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第二節 長老ヨハネの生涯 T

長老ヨハネの出身

 ここまでは福音書と手紙という文書から推定することができますが、ではこの「長老ヨハネ」と呼ばれる人物はどのような生涯を送ったのかという問題になると、資料が少なく、やはり福音書と手紙、およびこの時代に近い教父たちの僅かの証言を基にして推測せざるをえません。どのような説も仮説の段階を超えることができませんが、その実像に迫る努力はする価値があります。

以下の長老ヨハネの生涯に関する論述は、基本的に次のヘンゲルの著作に基づいています。ヨハネ福音書とヨハネの手紙についての解説書や注解書は多くあり、読めば読むほど迷いが深くなるばかりです。その中でヘンゲルの説が説得的であると思われますので、彼の説を紹介する意味もこめて、彼の主張の線に沿って長老ヨハネの生涯を見ることにします。ただし、ヨハネ文書の成立については、確実な資料は少なく、どの説も多くの推察の上に構成されており、仮説の域を超えることができません。ヘンゲル自身もその著の最後で長老ヨハネの生涯を要約した部分を「仮説的要約」と呼んでいます。
   Martin Hengel, The Johannine Question, 1989
   Translated by John Bowden, SCM Press

 「長老」と呼ばれる人物は普通高齢者ですが、長老ヨハネも長年共同体において指導的活動をしてきて、福音書や手紙が書かれたときにはかなりの高齢に達していたと見られます。ヨハネ福音書の成立は一世紀末、おそらく90年代と考えられます(この点についてはかなり意見の一致があるようです)ので、この時点で80歳代の高齢者であったとすれば、彼は一世紀の初め、10年代の誕生であったことになります。もし彼が10年代の半ば(たとえば15年頃)に生まれていたとすると、イエスが活動された30年前後には10歳代半ばであったことになります。この年代計算は、福音書でイエスのそばにいた「愛弟子」とヨハネ共同体の「長老ヨハネ」が同一人物であることが年齢的に可能であることを示しています。
 二世紀の教父たちには、ポリュカルポスをはじめ80歳以上の高齢に達していた人が何人もいましたから、長老ヨハネが80歳代の高齢であったことは珍しくありません。また、「愛弟子」が10歳代半ばでイエスの弟子であったことも、ヨセフスの実例からして、当時では珍しいことではなかったようです。後に「ユダヤ戦記」や「ユダヤ古代誌」を書いて歴史家として著名になったヨセフスは、彼の自伝の中で、14歳の時すでに高度な学識に達していたこと、また16歳の時までに「われわれの民族が分かたれている数個の宗派について個人的体験をすることを決意した」と語り、「しかし、こうして得られた体験に満足できず」、彼は「バヌスという名のユダヤ教の禁欲者の熱心な弟子となり、三年間彼のもとにいた」と語っています。結局、このような経験の後、彼はファリサイ派になることを決めたのでした。エルサレムの若きヨハネは、真理の探究においてヨセフスに及ばなかったことはないはずです。
 このように、長老ヨハネは10年代半ば(15年頃)に誕生したと推定することが可能ですが、その家系はエルサレムのかなり有力な祭司階級の一家であったと見られます。長老ヨハネがエルサレムの出身者であることは、共観福音書がイエスの活動をほとんどガリラヤでのこととして伝えているのに対して、ヨハネ福音書はエルサレムとその周辺でのイエスの活動に集中していることからもうかがえます。
 さらに、「愛弟子」が顔パスで大祭司の館に入ることができ、また門番の女に話をつけてペトロを中に入れてやった事実(一八・一五〜一六)は、彼の家族が大祭司とかなり近い知り合いであったことを物語っています。そうすると、彼の家族はエルサレムのかなり有力な祭司の一家であったと推定することができます。
 もともと「ヨハネ」という名前は、ディアスポラのユダヤ人には珍しく、パレスチナのユダヤ人、それも祭司階級に多い名前でした。大祭司にもヨハネがつく名の人が多くいます。洗礼者ヨハネも祭司階級の出身です。
 このヨハネがかなり裕福な階層の家の出身であることは、彼の作品の調子が貴族的な刻印を示していることや、共観福音書では基調をなす貧しさへの関心がほとんどないことからもうかがわれます。カナの婚宴の奇跡を「贅沢な奇跡」と呼んだ注解者もいます。イエスとの対話者もニコデモなど富裕な階層の人が多くなります。

