市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第33講

第一部 光の中の歩み(1章5節〜2章17節)

書簡の区分

 ここから本論に入りますが、この長老ヨハネの勧告の書簡は、長老が日頃説教で語っていることをそのまま書き記して書簡にしたような文体で書かれており、論文のような明確な構成を取っていません。同じ主題と用語が繰り返され、議論は鎖のようにつながり、螺旋状に回りながら、先へ進んでいきます。それで、本書を区分してその構成を語ることは困難です。この講解では、便宜上、前書き(一・一〜四)と結び (五・一三〜二〇)を除く本体部分を、一応主要な関心が貫かれていると見られる次の三つの部分に分けて講解を進めていきます。

 第一部「光の中の歩み」   (1章5節〜2章17節)

 第二部「反キリストへの警戒」(2章18節〜3章24節)

 第三部「神の愛に生きる」  (4章1節〜5章12節)

2 神は光である(1章5節 〜 2章2節)

 5 わたしたちがこの方から聞いてあなたたちに告げ知らせる使信とは、神は光であって、神の内には闇はまったくないということです。 6 もしわたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩んでいるのであれば、わたしたちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
 7 しかし、もしわたしたちが、神が光の中にいますように、光の中を歩むならば、わたしたちは互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪からわたしたちを清めてくださいます。 8 もしわたしたちが自分には罪がないというならば、わたしたちは自分を欺いているのであり、わたしたちの中に真理はありません。
 9 もしわたしたちが罪を言い表すならば、神は信実で義なる方ですから、わたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださいます。 10 もしわたしたちが、罪に陥ったことがないと言うならば、わたしたちは神を偽り者としているのであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
 2 1 わたしの子たちよ、わたしがこれらのことを書き送るのは、あなたたちが罪に陥らないようになるためです。また、もし誰かが罪に陥っても、わたしたちには父のみもとに弁護者がいてくださいます。すなわち、義なる方、イエス・キリストです。2 この方こそわたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪のための贖いです。

神は光である(五〜六節)

 長老は自分が直接接したイエスから教え聞かされたこと、さらに復活者イエスとの交わりの中で教え示されて説いてきたことを、「わたしたちがこの方から聞いてあなたたちに告げ知らせる使信」と表現し、その長い生涯で受けた啓示の内容を、「神は光である」という一文に要約して宣言します。そして、その事実を、裏側から「神の内には闇はまったくない」と表現します(五節)。
 光と闇の対立は福音書の主題でした。福音書は、光と闇という二つの相容れない領域の対立を枠組みとして救済を語ってきました。闇の領域に閉じこめられている人間が、神から遣わされた御子によって、光の領域に移されることが救いでした。それは、死の領域から命の領域に移されることでした。
 「神は光である」という使信は、きわめて実践的な意味を持つ使信です。御子であるイエスによって光の領域に移されたと言い表す者が、光の領域で神との交わりを持っていると言いながら、その歩みがなお闇の中にあるならば、すなわちその実際の行動と生活が光に背き、闇の領域に属することであるならば、光の領域にいるとか、神との交わりを持っているという告白は偽りであり、「真理を行っている」のではありません(六節)。
 「神は光である」という真理の前で、わたしたちがどのように歩むかが、六節以下一〇節までの各節ごとに、「もしわたしたちが・・・・するならば」という形で問題にされます。

御子イエスの血が罪を清める(七〜一〇節)

