市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第17講

第二節 十字架刑の執行

62 十字架(19章 16節後半〜30節)

 16b そこで、彼らはイエスを引き取った。 17 イエスは自ら十字架を担って、「頭蓋骨の場所」と呼ばれている所、ヘブライ語でゴルゴタという所へ出て行かれた。 18 その場所で彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒に他の二人を、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側で十字架につけた。 19 ピラトは罪状書きを書いて十字架の上に掛けた。それには「ナザレのイエス、ユダヤ人たちの王」と書かれていた。 20 この罪状書きを多くのユダヤ人が読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからであり、また、それがヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたからである。 21 そこで、ユダヤ人たちの祭司長たちはピラトに言った、「ユダヤ人たちの王と書かないで、この男は自分がユダヤ人たちの王であると言ったと書いてください」。 22 ピラトは答えた、「わたしが書いたものは、わたしが書いたのだ」。
 23 こうして、兵士たちはイエスを十字架につけた時、彼の上着を取り、それを四つの部分に分け、それぞれの兵士の取り分とした。下着も取ったが、その下着は縫い目が無く、上から全体を一枚に織ってあった。 24 そこで、彼らは互いに言った、「これは裂かないで、誰のものにするか、くじで決めよう」。それは、「彼らはわたしの上着を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」とある聖書が成就するためであった。兵士たちは、まさにこのことをしたのである。
 25 ところで、イエスの十字架のそばには、彼の母、彼の母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアが立っていた。 26 そこで、イエスは母と愛した弟子がそばに立っているのを見て、母に言われる、「女よ、ごらんなさい。あなたの子です」。 27 それから、その弟子に言われる、「ごらんなさい。あなたの母です」。この時から、その弟子は彼女を自分のところに引き取った。
 28 この後、イエスはすでにすべてが成し遂げられたことを知り、聖書が成就されるために、「わたしは渇く」と言われる。 29 酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。そこで彼らは、この酸いぶどう酒を含ませた海綿をヒソプに巻き付け、イエスの口元に差し出した。 30 この酸いぶどう酒を受けると、イエスは「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

ゴルゴダで十字架に

 そこで、彼らはイエスを引き取った。(一六節後半)

 前段の最後で触れたように、ここの「彼ら」は一八節の「彼らはイエスを十字架につけた」の「彼ら」と同じであり、十字架刑を執行するローマの兵卒としなければなりません。

 イエスは自ら十字架を担って、「頭蓋骨の場所」と呼ばれている所、ヘブライ語でゴルゴタという所へ出て行かれた。(一七節)

 十字架に処せられる死刑囚は、自分がかけられる十字架の横木を担って(あるいは引きずって)刑場まで歩かされました。縦木は刑場に用意されているのが普通であったとされています。イエスは、仲間による奪還を警戒するローマの兵士たちに厳重に取り囲まれて、エルサレムの狭い街路を引かれて行かれます。

十字架刑の実際の執行方法については、『マルコ福音書講解U』280頁以下の「十字架刑の歴史」を参照してください。

 マルコは刑場として「ゴルゴタ」という地名を先にあげて、その後にギリシア語で「頭蓋骨」という意味であると訳をつけています。ヨハネは先に「頭蓋骨の場所」というギリシア語の呼び名をあげて、その後にヘブライ語(正確にはアラム語)の名称を付けています。小高い形が頭蓋骨に似ていることと、そこが処刑場としてよく用いられたので、そう呼ばれたのでしょう。後にウルガタ(ラテン語訳聖書)で、頭蓋骨を意味するラテン語「カルヴァリア」が用いられ、それが英語の「カルヴァリー」となります。この場所がどこであったかは確定できませんが、現在の聖墳墓教会がある場所とされています。
 ここで「出て行く」という動詞が用いられているのは、城門を通って町の外へ出て行くことを指しています。刑場は「都の近くにあった」(二〇節)、すなわち都の外にあったことになります。十字架刑は見せしめの刑ですから、人通りの多い街道に沿った場所が用いられました。
 このピラトの法廷とされるアントニアの砦からゴルゴダ(現在の聖墳墓教会)まで、イエスが十字架を担って歩かれた道は、「ウィア・ドロロサ」(悲しみの道)と呼ばれ、現在では巡礼者がイエスの苦難の道行きを偲ぶ場所になっています。マルコ(一五・二〇〜二二)やルカ(二三・二六〜三二)が、この道行きでの出来事を比較的詳しく描いているのと較べると、ヨハネの記事は簡潔です。

