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第二〇章 イエスの復活

       ―― ヨハネ福音書 二〇章 ――




第一節 空の墓

64 空の墓(20章 1〜10節)

 1 週の初めの日、マグダラのマリアは朝早く、まだ暗いうちに、墓へ行く。そして、墓から石が取りのけられているのを見る。 2 そこで、走ってシモン・ペトロとイエスが親しくしておられたもう一人の弟子のところへ行き、彼らに言う、「人々が主を墓から移しました。どこに置いたか、わたしたちには分かりません」。
 3 そこで、ペトロともう一人の弟子は出かけて、墓に向かった。 4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方がペトロよりも速く、ペトロの先を走り、最初に墓に来た。 5 彼はかがんでのぞき、亜麻布が置かれているのを見る。しかし、中には入らなかった。 6 さて、その弟子に続いてシモン・ペトロもやって来る。彼は墓の中に入った。そして、彼は亜麻布が置かれているのを認める。 7 また、イエスの頭の上にあった布きれは、置かれている亜麻布と一緒にではなく、離れて、一つのところに丸められているのを認める。 8 そこでその時、先に墓に来ていたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9 彼は死者たちの中から復活することになっているという聖書を、彼らはまだ理解していなかったからである。 10 そこで、この弟子たちはまた自分たちのところに戻った。

ユダヤ人の埋葬の習慣

 先の段落の「イエスの埋葬」(一九・三八〜四二)で、「彼ら」(ヨセフ、ニコデモ、母マリアを含む十字架の前にいた五人)は、十字架上で息を引き取られたイエスの遺体を、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」、亜麻布で包み香料を添えて、近くにあった新しい墓に納めたことを見ました。この段落(二〇・一〜一〇)で、それから三日目の「週の初めの日」にこの墓で起こった出来事を見ることになりますので、その墓がどのような墓なのか、また、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」埋葬するとはどういうことかを、少し詳しく見ておきます。
 当時のユダヤ人、とくにエルサレムのユダヤ人は、柔らかな石灰岩をくり抜いた洞窟に遺体を埋葬しました。その洞窟は、入口を入ったところが人が立てるほどの高さの天井をもつ小部屋になっています。その小部屋の地面に近い位置に、数カ所の細長い穴がさらに奥に向かって掘られています。その穴は奥行きは約一・八メートル、幅と高さは四五センチほどで、上面はわずかにアーチ型になっているものが多いようです。小部屋に面するこの細長い穴は「死体室」と呼ばれ、亜麻布で包まれた遺体はこの穴に横たえられ、石で塞がれます。ほぼ一年後、肉体が乾燥して朽ち果てた時、死体室が開けられ、そこに残された骨が骨箱に納められます。洞窟の墓は一家族が数世代にわたって用いたと見られます。
 骨箱は長さ50センチ、幅25センチ、高さ30センチ程度の小さい石灰石の蓋付きの箱で、その前面に誰の遺骨であるかを示す名前や墓碑の言葉が刻まれているものもあります(名前や墓碑のない骨箱の方が多くあります)。骨箱はエルサレム近郊の特定の地区に安置されます。このような骨箱への再埋葬の習慣は、前一世紀のある時期から始まり、70年のエルサレム陥落までのごく限られた期間の習慣であったようです。ある研究者が言うように、「この習慣は突然発生し、忽然と姿を消した」のです。しかも、骨箱はエルサレムとその近郊に集中し、パレスチナでも他のユダヤ人居住地域には見られません(移住者のものと見られるごく僅かの例外を除いて)。イエスの遺体は、このような「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」埋葬されたのです。
 このような特殊な埋葬の習慣が、特定の地域(エルサレムとその近郊)だけに、しかもこの時代の短い期間(一〇〇年前後)だけに行われたのはなぜか、その理由について研究者は様々に推測していますが、当時の民衆への影響が強くなってきていたファリサイ派の復活信仰によるのではないかという推測が有力です。先にラザロの奇跡のところで見たように、当時のユダヤ教徒は、ファリサイ派が唱える終わりの日の身体の復活を信じるようになっていました(一一・二四)。その復活は、エゼキエル(三七章)の「枯れた骨の復活」の幻でイメージされ、身体の復活の基になる骨を大切に保存しようとしたのではないかと考えられています。
 普通は十字架刑で処刑された犯罪者の遺体は共同墓地(というより死体捨て場)に放棄されました。もしアリマタヤのヨセフの勇気ある行動がなければ、イエスの遺体もそのような取り扱いを受けたかもしれません。彼の行動でイエスの遺体が「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」丁重に葬られたことによって、「空の墓」の物語が成立したのも、神の大いなる導きの中にあったことと言わなければなりません。

