市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第13講

U 受難と復活 (一八章 〜 二一章)

第一八章 イエスの逮捕と裁判

        ―― ヨハネ福音書 一八章 ――




第一節 イエスの逮捕

58 イエスの逮捕 (18章 1〜14節)

 1 これらのことを言って、イエスは弟子たちと一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちはその中に入った。 2 イエスを引き渡そうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスはたびたび弟子たちとそこに集まっておられたからである。 3 そこでユダは、一隊の兵士と祭司長たちやファリサイ派の人たちから遣わされた下役たちを引き連れ、たいまつ、ともし火、武器をもって、そこに来た。
 4 さて、イエスは御自分の身に臨もうとしていることをすべて知っておられて、進み出て彼らに、「誰を捜しているのか」と言われる。 5 彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われる、「わたしである」。イエスを引き渡そうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。 6 イエスが彼らに「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地面に倒れた。
 7 そこで、イエスが再び「誰を捜しているのか」とお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスを」と言った。 8 イエスはお答えになった、「わたしであると言ったではないか。わたしを捜しているのであれば、この者たちは行かせてやりなさい」。 9 それは、「あなたがわたしに与えてくださった者たちの中の誰ひとり滅びませんでした」と言われた言葉が成就するためである。
 10 ところで、シモン・ペトロは剣を持っていたが、それを抜いて大祭司の僕を打ってかかり、その右の耳を切り落とした。その僕の名はマルコスであった。 11 そこでイエスはペトロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしにお与えになった杯は、それを飲まないでおくことができようか」。12 そこで、一隊の兵士と千人隊長およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、 13 最初にアンナスのところに連れて行った。彼は、その年の大祭司カイアファの義父であったからである。 14 カイアファは、一人の人間が民に代わって死ぬことは有益だと提言した人物であった。

ユダの裏切り行為

 これらのことを言って、イエスは弟子たちと一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちはその中に入った。(一節)

 「これらのことを言って」は、先行する「訣別遺訓」を指していますが、もともとは一四章終わりの「さあ、立て。ここから出て行こう」に続いていたと推察されることについては、先に述べました。イエスは最後の食事の席で、後に残される弟子たちに「別の同伴者」が来ることを語られた後、いよいよ最後の一歩を踏み出されます。
 「キドロンの谷」は、「ケデロンの谷」とも表記されますが、エルサレムとその東にあるオリーヴ山との間にある深く切り込んだ谷です。その「向こう側」はオリーヴ山の山麓になります。「そこには園があり」とありますが、その「園」は共観福音書では「ゲツセマネの園」と名があげられています。

 イエスを引き渡そうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスはたびたび弟子たちとそこに集まっておられたからである。(二節)

 この園は、イエスのエルサレム滞在中は、弟子たちと集まり祈る場所になっていました。それでユダもその場所をよく知っていました。祭司長たちは、イエスが自分たちの力を行使しやすいエルサレムにいる間に逮捕しようとしますが、祭りの群衆がいるところでは騒乱になる怖れがあるので、何とか「秘かに」逮捕する機会を狙っていました(マルコ一四・一〜二)。ユダはその機会を提供したのです。ユダの裏切りの動機は様々に推測され、決定的なことは言えませんが、すくなくとも彼の裏切り行為の中身は、イエスを「秘かに」逮捕する機会を密告したことであるのは確かです。過越祭を前にしてエルサレムの都が寝静まっている夜の闇の中で、イエスはいつものように都の外の寂しい園で祈っておられることを、ユダはよく知っています。

 そこでユダは、一隊の兵士と祭司長たちやファリサイ派の人たちから遣わされた下役たちを引き連れ、たいまつ、ともし火、武器をもって、そこに来た。(三節)

 「一隊の兵士」と訳したギリシア語は、ローマ兵制において一軍団の十分の一(通常は六〇〇人ほど)の部隊を指す用語です(他ではマルコ一五・一六など)。この「一隊の兵士」は、千人隊長に率いられるローマの正規軍です(一二節参照)。ローマの正規軍がイエス逮捕に向かったとするのはヨハネだけですが、反乱の疑いがある場合として、祭司長たちがピラトに出動を要請した可能性は十分にあります。「祭司長たちやファリサイ派の人たちから遣わされた下役」というのは、神殿警備の警察隊員です。神殿警備隊の長官は大祭司に次ぐ要職です。大祭司はローマ総督のピラトに正規軍の出動を要請し、自分の統率下にある神殿警護の警察隊も出動させます。ローマ軍はイエスの顔も知らないでしょうから、ユダヤ教側の協力も必要です。
 共観福音書では、逮捕の場面にはローマ軍は登場せず、武器をもった「群衆」が祭司長たちから遣わされて園にやって来ます。これは、ローマ側の責任を軽くしようとする護教的動機からではないかとも推察させます。あるいは、ただ報告が大雑把であるだけかもしれません。
 逮捕に来た者たちは、「たいまつ、ともし火、武器をもって」来ます。「たいまつ」はここだけに出てくる語ですが、「ともし火」の方はマタイ福音書二五章の「十人のおとめ」の比喩にも用いられている語で、油を入れた容器に灯心をさして点す灯火です。暗闇の中で行動するには欠かせません。多くのたいまつや灯火がゆらめく情景は、イエス逮捕の夜の暗闇の深さを想像させます。
 一隊は軍隊であり警備隊ですから当然武器をもっています。彼らはイエスとその弟子たちの一行を当時の過激派「熱心党」の一味と見て、かなりの規模の軍隊をさし向けたと考えられます。イエスと弟子たちが集まっている園を知っているユダが道案内をして、先頭に立ってやって来ます。