 その場所で彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒に他の二人を、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側で十字架につけた。(一八節)

 ここで、この時の十字架刑の執行がイエス一人ではなく、他に二人の囚人の十字架刑が同時に執行されたことが述べられます。共観福音書では、この二人が「強盗」《レーステース》と呼ばれていますが、これは単なる物取り強盗の類ではなく、バラバがそうであったように、ローマの支配に武装して反抗する革命家を、ローマ側がさげすんでそう呼んだものです。ヨハネ福音書は、この二人がどのような人物であるかには関心を持たず、淡々とイエスを中央にして三人が同時に十字架につけられた事実だけを報告します。
 イエスの十字架刑の描写は、共観福音書に比べると、ヨハネ福音書は二三の特殊な関心事を別にして、全体としては淡々と事実を伝えるだけで簡潔です。これは、ヨハネがエルサレムの住民であり、十字架刑の執行を目撃し、最後まで十字架の下にいた唯一の男性弟子であることを考えると、示唆的です。

イエスの罪状書き

 ピラトは罪状書きを書いて十字架の上に掛けた。それには「ナザレのイエス、ユダヤ人たちの王」と書かれていた。(一九節)

 処刑される者の罪状を書いた札が十字架の上部につけられました。それが「罪状書き」です。イエスの場合、その書き方は四福音書で少しずつ異なりますが、「ユダヤ人たちの王」は共通しています。この「罪状書き」は、判決を下したピラト自身が書きました。この「罪状書き」は、イエスがローマへの反逆罪で処刑されたことを公示しています。

 この罪状書きを多くのユダヤ人が読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからであり、また、それがヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたからである。(二〇節)

 十字架刑は見せしめの刑ですから、都市の近くの人通りの多い街道に面した場所で行われました。有名な奴隷の反乱(スパルタクスの反乱)のときには、ローマ周辺の街道の両側に幾千の十字架が立てられたと伝えられています。イエスの十字架は人通りの多い街道に面していましたから、多くのユダヤ人がこの「罪状書き」を読むことになります。
 罪状書きがヘブライ語、ラテン語、ギリシア語の三カ国語で書かれていたことを伝えるのはヨハネ福音書だけです。「ヘブライ語」とありますが、実際はパレスチナのユダヤ人の日常語であるアラム語であった可能性があります。ラテン語は支配者であるローマ人の言語であり、政治の世界での公用語です。ギリシア語は多くのユダヤ人、とくにディアスポラのユダヤ人の日常語でした。当時エルサレムはアラム語とギリシア語のバイリンガル(二カ国語)都市でした。このような言語状況から、罪状書きが三つの言語で書かれることになります。共観福音書には三カ国語で書かれていたことを示唆する記事はありませんが、否定する根拠もありませんので、事実であるとしてよいでしょう。
 なお、罪状書きが三カ国語で書かれていたという文は、「多くのユダヤ人が読んだ」理由を示す文の中に含めることもできるし、別にすることもできます。ここでは含めて訳しています。

 そこで、ユダヤ人たちの祭司長たちはピラトに言った、「ユダヤ人たちの王と書かないで、この男は自分がユダヤ人たちの王であると言ったと書いてください」。ピラトは答えた、「わたしが書いたものは、わたしが書いたのだ」。(二一〜二二節)

