市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第12講

第一七章 イエスの最後の祈り

       ―― ヨハネ福音書 一七章 ――




第一節 イエスの最後の祈り

57 去りゆくイエスの祈り(17章 1〜26節)

 1 イエスはこれらのことを語り、目を天に向かってあげて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すため、子の栄光を現してください。 2 肉なるものすべてを支配する権能を子に与えてくださったので、あなたが子に与えてくださったすべての者たちに、子は永遠の命を与えるようになるのです。 3 永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。 4 あなたがわたしに為すようにとお与えになった業を成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。 5 そこで今、父よ、あなたが御自身の御前にわたしの栄光を、すなわち世が存在する前にわたしがあなたのもとで持っていたあの栄光を、現してください。
 6 あなたが世からわたしに与えてくださった者たちに、わたしはあなたの御名を示しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは彼らをわたしに与えてくださり、彼らはあなたの言葉を守りました。 7 今や彼らは、あなたがわたしに与えてくださったものはみな、あなたから来たものであることを悟りました。 8 それは、あなたがわたしに与えてくださった言葉を、わたしは彼らに与え、彼らは受け入れて、わたしがあなたのもとから来たのであることを本当に知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じたからです。
 9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにお願いするのではなく、あなたがわたしに与えてくださった者たちのためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。 10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らの中で栄光を受けました。 11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世に残り、わたしはあなたのみもとに参ります。聖なる父よ、あなたがわたしに与えてくださった御名によって、彼らを守ってください。それは、彼らもわたしたちのように一つになるためです。 12 わたしが彼らと一緒にいる間は、あなたがわたしに与えてくださった御名により、わたしが彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子の他は、彼らの中の誰ひとり滅びませんでした。それは、聖書が成就するためです。 13 しかし今、わたしはあなたのもとに参ります。世にいる時にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼ら自身の中に満ち溢れるようになるためです。 14 わたしは彼らにあなたの言葉を与えました。すると、世は彼らを憎みました。わたしが世からのものでないように、彼らも世からのものでないからです。 15 わたしがお願いするのは、あなたが彼らを世から取り去ることではなく、悪しき者から彼らを守ってくださることです。 16 わたしが世からのものでないように、彼らも世からのものではありません。 17 真理によって彼らを聖別してください。あなたの言葉が真理です。 18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。 19 彼らのためにわたしは自分自身を聖別します。彼らも真理によって聖別された者となるためです。
 20 彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる者たちのためにもお願いします。 21 それは、皆が一つになるためです。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、あなたがわたしを遣わされたことを、世は信じるようになります。 22 あなたがわたしに与えてくださっている栄光を、わたしもまた彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 23 わたしは彼らの内におり、あなたがわたしの内にいてくださるのは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたのであり、わたしを愛されたように彼らを愛されたことを、世が知るようになるためです。
 24 父よ、あなたがわたしに与えてくださった者たちのことで、わたしがいるところに彼らもまたわたしと一緒にいるようにしてくださることを願います。それは、世界の基礎が置かれる前に、あなたがわたしを愛して与えてくださったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。 25 義である父よ、世はあなたを知りませんでしたが、わたしはあなたを知りました。そしてこの者たちは、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。 26 わたしは彼らにあなたの名を知らせましたし、これからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らの中にあるようになるため、また、わたしが彼らの中にいるようになるためです」。

時が来ました

 イエスはこれらのことを語り、目を天に向かってあげて言われた。(一節前半)

 「これらのことを語り」とは、一三〜一六章のイエスの訓話を指しています。この部分は、天から地に下ってきて啓示を与えた者が、世を去るにあたって残される者に与える最後の教え、すなわち旧約聖書や旧約外典によく見られる「遺訓」の形式を取っています。それで、この部分は普通「訣別遺訓」と呼ばれることになります。
 「目を天に向かってあげて」は祈りの姿勢を示します。「遺訓」が祈りで閉じられることも旧約聖書や旧約外典の伝統です。多くの「遺訓」は、残される者たちへの祈りで閉じられています。たとえば申命記三三章は、モーセの遺訓ともいうべき申命記の最後につけられたモーセの祈りです。創世記四九章は世を去ろうとするヤコブの祝福の祈りです。このような旧約聖書の祈りは預言としての面ももっています。後のグノーシス主義の文学にこのような文学類型があるとされますが、その影響を見ることはここでは時期的にも不適切でしょう。
 一七章のイエスの祈りは、伝統的に「大祭司の祈り」と呼ばれていますが、これはイエスがご自身を万民の贖いのために捧げようとされるにさいして、その犠牲を聖別するための大祭司の祈りであるとされるからです。しかし、もはや祭儀について語ることをしないこの福音書の一段の見出しとしては、あまり適切ではありません。ただ同時に、この祈りは地上に残されるご自分の民のためになされる執り成しの祈りでもありますから、祭司的な一面があることは事実です。

 「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すため、子の栄光を現してください」。(一節後半)

 イエスはこれまで、苦しみを受けて天に帰る出来事を「わたしの時」と呼んでこられました(二・四、七・六、七・八)。この最後の食事の直前にもその時が来たことを宣言しておられますが(一二・二三)、最後の食事とそこでの訓話を終えて、ついにその時が来たことを、父に向かって言い表されます。
 その時が来たので、この時に「子の栄光を現してください」と、イエスは父に祈り求められます。「栄光を現す」とは、この福音書では神的な本質を現すことであり、啓示の出来事を指しています。ヨハネ福音書では、十字架の死とそれに続く出来事(復活)こそが、「わたしの時」の内容であり、イエスの栄光が現される出来事とされています(七・三九、一二・一六、一二・二三、一二・二八、一三・三一〜三二)。その出来事の中に、イエスこそが子として父の神的本質をもつ方であることが明らかにされます。同時に、その出来事が「子が父の栄光を現す」出来事となります。すなわち、その出来事の中に、父がいかに大きな慈愛と信実の神であるか、父の本質が現されることになります。

 「肉なるものすべてを支配する権能を子に与えてくださったので、あなたが子に与えてくださったすべての者たちに、子は永遠の命を与えるようになるのです」。(二節)

