市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第28講

附論

第二章 長老ヨハネと福音書 




第一節 長老ヨハネの生涯 U

ヨハネ文書

 前章のはじめに書きましたように、ヨハネ福音書が成立直後の二世紀初頭から「ヨハネによる福音書」という呼び方で流布していたことは、その時代の教父たちの証言もあり、広く認められています。その事実は、この福音書を生み出した共同体を指導して形成した人物がヨハネという名であったことを意味しており、本稿ではこのヨハネが誰(どのヨハネ)であったのかは別として、とにかくこの人物によって指導され形成された信徒の共同体を「ヨハネ共同体」、その共同体が生み出した福音書を「ヨハネ福音書」と呼んで議論を進めてきました。
 このヨハネは、先に見たように、福音書の中ではいっさい名があげられず、「イエスが愛された弟子」とか「もう一人の弟子」という呼び名で登場していますが、共同体内部では「長老」と呼ばれていたことが、この共同体から出た手紙によって分かります。
 新約聖書に収められている三つの「ヨハネの手紙」は、パウロの手紙のように、発信人の名が書かれているものはありません。発信人は「長老のわたし」と名乗るだけです(ヨハネU一節とヨハネV一節)。しかし、ヨハネの手紙もヨハネ福音書と同じく、「ヨハネの手紙」という呼び名で古くから流布していたことは、広く認められています。信仰内容と用語や文体からして、三通の手紙が「ヨハネによる福音書」と同じ共同体から出たものであることは確実であり、この点については意見が一致しています。
 さらに、古代教会は「ヨハネ黙示録」も同じ共同体から出たものとして扱ってきました。「ヨハネ福音書」、三通の「ヨハネの手紙」、そして「ヨハネ黙示録」の五つの文書はみな同じ共同体から出た文書として、「ヨハネ」の名を冠して流布していました。この五つの文書は古来「ヨハネ文書」という呼び方で一括されて、その特質と相互の関係が議論されてきました。その呼び方は現在に至るまで続いています。本稿でも、この五つの文書を「ヨハネ文書」と呼んで、その成立の事情を探求しています。
 実は、この五つの「ヨハネ文書」の中で、著者がヨハネであることを明記しているのはヨハネ黙示録(一・一)だけです。しかし、他の四つの文書も、当初から「ヨハネ」という名を冠して流布していたことは、二世紀のパピルス写本や教父たちの証言から知ることができます。

ヨハネ共同体の場所

 この五つの文書が二世紀以来「ヨハネ」の名を冠して流布していることを証言しているのは二世紀の教父たちだと言ってきましたが、実はその教父たちの証言は、圧倒的にヨハネ共同体が小アジア、とくにその州都であるエフェソを中心に活動したこと、したがってヨハネ文書が小アジアで成立したことを指し示しています。その証言を網羅することはできませんので、代表的な証言をあげておきます。
 まず二世紀初頭(一一〇年頃)に著作活動をしたヒエラポリス(エフェソに近いアジア州の都市)の監督パピアスは、(エウセビオスの「教会史」三巻三九章に保存されている断片によると)アンデレ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネなどとは別に「長老ヨハネ」を知っており、ヨハネから直接話を聞いたことを示唆しています。このヨハネが(エウセビオスが理解したように)「長老ヨハネ」を指すのであれば、年代的にも地理的にも十分可能性があります。
 二世紀後半に活躍したエフェソの監督(司教)ポリュクラテスは、復活節の日付の問題で論争した手紙の中で、こう書いたと伝えられています。
 「偉大な星たちはアジアの地に安息の地を見いだした。・・・・十二使徒の中の一人フィリポはヒエラポリスで眠りについた。そして、主の御胸に寄りかかったヨハネは、祭司の前当てをつける祭司であり、証人であり教師であったが、彼はエフェソの地で安息に入った」(エウセビオス「教会史」五巻二五章からの抜粋)。
 この証言で、「使徒フィリポ」が先に言及されて、次に来るヨハネには「使徒」という呼称は用いられず「教師」と言われています。この事実は、共観福音書の十二使徒のリストではいつもゼベダイの子ヨハネがフィリポよりも先にあげられていることと合わせて、「主の御胸に寄りかかったヨハネ」はゼベダイの子ヨハネとは別のヨハネであることが、二世紀の小アジアの教会によく知られていたことを物語っています。また、彼が祭司の出身であることも知られていたことが分かります。

