市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第30講

附 論

第三章 長老ヨハネとその共同体 




第一節 共同体の危機と長老の書簡

ヨハネ第三書簡の成立と内容

巡回伝道者の活動

 ヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体の交わりはどのような質のものであったのか、ヨハネの書簡がそれを垣間見させてくれます。最初に、個人的な実際の手紙としての性格がもっともはっきりしている第三の手紙を取り上げます。
 第三の手紙は「長老」からガイオという人物に宛てられています(一節)。まず、挨拶で「長老」はガイオが「真理に歩んでいる」ことを賞賛しています(二〜四節)。ガイオが真理に歩んでいることは、「兄弟たちが来ては、証ししてくれる」と長老は言っていますが、これは離れた場所にある個別集会の間の頻繁な交流を示唆しています。
 長老はガイオに、「御名のために旅に出た人たち」を「送り出してください」と依頼しています(五〜八節)。「御名のために旅に出た人たち」とは、主イエス・キリストの御名を伝えるために各地を巡回して伝道する人たちのことです。「送り出す」というのは、そのような伝道者たちの働きを支援することで、その中には生活費も含めて彼らが必要とする費用を負担することも入っています。「送り出す」がその意味であることは、「彼らは異邦人(信徒でない人たち)からは何ももらっていません」という文面が説明しています。このように具体的な形で彼らを支援することが「真理のために共に働く者となる」のだと、長老はガイオと彼の家にある集会を励まします。ガイオはすでに「兄弟たち、それもよそから来た人たちのために誠意をもって尽くしてきました」。そのことは、ガイオの世話になった人たちが「教会(おそらく長老が居合わせる集会)で証しをした」ので、長老は今回もガイオの誠意を信じて、このような依頼をすることができると喜んでいます。
 巡回伝道者に対する支援を依頼する原則的な文面の後に(すこし離れて)、デメトリオという人物を推薦する文面があります(一二節)。デメトリオは、おそらくこの手紙を携えてガイオのもとに来た巡回伝道者であると思われます。「わたしたちも証しします」という長老の推薦の言葉は、デメトリオが長老と彼が代表する共同体から伝道の使命を委任されて送り出されていることを示しています。この依頼と推薦が、この短い手紙の主要な目的であろうと思われます。
 その間に、「指導者になりたがっているディオトレフェス」のことが取り上げられます(九〜一一節)。長老は、彼が「悪意に満ちた言葉で」長老の共同体指導を批判して、自分の指導権を主張していると非難しています。長老とディオトレフェスとの間の確執がどのような問題をめぐるものかについては議論があるところですが、おそらく第一の手紙や第二の手紙に見られるようなキリスト理解についての対立ではなくて、単独司教制への移行期に見られる制度的な問題ではなかったかと考えられます。二世紀初め頃から、個々の教会は一人の監督(後に司教と呼ばれるようになります)によって指導されなければならないとする単独司教制が主張され、すでに二世紀初頭にはイグナティオスやポリュカルポスがそのような単独司教として活躍しています。このような方向に進むように主張したディオトレフェスと、長老の霊的権威を認めた上で、個々の信徒と集会が平等で自由な交わりを持つというこれまでの行き方が対立したのではないかと見られます。
 最後の結びの挨拶で、長老自身が近いうちにガイオを訪問して直接話し合いたいという希望を述べています(一三〜一五節)。長老自身も各地の家の集会を巡回して指導していたことがうかがわれます。このように、ヨハネ共同体は長老の霊的権威の下に個々の家の集会が自由な交わりをもつ信仰共同体であったことが、この短い手紙から分かります。

なお、この短い書簡に出てくる三人の人名を見ますと、ガイオ(正式にはガイウス)はローマ名、他の二人はギリシア神話にちなんだ名前で、ユダヤ人ではないことが分かります。ヨハネ共同体は、長老自身はパレスチナ出身のユダヤ人であり、中核的なメンバーには多くのユダヤ人がいたことは十分推察できますが、エフェソというヘレニズム世界の大都市で異邦人的性格を強めていたことがうかがわれます。

