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第一六章 世に勝つ信仰

       ―― ヨハネ福音書 一六章 ――




第一節 真理の霊

54 真理の霊( 16章 4b〜15節 )

 4b 「これらのことを初めから言っておかなかったのは、わたしがあなたたちと一緒にいたからである。 5 今わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしているが、あなたたちの中に、どこへ行かれるのですかと尋ねる者はない。 6 むしろ、これらのことをわたしがあなたたちに語ったので、悲しみがあなたたちの心を満たしている。 7 しかし、わたしはあなたたちに本当のことを語っているのだが、わたしが去っていくことはあなたたちに益となるのだ。わたしが去っていかなければ、同伴者があなたたちのところに来ることはないが、わたしが行けば、わたしはあなたたちに同伴者を遣わすことになるからである。8 その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、その方は世を糾弾することになる。 9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、 10 義についてとは、わたしが父のもとに去って、あなたたちがもはやわたしを見なくなること、 11 裁きについてとは、この世の支配者が裁かれてしまっていることである。
 12 あなたたちに話しておくべきことはまだ多くあるが、今はあなたたちはそれに耐えることができない。 13 しかし、その方、すなわち真理の霊が来るときには、あなたたちをすべての真理に導き入れるであろう。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、来るべきことをあなたたちに告げることになるからである。 14 その方はわたしに栄光を与えるであろう。わたしのものから受けて、あなたたちに告げるからである。 15 父が持っておられるものはすべてわたしのものである。だから、その方はわたしのものから受けて、あなたたちに告げると言ったのである」。

イエスが去り、別の同伴者が来られる

 「これらのことを初めから言っておかなかったのは、わたしがあなたたちと一緒にいたからである」。(四節後半)

 「これらのこと」というのは、最後の食事の席でここまでに語られた、イエスが去って行かれて代わりに別の同伴者が来られることや迫害が来ること、とくに直前に語られたユダヤ教会堂からの迫害(一六・一〜四)を指しています。そのようなことは「初めから」、すなわちイエスが一緒におられる時には言われていませんでした。今、世を去って父のもとに行こうとして、「あなたたちと一緒にいる」ことができなくなる時が来たから、「これらのこと」を語るのだと、改めてこの訓話の状況が説明されます。一三章一節でなされていた、これがイエスの訣別の遺訓であるという状況が再確認されます。

 「今わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしているが、あなたたちの中に、どこへ行かれるのですかと尋ねる者はない。むしろ、これらのことをわたしがあなたたちに語ったので、悲しみがあなたたちの心を満たしている」。(五〜六節)

 一三章三六節や一四章五節では、弟子たちはイエスがどこに行かれるのかを尋ねたり問題にしたりしています。本来の訣別遺訓(一三〜一四章)と拡張部分(一五〜一七章)との間の不整合ということになりますが、拡張部分を加えた編集者は不整合を問題にしないで、この時の弟子たちの状況を「悲しみが心を満たしている」と描いて、これから語ろうとする「世に対する勝利」の前提とします。
 ここに描かれている弟子たちの状況は、実際には最後の食事の時の心境よりも、イエスの十字架刑直後の状況に近いのではないかと推察されます。弟子たちは最後の最後まで、すなわち最後の食事の時までも、師イエスのメシアとしての勝利を疑わず、いよいよイエスによって大いなる働きがなされて神の支配が実現すると、期待に満ちていたのではないかと思います。ところが、その直後イエスは目の前で逮捕され、十字架刑という最悪の形で処刑されてしまいます。その期待は幻滅に終わります。弟子たちはユダヤ教指導層とローマ総督の探索の目を逃れるために、隠れ家に閉じこもり、「戸に鍵をかけて」ひっそりと息をひそめています(二〇・一九)。その時には、イエスがどこへ行かれたのか問う気力もなく(復活して父のみもとに帰られるのだということは思い浮かびもせず)、落胆と悲しみに打ちひしがれていたのではないかと推察されます。
 このような状況を自ら体験した著者は、そのあと復活のイエスが現れてくださり、息を吹きかけてくださった、すなわち聖霊を与えてくださったことを体験し(二〇・二二)、それが世に対する勝利の力となっていることも体験しています。その勝利を語る言葉(説教)が、ここに訣別遺訓という形で入れられているのではないかと、わたしは推察します。