ポリュクラテス(あるいは彼が用いた伝承)は、十二人の中のフィリポとヘレニスト七人衆のフィリポとを混同しているようです。ヒエラポリスはアジア州の都市で、ラオディキアとコロサイの近くにあります。また、エフェソには「ヨハネの墓」と称する墓が二つ、すなわち使徒ヨハネの墓と長老ヨハネの墓があったと伝えられています(エウセビオス「教会史」七巻25章)。ヨハネに関する文の中で彼が「マルチュロス(証人)」と呼ばれているのは、パトモスへの流刑を指していると見ることも可能です。

 二世紀末に活躍したリヨンの監督エイレナイオスは、最初に福音書は四つでなければならないことを主張した教父ですが、彼はマタイ、マルコ、ルカがそれぞれ福音書を書いた事情を述べた後、「最後に、主の御胸に寄りかかっていた主の弟子ヨハネは、アジアのエフェソにいる時に福音書を出した」と述べています(「異端論駁」三巻一章)。エイレナイオスは南フランスのリヨンの監督ですが、もともと小アジアの出身であり、若い時にスミルナの監督ポリュカルポスのもとで学んだ弟子です。したがって、小アジアの事情と伝承には詳しい人物であり、そのエイレナイオスが繰り返し「主の弟子のヨハネ」がヨハネ福音書とヨハネの手紙と黙示録を書いたことを確かな伝承として引用しています。なお、彼もヨハネを一度も「使徒」とは呼んでいないことに注意すべきです。エイレナイオスが「使徒」と言うときは、いつもパウロを指しています(例外的に使徒マタイとか使徒ペトロがごく僅か出てきます)。

エイレナイオスがヨハネを「使徒」と呼んでいると解釈できる可能性がある例外的な箇所が一箇所ありますが(『異端論駁』一・九・二)、これは論敵プトレマイウスの用語を用いている結果であるとも解釈できるので、決定的ではありません(ヘンゲル)。
 エイレナイオスの証言で、福音書を「書いた」とは言わないで「出した」(私訳、原語は《エクセドーケン》)と言っていることが注目されます。
 エイレナイオスの師ポリュカルポスはエフェソでヨハネの教えを受けたと伝えられています。ポリュカルポスは一五六年に80歳代の高齢で殉教したと伝えられていますから、90年代には20歳代の若者であり、「長老ヨハネ」の教えを受けたことは年代的に可能です。ただ、この「ヨハネ」が後にエウセビオスの「教会史」では「使徒ヨハネ」であるとされて、ヨハネ問題に混乱を持ち込んでいます。

 一方、一世紀末に「証人かつ教師」として小アジアで有名になっていた長老ヨハネは、すでに二世紀半ばにはゼベダイの子の使徒ヨハネと混同されるようになります。それは、このような立派な教えを残した人物を「使徒」という資格に格上げしたいという願望もあったのでしょうが、ヨハネ福音書が徹底的に(それが意図的かどうかは別問題として)ゼベダイの子ヨハネを隠して、「愛弟子」を無名で登場させていることから生じた混同であると見られます。この混同は、エイレナイオスがヨハネ文書の著者を「主の弟子のヨハネ」としている証言を、「ゼベダイの子である使徒ヨハネ」のことであると理解させ、この理解(実は誤解)がヨハネ文書を使徒の著作であると受け取らせ、正典の中に入れられる有力な根拠となります。同時に、ヨハネ文書がゼベダイの子ヨハネの著作ではありえないとする近代の文献批評からは、エイレナイオスの証言全体がたんなる伝説として退けられる理由にもなってしまいます。
 しかし、このヨハネを「長老ヨハネ」と理解すれば、エイレナイオスたちの証言には矛盾はありません。その理解の上で、わたしたちは現代の学者の推察よりも、当時の出来事にはるかに近い二世紀の教父たちの証言を重視しなければなりません。

