義(ただ)しい者である」という主張を、「あのお方が義(ただ)しい方であるのと同じです」と、イエス御自身が義を行う方であるから「義(ただ)しい方」と呼ばれている事実を根拠としてあげます(七節)。
 長老は、罪を行う者を「悪魔から出た者」とか「悪魔の子」と呼びます。新約聖書は、神に対立し敵対する霊的諸力の頂点に立つ元締めの霊的存在を「悪魔」《ディアボロス》とか「サタン」などと呼んでいます。とくにヨハネは、神が支配される霊的領域と悪魔が支配する霊的領域の相交わることのない二つの領域を峻別し、その対立を枠組みとして語る傾向があります(ヨハネの「二元論」と呼ばれています)。ここでも「義を行う者」と「罪を行う者」を峻別して、両者の起源と本性を描きます(八〜一〇節)。
 悪魔は、「初めから」、すなわちその起源と本性から神に敵対する力であって、神に背く人間を自分の支配下に置いて、神の《ノモス》に反すること、すなわち罪を行わせています。罪を行う者は悪魔の支配下にある者、悪魔に所属する者です。神の子であるイエス・キリストが世に現れたのは、このような人間を支配する悪魔の働きを滅ぼし、人間を悪魔の支配から救い出すためでした(八節)。
 このような悪魔に属する者に対して、神から生まれた者は、罪を行わないだけでなく、罪を行うことができないと言われます。そのことが「種子」のイメージで語られます(九節)。生物は種子から生まれます。種子は生む者の本性を生まれる者に伝えます。現代では種子の代わりにDNAというところでしょうか。神から生まれた者は「神の種子《スペルマ》」、すなわち神の命の質を伝えられ、内に宿しているのです。「神の種子《スペルマ》」とは、信じる者の内に宿る聖霊です。聖霊は神の命の質をわたしたちの内にもたらします。もしわたしたちが聖霊によって行為するならば、その行為は罪を行うことではありえません。
 こうして長老は、義を行うことと罪を行うことの区別によって「神の子と悪魔の子との区別」を明確にします。そして、いくら深遠な知識とか知恵を説いていても、「義を行わない者はすべて、神から出た者ではありません」と言います。それは、異説を立て、救いは行為と関係がないとして放縦な生活を続け、共同体から出て行った「反キリストたち」を「義を行わない者」とし、「神から出た者ではない」とします。長老がここで彼らのことを念頭に置いて語っていることは、この文に続けてすぐに「自分の兄弟を愛さない者も同じです」と付け加えて、兄弟愛に反する彼らの行為に言及していることからも分かります(一〇節)。