 このように語るとき、長老の念頭には、長老が「反キリスト」と呼ぶ、交わりから去っていった者たち(二・一八〜一九)のことがあったのかもしれませんが、ここではあくまで原理として語られています。「神は光である」と言い表す者が、その告白通り光の中を歩むならば、すなわち神の命を身いっぱいに受けて、その命に導かれて実際の行いを進めて行くならば、「わたしたちは互いに交わりを持ち」、その交わりが妨げられることはないはずです(七節前半)。
 ところが、実際には人間は弱い者ですから、罪に陥っています。罪は神の御心に反する行為であり、神との交わりを妨げます。それだけでなく、罪は人の間の交わりを妨げ破壊します。長老は、共同体の交わりが人間の罪によって妨げられ破壊されている現実を見つめているのでしょう。それを克服する道を説かないではおれないのです。神は、罪を行わざるをえない弱い人間が、光の中で交わりを維持することができるように、罪を克服する道を備えてくださいました。それが「御子イエスの血」です(七節後半)。
 わたしたちが光の中を歩む限り、「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちを清めてくださる」ので、人間的な弱さから避けられない罪も清められて、交わりを妨げることなく、神が望まれる交わりが実現します。「すべての罪」というのは、御子イエスの血が清めることができない罪はないことを言っています。神の子であるイエスが十字架上に死なれたのは、わたしたちを罪の支配力から解き放つためであったという「キリストの血による贖い」が、ここでは光の中での交わりの維持という文脈で用いられています(七節全体)。
 その上で、長老は共同体の各員に、自分が罪を行う弱い存在であることを認めて、「御子の血による清め」を受け、互いの間の交わりを維持するように呼びかけます。自分には罪はないとして、相手を裁く心が交わりを破壊します。長老は、共同体全体を「御子の血による清め」の場に置こうとします(八節)。
 このような「御子の血による清め」を備えてくださった神の前で、わたしたちの態度が問題にされます。「もしわたしたちが罪を言い表すならば」(九節)の場合と、「もしわたしたちが罪に陥ったことがないと言うならば」(一〇節)の場合です。
 「もしわたしたちが罪を言い表すならば」の場合には、「神はわたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださいます」と宣言されます。― ヨハネにおいては「すべての不義は罪です」(五・一七)。― そして、その根拠として、「神は信実で義なる方ですから」と、神の信実と神の義があげられます。神は御子イエスを世に遣わし、その十字架の死によってすべて信じる者を赦すと語られたのですから、その福音の言葉通りに、罪を認めて言い表す者を赦されます。この「お言葉通りに」が神の信実です。そして、(パウロが明らかにしたように)不義なる者を義とする働きが「神の義」です(九節)。
 それに対して「もしわたしたちが、罪に陥ったことがないと言うならば」の場合は、「キリストはすべての者のために死なれた」という、福音の中に示された神の言葉を偽りとすることになります。自分には罪がないと言い張ることは、自分のためにはキリストが死ぬ必要はなかった、すなわち自分はキリストの贖いなしで、自分で義でありうるとすることであり、そのような自己義認の高ぶりは、福音に示された神の言葉を拒否することに他なりません(一〇節)。

罪の贖いとしてのキリスト(二章一〜二節)

 ここ(二・一)で長老は、共同体の一人ひとりに「わたしの子たちよ」と呼びかけます。この呼び方は、ユダヤ教のラビが弟子に語りかけるときの呼び方です。長老は、自分が形成した共同体に向かって、改めてこの手紙を書く意図を説明します。すなわち、この手紙は「あなたたちが罪に陥らないようになるため」だというのです(一節前半)。

本書は新約聖書の中で、「罪」という用語が(その長さの割に)もっとも多く出てくる文書です。本書では名詞形の「罪」《ハマルティア》は単数形と複数形の両方でよく出てきます。とくにその動詞形の《ハマルタノー》は、ローマ書の7回に比べてもこの短い書簡に10回用いられており、その頻出ぶりが目立ちます。この動詞は普通「罪を犯す」と訳されていますが、こう訳すと規範に違反する個々の行為を指す感じが強くなります。しかし、本書では罪の中に生きる生き方とか状態を指していると考えられます。この状態を表現する適切な日本語が見当たりませんので、本講解では一応「罪に陥る」と訳しておきます。場合によっては「罪の中にいる」と訳してもよいでしょう。