 「肉なるものすべて」とは、すべての人間を指す旧約聖書的表現です(たとえば詩編六五・三)。ヨハネ福音書ではここだけに出てきます。「肉なるものすべてを支配する権能」とは、復活されたイエスが天地の万物を支配する権能を与えられたことを指しています(マタイ二八・一八)。その権能は「神の右に座し」という聖書的な表現で語られ、また、異邦世界では《キュリオス》(主)という称号で表現されました。ヨハネ福音書では、イエスのこの地位が審判者としての資格ではなく、「すべての者たちに永遠の命を与える」ための地位として理解されています。では、「永遠の命」とは何か、それが次節で定義されます。

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」。(三節)

 この「知る」はもちろん、旧約聖書に見られる用法の人格的な交わりを指しています。「唯一のまことの神」との人格的な交わりに生きることが人間にとって真実の命であることは、聖書の世界では当然のことです。しかし、この福音書では、神を知ることは、神から遣わされたイエスを知ること以外のところにはないのですから(一四・六)、「唯一のまことの神であるあなた」という句と一息に、「と、あなたが遣わされたイエス・キリスト」を知ることです、と語ることになります。ここの「と」《カイ》は、二人の方を知ることではなく、「すなわち」の意であり、「唯一のまことの神であるあなたを知ること、すなわち、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることが永遠の命です」という宣言です。
 ところで、この祈りをイエスご自身の言葉とすると、祈りの中で本人が自分の名を、しかも「キリスト」という称号を添えて唱えるのは不自然です。地上のイエスは「メシア」とか「キリスト」という称号を主張されたことはありません。ご自身を「遣わされた者」としておられたイエスの祈りの中では、「あなたが遣わされた者」だけで十分であるはずです。それで研究者の中には、「イエス・キリスト」という部分は後からの挿入であると見て、後の時代の写本の段階で入ったものとする人もいます。しかし、この説明は写本の根拠が全然なく、無理です。
 むしろ、この永遠の命の定義は、イエスをキリストと宣べ伝えていたヨハネ共同体の宣言と見るとき、自然に理解できます。ヨハネ共同体は、ユダヤ人を核とする共同体として、当然イスラエルの神を「唯一のまことの神」として礼拝し、しかもイエスこそその神から遣わされた方であり、復活してキリストとして立てられた方であることを知り、かつ信じています。そして、この方を「知る」ことがすなわちこの「唯一のまことの神」を知ることであり、したがって、この復活者イエス・キリストと結ばれて生きることこそ永遠の命であることを体験し、告白してきました(二〇・三一も参照)。その告白が、ここでイエスの最後の祈りの言葉として言い表されているのです。この福音書では、地上のイエスの言葉とヨハネ共同体が告白する信仰の言葉が微妙に重なっていますが、ここではヨハネ共同体の信仰告白が正面に出ています。

ここで「知る」ことが永遠の命とされています。ここは典型的な箇所ですが、この福音書では「知る」ことが重視されています。それで新約聖書に続く後の時代に、「知識・悟り」を重視する「グノーシス主義」の人たちに親しまれる福音書となったようです。ヨハネ福音書には「知識」《グノーシス》という名詞は出てきませんが、神を「知る」ことが重要な箇所に出てくるのは事実です(たとえば一〇・一五、一四・七)。ヨハネのいう「知る」は人格的な交わりを指す用語であって、グノーシス主義者のいう「知識、悟り、霊知」とは違いますが、それでも「知る」ことを重視するこの福音書は後にグノーシス主義(とくにヴァレンティノス派)の特愛の福音書となります。この一七章を主題として書かれたE・ケーゼマンの『イエスの最後の意志―ヨハネ福音書とグノーシス主義』は、ヨハネ福音書を素朴な形ながらすでにグノーシス主義化しつつある文書であるとしています。このケーゼマンの問題提起については、大貫隆『ロゴスとソフィア―ヨハネ福音書からグノーシスと初期教父への道』(教文館)の「U ヨハネ福音書とグノーシス主義」が詳しく解説していますので、それを参照してください。

 「あなたがわたしに為すようにとお与えになった業を成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました」。(四節)

 ヨハネ共同体は地上のイエスの働きを、神から遣わされた方がその使命を成し遂げておられることだと見てきました。今いよいよ地上での働きを終えようとされているこの時に、その働きがすべて遣わされた方(父)の栄光を現す働きであったと総括されます。
 「父の栄光を現す」とは、啓示の働きです。限りなき慈愛とか信実という素晴らしい父の本質を啓示することです。イエスは地上で、その働きと言葉を通して、ご自分を遣わされた方の神としての本質、普通は人の目には隠されていて知ることができない神の本質を現して来られました。ヨハネ共同体は地上のイエスの働きをそのような質のものとして受けとめてきました。

 「そこで今、父よ、あなたが御自身の御前にわたしの栄光を、すなわち世が存在する前にわたしがあなたのもとで持っていたあの栄光を、現してください」。(五節)

 四節では「わたし」が強調されています。原文で強調の代名詞が用いられています。そして、五節では同じく強調の代名詞を用いて「あなた」が強調されています。わたしは地上でわたしの為すべきことをしましたから、「そこで」今、わたしが苦しみを受けるこの十字架の出来事の時には、あなたがあなたの分を為して、わたしに栄光を与えてください、という形を取っています。
 ここで「わたしの栄光」が「世が存在する前にわたしがあなたのもとで持っていたあの栄光」と説明されています。ヨハネ共同体は、イエスが復活して神と共にいます方であることを知り、かつ信じています。この復活信仰の帰結として、またその一つの表現として、その方は世界《コスモス》が存在する前から神と共にある方であるという先在の思想を、ヨハネ福音書は明確に表現し、その先在の思想から出発しています(一・一〜三)。この福音書においては、十字架・復活の出来事において現される栄光は、世界に先在する御子の栄光が現される出来事であることになります。この福音書においては、パレスチナの一隅で起こったあのイエスの十字架の出来事が、全宇宙《コスモス》の根底を成している方の栄光が現れる出来事となります。イエス・キリストの十字架・復活は、まことに壮大な宇宙論的な規模の意義をもつ出来事となります。