神の子と罪

 この段落で長老は、イエス・キリストに属する者は罪を行うことがないことを強調しています。神から生まれた者の内には神の種子がとどまるので、「罪を行うことができない」とさえ言っています。するとこれは、先に「もしわたしたちが自分には罪がないというならば、わたしたちは自分を欺いているのであり、わたしたちの中に真理はありません」(一・八)とか、「もしわたしたちが、罪に陥ったことがないと言うならば、わたしたちは神を偽り者としているのであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」(一・一〇)と言ったことと矛盾するのではないか。罪を行うことに関する長老の発言は矛盾しているのではないか、という問題が起こります。これは解釈者を悩ます難問です。
 この難問を解決するために様々な解釈が提案されています。しかし、どの解釈も難点があって行き詰まります。もし、解釈で解決できるものであれば、とっくに権威的な解釈が普及しているはずです。ところが、この論理的に矛盾する二つの発言は解釈では解決できないままで聖書の中に残っています。
 しかし不思議なことに、キリストにある者としてこの論理的に矛盾する二つの発言を聞くとき、そのどちらにも「アーメン、その通り」と深く共感共鳴します。これはどうしたことでしょうか。わたしはこの問題に、個人的・内面的なアプローチを試みたいと思います。
 わたしはとうてい「自分には罪がない」などとは言えません。わたしは本性的に聖なる神に背く者であり、罪に陥っている者です。わたしが今神の子として父への信頼と交わりに生きることができるのは、「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちを清めてくださり」、その御子の血によって信実で義なる神がわたしの罪を赦してくださっているからです。もしわたしが「自分には罪がない」と言うならば、それは、わたしの罪のために死んでくださった御子イエス・キリストの死を無意味なものとすることであり、この御子の死をもってわたしに「わたしはあなたを贖った」と語ってくださった神を偽り者とすることになります。
 ところが一方、「神から生まれた者はすべて、罪を行いません。その人は神から生まれたのですから、罪を行うことができません」という言葉を聞くとき、わたしの内にある何かが共鳴して、「そうだ、その通りだ」と叫びます。いったい神から生まれた命が、神に反すること(罪)を行うことができるでしょうか。それは、ありえません。わたしの内にある御霊の命が、この言葉に共鳴してそう叫ばせるのです。
 すると、論理的に矛盾する長老の二つの発言がどちらもわたしの中に共鳴を引き起こすのは、わたしの内に二つの相反する質の本性があるからだということになります。自分には罪があると告白するのは、生まれながらの人間本性、パウロが「肉」《サルクス》と呼ぶ本性です。生まれながらのわたしは、自分が罪であることすら自覚しませんでした。しかし、キリストにあって御霊の光を受けたとき、その光に照らし出された自分は、こう告白せざるをえない姿でした。
 他方、わたしの内にある御霊の命は、この命は神からのものであって、神の御心に反することは行うことができない質のものであることを知っています。この御霊に従って歩むときにのみ、神の御心を行うことができます。
 パウロは「御霊と肉」という用語でこの間の消息を詳しく語りましたが、長老ヨハネは厳密な神学者ではなく、自分が体験していることを、それが論理的に整合していようが矛盾していようがかまわず、そのまま述べます。わたしたちは、この二つの発言の論理的不整合を無理に説明しようとするのではなく、その発言のそれぞれが指し示している御霊の現実と人間の現実を、自分の一身の中で統合して歩むことが大切だと考えます。

7 兄弟を愛しなさい(3章 11〜18節)

 11 というのは、互いに愛し合うことこそ、あなたたちが初めから聞いてきた使信だからです。12 カインのようになってはなりません。彼は悪しき者から出た者であり、自分の兄弟を殺したのです。彼はなぜ兄弟を殺したのか。それは、彼の行いが悪く、兄弟の行いが義(ただ)しかったからです。13 兄弟たちよ、世があなたたちを憎んでも驚かないように。14 わたしたちは、死から命に移っていることを知っています。それは、わたしたちが兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死の中にとどまっています。15 兄弟を憎む者は、みな人殺しです。そして、人殺しは誰も自分の中に永遠の命をとどめていないことは、あなたたちもよく知っています。16 あのお方は、わたしたちのためにご自分の命を差し出してくださいました。このことによってわたしたちは愛ということを知りました。 わたしたちもまた、兄弟のために命を差し出すべきです。17 世の富を持っていながら、兄弟が必要に迫られているのを見たとき、同情の心を閉ざす者があれば、そのような者の中に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛し合おうではないか。

カインの実例(三・一一〜一二)

 長老はここまで、神の子と悪魔の子の区別を明らかにして、「義を行わない者はすべて、神から出た者ではありません」と結論し、それに「自分の兄弟を愛さない者も同じです」という文を付け加えていました(三・一〇)。この「自分の兄弟を愛さない者」は、義を行わない者と同じく、神から出た者ではなく悪魔に属する者であることを、長老はここでカインの例をあげて詳しく説きます。
 この段落は、「というのは・・・・だからです」という理由を示す語で始まります。互いに愛し合うことは、あなたたちが初めから聞いてきた使信そのものであり、主がご自分の民に求めておられる最も基本的な誡めですから、それに背くことは最も深刻な意味で「義を行わない」ことになります(一一節)。
 長老は、この神の最も基本的な誡めに背いた者の実例として、聖書(創世記四・八)に最初の兄弟殺しとして語られているカインを取り上げます(一二節)。カインが自分の兄弟であるアベルを殺したのは、彼が悪しき者に属し、彼の本性あるいは在り方そのものが悪い者であったからです。彼の「行い」《エルガ》が悪いというのは、個々の行為が悪いというより、彼の生き方、在り方そのものが悪いという意味でしょう。反対に、兄弟アベルはその在り方が、神に喜ばれる義(ただ)しい在り方でした。カインは自分のではなくアベルの献げ物が神に受け入れられたことで、自分の悪しき在り方が告発されたと感じ、アベルを憎み、ついに殺すに至ります。