歴史的状況についての論争

 ヨハネ文書がゼベダイの子ヨハネによる著作であることを否定した近代の文献批評は、その否定によってこれを使徒ヨハネの作とする古代教会の伝承全体を否定し、それと共にその成立の場所としてエフェソを指し示す二世紀の教父たちの証言も無視するに至りました。ではヨハネ共同体がどこにあったのかという問いには、パレスチナ、サマリア、シリア、アレクサンドリアなど様々な候補があげられてきました。ブルトマン学派をはじめドイツの研究者には、パレスチナ・シリアをあげる傾向が強いようです。

たとえば、H・ケスター『新しい新約聖書概論』やS・シュルツ『ヨハネによる福音書』(NTD)は、ヨハネ文書成立の母体をシリアにある共同体としています。その主な理由は、(次に述べるヤムニアの決議によるものではなく)ヨハネ福音書に見られる主要な宗教的伝承がシリア系の(グノーシス主義的な傾向を帯びた)伝承であることに求められています。しかし、後に見るように、ヨハネ福音書の著者はパレスチナの初期ユダヤ教の伝承から黙示思想やクムラン、さらにヘレニズム世界の宗教的伝承に至るまでの広い範囲の伝承を統合しています。福音書がシリア系の伝承を含んでいることは、エフェソ移住までの期間に著者が接した可能性を考えれば、教父たちのエフェソ説と矛盾するものではありません。最近、K・ヴェングストがヨハネ共同体の所在地をパレスチナ・シリアの境界にあるヘロデ・アグリッパ二世支配下のガウランティス地方(ガリラヤ湖の東北に広がる現在のゴラン高原方面)とする説を出しています。そして、前出の大貫隆『ヨハネ福音書』もこの地域を有力な候補地としています。しかしヘンゲルは、ギリシア語を使う人口がごく限られたこの地域は、ギリシア語を用いる大都市環境の文書であるヨハネ福音書(この点については後述)の成立地ではありえないことを論証し、またヘロデ・アグリッパの政策からも不適切であるとし、この説を「学者の空想」と厳しく批判しています。

 ヨハネ共同体の場所に関する論争には、ヨハネ文書、とくにヨハネ福音書がどのような歴史的状況の中で成立したのかという問いが深くからまっています。最近、ヨハネ福音書だけに出てくる「会堂から追放された者《アポシュナゴーゴス》」という用語を鍵として、70年のエルサレム神殿崩壊後ヤムニアの学院を拠点としてユダヤ教の再建を進めたファリサイ派律法学者たちによる異端者の探索・裁判・処刑の決議が背景となっているという説が有力になってきています。その説では、ヤムニアの決議が有効に行使できる地域としてパレスチナ・シリアが候補になってきます。

この説の代表的な著作として、J・L・マーティン『ヨハネ福音書の歴史と神学』(原義男・川島貞雄訳 日本基督教団出版局)をあげておきます。わたしも前著『キリスト信仰の諸相』(62頁)では、ヤムニアの異端排斥の決議と、それによるヨハネ共同体の危機を背景として、パレスチナ・シリア説を示唆しましたが、これは訂正の必要があるようです。

 しかし、ヘンゲルが反論しているように、ユダヤ教会堂側が、イエスをメシア・キリストと告白するユダヤ教徒を異端として会堂から追放し、裁判にかけ、処刑することさえあったのは、ヤムニアの決議に始まるのではなく、ステファノの殉教以来ずっと続いてきたことです。ギリシア語系のユダヤ人キリスト教徒がエルサレムから追放された(使徒六〜八章)のも、《アポシュナゴーゴス》としての追放でしょう。43年にはゼベダイの子ヤコブがヘロデ・アグリッパによって処刑されています(使徒一二・一)。62年には主の兄弟のヤコブが他の有力なユダヤ人信徒と共に律法違反の咎で裁かれ、大祭司アンナス二世によって処刑されています。古い伝承によると、ゼベダイの子ヨハネもこの頃までに殺されたようです。マルコ一〇・三九は、すでにゼベダイの子のヤコブとヨハネの殉教を知っていると考えられます。パウロの伝道によって信仰に入ったユダヤ人も会堂から放逐されて、別の場所に集会を形成しなければなりませんでした(使徒一八・七)。
 このようなユダヤ教会堂からの迫害は、ヤムニアの決議を待つまでもなく、「彼らはあなたたちを会堂から追放するであろう。しかも、あなたたちを殺す者がみな、自分は神に仕えているのだと思いこむ時が来るであろう」(一六・二)という状況に合致しています。エルサレムにいて多感な青年期にこのようなユダヤ教側からの厳しい迫害を見てきた「愛弟子」の体験が「トラウマ」となって、ヨハネ福音書の激しい「ユダヤ人」弾劾を生み出したと見られます。