ヨハネ共同体の信仰生活

 ところで、このように各地の家の集会が一人の長老の霊的権威と指導の下に、何人かの巡回伝道者の働きで伝道活動を進めながら、自由で対等の交わりを持っていたと推察されるヨハネ共同体は、実際の信仰生活をどのようにしていたのでしょうか。これはヨハネ文書の解釈の問題になりますので、それぞれの文書の講解に譲りますが、ここでその概略を見ておきましょう。
 パウロ書簡や共観福音書および使徒言行録から、初期(使徒が活躍した時代)の信徒たちの集会の様子をある程度うかがうことができます。信徒たちは、(ユダヤ教の安息日である土曜日ではなく)主が復活されたとされる日曜日に集まり、共に主イエス・キリストの名によって祈りを捧げていました。まだ教会堂はありませんから、ゆとりのある個人の家に集まっていたようです。その集まりの中心は「主の晩餐」でした。復活者キリストの十字架の死を記念してパンとぶどう酒でする共同の食事が中心で、その前後に祈りや聖書(旧約聖書)の朗読、あるいは巡回してきた使徒や伝道者たち、または先輩集会員の説教や勧告があったようです。すでにパウロの時代に「監督たちと奉仕者たち」と呼ばれる役職の人々がいたことが知られています(フィリピ一・一)。
 ヨハネ共同体の場合は、「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事、または後に「聖餐」と呼ばれるパンとぶどう酒による儀礼が行われていたかどうかが問題になります。共観福音書(マルコ一四・二二〜二五および並行箇所)には、主イエスが最後の食事の席で弟子たちにパンを裂いて与え、ぶどう酒の杯を回して飲ませ、「これはわたしの体、わたしの血である」という言葉で意義づけ、「わたしの記念としてこれを行え」と言われたとする記事(いわゆる「制定記事」)があります。パウロもこれを自分も受けた伝承として自分が形成した集会に伝えています(コリントT一一・二三〜二五)。ところが、ヨハネ福音書では最後の食事の記事に、過越祭の背景でパンとぶどう酒を意義づける記事がなく、「主の晩餐」を制定する記事もありません。代わりに、六章(五二〜五八節)に「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」ことの霊的意味を強調する記事が置かれています。
 ヨハネ福音書に「制定記事」がないからといって直ちに、ヨハネ共同体は「主の晩餐」とか「聖餐」を行っていなかったと結論することはできません。それを行っていることは当然のこととして、その精神を教えるためにイエスが弟子の足を洗われた記事を置いたという理解も可能です。しかし、「神は霊である。神を礼拝する者は霊と真理によって礼拝しなければならない」(四・二四)というヨハネ福音書の基本的な主張からすれば、「聖餐」が祭儀化しつつある傾向に対抗して、あえて「制定記事」を省いたという理解も可能です。最後の食事の席でイエスの一番近いところにいた目撃証人である「愛弟子」が、そして少なくともマルコ福音書を知っていると考えられる長老ヨハネが、あえて「制定記事」を書いていないという事実は重く受け止めるべきであると思います。

二世紀初頭のアンティオキア司教イグナティオスには、聖餐を永遠の命を与える秘薬のように理解する祭儀化が見られることと比較すると、一世紀末のヨハネ福音書におけるサクラメントとしての聖餐についての無関心は注目されます。ヨハネ共同体における「サクラメント」については、本書上巻の『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』256頁の「補講―ヨハネ福音書とサクラメント」を参照してください。

 バプテスマについても、ヨハネ福音書は水のバプテスマに対比して聖霊のバプテスマを強調しています。復活者キリストは(マタイのように)水のバプテスマを授けるように命じられたことはなく、聖霊でバプテスマする方として指し示されています(一・三三)。水のバプテスマを示唆するとされる「水と霊によって生まれなければ」という三章五節も、御霊の自由な働きを語る文脈の中に包み込まれています。ヨハネ共同体の信仰を提示するヨハネ福音書は、総じてサクラメントには無関心で、本来それが来るべき位置に御霊の自由な働きと、それによる復活者キリストとの霊の交わりを置いています。教会制度についてもまったく無関心です。「使徒」という地位を示す用語は一度も用いられていません。
 このような事情を総合すると、ヨハネ共同体は長老ヨハネの証言と指導に依拠して、ひたすら御霊による復活者イエスとの交わりを追求し、形式的・制度的な関心から解放されて、御霊による自由な交わりを形成しようとした共同体ではないかと考えられます。
 これは教会とかセクトではなく、長老ヨハネを霊的な権威と仰いで、小アジアの諸集会を横断する形で展開した信仰運動ではなかったかと考えられます。日本のキリスト教史においては、内村鑑三とか賀川豊彦の運動に近いものではなかったかと推察することも可能です。そうであれば、洗礼とか聖餐という儀礼は教会のものとして認めた上で、この運動の中では無関心でいることができることになります。このような運動としてのヨハネ共同体の在り方は、現在のわたしたちのモデルとして重要な意義を担うことになります。