一二節に2回用いられている「殺す」という動詞は、本来犠牲獣などを屠殺することを指すギリシア語です。この動詞は、ここ以外にはヨハネ黙示録に8回出てくるだけです。黙示録では「屠られた小羊」という表現に用いられています。

世の憎しみ(三・一三〜一四)

 このカインの実例は、一五節の「兄弟を憎む者は、みな人殺しです」という結論に受けつがれますが、長老はその前に、神の子たちに対する世の憎しみを取り上げます。世が神の子を憎むのは、カインの場合と同じく、その在り方が悪く、神の子の在り方が義であるからです。従って、世が神の子を憎んでも当然であって、何も驚くことではありません(一三節)。それは、わたしたちが「死から命に移っている」ことの結果です。悪しき者に属するカインが義の在り方をしているアベルを憎んだように、神に背き死の中にとどまっている世は、命の領域に生きる神の子たちを憎むのです。わたしたちキリストに属する者は死から命に移っている者であることは、わたしたちが兄弟を愛している事実によって確認することができます。この愛こそ命の現れであって、もしキリストの民の中にいても兄弟を愛さない者があれば、その者は死の中にとどまっているのです(一四節)。

命を差し出す愛(三・一五〜一八)

 カインはアベルを憎み、その結果彼を殺しました。憎しみには殺す行為が潜在的に含まれています。実際の殺人行為に至らなくても、兄弟を憎む者は、神の前では「人殺し」と同じです。これは、イエスが「山上の説教」(マタイ五・二一〜二二)で、兄弟に腹を立て罵る者は人を殺す者と同じ裁きを受けると言われたお言葉と同一線上にあります(一五節前半)。
 「人殺し」には永遠の命がないことは、当然のこととして誰もがよく知っています。兄弟を愛さず、兄弟を憎む者は「人殺し」であって、彼の中には永遠の命はありません(一五節後半)。すなわち、兄弟を愛さない者は「死の中にとどまっている」のです。一五節は直前の「愛さない者は、死の中にとどまっています」という句を説明しています。
 このように語るとき、長老の念頭には異説を唱えて交わりから去っていった者たちのことがあったのでしょう。長老は彼らを「反キリスト」と呼んで激しく非難しています。ここで長老は、彼らの行為を兄弟への愛を欠く行為、兄弟を憎む行為として、「人殺し」とさえ呼び、死の中にとどまる者たちだとします。

長老は一五節で2回「人殺し」《アントローポクトノス》という珍しい語を用いています。この名詞は、新約聖書ではこことヨハネ福音書八章四四節に1回出てくるだけです。この事実は、「悪魔の子」というような表現と共に、この手紙の反キリストに対する激しい非難がヨハネ福音書八章後半(30節以下)の「イエスを信じたユダヤ人」に対する論争の記事に組み込まれているのではないかという推察を促します。この点については、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』337頁を参照してください。