ヨハネ共同体とサマリア

 イエスの身近にいてイエスの最後を見届けた「愛弟子」が、その後エルサレムで、あるいはパレスチナの地でどのような歩みをしたのか、資料がないのでその足取りを解明することはできません。ただ、その「愛弟子」が晩年には「長老」としてヨハネ共同体を指導する立場でエフェソで活動しているのですから、その長い生涯のどこかでパレスチナから小アジアのエフェソに移住したとしなければなりません。それまでヨハネとそのグループがパレスチナでたどった足取りは、資料がないので描くことはできないとしてヘンゲルは沈黙していますが、ヨハネ福音書四章にあるサマリアの記事は、その詳細な扱い方と、サマリアの地理などの正確な知識などから、ヨハネのグループがサマリアと何らかの深い関わりをもっていたことを示唆しています。
 ヨハネ福音書四章はイエスご自身がサマリアで伝道活動をされたとしています。しかし、共観福音書にはそのような報告はありません。ルカには、イエスが最後にエルサレムに上られるときサマリアの村に入られたが、歓迎されなかったので別の村に入ったという記事があります(ルカ九・五一〜五六)。また、エルサレムへ上る途中「サマリアとガリラヤの間を通られた」とき、一人の重い皮膚病のサマリア人を癒された記事がありますが(ルカ一七・一一〜一九)、イエスがサマリアにとどまって宣教活動をされたという記事はありません。むしろ、共観福音書に含まれている語録では、イエスは弟子たちを宣教に派遣するとき、「サマリア人の町に入るな」と命じておられます(マタイ一〇・五)。ルカが伝えるところによると、福音がサマリアに入ったのは、ステファノのことで始まった迫害のとき、信徒たちの一部がサマリアに逃れたのと、その後フィリポがサマリアで伝道したときであると考えられます。その後ペトロとヨハネもサマリアに行っています(使徒言行録八章)。
 こうして信仰に入ったサマリア教徒がかなり多く、ある時点で(当時パレスチナにあった)ヨハネ共同体に入ってきたのではないかと推察されます。ヨハネ福音書四章のサマリア人に関する記事は、イエスの時代の状況よりも、むしろイエスの復活後、この福音書が成立するまでの時代の状況を反映していると見られます。このサマリア教徒を抱えるようになったヨハネ共同体の状況を、R・E・ブラウンは『愛弟子の共同体』と題する著作で、ほぼ次のように分析しています。

 ヨハネ共同体は成立当初は洗礼者ヨハネの弟子であったユダヤ人を中核とするユダヤ人信徒の共同体であったが、フィリポのようにエルサレム神殿祭儀に批判的なヘレニスト・ユダヤ人たちがサマリアに伝道するに及んで、もともとエルサレム神殿と対立するサマリア人が信仰に入り、彼らがヨハネ共同体に加わるようになる。その結果、ヨハネ共同体は周囲の保守的なユダヤ教徒たちと対立を深め、(サマリア人の信仰を語る四章から後では)「ユダヤ人」全体を論敵とするようになり、ユダヤ教側からは「おまえ(たち)はサマリア人ではないか」(八・四八)と非難されるようになる。ヨハネ共同体と保守的なユダヤ教会堂との対立ないし決裂は、サマリア人の加入だけが原因ではないが、サマリア人を触媒として始まったキリストを神とする新しいキリスト論(保守的なユダヤ教のメシア論とは異質な信仰)による。

