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第二節 ヨハネ文書の正典化

長老ヨハネ以後の小アジア

 長老ヨハネはヨハネ共同体の中ではもっとも重要な指導的人物ですが、その交わりの外ではそれほど著名な人物ではなかったのではないかと見られます。ヨハネが活躍した時期には、シリアから小アジア、ギリシア、ローマにいたる地域では、使徒としてのペトロとパウロの権威がすでに確立していました。ペトロもパウロも60年代には殉教していると見られますので、ヨハネが没した90年代には、使徒としての二人の名は地域全体に十分浸透していたはずです。ヨハネが活動した時期(または少し後)に、おそらくこの地域で成立したと見られるルカの使徒言行録では、使徒と言えばペトロとパウロだけのように扱われています。
 このような状況の小アジアで、長老ヨハネの没後すぐに、弟子たちは長老ヨハネの証言を文書にまとめて、それを「ヨハネによる福音書」として地域のキリスト教世界に提供します。すでに、ペトロが伝えたイエス伝承に基づいて書かれた「マルコによる福音書」が流布していたと考えられますので、それと区別して、主の「もう一人の弟子」の証言による福音書であるという控えめな主張を掲げて、「ヨハネによる福音書」が現れることになります。
 この福音書はこの「もう一人の弟子」をけっして「使徒」とは呼んでいません。先に見たように、この少年弟子は「イエスが愛された弟子」ではありましたが、年少の故に「使徒」として選ばれることはなく、宣教に派遣されることもなかったからです。しかし同時に、これまでに見てきたように、この「もう一人の弟子」は、ペトロに勝るとも劣ることのないイエスの出来事の証人であることを、これも控えめに「愛弟子」の姿の中に書き込んでいます。
 ヨハネ共同体は閉鎖的な集団ではなく、誰でも長老の教えを聴くことができる開放的な交わりであったので、この共同体が生み出した「ヨハネによる福音書」は、比較的急速に広い地域に流布していったようです。二世紀初頭のエジプトで読まれていたことが、砂漠で発見された(二世紀初頭のものと鑑定される)パピルスの断片にヨハネ福音書の一部があることからも分かります。
 長老ヨハネの個人的権威によって成り立っていたヨハネ共同体の交わりは、ヨハネの没後は比較的早く解消したのではないかと見られます。しかし、彼の教えに接した多くのキリスト教界の指導的人物が、その記憶から長老ヨハネのことを語っています。長老ヨハネに関する二世紀の教父たちの証言が小アジアに集中しているという事実からも、ヨハネ共同体が小アジアにあったことが確かです。そのことは先に見た通りですので、繰り返しません。
 ヨハネ共同体は比較的早く解消したとしても、その影響は小アジアのキリスト教に深く刻まれることになります。彼に接した小アジアの多くの教父たちが、ヨハネを敬意を込めて「長老」とか「教師」と呼び、やがて「神学者」とも呼ぶようになります。小アジアは(シリアと並んで)もっとも重要な原始キリスト教の揺籃の地ですが、そのキリスト教の形成にとって、長老ヨハネはパウロに次いで重要な影響を与えていると言えます。
 その影響の中で、歴史的に興味深い出来事を数例見ておきましょう。

ヨハネ文書とマルキオン聖書

 「ヨハネによる福音書」は「ヨハネの手紙集」と一緒に一体として流布していたと考えられます。そうでなければ、第二の手紙や第三の手紙のような小書簡が後に正典に入ることはないでしょう。そうすると、あのマルキオンがルカ福音書とパウロ十書簡から成る自派の教会のための聖書を作ったのは、このヨハネ共同体が提供した「福音書と手紙」という形に触発されたのではないかと推察する可能性が出てきます。
 マルキオンについては、これまで何回かパウロ書簡の講解で触れてきました。彼はアジア州の北にあるポントス州シノペ出身のキリスト教徒で、エフェソに来てパウロの福音に接し、すっかりパウロに心酔し、過激なパウロ主義者となったと見られます。その後、ローマに出て自分の教えを説き、自分の教会を形成しますが、既成の教会からは異端としてローマから追放されます。その追放が144年ですから、彼がエフェソに来たのは二世紀前半の中頃になり、そこで福音書と手紙という形の「ヨハネ文書」に接した可能性があります。