洗礼者ヨハネとの出会い

 ヨハネの少年時代に洗礼者ヨハネの活動が始まります。すでに深く霊的な事柄に目覚めていた少年ヨハネは、洗礼者ヨハネの力強い預言者的宣教に引きつけられて彼のもとに馳せ参じ、彼の弟子となります。そして、洗礼者ヨハネの証言に導かれてイエスと出会うことになります。
 福音書の初めに、洗礼者ヨハネの二人の弟子がイエスについて行ってイエスの弟子になる記事があります(一・三五〜四一)。その二人の中の一人はアンデレであったと名があげられていますが、もう一人の弟子は名が伝えられていません。この無名の弟子が「愛弟子」であったかどうかについては議論がありますが、少なくともその可能性を否定する根拠はありません。
 二人の中のアンデレでない方の弟子は、ここでは「もう一人の弟子」とも言われないで、アンデレと一緒にイエスについて行って、その日はイエスと一緒に泊まったと伝えられるだけで、その後のことは何も報告されていません。しかし、この事実はこの無名の弟子がペトロよりも先にイエスから親しく教えを受けて弟子となったことを物語っています。後で詳しく見ることになりますが、ヨハネ福音書はこの「愛弟子」をいつもペトロと一緒に登場させて、ペトロよりもイエスに身近な弟子として優先的な立場を与えていることからすると、ここでもわざわざ「二人の弟子」と書いて、アンデレの他にもう一人ペトロよりも先にイエスの弟子になった者がいるとしているのは、この「愛弟子」のことを指していると推定するのが順当であると思われます。福音書の著者(または編集者)がなぜこの「愛弟子」を、このようにひそかに登場させたり、無名のままにしようとするのか、その動機とか意図については別に考察しなければなりません。
 「愛弟子」が洗礼者ヨハネの身近にいた弟子であることは、この記事からだけでなく、この福音書が洗礼者ヨハネについて多くのことを伝え、また、彼の活動と証言に大きな意義を与えている事実からも推察することができます。イエスが洗礼者ヨハネのようにバプテスマを授ける活動をされた時期があったことは、この福音書からだけ知ることができる事実です(三・二二〜三〇)。さらに、アンデレやペトロ、またフィリポやナタナエルなど(その中にゼベダイの子ヨハネが含まれないことが注意を引きます)イエスの弟子の中核メンバーが、もとは洗礼者ヨハネの弟子であり、イエスが洗礼者ヨハネのもとにおられた時期にイエスと出会ったということも、このヨハネ福音書からだけ知ることができる事実です(一・三五〜五一)。

イエスのそばの「愛弟子」

 現在広く認められているように、イエスが前7年と前4年の間の生まれであるとすると、十字架の死が30年または31年ですから、イエスの宣教活動の時期はイエスの30歳代前半の数年になります。ペトロをはじめイエスに従った弟子たちは、召された時には父親と漁に従事していたことなど様々な状況から推定すると、イエスとほぼ同じ年代か少し下の年代と見られます。イエスと弟子たちの一行は、30歳前後の壮年期の男たちのグループであったことになります。
 その中で、この15年頃の生まれの「愛弟子」だけが、10歳代半ばまたは後半の若者であったことになります。この年代の違いが、イエスがとくに若者ヨハネに目をかけられた理由であると思われます。もちろん、ヨハネの聡明さと熱心さもあったことでしょうが、イエスはこのエルサレムの若者の純粋さを慈しんで、(エルサレムに来られた時には)いつも身近にいるようにされたと思われます。
 後に福音書を書いたとき、長老ヨハネはガリラヤでのイエスの働きを伝える伝承を用いて、ガリラヤでの出来事も少しは取り上げていますが、やはり自分がイエスと一緒にいて見た、エルサレムまたはその近辺のユダヤの地でなされたイエスの働きを語ることが多くなるのは自然です。ヨハネ福音書のイエスは、祭りの度ごとにエルサレムに上ってきて、エルサレムで宣教の働きをされています。過越祭だけでも三回来ておられます。ということは、イエスの宣教活動は少なくとも二年から長くて四年にわたり、その間何回もエルサレムに来て教えておられることになります。この点は、イエスがエルサレムにおられたのは最後の過越祭に一週間おられただけだとする共観福音書と大きく違っています。

