市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第14講

第二節 ユダヤ教側の裁判

59 大祭司の尋問とペトロの否認(18章 15〜27節)

 15 さて、シモン・ペトロともう一人の弟子がイエスについて行った。その弟子は大祭司の知り合いで、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入った。 16 ペトロは門のところで外に立っていた。大祭司の知り合いであるもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。 17 その門番の女中が言う、「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」。彼は言う、「わたしは違う」。 18 僕たちや下役たちが立っていて、寒かったので炭火をおこし、火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
 19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。 20 イエスはお答えになった、「わたしは世に向かって公然と語ってきた。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿境内で教えてきた。ひそかに語ったことは何もない。 21 なぜ、わたしに尋ねるのか。わたしが何を語ったかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。見よ、この人たちが、わたしが言ったことを知っている」。 22 イエスがこう言われると、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司に向かってそんな答え方をするのか」と言って、イエスを平手で打った。 23 イエスはその男に答えられた、「わたしが何かまちがったことを言ったのであれば、そのまちがいを示しなさい。正しいことを言ったのであれば、なぜわたしを打つのか」。 24 そこで、アンナスはイエスを縛ったまま、大祭司カイアファのところに送った。
 25 ところで、シモン・ペトロは立って火にあたっていた。そこで、人々が、「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」と言うと、彼は否定して、「わたしは違う」と言った。 26 大祭司の僕の一人で、ペトロが耳を切り落とした男の身内の者が言う、「お前が園であの男と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。 27 そこで、ペトロは再び否定した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

ペトロの否認

 さて、シモン・ペトロともう一人の弟子がイエスについて行った。その弟子は大祭司の知り合いで、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入った。(一五節)

 共観福音書では、イエスについて行ったのはペトロだけですが、ヨハネ福音書は、「もう一人の弟子」がシモン・ペトロと一緒に逮捕されたイエスについて行ったことを報告しています。この「もう一人の弟子」は「大祭司の知り合い」であるので、逮捕されたイエスが大祭司の屋敷に連れて行かれたときに、一緒に大祭司の屋敷の中に入って行くことができました。「大祭司の知り合い」は、エルサレムのかなりの身分の家族に属するはずですから、ガリラヤの漁師には考えられない記述です。イエスの弟子はみなガリラヤの人たちですから、この「もう一人の弟子」だけがエルサレムの住人で、しかも大祭司の知り合いという上層祭司階級の出身であることになります。
 この「もう一人の弟子」と、先に登場している「主が愛された弟子」(一三・二三)とはどういう関係なのか、問題点が多くありますが、古代ギリシア教父たちと現代の多くの注解者は両者を同一人と見ています。もしこの「無名の弟子」がヨハネ福音書の著者(または伝承の源となり、ヨハネ共同体の中心にいて、この福音書を生み出す原動力になる人物)を指しているとすれば、この福音書の「著者」はエルサレムの祭司階級に属する知識人であったことになります。この節の記述は、ヨハネ福音書の成立を探求する上で重要な情報を提供しています。この点については、別稿『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立をめぐって』で詳しく扱うことになります。
 この「もう一人の弟子」という表現は、ここではペトロの他に「もう一人の弟子」が大祭司の屋敷までイエスについて行ったという意味で使われていますが、この福音書全体では、ペトロを代表とする十二人の弟子団の外に「もう一人の弟子」がいたのであって、その弟子こそ「イエスが愛された弟子」であり、この弟子が伝えるイエスに関する伝承と教えの内容は、ペトロを代表とする十二使徒団のそれと較べて、優るとも劣らない質のものだという気持ちをこめて使われているようです。

 ペトロは門のところで外に立っていた。大祭司の知り合いであるもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。(一六節)

 この段落で、大祭司の尋問(一九〜二四節)を挟む形で描かれているペトロの否認の記事(一五〜一八節と二五〜二七節)は、共観福音書におけるペトロの否認の記事(マルコ一四・六六〜七二)と較べると、起こった事実の報告が端的で具体性があります。マルコはペトロが「中庭」で火にあたっていたとだけ報告していますが、ヨハネはペトロのようなガリラヤの漁師がどうして大祭司の屋敷の「中庭」にいることができたのかを、この節で具体的に報告しています。
 ヨハネ福音書の記事に較べると、マルコの方が、ペトロの否認の言葉の激しさや、ペトロの号泣など、劇的な構成を感じさせます。おそらくこれは、ペトロの否認の出来事が主の恩恵のしるしとして語り伝えられていく過程で、出来事の細部は省略されて、人間ペトロの心情が前面に出てきたからではないかと推察されます。

 その門番の女中が言う、「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」。彼は言う、「わたしは違う」。(一七節)