進み出るイエス

 さて、イエスは御自分の身に臨もうとしていることをすべて知っておられて、進み出て彼らに、「誰を捜しているのか」と言われる。(四節)

 いよいよイエス逮捕の場面です。共観福音書では、ユダがイエスに接吻してイエスを特定しますが、ヨハネ福音書にはユダの接吻の記事はありません。ヨハネ福音書はイエスの受難を、共観福音書のように「引き渡される」という受動態ではなく、いつもイエスが進んでなされる行為として能動態で描きます。ここでも、「イエスは御自分の身に臨もうとしていることをすべて知っておられて」、すなわちイエスはこれから自分の身に起こることがどのようなことであるかを知り、それが父の定めであり、聖書の預言しているところであることを悟り、「進んで」その事態に身を委ねられます。
 イエス逮捕の情景はすべて過去形の動詞で物語られていますが、ここと五節のイエスの言葉は「イエスは言われる」と現在形が用いられています。

 彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われる、「わたしである」。イエスを引き渡そうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。 (五節)

 「誰を捜しているのか」というイエスの問いかけに、彼らは「ナザレのイエスを」と答えます。それに対してイエスは、「わたしである」と言われます。この「わたしである」は、この福音書が繰り返しイエスの口に置いてきたあの《エゴー・エイミ》です(八・二四、二八、五八、一三・一九)。共観福音書では、湖上の顕現の時(マルコ六・五〇)と、大祭司による裁判の席(マルコ一四・六二)でイエスが口にされたあの《エゴー・エイミ》、神の自己啓示の言葉です。ヨハネ福音書では、逮捕に来た軍勢にイエスはこの神が自己を指し示されるときの啓示の言葉を発せられます。この神の永遠の現臨を啓示する言葉だから、ヨハネは「イエスは言われる」と現在形で書くのでしょう。

 イエスが彼らに「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地面に倒れた。(六節)

 この場面での《エゴー・エイミ》は、たんに「それ(あなたたちが捜している人物)はわたしである」というだけの意味ではなく、神の臨在を指す言葉です。その言葉に直面して、イエスに押し迫っていた軍勢は「後ずさりして、地面に倒れた」のです。これは、この言葉を発せられたイエスの神的威厳に打たれたからです。少なくともヨハネはそういう意味の出来事として、この箇所を書いています。ヨハネはこの記事によって、ローマの軍勢と大祭司の警備隊が逮捕しようとしている人物は、神の《エゴー・エイミ》を体現する方であると言っているのです。

 そこで、イエスが再び「誰を捜しているのか」とお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスを」と言った。(七節)

 《エゴー・エイミ》という神的な啓示の次元から、場面は「再び」地上の逮捕劇に戻ります。先の「誰を捜しているのか」と「ナザレのイエスを」という問答が繰り返されます。

 イエスはお答えになった、「わたしであると言ったではないか。わたしを捜しているのであれば、この者たちは行かせてやりなさい」。(八節)

 イエスは「わたしを捜しているのであれば、この者たちは行かせてやりなさい」と言って、弟子たちをこの場から去らせようとされます。

 それは、「あなたがわたしに与えてくださった者たちの中の誰ひとり滅びませんでした」と言われた言葉が成就するためである。(九節)

 イエスが逮捕に来た軍勢に自分だけ身を任せて、弟子たちをかばって去らせようとされた行為が、イエスの言葉の成就として意義づけられます。「と言われた言葉」の「言われた」は、イエスが主語です。イエスは地上におられるとき、繰り返して「あなたがわたしに与えてくださった者たちの中の誰ひとり滅びませんでした」という意味のことを語っておられました(六・三九、一〇・二八、一七・一二)。今、逮捕の場面でそのイエスの言葉が成就します。