 「しかし、わたしはあなたたちに本当のことを語っているのだが、わたしが去っていくことはあなたたちに益となるのだ。わたしが去っていかなければ、同伴者があなたたちのところに来ることはないが、わたしが行けば、わたしは あなたたちに同伴者を遣わすことになるからである」。(七節)

 「本当のこと」の原語は《アレーセイア》(真理)です。訳語の統一という観点からは、「真理」と訳すべきでしょうが、ここでは以下に語ることが気休めや偽りでないことを強調するために用いられているので、むしろ一三節の「真理」と区別するために、日常的な句で訳しています。
 わたしが去ることをあなたたちは悲しんでいるが、本当のことを言うと、わたしが去っていくことはあなたたちに益となるのだ、とイエスは言われます(七節前半)。そして、「益となる」のはなぜか、その理由が続きます(七節後半)。イエスが去って行かれてはじめて、「別の同伴者」、いつまでも一緒にいてくださる同伴者が来てくださることになるからです。
 ここでイエスは「わたしはあなたたちに同伴者を遣わす」と言っておられます。すなわち、ここでは復活者イエスが《パラクレートス》である聖霊を遣わされると明言されています。ところが、一四・一六や一四・二六では、聖霊は父が遣わされるとされています。この二つの表現があるので、後の教義論争で、聖霊は父からだけ出るのか、それとも「御子からもまた」(ラテン語で「フィリオクェ」)出るのかが、東方教会と西方教会の間の大論争になりました(いわゆる「フィリオクェ」論争)。しかし、聖霊は父から出て、必ず御子イエス・キリストを通してわたしたちのところに来るのですから、御子の立場から表現すれば「わたしが遣わす」ことになります。「父から出る」も「御子から出る」も真理であって、一方に限定する必要はないはずです。

弁護人としての聖霊

 「その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、その方は世を糾弾することになる」。(八節)

 聖霊を指すギリシア語《ト・プニューマ》は中性名詞ですが、ここでははっきりと男性名詞を指す代名詞が使われています。それで「その方」と訳しています。著者は人物を指す男性名詞《ホ・パラクレートス》を念頭に置いて語っていると考えられます。
 「糾弾する」という動詞は、本来は「明らかにする」という意味の動詞です(三・二〇)。それから「指摘する」とか「確認させる」という意味(八・四六)、あるいは誤りや不正を明らかにして「糾弾する」という意味に用いられます。ここでは最後の意味で用いられていると理解してこう訳しています。
 この部分では「世」はおもにユダヤ教世界を念頭において語られているので、「世を糾弾する」は、罪と義と裁きという神と人間に関する基本的な理解について、ヨハネ共同体を異端者(間違っている者)として迫害するユダヤ教会堂の側が間違っていることを明らかにして、その迫害の態度を糾弾するという意味になります。
 こうしてこの場面は、ユダヤ教の法廷に異端者として訴えられているイエスを信じるユダヤ人信徒が、聖霊の働きによって訴えている側の誤りを糾弾するという、法廷劇の場面になります。したがって、ここの《パラクレートス》は、その語の狭い意味の「法廷弁護人」という姿で登場しています。それは、共観福音書で聖霊の働きとされていること(マルコ一三・九〜一一、マタイ一〇・一八〜二〇)のヨハネ版です。ここの「その方」の働きは、一般的な「同伴者」よりも「弁護人」という呼び方の方が適切となります。

 「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(九節)