大貫隆『ヨハネ福音書』(日本基督教団出版局)は、イエスの度々の祭りへの上京を、「祭り好きのイエス」という標題で扱い、それを著者の文学的虚構としていますが、ヨハネ福音書の著者がイエスの活動時期にエルサレムに在住していたとすれば、実際にイエスはしばしばエルサレムに上られ、著者はエルサレムでのイエスの活動を多く目撃したと見る方が自然です。むしろ、イエスのエルサレム上京を最後の過越祭だけだとするマルコの方が文学的虚構を用いているとしなければなりません。

 この事情が、(洗礼者ヨハネのもとにいたことを示唆する一章三五〜四一節の記事を例外として)「愛弟子」が一三章以下の受難・復活物語だけに登場する理由を説明します。それは、「愛弟子」がエルサレムで起こった主イエスの受難と復活という福音の主要な出来事の目撃証人であることを強調したいからです。
 ここで改めて「愛弟子」が登場する場面を見直しましょう。この福音書で「愛弟子」が最初に登場するのは最後の夜の食事の席です(一三・二三)。食事の席でこの弟子は「イエスの胸に寄りかかって」いました。この位置は主人または主賓にもっとも身近な者が着く位置で、この弟子が特にイエスの身近にいた者であることを示唆しています。
 この「イエスの胸に寄りかかって」いたという「愛弟子」の位置は、イエスがユダの裏切りを予告された記事に出てきます(一三・二一〜三〇)。裏切る者は誰かという秘密はイエスだけが胸に秘めておられることです。ペトロはその秘密を知ることはできません。それで、この「愛弟子」にイエスから聞き出すことを頼むのです。この記事も、ペトロよりもこの「愛弟子」の方がイエスの深い思いを知ることができる立場であることを示唆していることになります。
 「愛弟子」が「イエスの胸に寄りかかって」いたという位置は同時に、この晩餐の部屋はこの若者ヨハネの家ではないかという推察に誘います。すでに『マルコ福音書講解U』(183頁)で指摘したことですが、イエスはエルサレムにも有力な支持者をもっておられ、最後の食事をその人の家でするように打ち合わせておられたと見られます。エルサレムの支持者は一人とは限りませんから、それがこのヨハネであるとは断定できませんが、少なくともその候補ではあります。
 マルコ福音書(一四・五一〜五二)には、イエスがゲツセマネで逮捕されたとき、亜麻布だけを身にまとってついてきていた「若者」が、その亜麻布を捨てて逃げたという記事があります。この記事は、この福音書の著者がイエスの受難の出来事の目撃証人としての自分の姿を書き込んだ、署名としての意味をもつ記事ではないかと見られています。そのように、ヨハネ福音書の著者も、イエスの受難と復活の出来事の目撃証人として、その記事の中に自分を無名で、しかし「愛弟子」という匿名で登場させていると見ることができます。

マルコ福音書に出てくるゲツセマネの「若者」を、自分の家を最後の晩餐の部屋として、また後にエルサレム教団の集会場所として提供したヨハネ・マルコと同一であるとして、このヨハネ・マルコを「イエスが愛された弟子」と見る説もありますが、(「愛弟子」と長老ヨハネを同一人物と見る限り)この説はマルコとパウロ、またマルコとペトロの関係などから困難が多くあり、無理だと考えられます。むしろ、ゲツセマネの「若者」を若き日の長老ヨハネと見て、マルコ福音書の著者は(自分の署名としてではなく)その伝承を利用しただけという可能性を検討してみる必要がありそうです。

 次の場面は、イエスが逮捕されて大祭司の館に連行されたとき、ペトロと「もう一人の弟子」がついて行き、この弟子は大祭司の知り合いだったので館の中に入り、入れないで外に立っているペトロを、門番の女に話をつけて入れてやります(一八・一五〜一六)。この弟子が「愛弟子」であることについては、(一章の場合と違って)ほとんど異論がありません。彼が「大祭司の知り合い」であるという事実は、先に見たように、この「愛弟子」の出身がエルサレムの高い家柄の祭司階級であることを示しています。