剣をおさめよ

 ところで、シモン・ペトロは剣を持っていたが、それを抜いて大祭司の僕を打ってかかり、その右の耳を切り落とした。その僕の名はマルコスであった。(一〇節)

 共観福音書では、居合わせた者たちの中の一人が剣をもって打ちかかったとされていますが(弟子とは言われていません)、ヨハネ福音書ではシモン・ペトロと名指されています。それだけでなく、右の耳を切り落とされた大祭司の僕(原語は「奴隷」)も「マルコス」と名が上げられています。これは、彼の身内の者がイエスと一緒にいるペトロを目撃しているので、ペトロの否認の伝承の中でその名が伝えられたと見られます(一八・二六)。なお、切り落とされたのは、マルコとマタイでは「片方の耳」、ルカとヨハネでは「右の耳」となっています。
 この場面の報告において、ヨハネ福音書が人物の名を上げるなど、きわめて具体的であることが注目されます。このことは、ヨハネが用いている伝承が具体的で正確であることをを示唆していると考えられます。

 そこでイエスはペトロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしにお与えになった杯は、それを飲まないでおくことができようか」。(一一節)

 「剣をさやに納めなさい」という言葉は、マタイ二六・五二にも伝えられています。ただし、この後に続く言葉は違っています。マタイでは、「剣をとる者は皆、剣で滅びる」となっています。ヨハネでは、イエスが父の御旨に進んで身を委ねられる姿を表現する言葉になっています。
 イエスは、これから自分に臨もうとしている苦難を、「父がわたしにお与えになった杯」と表現されています。イエスが受けるべき苦難を「杯」の象徴で語られたことは共観福音書にも伝えられていますが、違った場面(ヤコブとヨハネの願いとゲツセマネの園での祈り)で用いられています(マルコ一〇・三五〜四五、一四・三六)。ヨハネ福音書で「杯」が出てくるのはここだけです。
 旧約聖書では、杯は神からの救いや祝福の象徴として用いられる(詩編二三・五、一六・五、一一六・一三など)と同時に、神の審判の象徴としても用いられています(イザヤ五一・一七〜二三、エレミヤ二五・一五〜二九、詩編七五・九など)。イエスはここでご自分が受けなければならない苦難を、「父がわたしにお与えになった杯」と表現しておられます。それは単なる肉体の苦しみではなく、神の裁きに身を委ねる魂の苦しみ、死の苦悩です。

 そこで、一隊の兵士と千人隊長およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、最初にアンナスのところに連れて行った。彼は、その年の大祭司カイアファの義父であったからである。(一二〜一三節)

 ここで改めてイエスの逮捕に向かった軍勢が、千人隊長に率いられる大規模のローマ正規軍と、ユダヤ人の神殿警護隊であったことが確認されます。彼らは、進み出て来られたイエスを捕らえて縛ります。他の弟子たちは、イエスの言葉通りに見逃されて、その場から闇に紛れて逃げ去ります。
 イエスは「最初にアンナスのところに連れて行かれ」、尋問を受けます、イエスが最初にアンナスの尋問を受けられたことを伝えるのはヨハネ福音書だけです。共観福音書では、すぐに大祭司カイアファのところに連れて行かれることになっています(マタイ二六・五七)。「最初に」という表現は、次にカイアファのところ送られる(一八・二四)ことを前提にしています。
 逮捕されたイエスが「最初に」アンナスのところに連れて行かれた理由が、「彼は、その年の大祭司カイアファの義父であったからである」と説明されます。アンナスは大祭司カイアファの義父として、隠然たる勢力を振るっていました。危険な異端の教師であり、騒乱の煽動者の容疑をかけられたイエスは、当時のユダヤ教の最高実力者であったアンナスの予備尋問を受けることになります。
 カイアファは 一八年から三六年まで大祭司でした。「その年の大祭司」というは、その年(イエスの裁判が行われた年)に大祭司として在位したという意味であって、大祭司職が一年交代であったという意味ではありません。アンナスはカイアファの義父で、六年から一五年まで大祭司でした。

 カイアファは、一人の人間が民に代わって死ぬことは有益だと提言した人物であった。(一四節)

 その年の大祭司カイアファは、イエスがベタニアで死んだラザロを生き返らせたという報告を受けて、イエスの影響力で騒乱になることを恐れ、「一人の人間が民に代わって死んで、民族全体が滅びないですむのが、あなたがたにとって得策だと考えないのか」と言って、イエスを殺すことを最高法院に提案した人物です(一一・四五〜五三)。アンナスからカイアファに至る大祭司の一族は、ユダヤ教団を代表する者として、当時ローマの支配下にあって騒乱のたえない不穏な情勢の中で、何よりも教団の安泰と存続を画策した勢力です。騒乱の芽を摘むためには、その原因になりかねない一人の罪なき者を殺すことをためらわない勢力です。