残していく者たちへの祈り

 「あなたが世からわたしに与えてくださった者たちに、わたしはあなたの御名を示しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは彼らをわたしに与えてくださり、彼らはあなたの言葉を守りました」。(六節)

 いよいよ「イエスの時」が来て、その「時」を前にしてイエスはご自分のために祈られました(一〜五節)。それに続いて、イエスは地上に残される弟子たちのために祈られます。この弟子たちのための祈り(六〜一九節)と、将来弟子たちの証言を聞いてイエスを信じるようになる者たちのための祈り(二〇〜二六節)が、イエスの最後の祈りの本体部分となります。イエスの最後の祈りは、わたしたちのための執り成しの祈りとなります。これは、「キリスト・イエスが、神の右にいまして、わたしたちのために執り成してくださっている」(ローマ八・三四)と叫んだパウロの言葉を詳しく展開する内容となります。
 このイエスの祈りは、ヨハネ共同体が御霊による復活者イエスとの交わりにおいて、復活者イエスが自分たちのために祈ってくださっていると理解するところを、地上のイエスの最後の祈りとして書きとどめたものです。ここではイエスに関する伝承が用いられるのはごく僅かで、ヨハネ共同体を代表する著者の霊的理解が全面的に現れています。これは、ヨハネ共同体が受けとめているキリスト・イエスの本願です。キリストはわたしたちのためにこのように願い、このように実現することを神に祈ってくださっているのだ、という信仰によってヨハネ共同体は生きているのです。それは現代のわたしたちも同じです。
 ヨハネ共同体は、自分たちを決して自分の意志や力でキリスト・イエスに所属している者であるとは考えていません。もともと神の所有であり、神が御自分に属する者をキリストに与えてくださったから、今自分たちはキリストに所属する者となっているのだという自覚です。それは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(一五・一六)という御言葉にも表れています。わたしたちがキリストに所属する根拠は、わたしたちにはなく、ただ神とキリストの側だけにあります。
 そして、キリスト・イエスは父から自分に与えられた者たちに、父がどのような方であるのか、その本質を知らされました。それが「わたしはあなたの御名を示しました」と表現されています。名は本質を指し示す言葉です。「御名を示す」とは、先に「あなたの栄光を現しました」と言われていたのと同じく、イエスの働きと言葉によって、父がどのような方であるかを啓示されたことを指します。
 イエスは父から自分に与えられた者たち(弟子たち)に御名を示されました。それを受けて、「彼ら」すなわち弟子たちは、イエスから聴いた父の言葉を「守りました」。この「守る」《テーレオー》は、本来「監視する」とか「(失うことなく)保持する」という意味ですが、そこから戒めを「順守する」という意味にも用いられる動詞です(英語ではobey よりも keep に近いでしょう)。ここでは、キリストの民はイエスから聴く父のお言葉を、常に注意深く見守り、それを見失うことなく自分の内に保持し、それに従って生きるという広い意味で用いられています。このような意味で御言葉を「守る」ことが、ヨハネ共同体が自覚する自分たちの姿です。それはまたわたしたちの姿でなければなりません。

 「今や彼らは、あなたがわたしに与えてくださったものはみな、あなたから来たものであることを悟りました」。(七節)

 「彼ら」は弟子たちを指しており、ここはヨハネ共同体の自覚を表現しています。イエスの地上の働きが終わった今、弟子たち(ヨハネ共同体)はイエスがなさったこと、語られたことはすべて父から来たものであることを悟っています(動詞は現在完了形)。その理由が次節で述べられます。次節は「それは・・・・したからです」という形です。

 「それは、あなたがわたしに与えてくださった言葉を、わたしは彼らに与え、彼らは受け入れて、わたしがあなたのもとから来たのであることを本当に知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じたからです」。(八節)

 この福音書では、「知る」と「信じる」が並行して用いられています。イエスが父のもとから来られたことと、父がイエスを遣わされたことは同じことです。この福音書はこのことを繰り返し述べてきました。そのことをヨハネ共同体は「知り、かつ信じている」のです。ヨハネ共同体は、イエスが父から受けて語られた言葉を聴いてそれを受け容れたので、このこと(イエスが父から来られた方であること)を「知り」、その事実に基づいて生きているのです。それが「信じている」と表現されます。そのように「知り、かつ信じた」結果、今やイエスの地上の働きが終わるに当たって、イエスがなさったこと、語られたことはすべて父から来たものであることを悟るに至っているのです(七節)。

 「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにお願いするのではなく、あなたがわたしに与えてくださった者たちのためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」。(九節)

 このようにイエスの御子としての本質を知り、信じてその御子との交わりに生きている者たちのために、イエスは父に祈られます。原文では「わたし」が強調されています。これは、世を去るにさいしての祈りの形をとっていますが、実は今復活者イエスが神の右にあって祈ってくださっている執り成しの祈りです。
 この神の右にあって執り成される復活者イエスは、もはや「世のためにお願いするのではない」と言われます。では、復活者イエスは、ひいては神はもはや世を愛しておられないのでしょうか。そうではありません。「神は世を愛して、そのひとり子を与えてくださった」のです(三・一六)。 それだのに世はその「ひとり子」を拒んだのです。神の愛を拒んだのです。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(三・一七)のに、世はその御子を退けたのです。それで「信じない者は、神のひとり子の御名を信じなかったから、すでに裁かれている」ことになります(三・一八)。裁きはすでに行われました。信じないことによって裁かれた世は、もはや復活者イエスの執り成しの対象ではなく、自分の罪の中に放置されています。
 このように罪の中に放置された「世」とは、ここでは御子であるイエスを明確に拒否し続けているユダヤ教会堂を指しています。彼らがイエスを拒否し続ける限り、彼らは裁かれた者であり、復活者イエスの執り成しの対象ではありえません。ヨハネ共同体は、もはやその救いを祈ることもないほど、ユダヤ教会堂と対立し断絶しています。イエスは、世から憎まれ迫害されるご自分の者たちのために父に祈られます。世から憎まれ迫害されているキリストの民(ここではヨハネ共同体)は、神に所属する民、神の栄光を表すべき民なのですから、彼らがしっかりと立つように、復活者イエスは父に祈り求められます。