 聖霊は「罪について、義について、裁きについて、世を糾弾することになる」のですが、その内容が以下の三節(九〜一一節)で説明されます。九節、一〇節、一一節はみな同じ構文で、「―について、〜すること」、または「―について、〜するから」という形をとっています。この《ホティ》で導かれる文を「〜すること」という名詞節と理解するか(塚本訳、新共同訳、岩波版)、「〜するから」という理由を示す副詞節と理解するか(協会訳、新改訳)、文法上は両方が可能です。前者の理解では、聖霊は「世の人々がイエスを信じないこと」を罪として糾弾する、という意味になり、後者の理解では、「世の人々がイエスを信じないから」糾弾するという意味になります。どちらをとっても内容的には大差はありません。ここでは「〜すること」と理解して訳しています。
 先にも述べたように、この部分では「世」はおもにユダヤ教世界を指しているので、「彼らがわたしを信じないこと」とは、ユダヤ人たちがイエスを神から遣わされた方であると信じないことを指しています。そして、イエスを信じるユダヤ人たちを罪を犯した異端者として裁判にかけ、会堂から追放したり殺したりしています。ところが、聖霊が働かれるところでは、聖霊はイエスの神の子としての栄光を啓示し、この神から来られた方に敵対することこそ罪の中の罪、究極の罪であることを明らかにします。
 このことがもっとも典型的に起こったのはパウロの場合です。パウロは律法に忠実で熱心な律法学者でしたので、イエスを信じる者たちが(パウロの立場から見て)律法をないがしろにするのを許すことができず、彼らを探索し、逮捕して裁判にかけ、罪ある者として断罪し、鞭打ちの刑などに処していました。ところが、ダマスコ途上で聖霊の激しい働きに接し、復活されたイエスに遭遇します。パウロは、復活者イエスの神の子としての栄光にひれ伏し、イエスを信じる者たちを迫害していたのはイエスを迫害したのであり、それは神に敵対していたことであることを示されます。この体験によりパウロは自分が「罪人のかしら」であると悟ります。

 「義についてとは、わたしが父のもとに去って、あなたたちがもはやわたしを見なくなること」(一〇節)

 神に敵対することが罪であるとすれば、その反対の神に喜ばれ受け入れられる人間の在り方が義です。その人間にとって根本的な義の本質について、聖霊はユダヤ教会堂が間違っていることを明らかにします。ユダヤ教は、義とは律法を順守することであるとしていました。その結果、イエスを律法に違反する異端者として処刑したのでした。ところが、神はイエスを復活させて、イエスこそ神の御心を行い、神に喜ばれる者として受け入れたことを公示されました。復活はイエスの義の確証です。
 ヨハネ福音書では「復活」という表現がイエスについて用いられることは少なく、ほとんどの場合「父のもとに行く(帰る)」という表現で語られます。ここでも「わたしが父のもとに去って行く」と表現されていますが、これはイエスが復活して栄光の座に上げられたことを指しています。このことによってイエスこそが義であると確証されたのです。
 ただ復活者イエスは、イエスを信じる者には見えますが、イエスを信じない者には見えません(一四・一九)。信じない者には、イエスの復活はただイエスが「もはや見えなくなる」だけのことでした。ここの「(イエスを)見なくなる」という動詞の主語は「あなたたち」となっていますが、この「あなたたち」はイエスが語りかけておられる弟子たちではなく(彼らにはイエスが見えています)、ヨハネ共同体が語りかけている相手の「信じない者たち」、すなわち対立するユダヤ教会堂を指すことになります。ここでもイエスの言葉が「継ぎ目なく」ヨハネ共同体の弁証の言葉に重なっています。

 「裁きについてとは、この世の支配者が裁かれてしまっていることである」。(一一節)

 「この世」(ユダヤ教)はイエスを裁いて処刑しましたが、そのとき実は、イエスを裁いた「この世(ユダヤ教)の支配者」が、義人を罪ありとして処刑するというその不義のゆえに神によって裁かれたのです。十字架の出来事は、実は「この世(ユダヤ教)の支配者」が神によって裁かれた出来事なのです。その裁きはすでに行われました(動詞は完了形)。著者はエルサレム神殿が崩壊したことを知っていますから、その事実がユダヤ教指導層に対する神の裁きの顕現であるとして、こう語ったのではないかとも考えられます(「支配者」が単数形であることについては後述)。
 聖霊をもたない「この世」(ユダヤ教)の指導者たちは、神殿の祭司たちも律法学者たちも、自分たちは律法に従って正しい裁きをしたと確信しています。イエスを処刑したのも、イエスを信じるユダヤ教徒を告発し裁いているのも、律法に従った正しい裁きであると確信しています。しかし、聖霊が働く場では、復活者イエスの栄光が見えていますから、イエスとイエスを信じて言い表す者を裁く行為自体が、神に敵対する行為として裁かれているのが見えています。
 ヨハネ福音書では「裁き」は終末のことではなく、現在すでに始まってます(三・一八〜一九)。神に属する者たちと神に敵対する者たちを「分ける」(《クリノー》する)ことが「裁き」《クリシス》です。復活者イエスを信じる者たちの中に働く聖霊が、現在すでに始まっている「裁き」を見させます。ヨハネ福音書では、光と命の領域と死と闇の領域が厳しく分けられていますが、それはこの「裁き」の結果です。