十字架のそばの「愛弟子」

 次の場面は十字架のそばです(一九・二五〜二七)。他の弟子たちがみな逃げ去って、十字架のそばには数人の女性しかいなかったとき、この「愛弟子」は男性の弟子としてはただ一人十字架のそばにまで来て、イエスの最後を見届けます。男性の弟子の中でこの「愛弟子」だけが女性たちに混じって十字架のそばまで行くことができたのは、彼がまだ少年と見える若者であったからだと考えられます。イエスはローマへの反逆者として処刑されたのですから、壮年の弟子たちはその仲間として追われる身でした。この「少年」だけが警戒されることなく、母親のような年代の女性たちに混じって近づくことができたと見られます。
 その時イエスは、「ごらんなさい。あなたの母です」と言って、母マリアをこの「愛弟子」に委ねます。「この時から、その弟子は彼女を自分のところに引き取った」とあります。他の弟子がみな反乱分子として追われる身であるの対して、この「愛弟子」だけがエルサレムに屋敷をもち、また大祭司の知り合いとして追求を免れる身分の家の者として、母を委ねるのに唯一の人物であったのです。母マリアがどのくらいの期間この「愛弟子」の家で世話になったのか分かりませんが、母マリアが復活直後のエルサレム原始教団に参加していたことは、ルカも報告しています(使徒一・一四)。この「愛弟子」はある期間、イエスの母マリアと一緒に暮らして、マリアからイエスについての話を十分に聞く機会を持ったことになります。この事実は、この「愛弟子」がペトロを代表とする「十二人」の使徒団よりもイエスの身近な弟子であることを暗に主張しています。
 次も十字架の場面ですが、兵士が槍でイエスのわき腹を刺したとき血と水が流れ出たことを目撃して証言することになります(一九・三四〜三五)。この証言について、「それを目撃した者が証しをしてきた。彼の証しは真実であり、その者は自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたたちもまた信じるようになるためである」(一九・三五)と書き加えたのは、この「愛弟子」すなわち長老ヨハネから繰り返しこの証言を聞いたヨハネ共同体の一人でしょう。この一文は(二一章二四節と共に)、ヨハネ共同体の信仰が主の受難と復活という出来事を目撃した弟子の証言に基づいていることを主張しています。

主の復活の証人としての「愛弟子」

 次の場面は空の墓です(二〇・一〜一〇)。マグダラのマリアの報告を聞いて、ペトロとこの「愛弟子」が墓へ走ります。二人は一緒に走りますが、「もう一人の弟子」の方がペトロよりも速く走って、先に墓に着きます。30歳代のペトロよりも10歳代後半の「愛弟子」の方が速く走ることができたのでしょう。そして、イエスの体を巻いていた亜麻布だけが残されているのを見て、「愛弟子」は信じたと伝えられています。「信じた」が「愛弟子」だけにつて言われていて、ペトロについては「信じた」と言われていないのが注目されます。もちろんペトロも後に復活者イエスに出会って、復活者イエス・キリストを命がけで宣べ伝えるようになるのですが、まだ復活者イエスに出会わない前に信じたのはこの「愛弟子」の方だと言っていることになります。「彼(キリスト)は死者たちの中から復活することになっているという聖書を、彼ら(ペトロを含む弟子たち)はまだ理解していなかった」という状況で、この「愛弟子」だけが聖書を理解して信じたという対照を示唆していることになります。このことは、後にトマスに対して言われた「見ないで信じる者は幸いである」(二〇・二九)というお言葉と対応しています。すなわち、復活された方の顕現を体験する(見る)ことがなくても、聖書を理解し、墓が空であったという証言を信じて、復活者イエス・キリストとの交わりに入る者は幸いだと主張しているのです。これがヨハネ共同体の復活信仰です。
 空の墓の記事に続いて、マグダラのマリアに復活者イエスが現れたという記事があります(二〇・一一〜一八)。これは「愛弟子」が登場する場面ではありませんが、他の福音書の顕現記事と大きく違い、ヨハネ福音書の特色となっていますので、その意義に触れておきます。
 復活されたイエスが最初に現れたのはマグダラのマリアであったという伝承は、最初期の共同体に広く知られていたようです。この伝承は、マルコ福音書の付加部分(一六章九節以下)にも取り上げられています(マルコ一六・九)。ところが、ユダヤ教では女性に証人としての資格が認められていなかったこともあって、復活の証人のリストは男性だけとなり、ペトロや(主の兄弟の)ヤコブの名が最初に来るようになります(コリントT一五・五、七)。そして、顕現物語もそれに合わせて形成され、共観福音書の顕現物語にはマグダラのマリアは登場しなくなります。また、後にグノーシス主義系の教会がマグダラのマリアをイエスが愛された第一の弟子とし、最初の復活証人として重視したことに反発して、正統派の教会がマリアへの顕現伝承を抑圧したという事情もあります。
 ところが、ヨハネ福音書はマグダラのマリアへの顕現を最初に置き、しかも他の弟子たちへの顕現よりも詳しく物語っています。ペトロやヤコブの名は(二〇章までの福音書本体部分においては)顕現物語には出てきません。この事実は、ペトロに代表される「使徒団」よりも、他の弟子(この場合はマグダラのマリア)の方が主イエスの証人として重要であると、ヨハネ福音書が主張していることを意味しています。これは、この福音書が証人としてはペトロより「愛弟子」の方が優位にあることを主張していることと同じ線上にある扱い方であると言えるでしょう。