Raymond E.Brown, The Community of the Beloved Disciple, 1979, PAULIST PRESS
 著者はアンカーバイブル註解シリーズの「ヨハネ福音書」註解の担当者であり、この著作はヨハネ共同体の歴史をまとめています。ヨハネ共同体の歩みについては、先に紹介したヘンゲルの著作と共に、この著作も参考資料として用いていくことになります。

 このように福音書自体に、サマリアとの関わりを認める記事がある以上、ヨハネ共同体がパレスチナにおいて活動していた時期があることを認めなければなりません。その詳細をたどることは不可能であるにしても、この時期のヨハネ共同体の歩みが、ヨハネ福音書の成立に大きな影響を及ぼしていることは確かです。

エフェソへの移住

 エフェソへの移住も、いつどのようにして行われたのかは、確実な根拠をもって解明することはできませんが、おそらく60年代であったと考えられます。先にも見たように、62年にはエルサレム教団の指導者であった主の兄弟ヤコブが処刑されます。当初からイエスをメシアと信じるユダヤ人は、イエスが律法違反を教唆扇動する異端の教師として処刑されたのですから、その弟子として律法に違反する者としての嫌疑をかけられ、孤立していました。それで、43年の迫害でゼベダイの子ヤコブが処刑され、ペトロがかろうじて脱獄してエルサレムから去った後は、律法の厳格な実践者として有名な主の兄弟「義人ヤコブ」がエルサレム教団の代表者になります。それによって、異教ローマからの独立を求めて律法順守の熱意がますます強くなっていた時代に、教団の存続を図ったのです。
 ところが、そのヤコブも62年には処刑されるにいたり、エルサレム教団は窮地に立たされます。その後、霊感を受けて語った予言者の予言もあって、エルサレム教団はヨルダン川東岸のペラに脱出します。その頃は、ローマから独立するためには武力闘争も辞さない「熱心党」《ゼーロータイ》の活動がますます盛んになり、ついに66年には対ローマの「ユダヤ戦争」が始まります。この前後、多くのユダヤ人たちが戦争を恐れて、パレスチナを去って移住します。その中で、イエスを告白するユダヤ人たちも、迫害から逃れるという動機も重なって、パレスチナの外へ、とくにディアスポラのユダヤ人が多く居住するヘレニズム世界の大都市に移住します。エルサレム名門の家柄であるヨハネは、ぎりぎりまでエルサレムに留まったのでしょうが、ついにエフェソに移住することになります。おそらくエフェソに何らかのつながりのある人たちがいたのでしょう。ヘンゲルは彼の移住を63年から64年頃と推定しています。

先にあげたR・ブラウンは、ヨハネのエフェソ移住を90年ごろと見ています(前出書165頁の要約図)。これはおそらく、ヤムニアの決議による会堂からの追放(80年代半ば)の時代にはまだパレスチナにいたという前提から出た推察でしょう。しかし、ヘンゲルが批判しているように、会堂からの追放はそれ以前からも行われていたと見ることもできます。またエフェソにおいても会堂からの追放という事態はあり得ました。ヨハネ共同体の歴史を詳しく調べた私市元宏氏は、それではあまりにも遅いとして、80年代を想定しています。しかし、60年代でも遅いとする説もあります。イエスから母を委ねられた「愛弟子」がマリアをエフェソに連れてきて、マリアが晩年をエフェソで過ごしたとされていますが(その家がエフェソ遺跡に再建されています)、マリアの年齢からすると、 40年代までと見るべきであるとする説です。エフェソ遺跡解説書の「マリアの家」の解説には、「聖ヨハネは二度エフェソを訪れたようである」として、「ヨハネは37年から48年にかけてエフェソに来たことが知られている」と書いています。エフェソ博物館の公式の解説書も、ゼベダイの子でヨハネの兄弟であるヤコブが殺された時、ヨハネとマリアはこれ以上エルサレムには残れないとして、41年から42年にアナトリアに移住したとし、その時マリアは64歳であったとしています(この解説書にも使徒ヨハネと「愛弟子」ヨハネの混同が見られます)。 ヨハネがマリアを連れてエフェソに移住したのは、エフェソには様々な宗教の人たちが住んでいて、宗教的・民族的に寛容な国際都市で、隠れ住むにはよい場所であったからだとしています。このような現地の伝承は、マリアの家遺跡発見の経緯からしても、ただの伝説として無視することはできません。