世と御霊

 ここまで、この遺訓が語られた状況(一六・二)に即して「世」とはユダヤ教会堂勢力を指すとしてその内容を見てきましたが、聖霊が「世」を糾弾するというこの箇所の言葉は、さらに広い射程を持っています。それは「この世の支配者が裁かれてしまっている」という表現にも示唆されています。
 「この世の支配者《アルコーン》」という表現は、典型的な黙示思想の用語です。「支配者《アルコーン》」は単数形です。著者ヨハネは、イエスとイエスを信じる者を迫害するユダヤ教指導者たちの背後に、《アルコーン》(支配者)と呼ばれる単数の霊的支配力を見ているのです。彼らを操るこの《アルコーン》は、ユダヤ教指導者たちだけでなく、この世界、この時代全体を支配する、神に敵対する霊的勢力です。この霊的支配力は「サタン」とも呼ばれます。神が支配される「来るべき世」が到来するまでは、この世界はこの《アルコーン》に支配されているというのが黙示思想の基本的な枠組みです。終わりの時に、この《アルコーン》は神に裁かれて滅び、神が支配される世(時代)が到来するというのが黙示思想の待望です。
 ところが、ヨハネはイエスの十字架において「この世の支配者《アルコーン》が裁かれてしまっている」と宣言します。十字架された姿の復活者キリストにおいて、サタンはすでに裁かれ、神の支配が始まっているのです。キリストにあっては、サタンの支配力は打ち破られ、御霊の命がすでに支配しているのです。ヨハネは黙示思想の用語を使っていますが、黙示思想は乗り越えています。
 しかし、キリストの外の「世」においては、なお「この世の支配者」が支配し、人々を「罪について、義について、裁きについて」盲目の中に閉じこめています。世界の人々は、キリストを拒否することが罪であるとは知りません。義の根源である復活者キリストを、見えないからといって無視しています。そして命の領域と死の領域が現に峻別されていることを知らず、死から命に移る道も知りません。
 世界の現実、歴史の現実を見ますと、その闇があまりにも深くて、どうすればよいのか途方にくれます。人間の知恵と努力ではどうしようもないと感じます。このような世の誤りを指摘し、無知を啓発して、世の人々を真理と命に導くのは「真理の御霊」、神の御霊だけです。キリストの民は世にあって、この御霊が働く場を確立することが使命です。

真理の御霊が来るとき

 「あなたたちに話しておくべきことはまだ多くあるが、今はあなたたちはそれに耐えることができない」。(一二節)

 弟子たちを世に残して去ろうとされるイエスは、弟子たちに語っておくべきことが山ほどあるのですが、その中のごく一部しか語ることができません。今語っても弟子たちはその言葉に「耐えることができない」からです。「耐えることができない」と訳した動詞は、もともと「担う」を意味する動詞です。イエスの言葉を担う力がない。与えられる啓示の言葉を理解し、受け入れ、それに従って苦難に耐えて生き抜く力がない、ということです。
 「あなたたちに話しておくべきことはまだ多くあるが、あなたたちはそれに耐えることができない」という文の(原文では)最後に、「今は」という語が加えられます。弟子たちが自分の理解と力で歩まなければならない今は、の意です。この「今は」によって、弟子たちの現状が、「真理の霊」が来て、すべての真理に導き入れてくださるという将来の時(次節)と対照されています。したがって、今この訣別遺訓で語られていることは真理のごく一部分であって、「すべての真理」は、「真理の霊」が来られて弟子たちを真理に導き入れてくださる時、御霊によって語る弟子たちの告白に待つことになります。この弟子たちの告白が新約聖書を形成します。