この墓の構造や当時のユダヤ人の埋葬の習慣(とくに骨箱への再埋葬の習慣)については、『イエスの弟 ― ヤコブの骨箱の発見をめぐって』(松柏社、原著は二〇〇三年)の中の、ハーシェル・シャンクスによる第一部「驚くべき発見の物語」が詳しく記述しています。この書の第一部は、「主の兄弟ヤコブ」の骨箱の発見にかかわる論説ですが、イエスの埋葬についても貴重な示唆を与えるものです。著者のハーシェル・シャンクスは、古代のエルサレムや死海文書に関する著作も多くある現代イスラエルの代表的な考古学者です。

マグダラのマリアの報告

 週の初めの日、マグダラのマリアは朝早く、まだ暗いうちに、墓へ行く。そして、墓から石が取りのけられているのを見る。(一節)

 「週の初めの日」の原文は、「安息日(複数)の一日目」という表現です。安息日明けの一日目、すなわち日曜日を指しています。イエスが死なれたのは、安息日の前の「過越の準備の日」でしたから、この日は死なれてから安息日をはさんで(ユダヤ人の数え方で)「三日目」ということになります。
 ヨハネ福音書はマグダラのマリアだけが墓に行ったように書いています。しかし、マルコ(一六・一〜二)では、マグダラのマリアの他に、ヤコブの母マリア、サロメが墓に行っています。マタイ(二八・一)では、マグダラのマリアの他に「もう一人のマリア」が一緒に行っています。ルカ(二三・五五〜二四・一)では、「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」とあり、複数の女性が行ったことになっています。マグダラのマリアが一人で墓に行ったとするのはヨハネだけです。すぐ後(二節)でマリアは「わたしたちには分かりません」と複数形を使っており、墓に行ったのが数人であることを示唆する痕跡が残っていますが、ヨハネはマグダラのマリアへの顕現伝承を印象深く伝えるために、他の同行者を無視してマグダラのマリアの名だけをあげたのでしょう。
 マリアは「朝早く、まだ暗いうちに」墓に行きます。このことと、石が取りのけられていたことは、四福音書に共通しています。夜明けとともにあたりが明るくなってきて、マリアは「墓から石が取りのけられているのを見る」ことになります。

この場面については、拙著『マルコ福音書講解U』317頁のマルコ一六・四への講解を参照してください。

 この「石」は、先に述べた死体室をふさぐ石ではなく、外から洞窟室へ入る入口をふさぐ大きな石を指します。あたりが明るくなって、まず見えるのはこの石です。まだ内部の様子は見えないはずですが、マリアはこの入口の石が取りのけられているのを見て、誰かが墓に入って、イエスの遺体を運び去ったと考えてしまいます。

 そこで、走ってシモン・ペトロとイエスが親しくしておられたもう一人の弟子のところへ行き、彼らに言う、「人々が主を墓から移しました。どこに置いたか、わたしたちには分かりません」。(二節)