ヨハネ第二書簡の成立と内容

ヨハネ共同体の危機

 このような共同体に分裂の危機が襲います。共同体の中に対立と亀裂が生じていたことは、すでに第二の手紙が示しています。この手紙ではまだ分裂まで行っていませんので、すでに分裂が起こってから書かれた第一の手紙(二・一九参照)よりも先に書かれたと見られます。ここでまず、先に書かれたと見られる短い第二の手紙の概略を見ておきます。
 「長老」は「選ばれた婦人とその子たち」に書き送っています(一節前半)。「婦人」《キュリア》という語は、《キュリオス》(主人)の女性形で、もともと奴隷に対して女主人を指す語です。この語に「選ばれた」という説明がついていることと、「その子たち」について語ることが集会員のことですから、この「婦人」は宛先の集会を象徴的な用語で指していると理解することができます。
 長老は手紙の挨拶文(一節後半〜三節)で、特愛の用語である「真理」と「愛」を繰り返し用いて、共同体がいかに真理と愛の中にある交わりであるかを(ややくどい文体で)強調しています。
 長老は宛先の集会がもはや一枚岩ではなく、亀裂が入っていることを知っています。長老は「あなたの子供たちの中に」、すなわち集会員の中に「わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人たち」がいることを知って喜んでいると言っていますが(四節)、その言葉の背後にはそうでない人たち、すなわち真理に従って歩んでいない人たちがいることを知った苦悩があります。そこで、長老は「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります」と言って、長老が教えたとおりに真理に歩むように勧告します(五〜一一節)。
 では、長老が言う「真理に歩む」と「真理に歩まない」の違いはどこにあるのでしょうか。長老は最初に、愛に歩むように、すなわち互いに愛し合うという御父の掟に従って歩むように求めています(五〜六節)。しかし、愛に歩むということはあまりにも一般的な戒めであり、それに従って歩んでいるかどうかで、「真理に歩んでいる」人であるとか、「真理に歩んでいない」人であると線を引くことは困難です。
 長老は、常日頃強調している愛による一致を前置きとして繰り返した上で、その後で本題を出します。長老が訴えたい本題は、「人を惑わす者たち」の偽りの教えに耳を傾けないようにという勧告です(七〜一一節)。長老は「人を惑わす者たち」のことを「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たちだと説明した上で、彼らを「反キリスト」だと決めつけます。長老は、彼らの教えに耳を傾け、その教えに従うならば、「わたしたちが努力して得たものを失う」ことになると警告します。「わたしたちが努力して得たもの」とは、長老を中心に長年にわたって伝道の努力をして形成したキリストの民の信仰を指していると見てよいでしょう。長老は正しい信仰の崩壊を心配しています。彼らの教えに聴き従う者は、「キリストの教えを越えて、これにとどまらない者」であり、そのような者は「神を持たず」(直訳)、「豊かな報いを受ける」こともないと警告が続きます。長老が証言し共同体が保持してきた教えこそ「キリストの教え」であり、「その教えにとどまる人こそ、御父と御子を持つ」(直訳)のだと断言します。
 ここで「教え」が「真理に歩む」ことの基準となっていることが注目されます。長老が説き続け、共同体が保持してきた教えこそ「キリストの教え」であり、その教えから逸脱して、「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たちの教えは「反キリストの教え」とされます。長老から見て「反キリストの教え」をもって巡回する伝道者の働きが始まり、共同体は分裂の危機にあることを長老は真剣に危具しなければならなくなります。それで、長老は各集会に、何よりも彼ら「人を惑わす者たち」を家に入れず、挨拶もしないように、すなわち集会で語る機会を与えないように警告します。彼らに「挨拶する」人は、彼らの仲間になるのであり、彼らの偽りの所行に荷担することになると厳しく警告します。
 長老は最後の結びで、「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです」と、第三の手紙で言ったのと同じ言葉を用いています(一二節)。長老の指導は書いたもの(文書)によるのではなく、直接語る形で行われたようです。長老は書くことはあまり得意ではなかったのかもしれません。
 最後に「あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たち」からのよろしくの挨拶が加えられて、手紙は結ばれます。この「あなたの姉妹、選ばれた婦人」は今長老がいる集会を指しています。ヨハネ共同体では、各地の集会はお互いに姉妹として対等で親しい交わりを形成していたようです。
 第二の手紙の書き方はきわめて一般的で、どの集会に宛てられたものとしても読むことができます。同じ文面の手紙が共同体の各集会に送られた可能性があります。おそらく長老は「惑わす者たち」の活動を封じるために各地の集会を訪問しようとして、その予告としてこの手紙を各集会に送った(あるいは回状として回した)のではないかと推察されます。宛先が固有名詞ではなく「選ばれた婦人」という象徴的な用語になっているのもそのためであると考えられます。