 この移住がヨハネ個人の移住であったのか、それともある程度の規模になっていたヨハネ共同体の移住であったのか分かりません。当時では集団での移住は考えにくいので、ヘンゲルが想定しているように、ヨハネの個人的な移住であったと見るのが順当かもしれません。一方、ある程度の規模の仲間たちと一緒に移住した可能性も、完全に否定することはできません。確かに、ヨハネほどの人物が五十歳頃まで何も伝道活動をしなかったと想像することは困難です。ある程度の規模の共同体ができていても不思議ではありません。あるいは、ヨハネ共同体に所属する何人かのユダヤ人が個人的にエフェソに移住し、彼らが核となり、移住した「愛弟子」を中心に新たに共同体を形成したことも考えられます。そうすると、ヨハネ共同体は、シリア(パレスチナを含む広い意味のシリア)時代の前期と、移住後のエフェソ時代の後期の二つの時期に分けて考察しなければならないことになります。
 この見方をとれば、ヨハネ共同体の所在地としてのシリア説とエフェソ説を両立させることができるようになりますが、シリア時代については資料がないことと、ヨハネ文書の成立がエフェソを指し、教父の証言も圧倒的にエフェソを指しているので、本稿では論述をエフェソ時代に限ります。

エフェソでの活動

 ヨハネのエフェソ移住が60年代半ばだとすると、彼はその時50歳前後であったことになります。それから80歳代半ばまで活動を続けたとすると、彼のエフェソでの活動は35年以上になります。35年というとパウロの回心から殉教までの期間に相当し、ヨハネがその証言活動によってかなり広範囲の信徒の共同体を形成するのに十分な期間になります。
 ヨハネはエフェソに移住した時、すでに50歳前後の成熟した働き手でした。その名門祭司の家柄の出身という経歴からしても、十分なユダヤ教の知識(聖書やユダヤ教諸文書や伝承と同時に時代の黙示思想なども含めて)を身につけていたはずです。パウロのアジア伝道の拠点であったエフェソは、パウロが去ってから十年ほど後に、パウロに匹敵する優れた証人・教師を迎えることになります。
 パウロは52年から54年にかけて2年あまりの期間にわたってエフェソに滞在して周辺の諸都市に福音を伝える働きを進め、エフェソを中心とする近隣諸都市に信徒の交わり(共同体)を形成しています。この共同体は、パウロが小アジアを去った後も活発に伝道活動を続け、その中でコロサイ書やエフェソ書などを生み出しております。長老ヨハネがエフェソで活動したのがこの期間と重なることは示唆的です。ヨハネが神学的にパウロと同じ線上にあることは顕著な事実です。また、ヨハネ福音書の思想にはコロサイ書やエフェソ書との親近性が見られます。これはヨハネがパウロを継承したというより、ヨハネはパウロの思想をも他のタイプの伝承と一緒に自分の思想の中に見事に統合していると見るべきでしょう。ヨハネは、パウロ系の共同体と親しい関わりの中で、独自の共同体を形成したと見られます。
 ヘンゲルは、ヨハネがエフェソ時代のごく初期、すなわち67年から68年頃にパトモス(エフェソから約一〇〇キロ沖合の小島)に流刑されたのではないかと推察しています(流刑は身分の高い者への刑であったとされています)。そして、この体験が後に「ヨハネ黙示録」を生み出すことになるとします。「黙示録」が長老ヨハネ自身の著作であるかどうかは別問題として、「ヨハネ黙示録」がヨハネ共同体に関わる文書であることは、十分可能性があります。「黙示録」にある「七つの教会への手紙」は、すべてエフェソを中心とする小アジアの集会に宛てられており、ヨハネ共同体の範囲と一致します。「福音書」と「黙示録」ではその基本思想があまりにも違うので(用語や文体の違いも含めて)、両者は同じ著者の作品ではありえないとするのが現在の通説です。しかし、ヘンゲルは30年以上の時の隔たりと状況の違いから、二つの文書が同じ共同体に属することは可能だとします。