 この重要な場面で再び「イエスが親しくしておられたもう一人の弟子」が登場します。ここの直訳は、「イエスが愛したもう一人の弟子」です。一九・二六の「(イエスが)愛した弟子」では《アガパオー》が用いられていましたが、ここでは身内の者に対する親愛の情を示す《フィレオー》が用いられているので、一応区別して「イエスが親しくしておられた」と訳しておきます。この《フィレオー》はラザロについても用いられています(一一・三、三六)。ヨハネ福音書に登場するこの無名の弟子は、ペトロ以上にイエスに親しく、イエスの出来事の証人としてペトロ以上に重要な弟子であることが主張されていますが、この復活証言においても、ペトロよりも先であることが語られることになります。
 マリアは「走って・・・・行き」、この二人に墓のことを報告します。共観福音書では、墓で天使が現れて、女性たちにイエスの復活を告げ、それを弟子たちに伝えるように命じたとなっていますが、ヨハネ福音書にはその記事はありません。マリアは墓が空であるのを見て、すぐに走って弟子たちのところに行き、墓が空である事実だけを伝えます。
 マリアは、「人々が主を墓から移しました」と報告しています。ここの「主」《キュリオス》は、まだ信仰告白としての《キュリオス》ではなく、弟子がラビを呼ぶときの尊称でしょう。マリアはイエスを「ラッブーニ」(わたしの主)と呼んでいます(二〇・一六)。なお、マリアが「移しました」と言っている動詞は、「取り上げる、移す」という意味であって、「奪う」という意味はありません。
 マリアが言った「わたしたちには分かりません」という発言の主語が複数形であるのは、(先に述べたように)もとの伝承では墓に行った女性が複数であったことを示唆するのかもしれません。ヨハネは、以下のマグダラのマリアへの顕現の記事と合わせるために、墓へ行った女性たちの中で、彼女だけの名をあげた可能性があります。
 墓が空であるという事実が何を意味するのかは、その人の信仰によって決まります。この時のマリアには、空の墓は「人々が主を墓から移した」ことを意味しました。しかし、復活されたイエスに接してからは、この空の墓は全然違ったことを意味するようになります。

この段落の動詞は、「行く」とか「見る」とか「言う」というような現場の状況を報告する現在形と、「走った」とか「来た」というような過去の出来事を物語る過去形が混在しています。日本語での不自然さは残りますが、ここの劇的な感じを残すために、あえて原文の時制の通りに訳しています。

二人の弟子が墓に走る

 そこで、ペトロともう一人の弟子は出かけて、墓に向かった。(三節)

 マリアの報告を聞いた二人の弟子、ペトロともう一人の弟子は、すぐに墓に向かって走り出します。

 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方がペトロよりも速く、ペトロの先を走り、最初に墓に来た。(四節)

 「もう一人の弟子」の方がペトロよりも速く走り、ペトロよりも先に墓に来たのは、「もう一人の弟子」の方がペトロよりも若い世代であることを示唆するのでしょうか。『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立をめぐって』で書きましたように、この「もう一人の弟子」は、この時には一〇歳代半ばと推察され、三〇歳代のペトロよりも早く走れたのでしょう。しかし、ヨハネが「もう一人の弟子の方がペトロよりも速く、ペトロの先を走り、最初に墓に来た」と書いたのは、この弟子の方が、復活証言においてもペトロよりも先んじていることを示唆したかったからだと考えられます。

 彼はかがんでのぞき、亜麻布が置かれているのを見る。しかし、中には入らなかった。(五節)

 墓は人が中に入ることができる洞窟の小部屋ですが、この墓の入り口は小さかったのでしょう、先に到着した「もう一人の弟子」は「かがんで」中をのぞきます。入口をふさぐ石はすでに取りのけられています。この弟子は、薄暗がりの洞窟の小部屋に白い亜麻布が置かれているのを見ます。
 彼はまだ墓の小部屋には入らず、遅れてくるペトロと一緒に墓の中に入ります。これは、墓の中の事実を二人で確認するための慎重な配慮でしょう。ユダヤ教では、重要な事実の確認には二人の証人が必要とされました。
 あるいは、先に到着した「もう一人の弟子」が墓に入らなかったのは、彼が祭司の家の者であり、祭司は屍体に接触することを禁じられていたので入らなかったと考えることもできます。彼は、ペトロが墓の中に屍体がないことを確認した後に入った、と見ることになります(八節)。

 さて、その弟子に続いてシモン・ペトロもやって来る。彼は墓の中に入った。そして、彼は亜麻布が置かれているのを認める。(六節)

 遅れて墓に到着したシモン・ペトロは、墓の小部屋に入り、そこに亜麻布が置かれているのを確認します。

 また、イエスの頭の上にあった布きれは、置かれている亜麻布と一緒にではなく、離れて、一つのところに丸められているのを認める。(七節)