この福音書で「世」は、文脈によってはしばしばユダヤ教会堂を指しています。そのことについては、124頁の「特注―ヨハネ福音書における世」を参照してください。

 「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らの中で栄光を受けました」。(一〇節)

 ここの「わたしのもの」とか「あなたのもの」は、(文法的には中性複数形ですが)前後の文脈からすると、「あなたのもの」であったが「あなたがわたしに与えてくださった」ので「わたしのもの」となった「者たち」(前節)を指していると理解すべきでしょう。それは「彼らの中で栄光を受けました」という文で確認できます。
 イエスは、本来彼のものであるイスラエルの民から拒まれました(一・一一)。ただ、父がイエスに与えられた民(イエスを信じた者たち)の中で、御子としての栄光を賛美される方となられました。

御名による守り

 「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世に残り、わたしはあなたのみもとに参ります。聖なる父よ、あなたがわたしに与えてくださった御名によって、彼らを守ってください。それは、彼らもわたしたちのように一つになるためです」。(一一節)

 イエスは世を去るにあたり、世に残される弟子たち、「わたしのもの」である弟子たちのために、父に祈り求められます。その祈りは、「あなたがわたしに与えてくださった御名によって、彼らを守ってください」という祈りです。その祈りは直訳すると、「あなたがわたしに与えてくださったあなたの名の中に(または、名によって)、彼らを守ってください」となります。
 それは、父が子であるイエスの中に現された絶対的な恩恵と信実によって、イエスの民が守られるようにという祈りです。わたしたちは自分の力で世と戦い勝利することはできません。自分の力が果てるところで、ただ御子イエス・キリストに現れている父の無条件絶対の恩恵と信実だけを拠り所として、キリストに属する者としての命、神の子としての歩みを全うすることができるのです。この消息を身をもって知っているヨハネ共同体は、その消息を自分たちに対するイエスの祈りとして書き記します。
 その祈りはさらに驚くべき境地にまで進みます。イエスは「彼らもわたしたちのように一つになる」ように祈られます。この「わたしたち」は父と子であるイエスを指しています。「わたしたちのように彼らが一つになる」というのは、父と子であるイエスが一体であるように、弟子たちが一体となるようにという祈りです。これはイエスにおいて実現している父と子の一体性が弟子たちにおいても実現するようにという祈りです。
 「彼らが一つになるように」という祈りは、二つの意味が考えられます。一つは、「すべての人が一つになること」、すなわち、あらゆる人間の差別が乗り越えられて、妨げられることのない交わりが弟子たちの共同体の中に実現することという意味です。すこし後の二〇〜二三節ではこのような意味で「一つになる」ことが祈られています。もう一つは、人としてのイエスが父と一つになって生きられたように、地上の弟子たち一人ひとりがイエスのように父と一つになって生きるようになることという意味です。ここでは、世に残される弟子たちが守られるように祈られているという文脈の中での祈りとして、後の意味、すなわちイエスにおいて実現している父と子の一体性が弟子たち一人ひとりにおいて実現することを祈っておられると理解すべきです。
 イエスが子として父と一つになって歩まれたように、わたしたち一人ひとりが父と一つになって歩み、それによって「父の名の中に」守られて、世に打ち勝ち、命を全うすることができるように、イエスは祈られるのだとされます。しかし、わたしたちがイエスのように父と一つになって生きるというようなことは可能なのでしょうか。すkくなくともヨハネ共同体は、それが可能であることを体験し、そのような父との一体性の中に歩んでいます。そのことは、「その日には、わたしがわたしの父の内におり、あなたたちがわたしの内に、そしてわたしがあなたたちの内にいることが分かるであろう」(一四・二〇)というイエスの言葉で言い表されています。
 「その日には」というのは、聖霊が来られて内にいてくださるようになる時のことを指しています(一四・一七)。聖霊が来たりたもうて、復活者イエスの栄光を現してくださるとき、わたしたちは復活者イエスが父の内におられること、すなわち父と一つの方であることを知ります(見ます)。そして同時に、わたしたちが復活者であるキリスト・イエスに捉えられ、その方と結ばれており、その方の内にいることを悟ります。わたしたちは「キリストの中に」あります。その場の外では生きられません。同時にそれは、キリストがわたしたちの内にいてくださることであると悟ります。ヨハネ共同体は、パウロが「わたしはキリストの内にある」、「キリストがわたしの内に生きておられる」と叫んだ、その現実に生きており、それをこの言葉で言い表したのです。このように父と一つである復活者イエスにわたしたちが合わせられることによって、わたしたちも父と一つであるという境地が実現することになります。
 わたしたちが父と一つであるという境地は、実際にはわたしたちの子としての歩みの中に具体的に現されます。イエスも子としての歩みを「山上の説教」で言い表されました。「山上の説教」は、わたしたちに与えられる命令ではなく、子としてのイエスの告白です。子として恩恵の場に生きるとはどういうことかを、イエスは直截に言い表し、同じように子として生きるように励ましておられるのです。「彼らもわたしたちのように一つになる」ようにという祈りは、このような形で実現します。

マタイ福音書五〜七章のいわゆる「山上の説教」は、高度の倫理を要求する説教ではなく、子として生きるイエスの告白であり、父の恩恵の場の告知であることについては、拙著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』を参照してください。

 「わたしが彼らと一緒にいる間は、あなたがわたしに与えてくださった御名により、わたしが彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子の他は、彼らの中の誰ひとり滅びませんでした。それは、聖書が成就するためです」。(一二節)

 イエスが世におられる間は、イエスがご自分に属する者たちを敵対する勢力から守られました。それで誰も滅びることはありませんでした。すなわち、神との関わりから落ちて、神からの命を失うことはありませんでした。ただし、一人だけ「滅びの子」が滅びました。
 それはイスカリオテのユダを指します。ヨハネ共同体は、十二人の中の一人であるイスカリオテのユダがイエスを裏切たことを知っています(六・七一)。イエスが選び、イエスが守られた弟子の中からイエスを裏切り、死に追いやった者が出たという矛盾は、イエスをメシア・キリストと宣べ伝える初期の教団にとっては重荷でした。この重苦しい事実を、著者はユダを「滅びの子」、初めから滅びに定められた人間と呼び、そのような「滅びの子」が弟子の中に紛れ込んで、メシアであるイエスを裏切ることになるのは、「聖書が成就するため」であるとします。すなわち、それがキリストであるイエスによって神の御計画が実現するための御計画の中にあることだからそうなったのだとします。