 では、集会の交わりから出て行く行為はすべて、兄弟への愛を欠く行為として、「死の中にとどまる」者の烙印を押されて断罪されるのでしょうか。ルターなどの宗教改革者はローマカトリック教会から出て行きました。ピューリタンたちは英国国教会から出ました。彼らの行為は、兄弟への憎しみとして断罪される性質のものでしょうか。決してそのようなことはありません。霊の生命は、肉によって硬化した人間的制度から出て行かなければ生きることはできません。そもそもヨハネ共同体を含む最初期のキリストの民は、ユダヤ教団から出て行ったのです。彼らの御霊の命の発現としての改革の行為と、ヨハネの手紙に見られる「イエスがキリストであることを否定する」者たちの分派行為を同一視することは誤りです。ヨハネは「イエスこそ肉をとって来られたキリストである」という真理を護持するために、その真理を否定して出て行った者たちを激しく非難したのです。しかし、彼らの行為を批判するすべての言葉を、文脈から離れて絶対化してはなりません。
 兄弟への愛を欠く行為を「人殺し」と呼んで非難した長老は、その対極にある愛の姿としてイエスを指し示し、「あのお方は、わたしたちのためにご自分の命を差し出してくださいました」と言い、「このことによってわたしたちは愛《アガペー》ということを知りました」と言います(一六節前半)。
 復活によって神の子・キリストとして立てられたイエスが、地上では十字架につけられて死なれた事実はわたしたちにとって何を意味するのか、それを明らかにすることが最初期の福音告知の最重要課題でした。最初期に福音を担った弟子たちはみなユダヤ人でしたから、キリストの十字架の死の意義を「わたしたちの罪過のための死」とか、「罪の贖い」というユダヤ教の祭儀的な用語で語りました。ヨハネもユダヤ人ですから、このような意義は十分承知しているはずです(たとえば一・七)。しかし、ヨハネは祭儀的な用語で語ることは少なく、誰よりも多くキリストの十字架の死を神の愛の啓示として語ります(ヨハネ三・一六など)。
 このイエスに従う者として、このキリストであるイエスによって示された神の愛を受けている者として、「わたしたちもまた、兄弟のために命を差し出すべきです」と、長老は説きます(一六節後半)。この言葉は、神の絶対無条件の愛を受けることは、わたしたちに何をしても、また何もしなくても赦されているという放縦や無為を認めることを意味するのではなく、「兄弟のために命を差し出す」という最も激しい倫理を要求し、それを可能にすることを意味しています。それは、父の無条件絶対の恩恵を説かれたイエスが、「父が慈愛深いのであるから、あなたたちも慈愛深い者であれ」(ルカ六・三六)と言われたのと同じです。
 この「兄弟のために命を差し出す」愛の姿を、長老は具体的な実例で説きます。「世の富を持っていながら、兄弟が必要に迫られているのを見たとき、同情の心を閉ざす者があれば、そのような者の中に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか」と言って、窮迫している兄弟を助ける実際の行動を求めます(一七節)。このような実際的な愛を説く聖書の言葉が、すべての隣人を兄弟と見るキリスト者を励まし、窮迫者を助ける慈善の行為と事業を生むことになります。こうして、長老は「言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛し合う」ように、共同体に呼びかけます(一八節)。
 この箇所(一七〜一八節)は、信仰だけでなく行為の必要を説いたヤコブ書(二・一四〜一七)の言葉を思い起こさせます。しかし、ヤコブは実際に必要な物を与えなければ、口先の励ましは窮迫している者には何の助けにもならないことを比喩として、行いを伴わない信仰の空しさを主張しているのに対して、ヨハネはここで(比喩ではなく)愛は実際の行為を生むものであること、愛の具体性を説いている点で違います。けれども、ヤコブもヨハネも共に、信仰におけるユダヤ人の具体性をよく体現しているという点で共通しています。ともすればギリシア人の信仰が思想的・観念的になりがちな状況で、信仰も愛も、この身体でする行為に結果しなければ空しいという主張は同じです。総じて「使徒名書簡の時代」の文書は、ギリシア的観念性に対してユダヤ教的具体性を擁護しようとする姿勢で貫かれています。

ヤコブ書二・一四〜一七の意義については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』469頁の「行いを欠く信仰・・・」の項を参照してください。

8 神の御前での確信(3章 19〜24節)