 この「布きれ」は、遺体の頭の上に置かれる布きれで、ラザロにも用いられていました(一一・四四)。使徒言行録一九・一二の「手ぬぐい」と同じ語で、本来は汗をぬぐうための布きれなどを指す語ですが、ここでは遺体の頭部を覆う布きれを指しています。
 この布きれが、イエスの遺体を包んでいた亜麻布とは別の場所に、「離れて、一つのところに丸められていた」とあるのは、亜麻布が「置かれていた」という表現と共に、遺体が盗まれたのではなく(盗むのであれば亜麻布で包んだままで運ぶはずです)、丁重に亜麻布が解かれ、イエスの身体がこの場所から出て行ったことを物語っています。

 そこでその時、先に墓に来ていたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。(八節)

 ペトロが墓に入ったので、「先に墓に来ていたもう一人の弟子」も一緒に中に入ります。そして、「見て、信じ」ます。この文の主語は三人称単数形、すなわちこの節の主語である「もう一人の弟子」を指します。彼は、遺体がないのを見て、イエスが復活されたことを信じます。ペトロについては、このような記述はありません。ペトロは遺体がなく、亜麻布と布きれだけが置かれているのを認めますが、「信じた」とは言われていません。ヨハネ福音書では、この「もう一人の弟子」が、イエスの復活を最初に信じた弟子とされることになります。

 彼は死者たちの中から復活することになっているという聖書を、彼らはまだ理解していなかったからである。(九節)

 最初期の教団は、聖書(旧約聖書)全体が来たるべきメシアは死者たちの中から復活すると預言していると理解するようになります(ルカ二四・二五〜二七、四四〜四六参照)。しかし、彼ら(ペトロを代表とする弟子たち)は、この時はまだ聖書をこのように理解していませんでした。それで、ペトロがこの空の墓を見たときには、まだイエスが復活されたと信じることはできませんでした。九節のはじめにある理由を示す小辞《ガル》は、弟子団がこの段階ではまだ信じることができないでいること(ここのペトロがそれを代表しています)を理由づけることになります。その中で、この「もう一人の弟子」が信じたことは、この弟子の聖書理解の正確さと、霊的事態への敏感さを際だたせることになります。ヨハネ共同体は、自分たちの指導者であり、この福音書の伝承の起源となったこの「もう一人の弟子」(二一・二四)が、ペトロが代表する「使徒団」に勝るとも劣らない証人であることを主張しているのです。

 そこで、この弟子たちはまた自分たちのところに戻った。(一〇節)

 これは、エルサレムで彼らが滞在していた場所に戻ったという意味であり、その場所を「彼らの家」と限定することはできません。しかし、この「もう一人の弟子」はエルサレムの住民ですから、彼の家に戻った可能性はあります。

「もう一人の弟子」がエルサレムの住民であることについては、拙著『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立をめぐって』を参照してください。

 ところで、この「もう一人の弟子」を、実在の人物ではなく、著者ヨハネが創作した象徴的な人物であるとする立場(たとえばNTDのシュルツ)では、この弟子とペトロが競合するここの場面は、復活信仰についてペトロが代表するユダヤ人キリスト教と、この「もう一人の弟子」が象徴する異邦人キリスト教の関係を指し示す物語と解釈されますが、この解釈は(NTDのこの箇所の注解を見ても)無理なことが分かります。この「もう一人の弟子」はあくまで実在の人物であり、「週の初めの日」の早朝にこのような出来事が実際にあったとしなければなりません。
 「空の墓」の物語も、けっしてイエスの復活を信じた弟子たちが創作した架空の物語ではありません。実際に、イエスを埋葬した墓は空になっていたのです。ただ、その事実の意味は、復活者イエスを信じない立場では、誰かが遺体を移したとか、弟子たちが盗んだ(マタイ二七・六二〜六六、二八・一一〜一五)というような解釈がされるのに対して、復活されたイエスの顕現を体験した者には、この空の墓こそ地上のイエスと復活者イエスとの接点を意味することになります。
 復活者キリストも、地上でナザレのイエスとしてその生涯を送られた以上、どこかにその生涯が終わり、天界の復活者キリストとしてその存在を開始される地点・時点がなければなりません。それが、このエルサレム近郊の空の墓です。福音書はこの地点を欠くことができません。四福音書はすべて、イエスの墓が空であったことを報告しています。復活者イエスは、墓を蹴破り、墓を空にする命を生きた方です。