マルキオンがエフェソを中心とする小アジア西部に来ていたことは、スミルナの司教であるポリュカルポスがマルキオンに会ったというエイレナイオスの証言(『異端論駁』三・三・四)があります。

 マルキオンは、その教えとしては、律法とは別のキリスト信仰による義を主張したパウロの福音をさらに過激にして、イエスの神とユダヤ教律法(旧約聖書)の神は違う神だとしたのですが、その教えの基準として自分たちの聖書、いわゆる「マルキオン聖書」を作るに際しては、当時すでに「福音書と手紙」という形で流布しているヨハネ文書に触発されたのではないかと想像することができます。後に教会が信仰の基準として正典を定める努力をして、同じように福音書と使徒書簡を二本の柱とする現在の新約聖書を正典と確定するにいたるのですが、その努力は「マルキオン聖書」に対抗するためであったと言われています。もしマルキオンが「福音書と手紙」という形のヨハネ文書に触発されて自分の聖書を作ったのであれば、手紙を添えて福音書を刊行したヨハネ共同体は、新約聖書正典の形成にいたるプロセスの最初の出発点を作ったと言えます。 

ヨハネ文書とモンタニズム

 二世紀の小アジアのキリスト教でもう一つ見逃せない歴史的現象は「モンタニズム」(モンタノス派)の発生です。小アジアのフィルギア地方出身のモンタノスが172年に、フィルギアのムシア(エフェソ北方の山地)で預言活動を始めます。彼は聖霊によって預言の霊を与えられたとして、この世の終わりが迫っていることを預言し、この世から分離した厳しい悔い改めの生活を要求します。彼に従った二人の女性預言者、マキシミラとプリスキラもエクスタシー状態で預言し、フィルギアのペプザという村に天から新しいエルサレムが降ってきて、終末の時代がすぐに始まるとしました。
 彼らのカリスマ的預言運動は急速に拡大し、二世紀末にはローマでもモンタノス運動にどう対処するかが大問題になっていました。その論争でモンタノス派がヨハネ福音書(一四〜一六章)の「パラクレートス」を自分たちの新しい預言の源としたために、(「アロゴイ」と呼ばれる)反対派の論者はヨハネ福音書そのものの正統性を否定し、それを異端者のケリントスの著作だとする主張も行われました。そして、ヨハネの名で流布していた黙示録も、モンタノス派の主張の根拠とされているとして否定され、ケリントスの著作だとされました。
 モンタノス運動は聖霊によるカリスマ的な預言運動でしたが、聖霊の自由な働きを強調する点で、教会改革の運動としての面があり、当時司教制や教義の確立に向かっていた教会にとって脅威となり、教会教父からは異端の扱いを受けることになります。しかしその勢力は衰えることなく、すぐに北アフリカにも波及し、三世紀初頭には西方ラテンキリスト教の最初の大神学者といわれるカルタゴのテリトリアヌスがこのモンタノス運動に参加するにいたります。
 このような聖霊による黙示思想的な預言運動は、「パラクレートス」による新しい啓示を約束するヨハネ福音書と、黙示思想的な終末を描くヨハネ黙示録が流布していた小アジアでこそ成立し、燃え上がることができたと見られます。その意味でヨハネ共同体とヨハネ文書の存在は、モンタノス運動の苗床となったのかもしれません。しかし同時に、モンタノス運動に対する反発が、主流の教会内に一種のヨハネ文書アレルギーとなって残ったという一面もあるようです。 