 「しかし、その方、すなわち真理の霊が来るときには、あなたたちをすべての真理に導き入れるであろう。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、来るべきことをあなたたちに告げることになるからである」。(一三節)

 イエスが去られた後、父のもとから遣わされる「別の同伴者」は、すでに「真理の霊」と呼ばれていましたが(一四・一七、一五・二六)、ここでそう呼ばれる理由が説明されます。すなわち、その「同伴者」は人を「すべての真理に導き入れる霊」であるからです。ヨハネ福音書における「真理」《アレーセイア》とは、御子イエス・キリストを知って、キリストにあって霊なる父との交わりに生きる霊的リアリティー(現実)を意味します。聖霊だけが人間をこのリアリティーに導き入れるのです。その意味で聖霊は「真理の霊」と呼ばれます。聖霊の働きなしでは、福音は人間の観念の領域に留まります。
 イエスも「わたしは自分から語っているのではない」と強調されました(五・一九、一四・一〇)。イエスは父のもとで聞いたことを語られました(八・二六、八・四〇、一五・一五)。この点で聖霊はイエスと同じです。聖霊は自分から語るのではなく、父のもとで聞かれたイエスから受けて語られる(次節)ので、真理を語る方であると保証されます。
 聖霊はイエスから受けて語られるのですが、その中でとくに「来るべきこと」を告げると言われていることが注目されます。ふつう「来るべき方」とか「来るべきこと」は、終末思想と黙示思想での定型句であり、終末の事態を指しています。では、黙示思想的な「終わりの日」のことを何も語らないヨハネ福音書において、「すべての真理に導き入れる」聖霊の働きとして、「来るべきことを告げる」とは何を意味するのでしょうか。
 ヨハネ福音書において「来るべき事態」とは、イエスが世を去られた後に到来する新しい事態、聖霊による神との交わりのリアリティー(現実)を指しています。そのことはすでに一四章(一五〜二〇節)で詳しく予告されていました。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(一四・一九〜二〇)という事態です。ヨハネは、イエスが去られた後に到来する事態、すなわち聖霊による復活者イエスとの交わりの現実こそ、預言者たちや黙示思想家が待ち望んだ「終わりの日」とか「かの日」の実現であるとするのです。ヨハネとその共同体にとっては、「終わりの日」はすでに到来しているのです。この点で、ヨハネ福音書は黙示思想を決定的に乗り越えています。

 「その方はわたしに栄光を与えるであろう。わたしのものから受けて、あなたたちに告げるからである」。(一四節)

 「真理の霊」である聖霊は、イエスが復活者キリストであり、神の本質をもつ御子であるという事実を啓示されます。これは、「聖霊によらなければ、だれも主イエス《キュリオス・イエスース》と言うことはできない」(コリントT一二・三)という、もっとも初期の基本的な信仰告白の延長上にあります。聖霊によってはじめて、わたしたちはナザレのイエスが《キュリオス》であり、神の栄光を体現する復活者キリストであることを、自ら体験した真理として告白することができるのです。
 聖霊は、預言をしたり異言で語らせたり癒したりして、驚くべき働きをされますが、聖霊の本来の使命は復活者キリストの御子としての栄光を信じる者たちの共同体に啓示することです。聖霊は復活者キリストから発する霊として、その方の栄光と本質を受けて、それを共同体に告げてくださいます。その働きは、最後の食事の席でイエスが語られる時から見て将来のことですから、動詞はみな未来形で語られています。

 「父が持っておられるものはすべてわたしのものである。だから、その方はわたしのものから受けて、あなたたちに告げると言ったのである」。(一五節)

 ここでも復活者イエスが神と一つに重なって語られるというこの福音書のキリスト論が繰り返されます。そして、ここで訣別遺訓における《パラクレートス》語録はすべて終わることになります。