 ピラトが書いた「ナザレのイエス、ユダヤ人たちの王」という罪状書きの文言に、ユダヤ人の祭司長たちが抗議します。この文ではまるでイエスがユダヤ人の王であることが事実であるかのように聞こえるではないかという抗議です。「この男は自分がユダヤ人たちの王であると言った」、すなわち不遜にも自分で王を自称していた罪で処刑されたと明示するように要求します。
 それに対して、ピラトは「わたしが書いたものは、わたしが書いたのだ」と言って、彼らの抗議を退けます。支配者であるわたしがそう書いたのだから、支配される側のお前たちは文句をつける立場ではない、という気持ちを示しているのでしょう。ここまでユダヤ人祭司長たちに強引に押し切られ、釈放しようとしたイエスを十字架刑にしなければならなくなった腹いせでしょうか、最後にピラトはユダヤ人祭司長たちに一矢を報います。
 人間的なやりとりはともかく、結果は十字架されたイエスの上に「ユダヤ人の王」という標識が掲げられることになります。イエスは王であることを自称されませんでした。しかし結果として、神がイエスをユダヤ人の王としてお立てになったという真理を、ローマ人のピラトが世界に公示することになります。しかも、その告知は、ラテン語が代表するローマ帝国、すなわち当時の全政治世界と、ギリシア語が代表する当時の文化世界の全体、そしてヘブライ語が代表するイスラエルの宗教世界に向かってなされたのです。

イエスの衣を分ける兵士たち

 こうして、兵士たちはイエスを十字架につけた時、彼の上着を取り、それを四つの部分に分け、それぞれの兵士の取り分とした。下着も取ったが、その下着は縫い目が無く、上から全体を一枚に織ってあった。そこで、彼らは互いに言った、「これは裂かないで、誰のものにするか、くじで決めよう」。それは、「彼らはわたしの上着を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」とある聖書が成就するためであった。兵士たちは、まさにこのことをしたのである。(二三〜二四節)

 ここの「四つの部分に分け、それぞれの兵士の取り分とした」という記事から、イエスを取り囲んで警護して刑場まで連れて行き、十字架につけ、その前で監視し、その死を確認する任務に当たったローマの兵士は四人であったことが分かります。三人の受刑囚に四人ずつと、それを警護する部隊が一人の百人隊長(マルコ一五・三九)に率いられていたことになります。
 兵士たちは、イエスの手足を十字架に釘づけるという任務を果たします。ここには「十字架につける」という動詞だけで、それがどのような仕方でなされたのか(どの福音書にも)記述はありません。しかし、復活されたイエスが疑うトマスに手の傷痕を示しておられることから、釘を打ち付ける形で行われたことが分かります(二〇・二四〜二九)。
 囚人を十字架の木に釘づけるという残酷な作業をした後、兵士たちはイエスの衣服を奪い合います。当時の習慣では、十字架刑を執行する兵士たちは、受刑囚の衣服や持ち物を取ることを認められていたようです。まず「彼の上着を取り、それを四つの部分に分け、それぞれの兵士の取り分と」します。続いて下着も取ろうとしますが、「その下着は縫い目が無く、上から全体を一枚に織ってあった」ので、分けることができず、それを受け取る一人をくじで決めようとします。
 共観福音書では「くじ引きで上着を分けた」とあるだけですが、ヨハネ福音書は上着と下着を分けて、別々に詳しく扱っています。その上で、詩篇二二編一九節を(七十人訳ギリシア語聖書そのままで)引用します。ここの兵士の行動は、イエスの「上着を分け合い、衣服のことでくじを引いた」という詩篇の言葉を正確に成就する行動として描かれます。

イエスの母と愛弟子

 ところで、イエスの十字架のそばには、彼の母、彼の母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアが立っていた。(二五節)

 イエスの母マリアが十字架のそばにいたことを伝えるのはヨハネ福音書だけです。並行するマルコ一五・四〇およびマタイ二七・五六との比較から、ここの「彼の母の姉妹」の名はサロメであり、「ゼベダイの子ら(ヤコブとヨハネ)の母」と推察することも可能ですが(そうだとするとイエスとゼベダイの子らは従兄弟関係になります)、マルコとマタイの記事は「遠くから見守っていた」女性たちの名をあげているだけで、十字架のそばにいた女性を正確に伝えるものではないので、この並行関係は推定の根拠としては弱いと考えざるをえません。
 「クロパの妻マリア」は、直前の「彼の母の姉妹」と同格と読んで、「彼の母の姉妹であるクロパの妻マリア」とすることも文法上は可能ですが、そうすると「彼(イエス)の母」もマリアですから、二人の姉妹が同じ名前であることになり、これはありそうにないことです。「彼の母の姉妹」と「クロパの妻」は別人として、四人の女性が立っていたとしなければなりません。「クロパ」については、その名がここにあげられているだけで、詳しいことは分かりません。ルカ二四・一八の「クレオパ」(エマオへの途上で復活のイエスと出会った二人の弟子のうちの一人)と同一人物であるとする見方もあります。エウセビオスが引用する古代教会の伝承は、クロパをイエスの父ヨセフの兄弟とし、「主の兄弟ヤコブ」の次にエルサレム教会の主教となったシメオンの父としています。
 「マグダラのマリア」が最後に名をあげられています。共観福音書(マルコとマタイ)では最初にあげられています。復活されたイエスが最初に現れたのはマグダラのマリアであったという伝承を強調しているこのヨハネ福音書(二〇・一一以下)が、最後にマグダラのマリアの名をあげていることが注目されます。