ヨハネ文書とグノーシス主義

 二世紀にはキリスト教内にグノーシス主義が盛んになります。二世紀前半には、グノーシス主義者のバシリデスがアレクサンドリアで活躍し、多くの著述と弟子を残したと伝えられています。マルキオンは140年前後にローマで教えています。マルキオンの過激なパウロ主義の背景には、世界の創造者である旧約聖書の神とイエスの父である慈愛の神を区別するグノーシス主義の影響があると見られます。そして、ほぼ同じ頃、すなわち二世紀の半ば頃、キリスト教グノーシス主義の大成者であり代表的教師であるとされるヴァレンティノスがローマで活動しています。その後、彼の弟子のプトレマイウスやヘラクレイオンらもローマを中心に活躍し、ヘラクレイオンは最初の「ヨハネ福音書注解」を書いたとされています。彼らの活動と教えに対して、使徒的信仰の継承者であることを自任する「正統」派教会からは激しい批判がなされます。その批判の集大成が、二世紀末のエイレナイオスの『異端論駁』であると言えるでしょう。

グノーシス主義については、多くの参考文献が出ていますが、日本語のものでは次の二書をあげておきます。
 荒井献 『原始キリスト教とグノーシス主義』 (岩波書店 1971)
ハンス・ヨナス『グノーシスの宗教』(秋山・入江訳、人文書院 1986)
なお、グノーシス文書のテキストと詳しい注や解説は、岩波書店版の『ナグ・ハマディ文書』(全四巻)に見ることができます。

 ここではグノーシス主義の複雑な体系に触れることはできませんので、ヨハネ文書(とくにヨハネ福音書)との関係に限定して見ておきたいと思います。それも、福音書以前のグノーシス主義的伝承や思想がどのように福音書の成立に影響しているかという問題ではなく、福音書成立後におけるヨハネ福音書をめぐる正統派とグノーシス主義陣営との論争をごく簡単に一瞥する程度に限定せざるをえません。
 たしかにヨハネ福音書の光と闇の二元論やその象徴言語には、グノーシス主義との親近性を示唆すると受け取られる要素があります。事実、ヨハネ福音書を素朴ながらすでにグノーシス主義化しつつある文書であると見る見方もあります(ケーゼマン)。それでグノーシス主義者たちが好んでヨハネ福音書を取り上げ、この福音書の象徴言語を自分流に解釈して、自分たちの思想の根拠づけに用いたのも事実です。たとえば『真理の福音』や『フィリポ福音書』などには、霊、愛、自由、知識《グノーシス》など、ヨハネ福音書に特有の用語がよく出てきて、語り方や表現にも親近性が感じられます。しかし、もちろんその思想内容は、ヨハネ文書が強調してやまないイエスとキリストの一体性とは異なる方向に向いていることは明らかです。

グノーシス主義者がヨハネ福音書を特に好んで用いたのは、おもにヴァレンティノス派のグノーシス主義者たちについて言えることであって、その他のグノーシス主義者では他の福音書の方が多く引用されている事実に、ヘンゲルは注意を促しています。エイレナイオスも福音書が四つでなければならないことを論じた箇所で、一つの福音書だけを使用する派の誤りを指摘していますが、その中でヴァレンティノス派はヨハネ福音書だけを用いて、それによって誤りに陥っていると論じています(『異端論駁』三・一一・七)。ここに例としてあげた二つのグノーシス文書もヴァレンティノス派のものです。

 ヨハネ福音書を書いたのはグノーシス主義的異端者ケリントスであったという説があったことは、教父(エピファニウス)も言及しているところですが、エイレナイオスは、ヨハネはケリントスを論駁するために福音書を書いたのだと、ヨハネ福音書の正統性を擁護しています。先に見たように、長老ヨハネは神の子キリストが肉となって現れたことを否定する者を「偽り者」として、その誤りを論駁していますが、この「偽りの教え」は、後にグノーシス主義として現れる体系の萌芽であると見ることができます。エイレナイオスは、長老ヨハネが「偽りの教え」としたものが成熟して現れた形であるグノーシス主義と戦っていることになります。
 なお、長老ヨハネとゼベダイ子である使徒ヨハネを混同して、ヨハネ福音書を使徒ヨハネの著作であるする見方は、二世紀半ば頃から、正統派の教会とグノーシス主義の陣営の両方で、並行して進んでいたようです。