 「しかし今、わたしはあなたのもとに参ります。世にいる時にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼ら自身の中に満ち溢れるようになるためです」。(一三節)

 前節のイエスが世におられる時と対比して、イエスが世を去られた後にご自身に属する者たちを守られる仕方が語られます(一三〜一五節)。世を去る前にこのことを語るのは、それを聞いておいたことによって、弟子たちがイエスがおられなくなった時に、お語りになった通りだと、神の護りの中にあることを確信することができ、その結果平安の中にとどまり、イエスが父との交わりの中でもっておられる喜びが満ち溢れるようになるためです。
 この「喜びが満ち溢れるようになる」ことについては、先にも語られていました(一六・一六〜二四)。ここではその喜びが「わたしの喜び」と表現されています。聖霊による喜びは、内から溢れる命の充満であり、それはイエスが父との交わりの中で味わっておられた喜びです(ルカ一〇・二一)。復活者イエスに属する者が味わう喜びは、世が与える喜びではなく、外から受ける苦しみの中で、外の状況とは関わりなく聖霊によって内から溢れる命の充実感です。

 「わたしは彼らにあなたの言葉を与えました。すると、世は彼らを憎みました。わたしが世からのものでないように、彼らも世からのものでないからです」。(一四節)

 イエスが「わたしは彼らにあなたの言葉を与えました」と言われるとき、それはイエスが世におられるとき弟子たちに教え語られた言葉だけではなく、イエスの生涯の出来事全体が神の言葉だという意味です。たしかにイエスは父から聴いたところを弟子たちに語り伝えられました(八・二六)。しかし、それだけではありません。イエスが世に現れ、「神の国」を宣べ伝え、十字架につけられ、復活して今も働いておられるという出来事全体が、イエスが世界に与えられた神の言葉です。そのことをヨハネは、「言(ことば)は肉と成って、わたしたちの間に幕屋を張った」と表現しました(一・一四)。
 その言葉が与えられたとき、世界は二分されました。その言葉を受け容れて「守った」(六節参照)者たちと、その言葉を拒否した者たちです。その言葉を「守った」者たちは、キリストの民となり、新しい神の民を形成します。彼らには神の言葉が与えられました。それに対して、拒否した者たちには神の言葉は与えられなかったことになります。拒否した者たちは「世」と呼ばれ、キリストの民を憎みます。神の言葉を与えられた者たちと、与えられなかった者たちの間には、超えがたい淵が横たわり、世は自分と違う原理で存立する民、すなわち神の言葉によって生きる民を憎みます。
 イエスは地に属する方ではなく、天から来られた方です(三・三一)。このイエスに属する民は、地(世界とか歴史)に属するのではなく、天(終末)に属する民です。キリストの民と世の対立と断絶は、この福音書の主要な主題の一つです(一五・一八以下)。それがここでも繰り返されます。

 「わたしがお願いするのは、あなたが彼らを世から取り去ることではなく、悪しき者から彼らを守ってくださることです」。(一五節)

 世から憎まれ苦しみを受けているからといって、ヨハネ共同体は世から「取り去られること」を願ってはいません。世にあって戦い、世に打ち勝ち、主イエス・キリストの栄光を世に現すことを祈り求めています。その祈りをイエスご自身の祈りとして、このように書きとどめます。
 イエスは世にあつて戦う者たちのために、「悪しき者から彼らを守ってください」と祈られます。この祈りは、「主の祈り」の中の「悪しき者からわたしたちをお救いください」という祈りと、内容は同じです。わたしたちに祈るように教えられた祈りが、ここではイエスご自身によって祈られていることになります。警戒すべきは、外から来る苦難よりも、内に働く「悪しき者」(神に敵対する霊的勢力)の策略です。それに欺かれて、自分たちの存立の基礎である御言葉を疑ったり、それを見失うならば、わたしたちも世の一部となり、命と栄光から墜ちてしまいます。

ここの「悪しきもの」は、中性名詞として「悪」と理解することも、男性名詞として「悪しき者」と読むこともできますが、「主の祈り」の場合と同じく、ここでも悪の根源としての霊的人格存在を指していると理解して、「悪しき者」と訳しています。ここには、ヨハネ共同体がイエスの語録資料を知っていた痕跡があるのかもしれません。

真理による聖別

 「わたしが世からのものでないように、彼らも世からのものではありません」。(一六節)

 ヨハネ共同体は、自分たちが世にある在り方を、イエスと世との関係によって根拠づけます。イエスが世から出た方ではなく、世に属する方でないのですから、イエスに属する自分たちも世から出た者ではなく、世に属する者でないことを自覚しています。ヨハネ共同体は、自分たちが世とはまったく別の原理で存在している者であることを自覚しています。世とは峻別された違う在り方が、ここ(一六〜一九節)で「聖別」という用語で語られます。

 「真理によって彼らを聖別してください。あなたの言葉が真理です」。(一七節)

 ここと一九節に「聖とする」という意味の動詞が繰り返されています。この動詞は「清くする」と訳すこともできます。しかし、濁り(穢れ)を取り除いて清くするというよりは、世俗の使用から取り出して神の用だけに捧げるという元の意味に理解して、「聖別する」と訳します。ここでは「神に捧げる」という意味で用いられています(新共同訳参照)。
 イスラエルでは神を礼拝するために定められた祭儀を執り行うにさいして、それを行う人間も器具も世俗の用から清め別たれて神の用に捧げられなければなりませんでした。そのことが旧約聖書の出エジプト記やレビ記で「聖別する」という語で繰り返し語られています(たとえば出エジプト記二九章、レビ記八章など)。
 旧約聖書では、人や器を聖別するとき、特別の油が用いられました(出エジプト記三〇・二二〜三三)。新約においては、人を聖別するのは聖霊の油です。人を世から切り離して、神に属する者とし、神のご用に用いられるようにするのは、聖霊の働きです。しかし、ヨハネはこのことを「真理によって聖別する」と表現します。ヨハネにおいては「御霊と真理」は一体です。わたしたちは「御霊と真理によって神を礼拝しなければならない」のです(四・二四)。御霊は「真理の御霊」です(一五・二六)。ヨハネがここで「真理によって」聖別するという表現を用いたのは、聖別する働きよりも聖別の内容とか結果の視点から語っているからだと考えられます。わたしたちは御霊の働きによって聖別された結果、真理に導き入れられ、真理に生きる者となります。この状態を「真理によって(または、真理にあって)聖別された」と表現したと考えられます。
 では、真理とは何か、真理はどこにあるのかというと、ヨハネ福音書においては神の言葉こそが真理です。神が御子であるイエス・キリストによって語られた言葉こそ真理です。この神の言葉を守ること、この言葉にとどまるのが「真理によって聖別された」生となります。