 このように手紙の意図を説明した上で長老は、キリストの民は罪から解放された状態で歩むことができるように、そのための方法が神によって備えられていることを思い起こさせます。すなわち、もし誰かが罪に陥っていても、わたしたちには、その罪から解放して引き上げてくださる方、イエス・キリストが、父のみもとに「弁護者」(原語は《パラクレートス》)としていてくださるのです。
 ところで、罪に陥った者のために執り成し、弁護して、父との交わりに引き上げてくださる方は、御自身が父との全き交わりにある義人でなければなりません。それで、イエス・キリストに「義なる方」という称号が添えられています。(一節後半)。

ここで父のみもとにいますイエス・キリスト、すなわち復活者イエスが《パラクレートス》と呼ばれています。福音書(一四・一六)では、イエスが世を去られた後に弟子たちのもとに遣わされる聖霊が「別の《パラクレートス》」と呼ばれていました。本来はイエス・キリスト御自身が、《パラクレートス》(共にいて助けてくださる方)なのですが、イエスが世を去られた後では、聖霊が地上でその役目を果たしてくださるという予告でした。それで、福音書の講解では「別の同伴者」と訳しましたが、本書では父のもとにあって、罪に陥った者のために執り成し、父のもとに引き上げてくださる方として(ローマ八・三四参照)、この用語の法廷的な意味を出して「弁護者」と訳すのが適切でしょう。

 「弁護者」イエス・キリストのことを語った長老は、この方がわたしたちを罪から解放してくださることができる根拠を思い起こさせるために、「この方こそわたしたちの罪のための贖いです」と述べます(二節前半)。いまは父のみもとにあってわたしたちを弁護してくださっている方イエス・キリストは、地上ではわたしたちのために、わたしたちの罪のために死んでくださり、わたしたちの罪の贖いとなってくださった方です。キリストの十字架こそ、わたしたちの罪が贖われて、罪に陥っていたわたしたちが父との交わりを回復することができるように、神御自身が備えてくださった場所です。
 この「わたしたち」は、直接には今長老が語りかけている共同体の人たちを指していますが、キリストの十字架が罪の贖いとして、神との交わりを回復する場であることは、特定のグループの人たちだけに与えられた場ではなく、すべての人のためです。このキリストの福音の使信を、長老はすぐに付け加えないではおれません。長老はすぐに続けて、「いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪のための贖いです」と言い直します(二節後半)。
 ここで長老が「罪の贖い」という表現を用いていることが注目されます。実は、福音書には「罪の贖い」という表現は出てきません。「贖い」という思想もきわめて希薄です。手紙の方にだけ出てくることから――他に「来臨」《パルーシア》という用語と思想もそうですが――、手紙の著者は福音書の著者とは別人であるという見方がなされます。しかしこの違いは、福音書と書簡という類型の違いと、成立状況の違いから説明できることであって、必ずしも著者が別人であることを証明するものではありません。手紙においては、周囲の主流のキリスト宣教に広く伝承されており、長老も若いときから共有している伝承にある「贖い」とか「来臨」の用語と思想を用いていると見られます。

ここで長老はキリストを「わたしたちの罪の《ヒラスモス》」だと述べています。この語は新約聖書ではこの書簡に2回出てくるだけです(ここと四・一〇)。《ヒラスモス》というのは、一般の祭儀的な宗教においては神の怒りを宥めるための供え物を指す用語ですが、聖書では人間が神を宥めるために献げる供え物ではなく、神が備えてくださる罪の清めのためのいけにえを指しています。または、神の贖いの働き(人を罪の束縛から解放する神の働き)そのものを指しています(EDNTのローロフ)。ここでは文脈からも後者の意味に理解すべきでしょう。それで(解放という意味で)「贖い」と訳しています。これと同系の用語に《ヒラステーリオン》(ローマ三・二五、ヘブライ九・五)があります。この語も、罪のための供え物を指すのではなく、罪の贖いが為される場所(贖罪所、贖罪の座)を指すことについては、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解T』104頁の注記を参照してください。なお、パウロがユダヤ教内のキリスト宣教において伝承されているこの用語を使っていることを理由に、ローマ書がパウロの著作でないと言えないように、本書が一般に伝承されている用語を使っていることを理由に、長老が著者であることを否定することはできません。