ヨハネ福音書とグノーシス主義の関係については、この両分野の専門家である著者によって書かれた次の著作がよくまとめていますので、参考にしてください。
 大貫隆 『ロゴスとソフィア―ヨハネ福音書からグノーシスと初期教父への道』 (教文館 2001)

正典決定の過程におけるヨハネ文書

 最初期の信徒の集会では、旧約聖書が神の言葉として唯一の権威ある書でしたが、徐々に使徒たちが書いたとされる文書が集会で朗読され、教えの根拠として引用されるようになります。その中で最初に使徒の文書としてまとめられ、広く用いられるようになったのはパウロ書簡集でした。

パウロ書簡がまとめられた経緯については、「フィレモンへの手紙」の講解(拙著『パウロによるキリストの福音 V』)で取り上げていますので参考にしてください。

 次に福音書の集成が行われて、一般の教会で広く用いられるようになります。各福音書は別の地域で異なる時期に成立しましたが、イエスの働きと教えを伝える「使徒たちの思い出」または「使徒たちの覚え書き」として重視され、比較的早くその写しが広まっていったようです。福音書は70年前後のマルコに始まり一世紀末までの期間に成立したと見られますが、二世紀初頭には四つの福音書すべてが広く流布していたことがうかがわれます。それは、一世紀末に出たヨハネ福音書の一部が、二世紀初頭のエジプト砂漠のパピルス写本にあったことや、二世紀初頭に書かれたとされる『ディダケー』に四つの福音書の内容が言及されていることからもうかがわれます。
 二世紀半ばになると、四福音書が一つのまとまりとして知られていたことが、殉教者ユスティノスの著書(155年頃)からも分かります。また、タティアノスが四福音書を一つの福音書にまとめて『ディアテッサロン』を作ったのも、この頃(160年頃)です。このような事実から、ヨハネ福音書もこの頃にはすでに他の福音書と並んで、広く受け入れられていたことが分かります。

四福音書の調和を図ったタティアノスの『ディアテッサロン』は、イエスの生涯を語る年代の枠組みとして、共観福音書ではなくヨハネ福音書の枠組みを用いています。

 先に触れたように、二世紀後半には、モンタノス派に対する反発からヨハネ福音書をケリントスの作として拒否する人たちもいましたが、大勢はヨハネ福音書を含め四福音書をひとまとまりとして受け入れていました。その代表的論客はエイレナイオスです。彼はその著『異端論駁』(185年頃)で、天地に四つの方向があるように、福音書も四つでなければならないと論じ、ヨハネ福音書もその四つの中の一つとして、その正統性を擁護しています。

そのさい、エイレナイオスは著者を「主の弟子のヨハネ」と呼び、「使徒ヨハネ」とは一度も言っていないことに注意すべきことは、先に述べました。

このようにヨハネ福音書は一セクトの中で読まれている文書ではなく、偉大な教師の書として、比較的早くから主流をなす教会で広く受け入れられ、読まれていたようです。それでヨハネ福音書は、その後の正典に関する議論でも、四福音書の一つとして「全世界の教会で異議なく承認されているもの」に分類されていますが、ヨハネの手紙については、第一の手紙は福音書と共にこの分類に入れられ、第二と第三の手紙は「疑わしいもの」に分類されています。

これは三世紀前半の状況をまとめて、流布している諸文書を「異議のないもの」、「疑わしいもの」、「偽作として拒否されているもの」の三つに分類したオリゲネスの報告に基づいていますが、四世紀初頭のエウセビオスの『教会史』も、ほぼオリゲネスの分類を踏襲しています。