 「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」。(一八節)

 先に(一六節で)ヨハネは自分たちが世からのものでなく、世に属するものでないことを強調しました。しかし、キリストの民は世から取り出されて、もはや世に属するものでないのと同時に、世に遣わされたものであり、世にあって、世の救いのために真理の証人として存在していることを自覚しています。その自覚をこのイエスの祈りの形で表明します。イエスが父から世に遣わされて使命を果たされたように、自分たちも世に遣わされたものとして使命をはたさなければなりません。キリストに属する者は、世から取り出された者であると同時に、世に遣わされた者です。これがキリスト者の往相と還相です。

 「彼らのためにわたしは自分自身を聖別します。彼らも真理によって聖別された者となるためです」。(一九節)

 ご自分に属する民が「真理によって聖別された者となるため」に、イエスはご自身を聖別されます。すなわち、ご自身を神のご用のために捧げ尽くされます。イエスの場合、「多くの人の贖いのために」自分を捧げることが、神のご用に身を捧げることでした。イエスは「十字架の死に至るまで」父の御旨に従い、そのご用(使命)を果されました。ですから、もしわたしたちが「真理によって聖別された者」とならないならば、イエスの死は無駄死にだったことになります。著者にとって「真理によって聖別される」こと、すなわち世から取り出されて、神の言葉という真理に生きるようになることが信仰の目的となる重大事です。

皆が一つになるように

 「彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる者たちのためにもお願いします」。(二〇節)

 ここの「彼ら」は、この最後の食事の席でイエスから「訣別遺訓」を聞いている弟子たち、後に「使徒」と呼ばれるようになる弟子たちを指しています。ここまでイエスはこの弟子たちのために祈ってこられました。ここでイエスの祈りは、視野を広げて、「彼らの言葉によってわたしを信じる者たち」に向かいます。それはヨハネ共同体の祈りが視野を広げることです。イエスの祈り(すなわちヨハネ共同体の祈り)は、使徒たちの宣教の言葉によって、イエスを復活者キリストと信じるようになる者たち、すなわち、使徒以後のすべての世代の信仰者の群れのための祈りとなります。
 イエスの身近にいてイエスの言葉を直接聴き、イエスの働きを目撃した弟子たちが、復活者イエスによって使徒として派遣され、世界にイエスを復活者キリストとして宣べ伝えました。現代のわたしたちを含め、直接イエスに接したことのない者はみな、「彼らの言葉によってわたしを信じる者たち」となります。わたしたちはみな、使徒たちが伝える言葉を受け容れてイエスを信じているわけです。そして、使徒たちの証言は新約聖書に流れ込み、代々の世代に文書として伝えられています。わたしたちが新約聖書を信仰の拠り所とするのは、それが使徒たちのイエス・キリスト証言であるからです。
 新約聖書の成立過程は複雑で、その内容がすべて使徒たちの証言であるとは言い切れません。彼らの証言が伝えられ文書とされていく過程で、解釈や編集によって改変された部分もあります。しかし、新約聖書は全体として使徒たちのキリスト証言であるという本質は保持しています。使徒以後の時代にイエス・キリストを語る文書が数多く書かれましたが、初期の信徒たちの共同体は、その中から使徒の証言を伝えていると確信できる文書を選んで、自分たちの信仰の拠り所また基準として受け容れました。それが正典としての新約聖書です。今わたしたちはこの新約聖書によって使徒たちの言葉を聴き、それによってイエス・キリストを信じています。そしてその信仰は、新約聖書を生み出した聖霊ご自身がわたしたちの内にあって、真理であることを保証してくださっています。

 「それは、皆が一つになるためです。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、あなたがわたしを遣わされたことを、世は信じるようになります」。(二一節)

 使徒たちは福音を全世界に伝えるように命じられています。使徒たち(および使徒たちから受けて伝える者たち)が伝える福音の言葉を聴いてイエス・キリストを信じるようなる民は、将来世界の諸民族に及び、様々な文化や宗教の民がキリストの民となるはずです。ここの「皆」は、文化や宗教が異なる世界の諸民族が含まれることになります。ヨハネ共同体は、このような様々な文化や宗教の諸民族がその違いを乗り越えて、キリストにあって一つの民となるように祈り、それを自分たちの内にいますイエスの祈りとして表現します。共同体の悲願はキリストの本願の表現です。
 違った文化や宗教の民が一つになることができる根拠として、父と子であるイエスとの一体性が再び取り上げられます。父がイエスの内におられ、イエスが父の内におられるように、イエスを信じる民も、同じイエス・キリストの内にいて、同じイエス・キリストに結ばれ、同じキリストの命に生きることによって、文化と宗教の違いを超えて、一つの民であることを実現することができます。父とキリストとの一体性が、民の間の一体性の根拠となります。
 文化と宗教の違いを超えるということは、文化や宗教の違いがなくなり、みな同じ文化、同じ宗教になるということではありません。それぞれの文化や宗教の中にありながら、同じキリストの命に生きるゆえに、人間としての愛の交わりを形成することです。そのときそれぞれの文化や宗教はその個性をいっそう美しく発揮して、お互いの間で補い合い助け合う関係が形成されます。
 そのさい、ともすれば自己を絶対化しがちな宗教も相対化されることが必要です。文化であれ宗教であれ、自己を絶対化して他に力をもって押しつけるときは、「皆が一つになる」ことはとうてい不可能であり、そこには対立と争いと戦いがあるだけになります。キリスト信仰が文化や宗教を相対化して、世界の諸民族を愛の共同体に結び合わせる力となるとき、世界はイエス・キリストが唯一のまことの神から世界に遣わされた方であることを知るようになります。