エイレナイオス(『異端論駁』五巻三〇章)は、「ヨハネ黙示録」の成立をドミティアヌス帝統治(81〜96年)の終わり頃の迫害の時としています。現在までこれが多数説となっていますが、ウェスパシアヌス帝(在位69〜79年)の時代の成立と見る説もあります。ヘンゲルはヨハネのパトモス流刑を64年のネロの迫害の余燼が残るユダヤ戦争末期の出来事と見ています。たしかにユダヤ戦争末期には黙示思想の炎が燃え上がった時代です。さらに「聖使徒・福音書記者・神学者ヨハネ」(ここにも混同が見られます)の奇跡物語を集めた外典の『ヨハネ行伝』は、ヨハネの活動の地をエフェソとし、ドミティアヌス帝の時代に死一等を減じられてパトモスに流されたとしています。黙示録の成立については、複雑な問題もあり、その成立の年代とか経緯は保留にして、これがヨハネ文書に含まれること、すなわちヨハネ共同体が生み出した文書の一つである可能性も考慮に入れて、先に進みたいと思います。

 35年にわたるヨハネの働きによって、エフェソと周辺の諸都市には、ヨハネの教えに耳を傾ける弟子たちの交わりが形成されます。この交わりは制度的な「教会」という性質のものではなく、各地に成立した小規模の弟子たちの集会が、一人の優れた教師の指導の下に一つのグループを形成していたと見られます。このグループを、ヘンゲルは「ヨハネのスクール」と呼んでいますが、「ヨハネ学派」という呼び方はこの場合あまり適切ではないので、本稿では「ヨハネ共同体」と呼んでいます。「共同体」というのは、個々の集会よりも広範囲な信徒の交わりで、しかも制度的な教会ではない、ある原理(この場合は長老ヨハネの権威)によってゆるやかな結合をしているグループを指しています。
 ヨハネ共同体は特定の祭儀や教義によって組織化された制度的な教会ではなく、また、特殊な教義によって他の教団から孤立しているセクトでもなく、誰でも自由に長老ヨハネの教えに耳を傾けることができる開かれた信仰者の交わりでした。おそらくパウロ系の諸集会とも一部重なっていたのではないかと考えられます。
 この共同体の形成に指導的な役割を果たしたヨハネは、その晩年には敬意をこめて「長老」と呼ばれるようになります。ちょうどヒレルやシャンマイが彼らの指導した弟子たちから「長老」と呼ばれていたように、ヨハネは主イエスの出来事の直接の目撃証人として、またその霊性の深さと学識の広さから、共同体において最終的な権威として「長老」と呼ばれ、その後の教会教父からも「長老ヨハネ」と呼ばれるようになります。
 長老ヨハネの晩年には、ペトロをはじめ直接イエスに接した弟子たちはみな世を去っていましたから、ただ一人地上に残された証人として、その権威は高く仰がれるようになったと思われます。それで、この長老ヨハネこそ主が来臨の時まで地上に留まると預言された弟子であるといううわさが共同体に広まったようです(二一・二〇〜二三)。しかし長老ヨハネも、高齢になってからですが、召される時が来ました。それは一世紀末、90年代のことであると考えられます。彼が世を去った直後に、弟子の一人がそれまでに形を取っていた共同体の福音書に二一章を書き加えて、若いときに「イエスが愛された弟子」であった自分たちの指導者長老ヨハネこそこの福音書の著者であると証印して(二一・二四)、この福音書を世に送り出します。
 ヨハネ共同体は、長老ヨハネが世を去ってから比較的早く、舞台から消えていったようです。二世紀に入ると、ヨハネ文書の流布は確認できますが、一つの共同体としての活動を伝える証拠は見ることができなくなります。ヨハネ共同体が長老の没後比較的早く消滅したのは、それが制度的な教会ではなく、イエスの目撃証人としての長老の個人的権威による結合であったからでしょう。長老ヨハネに代わることができる結合原理は他にありえなかったのです。
 しかし、長老ヨハネは彼の文書、とくにヨハネ福音書によって後世のキリスト教に決定的な刻印を刻み込むことになります。次に、このヨハネ共同体とその共同体が生み出した諸文書(ヨハネ文書)の関わりを見て、ヨハネ文書成立の概略を述べることにします。