3 誡めを守る者(2章 3〜11節)

 3 さて、もしわたしたちが彼の誡めを守るならば、そのことによってわたしたちは彼を知っていることが分かります。4 彼を知っていると言いながら、彼の誡めを守らない者は、偽り者であり、そのような者の中に真理はありません。5 しかし、彼の言葉を守るなら、まことにその人の中に神の愛が全うされ、わたしたちは彼の内にいることを悟るのです。6 彼の内にとどまっていると言う者は、あのお方が歩まれたように、その人自身も歩まなければなりません。
 7 愛する者たちよ、わたしはあなたたちに新しい誡めを書き送るのではなく、あなたたちが初めから受けていた古い誡めです。古い誡めというのは、あなたたちがすでに聞いた言葉です。8 でも他面、わたしはあなたたちに新しい誡めを書き送っているのです。それは、彼においてもあなたたちにおいても真実です。闇は過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているのです。9 光の内にいると言いながら自分の兄弟を憎む者は、いまだに闇の中にいるのです。10 自分の兄弟を愛する者は、光の中にとどまっているのであって、その人の中につまずきはありません。11 しかし、自分の兄弟を憎む者は、闇の中におり、闇の中を歩んで、自分がどこへ行くのか知らないのです。闇がその人の目を見えなくしたからです。

誡めを守る者は主を知る(三〜六節)

 この段落、とくに最初の部分(三〜六節)に繰り返し出てくる「彼」という代名詞が、神を指すのかイエスを指すのかが、解釈上の大きな問題となります。欧米の翻訳ではみな、「彼」という代名詞を用いて訳していますが、日本語では神とかキリストを「彼」というのは馴染まないので、「彼」という代名詞を用いない傾向があります。文語訳と口語訳(協会訳)では「彼」で訳されていますが(この私訳でも)、新改訳では神(一部キリスト)、新共同訳では神(一部イエス)と訳されています。
 実は一・五〜六でも「彼」という代名詞がよく用いられていたのですが、そこでは「神」という名詞も出てきますし、「彼の子」という表現もあって、文意から「彼」が神を指すのかイエスを指すのかは比較的容易に判断できました。しかしここでは、「神の愛」という表現があるだけで、それ以外はすべて「彼」が用いられていて、解釈に委ねられています。強いて区別を求めるならば、六節で「彼」ではなく「あの方」と特定の人を指す代名詞が用いられているので、そこを「イエス」または「キリスト」と訳し(「あの方」がイエスを指す用例は本書に他に五例あります)、他はすべて「神」と訳すことになります(新共同訳、新改訳)。
 この段落の「彼」を神と理解する理由の一つは、著者が批判している反対者たちが「彼を知っている」と言っていることです(四節)。共同体から出て行った人たちは神を知る知識《グノーシス》を誇る人たちだから、ここの「彼」は神でなければならないという理由です。しかし、この段階でグノーシス主義者との対決を前提にすることは問題があります。逆に、著者が「誡め」というときには、主イエスの誡めを念頭において語っているので、「彼を知っていると言いながら、彼の誡めを守らない者」(四節)と非難するときの「彼」は両方ともイエスを指しているとも理解できます。「彼の内にとどまる」も、ヨハネにおいては基本的に主イエスの内にとどまることを指しているので、六節の「彼の内にとどまる」の「彼」と「あのお方」とは、両方ともキリスト・イエスを指すと理解することができます。
 ヨハネにおいては神と主イエスは重なっています。ヨハネは、「彼」でイエスを指しながら、そのイエスとの関わりを語ることによって神との関わりを語っているのです。そしてこの段落で、「彼の誡め守る」ことが、彼を知り、彼の内にとどまることと同じであり、彼の誡めを守ることなしには、彼を知り、彼の内にとどまることはあり得ないとし、イエスの誡めを守らず、イエスが歩まれたように歩まない者は「偽り者」だと強く主張しています(三〜六節)。
 ここで、彼の言葉(=誡め)を守る者には「神の愛」が全うされると言っていますが(五節)、この「神の愛」を「神からの愛」とする理解と、「神への愛」とする理解の両方が可能です。ヨハネにおいては、基本的には「神の愛」は神が人を愛される愛を指すので(四・一〇参照)、ここも「神からの愛」と理解するのが順当でしょう。わたしたちが主イエスの誡めを守るとき、わたしたちを愛してくださった神の愛がその人の中に全うされて、愛の交わりの現実の中で、わたしたちは自分が「彼の内にいる」ことを悟ることになります。子の言葉を守る者を、父もその人を愛し、父と子がその人のところに来て住まわれるのです(ヨハネ一四・二三)。
 この「神の愛」を神への愛と理解するときは(たとえばNTD)、わたしたちがイエスの誡めを守るならば、神を愛することが十全に実現して、その中で自分が主イエスの内にいることが確認できるという意味になります(NTDはこの段落の「彼」を神を指すと理解しています)。
 長老ヨハネは、共同体から出て行った者たちのキリスト告白での誤りをも指摘していますが(二・二二)、それよりも以前に、主イエスの誡めを守るかどうかという実践的な問題を、真理と虚偽の判断の基準として重視しています。この傾向は、使徒以後の時代に、使徒の名を用いた書簡を書き送って、使徒たちの信仰を維持しようとした人たちと同じ傾向です。