キリスト信仰は、キリスト教をも含めて「宗教」を相対化するものであることについては、拙著『教会の外のキリスト』終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。

 「あなたがわたしに与えてくださっている栄光を、わたしもまた彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」。(二二節)

 ここで、この祈りの最初に出てきた御子であるイエスの「栄光」(一〜五節)が、民の一体性の根拠として再登場します。父はイエスに子としての栄光をお与えになりました。イエスは神の子として、神の命と本質を内に輝かす方とされました。それをパウロ(コリントU四・六)は「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光」と呼び、コロサイ書(二・九)は「キリストの内に見える形で宿る、満ち溢れる神性」と表現しています。
 その「栄光」をイエスは「彼ら」、すなわち使徒たちの宣教の言葉を受け容れてイエスを信じているご自分の民にお与えになりました。わたしたちもその「栄光」を与えられているのです。わたしたちも、イエスが父から受けておられる神の子としての命と神性を宿す者とされているのです。このことはパウロも、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(コリントU四・六)と言っています。同じ栄光の光がわたしたちの内にも輝いているのです。「栄光から栄光へと変容されている」(コリントU三・一八)のです。
 このようにわたしたちにも神の子の栄光が与えられているのは、イエスが子として父との一体の交わりの中におられるように、わたしたちも父との一体性にあずかることによって、お互いの間の一体性を実現するためです。先に(一一節の講解で)見たように、「一つになる」には二つの意味(一人ひとりが主と一体となることとお互いが一体となることの二つ)がありますが、その二つの意味がここでは「栄光」を介して一つに溶け合っています。

 「わたしは彼らの内におり、あなたがわたしの内にいてくださるのは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたのであり、わたしを愛されたように彼らを愛されたことを、世が知るようになるためです」。(二三節)

 ヨハネ共同体は自分たちの内に復活者イエスが生きて働いておられることを知りかつ信じています。そして、その復活者イエスの内には天地の創造者であり完成者である父がご自身を現しておられることを信じています。このような父と子である復活者イエスと自分たちの三者を貫く一体性は聖霊によって実現しているものであることも、体験によって知っています。そしてこのような一体性が目指す目標は、「彼ら」すなわちキリストの民が「全うされて一つとなる」ことであると自覚しています。
 この「全うされて一つとなる」という表現には神秘主義的な響きがあります。この「全うする」という動詞は、他ではあまり用いられていませんが、ヘブライ書の著者がよく用い、ヨハネもかなりよく用いています(両者では意味合いが少し違うようですが)。ヨハネではコロサイ書やエフェソ書が「充満」と呼んだ事態と同じであると考えられます。このパウロ名書簡の著者たちは、神性の充満体であるキリストが宿ってくださり、そのキリストに満たされることによってキリストの民であるエクレーシアが一体となって完成されることを目指しました。それと同じことをヨハネはこのように表現していることになります。
 このようにキリストの民が「全うされて一つとなる」事態が地上に実現するときに初めて、世界はイエスこそ唯一の神である父から世に遣わされた方であることと、その父がイエスとイエスを信じる民を愛されたことを認識するに至るのです。昔キリスト教徒を迫害したローマ帝国がついにキリスト教を国教とするまでになるのは、キリスト教徒がどのような苦難の中でも互いに一つになって愛し合う姿に衝撃を受けたことが重要な要因であったとされています。逆に、キリストの民がそのように「全うされて一つとなる」ことなく、互いに争い、戦争までするようでは、昔の預言者が言ったように、「わたしの名はあなたたちのゆえに、諸々の民の間で汚される」ことになります。

結びの祈り

 「父よ、あなたがわたしに与えてくださった者たちのことで、わたしがいるところに彼らもまたわたしと一緒にいるようにしてくださることを願います。それは、世界の基礎が置かれる前に、あなたがわたしを愛して与えてくださったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」。 (二四節)

 子の栄光を求める祈り(一〜五節)で始まった「イエスの最後の祈り」は、世に残されるイエスの民への執り成し(六〜二三節)の本体部を経て、その民が復活者イエスと同じ場所にいるようになり、復活者イエスが「世界の基礎が置かれる前に」持っておられた栄光を見るようにという壮大な祈り(二四〜二六節)で結ばれます。  
 このヨハネ福音書一七章の「イエスの最後の祈り」は、これまでも見てきたように、実はヨハネ共同体の祈りです。ヨハネ共同体は、このような自分たちの悲願(命がけで祈り求めないではおれない切実な願い)は復活者イエスが自分たちのために父に願ってくださっている祈り、すなわちキリストの本願に他ならないとして、このようにイエスの祈りという形で書きとどめたのです。その祈りの結びの位置にあるこの節の祈りには、ヨハネ共同体が御霊によって到達している高い霊的境地が告白されています。その境地とは、同じ霊的次元において復活者イエスと一緒にいて、その栄光を見ることによって栄光を共にするという境地です。その境地は自分たちの悲願、キリストの本願という形で言い表されていますが、御霊によって何ほどかでもそのような境地に現にいるからこそ出てくる祈りです。それは、パウロが「キリストにあって」という句で告白している境地であり、苦難の中で祈り待ち望んだ栄光です(ローマ八・一七)。
 ここでヨハネ共同体が見ている復活者イエスの栄光が、「世界の基礎が置かれる前に、あなたがわたしを愛して与えてくださったわたしの栄光」と表現されています。ヨハネ共同体は、復活者イエスが「世界の基礎が置かれる前に」神的栄光をもって神と共におられる方であると認識しています。すなわち、ヨハネ共同体はキリストを「先在のキリスト」と認識し告白しているのです。著者はその告白をもってこの福音書を書き始めました(一・一〜三)。この認識は一朝一夕に出来上がったものではなく、数十年にわたる最初期の福音宣教の歴史の中で形成され、その最後の時期(おそらく一世紀末)に位置するヨハネ福音書において明確な形をとるに至った信仰告白です。