 門番の女中とペトロの対話が現在形の動詞「言う」を用いて、生き生きと描かれています。女中が「あの男」と言うのは、もちろん、逮捕され、目の前を鎖につながれて引かれていったイエスを指しています。女中の問いに対して、ペトロは「わたしは違う」と端的に否定します。共観福音書のように、ペトロの否認の言葉が段々と激しくなり、呪いの言葉さえ口にして誓ったというような描写はなく、否認の言葉はいつも「わたしは違う」だけです。

 僕たちや下役たちが立っていて、寒かったので炭火をおこし、火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。(一八節)

 過越祭は春先にありますが、パレスチナではその時期でも夜になると冷え込んだのでしょう。大祭司の屋敷の下僕たちや、イエスを逮捕して帰ってきた警備隊の者たちは、火にあたっていました。ペトロも、彼らの中に紛れて、自分もその一人であるかのような態度で、なにくわぬ顔で火にあたっていたのでしょう。ペトロの否認の物語は、大祭司の尋問の記事でいったん中断され、二五節で再開されます。

大祭司の尋問

 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。(一九節)

 この年の大祭司はカイアファですが(一八・一三)、この箇所(一八・一九〜二三)ではアンナスが大祭司と呼ばれています。前の大祭司として、また現大祭司カイアファの義父であり、多くの祭司長たちを擁している一族の長として、アンナスが実権を握っていたから、そう呼ばれているのでしょう。あるいは、最高法院の構成員として「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」と言われるときの「祭司長」も同じ語であるので、その意味で用いられている可能性もあります。そうだとすると、アンナスは祭司長の一人として行動していることになりますが、その実力からして、この予審(これが予審であることについては後述)では大祭司の代わりに尋問をしていると見られていることになります。アンナスはイエスに弟子団の規模や構成、イエスの教えの内容などについて尋問します。

ルカ福音書(三・二)は、洗礼者ヨハネの活動の時代を「アンナスとカイアファが大祭司であった時」とし、使徒言行録(四・六)では、イエスの復活を宣べ伝えるペトロを尋問した者たちを、「大祭司アンナスとカイアファとアレクサンドロと大祭司一族」(大祭司という称号は単数形でアンナスだけにかかります)としています。二人が共同で大祭司を務めることはないので、ルカの記事には混乱があるとされています。

 イエスはお答えになった、「わたしは世に向かって公然と語ってきた。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿境内で教えてきた。ひそかに語ったことは何もない。なぜ、わたしに尋ねるのか。わたしが何を語ったかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。見よ、この人たちが、わたしが言ったことを知っている」。(二〇〜二一節)

 「公然と語ってきた」という言葉は、共観福音書では逮捕の時に語られたことになっていますが(マルコ一四・四九と並行箇所)、ヨハネ福音書では裁判の場で大祭司の尋問に対して答えられたときの言葉となっています。イエスは弟子たちだけに秘密の教えを説いたのではなく、会堂や神殿で公然と語ってきたのだから、あなたたちもよく知っているはずだとし、大祭司の質問を無意味なものとされます。

 イエスがこう言われると、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司に向かってそんな答え方をするのか」と言って、イエスを平手で打った。(二二節)

 共観福音書には、ユダヤ教側の裁判でイエスが打たれたという記事はありません。平手打ちは、当時のユダヤ教社会ではひどい侮辱の行為です。イエスは、ローマの兵卒から鞭打ちの虐待を受ける前に、ユダヤ教の神殿警備隊からも侮辱を受けておられたことが、ここで語られます。

 イエスはその男に答えられた、「わたしが何かまちがったことを言ったのであれば、そのまちがいを示しなさい。正しいことを言ったのであれば、なぜわたしを打つのか」。(二三節)

 その男の侮辱の平手打ちに対して、イエスは毅然としてその不当なることを問いつめられます。イエスは「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」(マタイ五・三九)と教えられたと伝えられていますので、この語録とこの時のイエスの行動との関係がよく問題にされます。イエスがご自分の教え通りに徹底的に敵を赦されたことは、十字架の上で自分を殺す者たちのために執り成しの祈りをされたことに十分示されています。しかし、敵を赦すことと、善と悪、真理と虚偽、義と不義、正しいことと正しくないことを区別することは別であり、この区別がなければ赦しも無意味になります。イエスは最高法院の法廷で毅然としてこの区別に基づいて行動されます。

 そこで、アンナスはイエスを縛ったまま、大祭司カイアファのところに送った。(二四節)