古くて新しい誡め(七〜一一節)

 長老は自分が委ねられている群れの人たちに、「愛する者たちよ」と呼びかけて、今自分が語っている「誡め」がどのような性格の誡めであるのかを語ります。まず、その誡めは、長老が今回新しい事態に直面して急に語り出した新奇な誡めではなく、共同体が信仰に入った当初から聞いていた誡め、信仰と共に古い基本的な誡めであることを思い起こさせます(七節)。
 その上で、同時にその誡めが、他面新しい誡めであるとします。八節の文頭に置かれている《パリン》は、「再び、重ねて」という意味と共に、「その上、加えて、他方」という意味があります。長老が今書き送っている誡めは、古い基本的な誡めであると同時に、他面、新しい状況に即して実現されなければならない「新しい誡め」だとします。その誡めを満たすことは、イエスにおいても自分たちの共同体においても等しく真理であるとして、それはイエスにおいて到来した「まことの光」が、今や信じる者たちの共同体においても輝いているからだとします。闇は過ぎ去ったのです。光が来ているのです(八節)。このことは、福音書においても繰り返し宣言されていました。
 ここで長老が光とか闇という象徴を用いて語ろうとしている事柄自体が表に出てきます。長老は、兄弟を憎む者は闇の中におり、彼の誡めを守っていない者だとし、兄弟を愛する者こそ光の中にとどまり、彼の誡めを守っている者だとします(九〜一一節)。
 長老の念頭には、共同体の交わりから出て行った者たちのことがあるのでしょうが、ここではあくまで一般原理のこととして兄弟愛が語られています。キリストの共同体に所属する者はみな、「自分は光の内にいる」と言っています。そう言いながら、同じキリストの民に所属する兄弟を憎む者は、実際にはまだ闇の中にいるのであり、「光の内にいる」という告白は偽りだとします(九節)。自分の兄弟を愛する者こそ、実際に光の中にとどまっているのです。その人は実際に光に照らされているので、その信仰の歩みにおいて、つまずき倒れることはありません(一〇節)。
 それに対して、自分の兄弟を憎む者は、闇の中におり、闇の中を歩んでいるのです。ですから、闇がその人の目を見えなくしていて、自分がどこへ行くのかが分かりません(一一節)。この表現は、自分はまことの知識《グノーシス》の光をもっているので、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知っていると誇る人たちへの批判でしょう。
 長老は「新しい誡めを書き送っている」と言いながら、それがどういう誡めであるかを説明することなく、兄弟を愛するかどうかを問題にしています。すなわち、兄弟を愛することが「新しい誡め」だとしていることが分かります。福音書においても、兄弟を愛することが「新しい誡め」とされていました(ヨハネ一三・三四)。今、共同体の分裂の危機に直面して、長老は兄弟愛を「新しい誡め」として書き送ります。