ヨハネ第一書簡の成立

共同体の分裂と長老の対応

 長老の必死の努力にもかかわらず、亀裂は深まり、ついに一部の者たちは共同体の交わりから出て行きます(T二・一九)。ある意味で共同体は分裂したのです。
 「ある意味で」と言ったのは、この場合「分裂」の実情が曖昧であるからです。ある組織的な団体から一部の構成員が出て行って別の組織を作ったのであれば、それははっきりと「分裂」です。しかし、ヨハネ共同体というのは、教会とか教団というような組織体ではなく、どの教会や集会の所属員も自由に長老ヨハネの教えに接することができる開放的で流動的な交わり《コイノーニア》であったと見られます。
 したがって、その交わりから一部の者が出て行ったとしても、それは厳密な意味での「分裂」(組織の分裂)ではなく、交際をやめるという程度のものであると見られます。長老は組織の分裂とか崩壊を恐れているのではなく、共同体の交わりから出て行った者たちの「偽りの教え」が、共同体全体の信仰を誤りに導き、地域(この場合は小アジア)のキリスト者共同体全体に浸透することを恐れているのです。
 その危機に際して、長老が共同体に残っている者たちに、正しい信仰にとどまるように説き勧めるために書いた勧告の書が「第一の手紙」です。これは手紙というよりは長老の説教です。その内容は「ヨハネの手紙講解」として別に扱わなければなりませんが、ここではその成立の事情だけに触れておきます。(この手紙の講解は本書附論第四章「長老ヨハネの遺訓―ヨハネの第一の手紙講解」を見てください。)
 この第一の手紙には、第二と第三の手紙のように、「長老から」という形で著者は明言されていませんが、共同体全体にこのような形で語りかけることができるのは「長老」しかありません。第一の手紙と第二・第三の手紙の著者は別人だとする説もありますが、わたしは第一の手紙の著者も、第二と第三の手紙の著者と同じ「長老」と見なければならないと考えます。
 この書の中で長老はしきりに「わたしは書いた」とか「わたしは書いている」と繰り返しています(一人称単数形の「書く」という動詞は13回出てきます)。普段書くよりも直接語ってきた長老が、この多くの集会に緊急に対応しなければならない危機に際して、思いあまって慣れない筆を執っている姿が思い浮かびます。本書は、共同体の各集会への回状として、特定の宛先なしで始まります。挨拶部分はあったのかもしれませんが、集会での朗読用にそれを抜いた形で保存されたと見られます。

手紙が口述筆記による可能性もあります。長老が口述して筆記させているとしても、「わたしは書いている」という表現と矛盾しません。

 長老は読者に「子たちよ」とか「若者たちよ」と呼びかけています。これはラビが弟子たちに呼びかけるときの言い方です。長老の教え子である読者は、長老が「わたしが」書いていると言えば、それだけでその文の重さ(権威)を十分理解するはずだという気持ちが感じられます。その調子は、議論して説得しようとするのではなく、普段教えていることを繰り返し宣言するという性質のものです。本書の繰り返しの多い単調な文体は、老人に典型的な文体であると見る研究者もいますが、長老の説教の調子を反映していると見てよいでしょう。