 そこで、イエスは母と愛した弟子がそばに立っているのを見て、母に言われる、「女よ、ごらんなさい。あなたの子です」。それから、その弟子に言われる、「ごらんなさい。あなたの母です」。この時から、その弟子は彼女を自分のところに引き取った。(二六〜二七節)

 弟子たちは皆、イエスが逮捕されたときに逃げ去っていました。十字架の場所まで来たのは四人の女性だけでしたが、その中に一人の男性弟子が入っています。反逆罪で処刑されるイエスの刑場に、壮年の男性弟子がついてくることは、奪還する意図がある仲間として警戒され逮捕される危険がありますから、その姿がないのは当然です。女性だけの中にこの男性の「(イエスが)愛した弟子」がいることは、どうして可能だったのでしょうか。
 これは、この「愛弟子」がまだ少年の年齢であったから、女性たちの中に交じってついて来ることができたのだと考えられます。このヨハネ福音書に登場する無名の「イエスが愛された弟子」(愛弟子と略称しています)は、現代の多くの註解者が弟子を理想化した象徴的な存在としているのに対して、わたしは実在の人物であると考えています。そして、この人物こそ、後にそのイエスについての証しを通して信じる者たちの共同体を形成し、この福音書を生み出す原動力となった人物であると見ています(二一・二四)。

この「愛弟子」とその年齢については、本書附論の『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』を参照してください。

 この愛弟子は、この時まだ十歳代半ばの少年であり、敬愛する師の最後を見届けるために、女性たちに交じって十字架の刑場までついて来ます。イエスは十字架の上から母とこの「愛弟子」がいるのを見て、母に「女よ、ごらんなさい。あなたの子です」と言い、この弟子に「ごらんなさい。あなたの母です」と言って、母をこの弟子にお委ねになります。母には、わたしが亡き後はこの弟子を子として生涯を委ねなさいと言っておられます(ヨハネ福音書では、イエスは母に対しても、他の女性の場合と同じように「女よ」と呼びかけておられます)。この弟子には、これからはこの女性を母として世話するようにと、最後の苦しい息の中から母をお委ねになります。
 他の弟子たちはこれからイエスの仲間として追われる立場になり、危険な道を歩まなければなりません。それはイエスの兄弟たちも同じです。それに較べて、この「愛弟子」は大祭司の知り合いの家の者であり、母が安全にかくまわれるのに最適の人物になります。イエスは将来を見通して、この弟子に母をお委ねになります。
 「この時から、その弟子は彼女を自分のところに引き取った」とありますが、もしこの「愛弟子」がエクレシアの象徴であるなら、この記事はイエスの母マリアが復活後の信徒の交わりに迎えられ、そこで保護を受けて生涯を送ったことを意味することになります。もし具体的な一人の人物を指すのであれば、この福音書を書いたか、あるいはその内容の起源となった人物(二一・二四)が、イエスの母と生涯を共にしたことで、ペトロたち十二人と並ぶかそれ以上に確実なイエス伝承の継承者であることを保証する記事になります。わたしは後者であると考えています。
 使徒言行録によりますと、イエスが復活し昇天された後、母マリアは自分の子供たち(すなわちイエスの兄弟たち)と一緒に、ペトロをはじめとする十一人の弟子たちと同じ家で祈っています(使徒一・一四)。ペンテコステ以後、イエスの兄弟たちはエルサレムに住んで、「主の兄弟ヤコブ」を中心にエルサレム共同体の指導部を形成しています。その中に母マリアもいることは推察できますが、その後のユダヤ戦争の嵐の中でエルサレム共同体は弾圧され、62年にはヤコブも殺され、エルサレムの信徒はペレアに脱出します。おそらく、これよりも早い時期にこの「愛弟子」が母マリアを連れて危険なエルサレムを去り、安全な場所にかくまったのではないかと推察されます。もっと早い時期と見るのは、イエスの十字架の時には五〇歳前後と見なければならないマリアが、遠くの都市に旅することができる年齢からすると、40年代を推定しなければならないからです。
 古代の伝承は、その避難先をエフェソとしています。エフェソは多くの民族や宗教が混在する寛容なヘレニズム大都市であり、ユダヤ人も多く住み、たしかに避難先として適切です。エフェソにはマリアが晩年を過ごしたと伝えられる家を記念する小さい教会堂があり、今も毎年八月一五日にマリアを記念する祭りが行われています。この「愛弟子」がその証しの働きを通して形成した信徒の共同体がエフェソにあり、その共同体が生み出した福音書が「ヨハネ福音書」として流布していたことは、直後の時代の教父たちが証言しています。この「愛弟子」がヨハネという名で知られるようになり、後に彼を記念する「聖ヨハネ教会」がエフェソに建てられます。
 この十字架の前の母マリアと「愛弟子」の記事は、この弟子とマリアの深い結びつきを知っているヨハネ共同体が、その師(ヨハネ)から聞いている事実に基づいて、それを主御自身からの委託として物語ったものであると考えられます。