 19 このことによって、わたしたちは自分が真理から出た者であることを知り、神の御前で自分の心を落ち着かせることになります。20 というのは、もしわたしたちの心が責めるところがあっても、神はわたしたちの心よりも大きく、すべてのことをご存知だからです。21 愛する者たちよ、心が責めるところがなければ、わたしたちは神に対して確信をもち、 22 求めるものを神から受けることになります。それは、わたしたちが神の誡めを守っており、神の御前に喜ばれることを行っているからです。23 神の誡めとは、神の御子イエス・キリストの御名を信じ、この方がわたしたちにお与えになった誡めの通りに、わたしたちが互いに愛し合うことです。24 彼の誡めを守る者は、彼の内にとどまっており、彼もその人の内にとどまってくださいます。このことによってわたしたちは、彼がわたしたちの内にとどまっておられることを知ります。すなわち、彼がわたしたちに与えてくださった御霊によってです。

人の心よりも大きい神(三・一九〜二〇)

 長老は、前段で述べたこと、すなわち具体的な行動で互いに愛し合うことを受けて、「このことによって」と言い、そのように愛し合っている事実が「自分が真理から出た者であることを知る」ことの根拠であるとします。この具体的な愛を根拠として真理の確信を持つことが、「神の御前で自分の心を落ち着かせる」結果を生みます(一九節)。
 人の心は落ち着かず、変わりやすいものです。「ころころと変わる」から「こころ」と言うのだという説もあるくらいです。神の恵みを感じて感謝と平安に満たされているかと思うと、次の日には自分の弱さとか失敗に気落ちして、祈ることもできないほど落ち込むようなことが起こります。もしわたしたちが信仰を自分の心の在り方に置いているのであれば、そのような信仰は激しい波間にもてあそばれる木の葉のようなものになります。この人の心の弱さを知る長老は、「神の御前で自分の心を落ち着かせる」道を指し示します。それが次の二〇節です。
 それは、自分の心を見るのではなく、「わたしたちの心よりも大きく、すべてのことをご存知である」神を見て、その神に信仰の根拠を置くことです。神はわたしたちの心のどのような振幅よりも大きな方で、わたしたちの心のどのような姿をも包み込んでおられます。わたしたちの心の喜びも悩みもすべてをご存知であって、それを知った上で、わたしたちの心の状態を条件とはせず、無条件にわたしたちを愛し、受け容れてくださっているのです。また、わたしたちの心が信仰に溢れていても、疑いに激しく動揺していても、神の信実は岩のように動くことはなく変わることはありません。この神の無条件絶対の愛と信実を、長老は「神はわたしたちの心よりも大きく、すべてのことをご存知だ」と表現し、その神の無条件絶対の愛と信実に自分を委ねるように説きます(二〇節)。

ここでわたしたちの心の姿を、長老は「心が責めるところがある(または、ない)」と表現しています(二〇節と二一節)。原文は心が主語で、「心が責める」という形になっていますが、何を責めるのかは特定されていません。それで、「心に責められることがある(または、ない)」という意訳(新共同訳)もなされます。しかし、この訳では受動態が用いられているので、誰が何を責めるのかが隠され、ただ心の状態だけが記述されます。そうすると、責める主体としての「わたしたちの心」と神の対比が見えなくなり、次節の理由づけが弱くなります。

 前段の内容からすると、その直後にあるという文脈から、この「責める」は、わたしたちが「命を差し出す愛」の誡めに十分応じていないことを「心が責める」ということになります。その場合も、先に述べたように、「神はわたしたちの心よりも大きく、すべてのことをご存知だから」、神の御前に心を安んじていることができます。

求めるものは受ける(三・二一〜二二)

 このように、わたしたちが無条件絶対の神の愛と信実に心を委ねることで神の前に「心が責めるところがなければ」、神に対して子としての確信を持って父に願い求めることができます。そうすれば、父は子の求めに応じて、求めるものを与えてくださいます(二一節〜二二節前半)。ヤコブ(一・五〜八)も言っています、「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい(=求めなさい)。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」。
 主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。・・・・だれでも求める者は受けるのだから」と言われました(マタイ七・七〜八)。このイエスのお言葉を、ヨハネやヤコブの言葉と較べますと、「心が責めるところがなければ」とか「いささかも疑わず信仰をもって」というような条件は何もついていないことに驚きます。求める者の心とか信仰を何も問題としないで、まったく無条件に「だれでも求める者は受ける」ことを根拠にして、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と断言しておられます。どうしてこのように無条件に「だれでも求める者は受ける」というようなことを根拠にできるのでしょうか。それは、イエスが父の無条件絶対の恩恵の場に生きておられるからです。その場では、「だれでも、求める者は受ける」のです。イエスはその恩恵の場からわたしたちに呼びかけておられます。