4 世を愛してはならない(2章 12〜17節)

 12 子たちよ、わたしがあなたたちに書き送るのは、あなたたちの罪過が彼の名のゆえに赦されているからです。
13 父たちよ、わたしがあなたたちに書き送るのは、あなたたちが初めからいます方を知ったからです。
 若者たちよ、わたしがあなたたちに書き送るのは、あなたたちが悪しき者に打ち勝っているからです。
 14 子供たちよ、わたしがあなたたちに書き送ったのは、あなたたちが父を知ったからです。
 父たちよ、わたしがあなたたちに書き送ったのは、あなたたちが初めからいます方を知ったからです。
 若者たちよ、わたしがあなたたちに書き送ったのは、あなたたちが強くて、神の言葉があなたたちの内にとどまっており、あなたたちが悪しき者に打ち勝っているからです。
 15 世も世にあるものも愛してはなりません。世を愛する者があれば、父の愛はその人の内にはありません。16 すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生きざまの驕りは、父からのものではなく、世からのものだからです。17 世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神の御旨を行う者はとこしえにとどまります。

わたしが書き送るのは(一二〜一四節)

 ここで長老は、このような書簡を共同体に書き送る心境を吐露します(一二〜一四節)。長老は共同体の様々な年代や立場の者たちに呼びかけます。しかし、呼びかけの用語の違いはあまりこだわる必要はないでしょう。長老はそれぞれの文で共同体全体に呼びかけているのです。長老は「わたしがあなたたちに書き送る」という句を六回も繰り返し、「〜だからである」という句を続けて、この書簡が意味をもちうる前提として、共同体の信仰の質を思い起こさせます。前半(一二〜一三節)では「書き送る」は現在形ですが、後半(一四節)では過去形で、前半で言ったのとほぼ同じことを繰り返しています。
 長老は共同体に向かって、最初に、この書簡を書き送るのは「あなたたちの罪過が彼の名のゆえに赦されているからです」と言います(一二節)。「赦し」《アフェシス》と「赦す」《アフィエーミ》は、最初期の福音宣教の特色ある重要な用語です。共観福音書はこの用語をよく用いています。とくにルカ文書においては「罪の赦し」は福音の中心的な内容をなしています。ところが、パウロはこの用語をほとんど用いていません。ヨハネ福音書も、復活者イエスが弟子を派遣されるところ(二〇・二一〜二三)以外には用いていません。ただ、パウロ名書簡になると、「贖い」と一緒に出てくるようになります。このヨハネ書簡でも二回(ここと一・九)出てきます。福音書に出てこない用語を使っているからといって、手紙の著者と福音書の著者は別だという議論が成り立たないことは先に述べた通りです。長老は、この手紙を書く段階では、周囲の主流の共同体の伝承を活用し、その用語を使って書いています。
 ただ、「赦し」《アフェシス》という語は、もともと(七十人訳ギリシア語聖書では)「解放」という意味が強く、「罪の赦し」は本来、罪の支配から解放されて生きることを意味します。長老もここでこの意味で用いていると理解すべきでしょう。罪過は赦されているのだから、裁きのことは心配しなくてもよいと言っているのではありません。あなたたちは罪の支配から解放されており、神の御心に従って生きることが出来るようにされているのだから、わたしは光の中に歩むように励ますこの手紙を書いているのだということです。
 次に長老は、「あなたたちが初めからいます方を知ったからです」と書きます(一三節前半)。「初めからいます方」とは復活者イエスのことです。長老は自分が若いときに接したイエスが復活して、今は神と共に永遠に生きておられる方であることを体験しています。そして、それゆえに復活者イエスは天地が造られる前から神と共にいます方であること、すなわち「初めからいます方」であるという深遠な思想に到達し、それを福音書の序詩(一・一〜一七)で美しく歌い上げています。福音書と書簡のどちらが先であっても、長老とヨハネ共同体がこの告白に生きていたことは事実です。このように、イエスを知ったことは「初めからいます方を知った」ことですから、天地や罪の起源についての人間の作り話に惑わされることなく、ただイエスに固着しているように励まします。
 さらに長老は、この手紙を書くのは「あなたたちが悪しき者に打ち勝っているからです」と言います(一三節後半)。神に対抗し、人を悪とか罪に誘う霊的存在を「悪しき者」と呼ぶことはイエスの語録にあり、主の祈りでも「悪しき者から救い出してください」と祈られています。ヨハネ福音書にはこの表現は出てきませんが、手紙では長老は周囲の共同体の伝承表現を用いて、イエスに結ばれている者は、罪に誘う者に打ち勝っている者であることを思い起こさせ、義に生きるように励まします。
 「わたしは書き送る」を三回繰り返して書き送りたい主題を掲げた長老は、その主題が胸中に溢れ、すでに書き送った感じになり、「わたしは書き送った」と言って、その内容を繰り返します(一四節)。そのさい、「初めからいます方を知った」ことはその方によって「父を知った」ことであるとし、「悪しき者に打ち勝った」ことは、「あなたたちが強くて、神の言葉があなたたちの内にとどまっている」からだと、付け加えています。