すべてが成し遂げられた

 この後、イエスはすでにすべてが成し遂げられたことを知り、聖書が成就されるために、「わたしは渇く」と言われる。(二八節)

 「聖書が成就されるために」という句は、先行する文にかけて、「聖書が成就するために(必要な)すべてのことが成し遂げられたことを知って」と訳すことも可能です(岩波版)。ここでは(多くの英訳や独訳およびほとんどの日本語訳と同じく)以下に語られるイエスが酸いぶどう酒をお受けになったことを、詩篇(六九・二二、二二・一六、六三・二など)の成就として描いていると理解して訳しています。この解釈は、イエスの身に起こったことが最後の最後まで聖書の正確な成就であったことを強調することになります。

 酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。そこで彼らは、この酸いぶどう酒を含ませた海綿をヒソプに巻き付け、イエスの口元に差し出した。(二九節)

 「酸いぶどう酒」は、共観福音書でも同じ用語《オクソス》で描かれています(マルコ一五・三六、マタイ二七・四八、ルカ二三・三六)。これは、ローマ兵が元気をつけるために用いた水と酢と卵を混ぜ合わせた飲物とされていますが、ヨハネ福音書ではそれが器に満たしてそばに置いてあったことになっています。十字架執行にさいして囚人に与えるためにローマ側が用意していたことも考えられます。

 この酸いぶどう酒を受けると、イエスは「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(三〇節)

 ヨハネ福音書は「この酸いぶどう酒を受けると」と明記していますが、共観福音書ではこの酸いぶどう酒をお受けになったことは言及されないで(むしろお受けにならなかった印象を与える書き方です)、大声を出して息を引き取られたとなっています。
 息を引き取る直前のイエスの言葉については、四福音書は違っています。マルコとマタイは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたと伝え、ルカは「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と伝えています。マルコとマタイの叫びは、罪なき神の子が人間の罪を負って神の裁きに服する苦悩を伝え、ルカの言葉は神の意志に従って死ぬ殉教者の信頼の叫びを伝えています。
 ヨハネ福音書は「成し遂げられた」と叫んで、息を引き取られたと伝えています。この叫びは、「イエスはすでにすべてが成し遂げられたことを知って」(二八節)、最後の最後に発せられた言葉です。イエスは、十字架の上で自分がなすべき業がすべて成し遂げられて終わったことを見ておられます。
 「息を引き取られた」と訳している句の直訳は、「霊を引き渡された」です。マルコとルカは「息を引き取る」という動詞を用いていますが、マタイは「息(霊)を止める」という表現を用いています。ギリシア語では息と霊は同じ語であるので、マルコの「息を引き取る」という日常的な用語が、ヨハネでは「霊を引き渡す」という霊的表現になっています。ルカはそれを、「わたしの霊を御手に委ねます」という、イエスの言葉で表現していることになります。