 ここではアンナスではなくカイアファが大祭司とされています。共観福音書では、イエスは逮捕された後すぐにカイアファのところに連れて行かれ、カイアファから尋問され、その後ピラトに引き渡されることになっています。ペトロの否認は、このカイアファの尋問の前後に置かれています。ところがヨハネ福音書では、まずアンナスのところに連れて行かれ、アンナスから尋問され、それからカイアファのところに送られることになります。そして、カイアファによる尋問の記事はなくて、すぐにピラトに引き渡されます(一八・二八)。ペトロの否認の記事は、アンナスの尋問の前後に置かれています。
 このように、ピラトに引き渡される前のユダヤ教側の尋問と裁判の過程について、共観福音書とヨハネ福音書は食い違っており、この違いは調整困難です。おそらく事実は、アンナスの屋敷における夜の尋問は予審であり(正式の法廷は昼間でないと開けません)、夜が明けてから最高法院での正式裁判が開かれ(マルコ一五・一はこれを示唆しています)、大祭司カイアファを議長とする裁判でイエスの死刑が正式に議決されたと見られます。その夜の予審(その時にペトロの否認が起こる)は実力者アンナスによってなされたが、夜が明けてからの最高法院の裁判では「その年の大祭司カイアファ」が議長として死刑判決を下したと考えられます。
 共観福音書は、夜の予審と朝の正式裁判を厳密に区別せず、イエスは夜の裁判でカイアファによって厳しく尋問され、死刑の判決を下されたとしています。それに対してヨハネ福音書は、ピラトの裁判に重点を置いて詳しく描いていますが、ユダヤ教側の裁判はほとんど無視して、その内容をほとんど伝えていません。ただ、夜の予審がアンナスによってなされたことは、事実である可能性が高いと見られます。この福音書の記事は「大祭司の知り合い」の弟子を情報源としていると見られるからです。いずれにしても信仰の問題としては、ユダヤ教最高法院がイエスに死刑判決を下したことが重要であって、その裁判の過程でアンナスとカイアファがどう関わったかは、本質的な問題ではありません。

ペトロの否認(続)

 ところで、シモン・ペトロは立って火にあたっていた。そこで、人々が、「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」と言うと、彼は否定して、「わたしは違う」と言った。(二五節)

 ここでペトロの否認の物語が再開されます。先には門番の女中がペトロに「お前もあの男の弟子たちの一人ではないのか」と問いつめましたが、今度はペトロと一緒に火にあたっていた人々が、同じ言葉でペトロを問いつめます。彼らはイエスの逮捕に向かった軍勢の中にいた者たちであり、その時ペトロの顔も見ていたのでしょう。現場にはいなかった先の女中の詰問よりも差し迫った場面になります。その詰問に対しても、ペトロは「わたしは違う」と、同じ言葉で否定します。これが二度目の否定になります。

 大祭司の僕の一人で、ペトロが耳を切り落とした男の身内の者が言う、「お前が園であの男と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。(二六節)

 ペトロがイエスの仲間だという詰問はさらに具体的になります。「ペトロが耳を切り落とした男」は大祭司の僕の一人で、マルコスという名の男であったことが伝えられていますが(一〇節)、そのマルコスの身内の者(この者も「大祭司の僕の一人」と説明されています)が、イエスが逮捕されたときマルコスと一緒にいて、ペトロの顔を見たと証言します。ペトロはますます窮地に追いつめられます。

 そこで、ペトロは再び否定した。するとすぐ、鶏が鳴いた。(二七節)

 それでもペトロは必死に否定します。ペトロはすでに二度否定していますから、これは三回目の否定になります。ペトロが三回目に否定したとき、鶏が鳴きます。これは、最後の食事の席でイエスが、ペトロに向かって「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と予告しておられましたが(一三・三八)、その予告通りになります。

 ヨハネ福音書におけるペトロの否認の記事を共観福音書のそれと較べますと、その報告が具体的で確かな伝承に基づいているという印象を受けます。ペトロが大祭司の屋敷の中に入れた事情や、耳を切り落とされた男の名前の報告など、当時の神殿関係の事情に身近な立場の人物で、現場の状況を見た者からの情報に基づいていることをうかがわせます。
 一方、ヨハネ福音書の記事は、事実を淡々と報告しているという感じがします。ペトロの否定の言葉も「わたしは違う」と極めて簡潔です。おそらくこれが事実でしょう。それに較べると、共観福音書の記事は、ペトロの否定の言葉がだんだんとエスカレートしていく様子が詳しく描かれ、最後には外に出て激しく泣いたとされます。その記事は、ヨハネ福音書の記事と較べると、劇的効果を高めるように構成されているという印象を受けます。これは、この場面を主の恩恵の重要なしるしとして語り伝えたペトロ自身と、最初期の共同体の手による構成ではないかと考えられます。
 ヨハネ福音書は、ペトロに対して「もう一人の弟子、主が愛された弟子」を優位に立たせようとする傾向がありますが、それだけにペトロのマイナス面をこのように抑えた形で、事実だけを淡々と報告するという姿勢が目立ちます。もし著者が共観福音書(少なくともマルコ)を知っていたとすれば、ますますその姿勢が顕著になります。著者は「もう一人の弟子」の優位を描くのに、その弟子の優れた点を語っても、対抗者の弱点を強調することを好まなかったのでしょう。