ただし、ヨハネ福音書がマグダラのマリアを重視しているからといって、直ちにヨハネ福音書をグノーシス主義の傾向がある福音書だと決めつけることはできません。福音書のグノーシス主義的傾向についてはさらに慎重な検討が必要です。

 さらに、補遺としてつけられた二一章で二回この「愛弟子」が登場します。第一の場面は、ガリラヤ湖畔で復活されたイエスが弟子たちに現れたとき、この「愛弟子」もそこに居合わせており、湖畔に現れて網を打つ場所を指示した人が主であることをペトロに教えています(二一・七)。「愛弟子」がガリラヤに登場するのはここだけです。すなわち、二〇章までの福音書本体の部分にはなくて、著者の死後編集者によって加えられた補遺に登場するだけだということです。「愛弟子」がエルサレムの住民であり、おもにエルサレムでの出来事を報告していること、またイエスの復活後エルサレム原始教団にいたことを考えると、たしかにこの記事には不自然さが感じられます。
 これは推察になりますが、本体部分の顕現物語(二〇章)に「愛弟子」が登場していないことを不満に感じた編集者が、「愛弟子」が復活のイエスに出会った場面を設定するために、広く伝えられているガリラヤ湖畔での顕現伝承を利用した可能性があります(ルカ福音書五章は別の仕方でこの伝承を用いています)。「愛弟子」は実在の人物でありながら、多くの場合象徴的意義を担って登場していました。ここでも編集者はこの「愛弟子」に復活者の顕現に出会った者という意義を担わせようとしたのかも知れません。もしそうだとすると、「見ないで信じる者は幸いである」とする著者の主張からずれることになり、ひいきの引き倒しの感を免れません。また、ペトロとこの「愛弟子」の最後を語るための舞台として、最後にこの二人を同時に登場させるために、このような場面を設定したと見ることもできます。
 第二の場面は、この復活して現れたイエスにペトロと一緒に「愛弟子」がついて行って、ペトロとこの「愛弟子」の最後についてイエスが語られる場面です(二一・二〇〜二三)。ここでこの「愛弟子」が死なない、すなわちイエスの来臨まで地上にとどまるという噂が否定され、この記事が書かれた時には「愛弟子」がすでに亡くなっていることが示唆されています。
 この福音書が書かれた時(90年代)には、ペトロはずっと早くに(おそらく60年代)に亡くなっており、彼の殉教の死は広く知られていました。ここでも「あなたは両手を広げ、他の人があなたの帯を締め、あなたが望まないところに連れて行く」という言葉で十字架刑によるペトロの殉教が示唆されています(ペトロは逆さ十字架を望んだと語り伝えられています)。ペトロと同世代の「使徒たち」もすべて世を去って、イエスに直接接した弟子の中ではこの長老ヨハネだけが生き残っていたので、彼こそイエスが「ここに立っている者の中で死を味わない者がいる」と語られた者に違いないとされ、彼はイエスの来臨まで死ぬことなく、地上にとどまる者であるという噂が共同体の中に広まっていたようです。長老ヨハネの死後に筆をとった編集者は、それはイエスの望まれたことではないとして、その噂を根拠のないものとします。
 その後で、この福音書の内容を証言して文書にしたのはこの「愛弟子」であることが明記されています(二一・二四)。この文言の意味については、福音書の成立との関連で、後で詳しく扱うことにします。