 手紙がこのように区別して扱われたのは、おそらく、第一の手紙に発信人の名がなく、その用語や内容から福音書と同じ著者、すなわち使徒ヨハネの作とされたのに対して、第二と第三の手紙ははっきりと「長老」からとしているので、その使徒性が疑われたからだと考えられます。
 ある文書を正典として受け入れるかどうかの基準は、その文書の使徒性、つまりそれが使徒または使徒の直弟子(マルコとかルカの場合)から出たものかどうかによりました。ただし、使徒の名を冠していても、その内容とか成立事情(とくに成立時期)が疑わしい場合は退けられました。こうして多くの偽典が退けられました。
 長老ヨハネとゼベダイの子である使徒ヨハネを混同することは、すでに二世紀半ばからはじまり、三世紀や四世紀にはすっかり定着していたようですが、この混同がヨハネ福音書と第一の手紙を問題なく正典に受け入れさせ、第二の手紙と第三の手紙を疑わせたことになります。
 ヨハネ黙示録については、事情はやや複雑です。この黙示録はヨハネの名を冠しているので、早くからヨハネ文書の一つとして扱われていました。そして、長老ヨハネと使徒ヨハネの混同の結果、この黙示録も福音書と共に使徒ヨハネの作とされて、流布するようになっていました。二世紀半ばの殉教者ユスティノスも本書を「キリストの使徒の一人であったヨハネ」の書としています(『トリュフォンとの対話』81)。しかし、二世紀後半のモンタノス運動が、この黙示録を自分たちの新しい預言活動の根拠として用いたので、モンタノス派に反対する一部の人たちがこれを異端者ケリントスの作だとして退けたことは先に述べた通りです。
 モンタノス派に対する反発だけではなく、制度的教会への道を進めていた当時の教会にとって、このように黙示思想的傾向の極めて強い文書には反発するものがあったと想像されますが、それでも受け入れられたのは、それが使徒の著作だとされたからだと考えられます。エイレナイオスは、福音書と黙示録を同じ著者によるものとして受け入れています。二世紀末の西方教会の正典目録とされる「ムラトリ正典目録」もヨハネ黙示録を入れています。西方教会ではその後も黙示録の正典性は疑われることはありませんでした。
 東方教会では、事情はそれほど単純ではありませんでした。オリゲネスはヨハネ黙示録を「異議のないもの」に入れていますが、オリゲネスの弟子で231年頃にアレクサンドリア教校の校長になったディオニュシオスは、福音書と黙示録は別の著者ではないかと疑っています。他の弟子たちは黙示録の正典性を否定し、三世紀後半になるとアンティオキア学派の教父たちも同調して黙示録の正典性を否定しています。東方教会においても、結局367年のアタナシオス書簡によってその正典性を認められるのですが、現存する新約聖書写本の約三分の一しかヨハネ黙示録を含んでいない事実が示すように、実際には教会であまり尊重されなかったようです。そして、367年のアタナシオス書簡以後も東方では、ヨハネ黙示録を含む正典表と含まない正典表が作成されるなど、不安定な状況が続きます。
 こうした歴史を見ると、「ヨハネ問題」はすでに古代教会の時代から、教会を悩ませてきたことがうかがわれます。古代教会がヨハネ文書を正典として受け入れたのは、それらが使徒ヨハネの著作であるとされたからでした。しかし、現代の聖書学はその伝統を否定するに至りました。ヨハネ文書の権威はもはや、長老ヨハネと使徒ヨハネの混同から始まった伝統的な「使徒性」に依存することはできません。「主の弟子」であり、豊かな賜物に恵まれた「神学者」が、初期の聖霊の力強い働きの中で、長い証言活動の成果として生み出した文書であるという、霊的内容から出る権威によって、現代のわれわれの信仰の基準として受け入れていかなければならないと考えます。