偽りの教え

 では、長老がその影響を恐れている「偽りの教え」とはどのような教えでしょうか。長老はすでに第二の手紙で、「人を惑わす者たち」のことを「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たちであると説明していました。長老はこの第一の手紙の中で、彼らの偽りの教えをさらに詳しく描いています。詳細は講解に委ねなければなりませんが、ここで概略を見ておきます。
 長老はこの手紙の二箇所で「偽り者」について述べています。二章(一八〜二五節)と四章(一〜六節)です。二章(二二節)では「偽り者とは、イエスがメシア(キリスト)であることを否定する者でなくて、誰でありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」と言っています。そして、同じことを四章(二節)では「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」と、逆の方向から同じことを述べています。
 長老はこの手紙全体で繰り返し繰り返し、イエスをメシア・キリスト、神の子と信じ告白することが正しい信仰であって、イエスが肉となって(人間となって)現れた御子であることを否定する者は「偽り者」であり、「反キリスト」だと決めつけています。長老の主張の強調点は、完全な意味で人間であるイエスが神の子であり、救済者たるキリストであるという点、すなわちイエスとキリストの同一性にあります。
 「偽り者」は、神の子キリストを信じないのではありません。ただ、人間であるイエスが直ちに神の子キリストであることを否定するのです。イエスはヨセフとマリアの子であり、一人の人間に過ぎない。たしかにイエスに神の霊が降り、神の子キリストはイエスを通して語り働いたが、キリストは霊的存在であって苦しむことはできないのであるから、イエスが十字架につけられる前にイエスを去って天に帰った。十字架の上で苦しんだのは人間イエスであって、キリストではないとするのです。人間イエスと神の子キリストを別の存在として分離するのです。これは後の時代にグノーシス主義として知られるようになる思想の一つの典型です。このような教えでは、「イエスは神の子キリストである」という信仰告白が否定されています。

エイレナイオスは、このような教えはケリントスの教えだとし(『異端論駁』一・二六・一)、ヨハネはケリントスを論駁するためにヨハネ福音書を書いたとしています(同書三・一一・一)。ケリントスは100年前後に小アジアで活動した人物(おそらくユダヤ人キリスト教の教師)で、長老ヨハネと出会った可能性もあります。エイレナイオスは、師ポリュカルポスから聞いたこととして、エフェソの浴場でケリントスに会ったヨハネは、「真理の敵がいるから、浴場が崩れるかもしれない」と言って飛び出したというエピソードを伝えています。しかし、ケリントスに関する二世紀の教父たちの証言は混乱していて、その実像を把握することは困難です。

 パウロは信仰によって義とされるという福音の真理のために戦い、その真理を否定する律法主義者に「アナテマ」を投げつけましたが、それから半世紀近くを経て、長老ヨハネの時代には信仰による義についての論争は遙かなる過去のこととなり、決着しています。今や真理をめぐる戦いはキリスト論をめぐる戦いになっています。
 おそらくこの変化は、一世紀末にはキリスト信仰が当時のヘレニズム社会の上層部まで浸透し、彼らのもつ通俗的なギリシア哲学の素養がキリスト理解に影響を及ぼし初め、ヨハネから見れば「この世の霊」に惑わされたキリスト理解が現れるようになったからだと考えられます。

手紙の著者

福音書と手紙の前後関係

 ところで、長老ヨハネが共同体の危機に直面して手紙を書いたとき、すでに「福音書」は文書として存在していたのでしょうか。現在では、福音書が先に書かれ、手紙はその後で書かれたと見る見方が大勢を占めています。

たとえば、新共同訳新約聖書注解Uの「ヨハネの手紙・序論」(松永希久夫)はこう述べています。「ヨハネの教会を襲った第一の危機とも言うべきユダヤ教との訣別の時期に福音書が記され、その後、この福音書の読み方について福音理解の誤りが生じ、異端の危機が第二の危機として襲った。これに対応するために書かれたのがヨハネ書である」。これは現在のヨハネ文書理解の大勢をよく要約しています。