 「義である父よ、世はあなたを知りませんでしたが、わたしはあなたを知りました。そしてこの者たちは、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。わたしは彼らにあなたの名を知らせましたし、これからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らの中にあるようになるため、また、わたしが彼らの中にいるようになるためです」。(二五〜二六節)

 「義である父」という表現は、ヨハネ福音書ではここだけです。大体この福音書は「義」ということを殆ど問題にしていません。「義」という用語も出てきません(一六・八〜一一だけが例外です)。この点は、義を重要な主題として福音を語っているパウロと対照的です。同じように異邦人に福音を説くユダヤ人でありながらこのような違いが出てくるのは、ヨハネがパウロよりもさらに福音が異邦世界に進展した時期と段階に属すからでしょう。
 おそらく、ここで「義である父よ」と呼びかけられているのは、世が父を知らず、御子であるイエスだけが父を知り、その父をイエスは自分を信じた者たちだけに知らされたのは、父の正しいやり方であったという気持ちからでしょう。共観福音書では、父を知るのは子と、子が知らせる者たちだけであることが明言され、また父の奥義が世の知者たちに隠され、幼子のような者だけに示されたことが、「御心にかなったこと」と賛美されています(ルカ一〇・二一〜二四)。それと同じことを、ヨハネはここでこのような形で表現しているのでしょう。
 このように父がイエスを知る者たちだけに知らされたのは、父が子であるイエスを愛された愛が、イエスを信じる者たちの中にとどまり、父の愛の体現者である御子が信じる者たちの中にいてくださることが現実となるためです。このようにヨハネ共同体の悲願を表現する「イエスの最後の祈り」は、父の愛の体現者である御子イエス・キリストとの一体化を祈り求める祈りで結ばれます。

エピローグとしての一七章

 一七章の「イエスの最後の祈り」は、一章(一〜一八節)のプロローグ(序詞)と対応して、ヨハネ福音書の本体部分を囲み込むエピローグ(結び)となっているように思われます。一七章講解のはじめに述べたように、この祈りは「訣別遺訓」の結びとなっていますが、それだけでなく対話編としてのこの福音書本体の結びをなしているようです。
 福音書はここで終わっているわけではありません。これからイエスの十字架の死と復活の物語が続きます。地上のイエスの生涯を物語ることによって福音を提示するという福音書の本来の性質からして、一八章以下の物語は不可欠です。しかし、この部分(一八〜二一章)は、他の福音書と並行しており、ヨハネ福音書独自のものではありません。細部において違いがあっても、十字架の死と復活の物語は基本的に同じです。それに対して、一章から一七章までの部分は、永遠の命を主題とする復活者イエスとの対話編を形成しており、この福音書だけの独自のものです。それがこの福音書の本体部分をなしています。
 対話編としてのこの福音書の本体部分は、大きく一章(一九節以下)〜一二章の第一部と一三章〜一七章の第二部に分かれます。第一部ではおもに世に向かって、とくに反対者に向かって、対話と長い説話によって、復活者イエスが父から来た者としてご自分の本質を啓示し、また世に与えようとされる永遠の命を提示しておられます。第二部では弟子たちだけとの対話になり、内輪の弟子たちに命の奥義が解き明かされています。そして、この第二部の最後に一七章のイエスの祈りが来ます。
 たしかに第一部には一二章(四四〜五〇節)のまとめの記事がありました。そして、この一七章の祈りは弟子たちへの「訣別遺訓」の結びとなっています。しかし、本体部分の最後にあるという位置とその内容からすると、著者はこのイエスの祈りをもって、本体部分全体の結びとしているように感じられます。この祈りは第一部と第二部の内容全体を要約し、それをイエスの最後の言葉とすることによって、対話編全体へのエピローグ(結び)としています。
 著者は、ヨハネ共同体で用いられているキリスト賛歌に手を加えて、世界が存在する前に神と共におられた先在のロゴス・キリストの栄光を賛美し、その先在のキリストが「肉と成って、わたしたちの間に幕屋を張った」方がイエスであると、プロローグで謳いました(一・一〜一八)。いわば幕が開く前に、これから舞台に登場する主人公の隠された本質を予示する序曲を置いて、イエスの物語を始めたわけです。そして、本体の対話編全体で、繰り返し繰り返しイエスが父から来られた方であることを述べ、その方を信じることが永遠の命であると宣言してきました。
 今イエスが地上での働きを終えて父のもとに帰ろうとされるにあたって、その働きの意義を総括する言葉を、イエス自身の祈りの言葉として書き記します。いわばまさに幕が下りようとする最後のフィナーレの場面で、死に直面している主人公自身が自分の生涯と働きの意義を吐露して祈るのです。
 この最後の祈りがエピローグとしてプロローグの序詩と対応していることは、この祈りの最初の部分(一七・一〜五)によく出ています。ここで改めてイエスが父から遣わされた子であること、この方を知ることが永遠の命であることが宣言され、この方が世界の存在の前から神と共にもっておられた栄光が現れるように祈られています。
 しかし、エピローグはプロローグとは違い、イエスの働きの結果を見ています。イエスの側にはイエスを信じた弟子たちがいます。今イエスを信じている弟子たち、そして彼らの言葉によってイエスを信じるようになる者たちのために、イエスはご自身の働きの目的が成就するように祈られます。この執り成し(一七・六〜二三)がこの祈りの本体となりますが、その目的とは「わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなる」ことです。イエスが子として父と一つであるように、わたしたちも御霊によって霊なるキリストと一つになり、それによって子として父と一つなる交わりに生き、すべての者があらゆる相違を超えて一つとなることです。
 こうしてこの祈りは、わたしたちが復活者イエスのおられるところにいることができ、そこでイエスが「世界の基礎が置かれる前にもっておられた栄光」を見るようにという壮大な祈りで結ばれます(一七・二四〜二六)。こうしてわたしたちが復活者イエスと結ばれ、父との交わりに生きるようになるとき、プロローグの「わたしたちは彼の栄光を見た。父のひとり子としての栄光であって、恩恵と真理に満ちていた」(一・一四)という告白が成就します。