ヨハネ福音書における「弟子」

 以上、福音書に「愛弟子」が登場する場面を一通り見たわけですが、この機会にヨハネ福音書に登場する他の弟子たちについて、要約的に触れておきます。
 その前に、ヨハネ福音書には「使徒」という呼び方は出てこないという事実に注目しておきましょう。マルコ福音書(三・一四)で、イエスは「十二人を選び、使徒と名付けられた」とあり、その後この十二人は「使徒」という資格で登場します。この「使徒」という呼び方はルカが重視して、彼の福音書と使徒言行録で多く用いています。ルカは「使徒」の権威による教会の形成を物語ります。マタイはマルコの「使徒」という用語を継承しないで、もっぱら「弟子」と呼んでいますが、マタイの場合はイエスと信徒の関係をあくまで(ユダヤ教におけるラビと弟子のような)師と弟子の関係と理解するQ宗団(「語録資料Q」を生み出したユダヤ人信仰運動の共同体)の体質から出たものではないかと考えられます。それに対してヨハネ福音書の場合は、自分たちが信仰の拠り所としている「愛弟子」の証言が、当時すでに広く権威を認められていた「十二人使徒団」と比べて勝るとも劣るものではないことを主張するために、「使徒」という特別の呼称を避けて、「愛弟子」も平等に含むことができる「弟子」という呼称で統一したと見られます。「愛弟子」は、イエスから特別に目をかけられた弟子でしたが、年少のゆえに、またガリラヤでのイエスの宣教活動から遠かったために、十二人のように「使徒」として派遣されることはありませんでした。しかし、直接イエスから教えられ、イエスと共に歩んだ弟子として、その証言の重さは他の弟子に勝ることはあっても劣ることはないと言いたいのだと思われます。
 ヨハネ福音書(二〇章までの本体部分)でイエスの弟子として名をあげられているのは、シモン・ペトロ、アンデレ、フィリポ、ナタナエル、トマスの五人です。「ゼベダイの子たち」は(ヤコブとヨハネという名をあげないで)二一章の補遺に出てくるだけです。共観福音書にあるような「十二人」のリストはありません。
 ヨハネ共同体においてもペトロに関する伝承はよく知られていて、福音書の著者はそれを利用しています。ただし、ペトロの告白の記事(六・六六〜六九)に見られるように、共観福音書と比べると著者は自分の信仰理解に従ってかなり自由に変更を加えて用いています。先にも見たように、「愛弟子」はほとんどの場合ペトロと一緒に登場します。そして、「愛弟子」は弟子として、また証人としてペトロよりも優位にあるように描かれています。福音書が「愛弟子」をペトロと一緒に登場させて、その上で彼を「もう一人の弟子」と呼ぶとき、主流の教会で権威を認められているペトロに代表される使徒たちとは別に、イエスの弟子として、イエスの出来事を証言した弟子が「もう一人」いることを主張する気持ちがこめられていると見られます。ヨハネ共同体はペトロの権威を否定するのではなく、ペトロと並んで、しかもペトロに勝るとも劣ることのない「もう一人の弟子」がいて、自分たちはこの弟子の証言によってイエスを知り、信じているのだと主張していることになります。
 共観福音書ではペトロとゼベダイの子のヤコブとヨハネが、内輪の弟子として、重要な出来事のさいイエスに身近にいます。これはエルサレム原始教団で三人が指導的立場にいたことを反映していると見られます。それに対してヨハネ福音書(本体)では、ゼベダイの子たちは登場せず、ペトロよりもその兄弟アンデレが重視され、フィリポと共に積極的な役割を果たしています。アンデレとフィリポは、共観福音書では名があげられているだけで、何の役割も果たしていません。トマスも共観福音書では十二人のリストに名があげられているだけですが、ヨハネ福音書では重要な役割を果たしています。ナタナエルはヨハネ福音書には理想のユダヤ人の弟子として登場しますが、共観福音書にはその名の弟子は出てきません。このように、ヨハネ福音書に登場する弟子たちの名は、長老ヨハネが親しくした弟子たちとの交わりを反映しているのではないかと考えられます。これらの弟子たちと長老ヨハネの関係については、その後の長老ヨハネの生涯を見ていくさいに触れることになります。