世を愛してはならない(一五〜一七節)

 このように、この手紙を書き送る理由を箇条書きのように並べた長老は、それらを要約するかのように、普段から共同体の人たちに訴えてきたことを書き記します。それは、「世も世にあるものも愛してはならない」ということです。ヨハネにおいては、世《コスモス》は神と対立し、神が支配される光と命の領域とは相容れない闇と死の領域です。従って、世を愛する者は当然父を愛する愛はありません。また、父との関わりがないのですから、父からの愛もありません。ここの「父の愛」は、父への愛と父からの愛の両方を含んでいます(一五節)。
 ここで長老が「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生きざまの驕り」と呼んでいるものは、パウロが「肉」《サルクス》とか「肉の欲」と呼んでいるものとほぼ同じです。パウロにおいては、肉《サルクス》は、自己中心の生まれながらの人間本性であり、肉の欲はその本性が欲求するものであって、それは神から賜る御霊の命の質と相反し、御霊が欲するところと逆方向に向かうものでした(ガラテヤ五・一七)。このようにパウロにおいては御霊と肉という人間内部で対立する命の質として描かれていたものが、ヨハネでは「神からのもの(=神に属するもの)」と「世からのもの(=世に属するもの)」の対立として描かれています(一六節)。
 そして、「世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神の御旨を行う者はとこしえにとどまります」と言って、世を愛することと父を愛することの結幕がいかに重大かを語ります(一七節)。世はいつまでも続くものではありません。世と世における栄光を追い求める者は、世の有為変転と共に、時には栄えますが、何時かは必ず衰え滅びます。それに対して、神はとこしえにいまし、最終的に勝利される方ですから、その神の命をいただき、その命に生きることによって神の御旨を追求する者は、世の有為変転を超えて、神の命の領域に「とこしえにとどまる」ことになります。長老はこう言って、世を愛するのではなく、父を愛して、光と命の領域にとどまるように説き勧めます。

ヨハネ文書(福音書と書簡)における「世」という用語については、 本書124頁の「特注 ― ヨハネ福音書における『世』」を参照してください。