 しかし、手紙の中には福音書の存在を示唆する文言はありません。福音書の記事を論拠として引用する箇所はありません。たしかに福音書と手紙の思想内容と用語や文体に共通するものがきわめて多いのは顕著な事実です。しかし、この事実は手紙の書き手がすでに存在する福音書を利用したことの証明にはなりません。その事実は、すくなくとも福音書と手紙が同じ共同体において成立したものであることを証明するだけです。さらにこの事実は両者が同じ著者から出たものであることを強く示唆しています。しかし、前後関係を証明するものではありません。
 先に福音書の成立の事情を見たときに述べたように、福音書はある時期に一気に書かれたものではなく、長い年月にわたる編集過程を経て成立したものです。その最終的な形は長老が亡くなった後に確定し、「ヨハネによる福音書」として文書化され流布するようになりました。手紙は明らかに長老の生存中の執筆ですから、この最終形態の福音書よりは先に書かれたことになります。
 では、手紙が書かれた時には、共同体において福音書の内容はどのような形で知られていたのでしょうか。それを確定することは困難ですが、説教や対話による長老の絶えざる口頭の証言活動により、福音書の内容は共同体の共通の知識となり、そのキリスト理解は共通の資産となっていたと推察することができます。もちろん、それが部分的にあるいは段階的に文書化されていたことを否定することはできません。

ヨハネ福音書が現在の形をとるにいたるまでの過程は複雑で、研究者の間で多くの異なった説と議論があります。たとえば、「原ヨハネ福音書」というようなものの存在を想定することができるとすれば、それは手紙よりも先にあったことは考えられます。しかし、本稿では福音書の編集過程について立ち入ることはできませんので、概論にとどめます。

 このように、手紙が書かれたとき福音書はまだ生成の過程にあったとすれば、手紙が伝えている共同体の危機は、福音書の叙述にも影響を与えていることが考えられます。事実、八章三〇節以下の「イエスを信じたユダヤ人たち」に対する論争と激しい批判は、ヨハネ共同体の分裂の危機を背景として見るとき、もっとも自然に理解できます。これは福音書講解の問題になりますが、福音書の理解にさいしてはこの観点からの検討も必要であることを示しています。

八章三〇節以下の「イエスを信じたユダヤ人たち」に対する論争については、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』の第八章第二節「真理は自由を与える」、とくに331頁以下の段落29「悪魔の子ら」(8章39〜47節)を参照してください。同書337頁で見たように、福音書のこの段落は、第一の手紙に見られる共同体の分裂の危機を反映しています。

「長老」とは誰か

 福音書と手紙の関係については、その前後関係だけではなく、著者が同じであるか別人であるかも議論されています。この問題でも、現在の学界の大勢は別人説に傾いています。すなわち、神学思想の微妙な、しかし重要なズレから見て、ヨハネ福音書を最終的に現在の形に編集した弟子が、共同体の危機に際して手紙を書いたという理解です。
 この理解によると、ヨハネ共同体を指導した「愛弟子」が召されて世を去った後、共同体において形成されていた福音書を最終的に編集し、「あとがき」として補遺の二一章を加え、その中で福音書を「愛弟子」の著作と明記して世に出した弟子が、この「愛弟子」ヨハネの後継者として共同体の代表者となり、共同体の人たちから「長老」と呼ばれていたことになります。この「長老」が、共同体の交わりを指導し、また「愛弟子」亡き後の共同体の分裂を憂い、三通の手紙を書いたことになります。

岩波版新約聖書の「ヨハネの手紙解説」(大貫隆)も別人説をとっています。なお、この「解説」の「三 成立場所」についての論述で、同じような異端説に言及しているシリアのアンティオキア教会司教イグナティオスがヨハネの手紙に言及せず、この手紙の存在を最初に証言しているのが小アジアのポリュカルポスやパピアスであることから、手紙の成立地を小アジアとする説も「かなりの蓋然性があると言わざるを得ない」としています。そして、福音書の成立地をシリア・パレスチナの境界領域だとする解説者は、「ヨハネ福音書をシリアで生み出した者たちが、その後一定の事情から小アジアに移動し、そこでの新しい状況の中でヨハネの手紙が執筆されたと想定する研究者が少なくない」と述べています。このような言い方は、ヨハネ文書の成立をシリアだとする説の「ほころび」を示していると言えるでしょう。