この言葉が出てくる「山上の説教」は、イエスによる父の恩恵の告知であることについては、拙著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』、とくに333頁以下を参照してください。

 それに対してヨハネやヤコブは、「神はわたしたちの心よりも大きい」とか、「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神」と言って、まずその無条件の恩恵の場に入るように説かなければならないのです。その上で、「求めるものは与えられる」と説くことになります。
 長老は、「求めるものは与えられる」ことの根拠として、「わたしたちが神の誡めを守っており、神の御前に喜ばれることを行っているからです」と語ります(二二節後半)。これは、わたしたちが神の子として父との親しい交わりにあることを指すヨハネ的表現です。神が人間に求められる在り方をしていることを指します。それで、その内容が次節で「神の誡めとは」と、単数形の「誡め」で語られることになります。

神の誡めを守る者(三・二三〜二四)

 ここで語られる単数形の「神の誡め」とは、神が求めておられる人間の在り方の総体です。その総体を、ヨハネは「神の御子イエス・キリストの御名を信じ、この方がわたしたちにお与えになった誡めの通りに、わたしたちが互いに愛し合うこと」であるとします。神が人間に求めておられるのは、これがすべてであって、それ以上とかそれ以外のことを求めておられません(二三節)。
 神は御子を世に遣わして、その方によってわたしたちの救いを成し遂げてくださいました。イエス・キリストこそ神から世に遣わされた御子に他なりません。イエスをそのような御子と信じることが「神の御子イエス・キリストの御名を信じる」ことです。イエスがそのような御子である以上、このイエスを拒んでおれば、他に何をしても神が求められるところを満たし、神に喜ばれることはできません。
 そして、神はこの御子であるイエス・キリストを通して、人間が互いに愛し合うことをお命じになりました。人間が互いに愛し合うことは、初めから父の願いであったはずですが、御旨の奥義を啓き示すために最後に世界に遣わされた御子によって、この願いを明確な誡めとして新たに人間にお与えになりました。ヨハネはイエスから「互いに愛し合いなさい」というただ一つの誡めを聞いています(ヨハネ一三・三四)。
 この御子であるイエスの誡めを守る者、すなわち兄弟を愛する者は、御子イエス・キリストの内にとどまっており、イエス・キリストもその人の内にとどまり、その人の内に生きてくださいます(二四節前半)。

二四節で繰り返し用いられている「彼」という代名詞が、(誡めを守る人を指す場合は別として)神を指すのかキリストを指すのかが問題になります。日本語訳はみな「神」と訳しています。たしかに本書簡には神と人との相互内住を語るところがあります(四・一五〜一六)。しかしここでは、二三節の「彼がわたしたちに与えた誡め」の「彼」がキリストを指しているとも理解されますから、二四節の「彼の誡めを守る者」と「彼」の相互内住は、神ではなくキリストとの相互内住を語っているとも理解できます。英訳は大体「彼」という代名詞のままで訳し、ドイツ語訳とフランス語訳は「神」と訳す傾向があります。ヨハネにおいてはキリストの内住は神の内住です。厳密に区別する必要はないでしょう。

 パウロは、自分がキリストの内《エン・クリストー》にあることを繰り返しながら、「キリストがわたしの内に生きておられる」ことも深く体験し、告白しています(ガラテヤ二・二〇)。ヨハネもその線上で、福音書一五章の「ぶどうの木とその枝」の比喩に典型的に見られるように、キリストと信じる者との相互内住を語っています。その上で、キリストが「わたしたちの内にとどまっておられる」事実は、「彼がわたしたちに与えてくださった御霊によって知る」と言って、この相互内住の体験は御霊によってはじめて実現し認識されるのだと、御霊に言及します(二四節)。そして続く四章以下で、この御霊によるキリストとの交わりと、そこから生まれる神認識を詳しく展開します。