 たしかにこう理解すると、福音書と手紙の間に見られる「神学思想の微妙な、しかし重要なズレ」を説明しやすくなります。福音書が《パルーシア》(キリストの来臨)には触れることなく、救いと永遠の命をあくまで現在の事実として告知しているのと比べると、書簡では《パルーシア》を前提にして、「御子が現れる時」の救いを未来形で語っています(ヨハネT二・二八〜三・三)。このような変化は、「愛弟子」の活躍中の時期よりも、「愛弟子」が世を去ってある程度の時間が経ち、ヨハネ共同体を取り巻く状況が変わったことを前提としているとします。すなわち、共同体の中の一部の者たちが、「愛弟子」ヨハネの霊的理解を極端な方向に進めて、御子が肉体を取って世に来られたことを否定するまでになり、周囲の主流のキリスト宣教から離れて行く傾向を示すようになったとき、「愛弟子」ヨハネの後継者である「長老」が、共同体を周囲の主流のキリスト宣教に合致する「健全な」方向に導くために手紙を書いたことになります。その「方向」の中に、《パルーシア》待望や、その待望を動機とする倫理的勧告が強調されることが含まれます。
 しかし先に見た「前後関係」からすると、共同体の分裂の危機に直面して長老自身が三通の手紙を書き、とくに第一の手紙で正しい信仰にとどまるように諄々と説いた後、召されて世を去ります。そうすると、第一の手紙は長老の「遺訓」の性格をもつ文書となります。もちろん、長老がそれを書いたときは「遺訓」として書いたのではないでしょうが、結果としてそれが長老最後の文書となり、「遺訓」となったことになります。ちょうど、パウロがローマ書を遺言として書いたのではないのですが、結果としてそれがパウロの最後の証言文書となり、ローマ書が「パウロの遺言」と呼ばれるようになったのと同じです。
 この場合、手紙ではまだ周囲の主流の共同体伝承を用いて未来の終末を語っていた著者が、歳を重ねてその神学的思想を成熟させ、福音書では「実現した終末論」という彼独自の思想を徹底させて福音書を書いたと見ることになります。だいたい福音書は長老個人の著作ではなく、長老の証言を基にして形成されたヨハネ共同体全体の信仰告白の文書として、長年の編集過程を経ています。そして、長老が世を去った後に、彼の後継者がそれまでに形成されつつあった福音書を最終的に編集して、「あとがき」として二一章を加え、「ヨハネによる福音書」として刊行したものです。このような成立の経緯からすると、手紙と福音書に見られる「神学思想の微妙な、しかし重要なズレ」も納得できます。
 もし手紙の著者が、「愛弟子」であり「長老」であるヨハネ本人ではなく、彼の後継者であるとしても、著者は「愛弟子」ヨハネの権威を背景とする「長老」として書いています。そうすると、これは「ヨハネの名による手紙」であり、その内容は「愛弟子」ヨハネの勧告として受け取ることができます。そして、福音書が複雑な編集過程を経ているとしても、その内容が「愛弟子」ヨハネの証言の統一的な提示であるという意味で、彼の作品であり、彼がその「著者」であると言えるのであれば、福音書と手紙すべての「著者」は、「愛弟子」であり「長老」であるヨハネ自身であるとしなければなりません。

「ヨハネ文書」の中で「ヨハネ黙示録」だけは問題が残ります。ヘンゲルが主張するように、長老がエフェソ移住後の早い時期にパトモスに流刑されたことはあり得ることであり、またその時の霊的体験を伝えたことが核となって、一世紀末の終末待望が燃えた時期に、このような黙示思想的文書が、ヨハネ共同体の周辺で成立した可能性を否定することはできません。しかし、エイレナイオスや他の二世紀の伝承が指し示しているように、ドミティアヌス帝時代の成立であるとすれば、パレスチナから避難してきた(ヨハネ共同体とは別の)預言者集団の中の、ヨハネという同名の預言者の著作である可能性も十分にあります。この問題は『パウロ以後のキリストの福音』の中のヨハネ黙示録の章で取り扱うことにします。