市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第6講

第一四章 別の同伴者

       ―― ヨハネ福音書 一四章 ――




第一節 わたしが道である

48 イエスは父に至る道(14章1〜14節)

 1 「あなたたちは心を騒がせないがよい。神を信じ、わたしを信じなさい。 2 父の家には住まいが多くある。もしなければ、わたしはあなたたちのために場所を用意しに行くのだと言ったであろうか。 3 行って、あなたたちのために場所の用意をしたら、また来て、あなたたちをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいるところに、あなたたちもいることになる。 4 あなたたちはわたしが行くところに至る道を知っている」。
 5 トマスがイエスに言う、「あなたがどこに行かれるのか、わたしたちは知りません。どうしてその道を知ることができましょうか」。 6 イエスは彼に言われる、「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。 7 もしあなたたちがわたしを知ったら、わたしの父をも知るようになる。今からあなたたちは父を知るのだ。いや、父を見たのだ」。
 8 フィリポがイエスに言う、「主よ、わたしたちに父を見せてください。そうすれば、わたしたちは満足します」。 9 イエスが彼に言われる、「これほど長い間、わたしはあなたたちと一緒にいるのに、フィリポよ、あなたはわたしが分からないのか。わたしを見た者は父を見たのだ。どうしてあなたは、わたしたちに父を見せてくださいと言うのか。 10 わたしが父の内におり、父がわたしの内にいてくださることを信じないのか。わたしがあなたたちに語っている言葉は、自分から語っているのではない。父がわたしの内にいまして、御自身のわざをなしておられるのだ。 11 わたしは父の内におり、父がわたしの内にいますと、わたしが言うのを信じなさい。そうでなければ、わざそのものによって信じなさい。
 12 アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。わたしを信じる者は、わたしがしているのと同じわざをする。いや、これよりも大きなわざをするようになる。わたしが父のもとに行くからである。 13 また、あなたたちがわたしの名によって求めることは何でも、わたしがそれをする。父が子によって栄光をお受けになるためである。 14 あなたたちがわたしの名によって求めることは、わたしがそれをする」。

父の家

 最後の食事の席で、イエスは弟子たちの足を洗うという不思議な行動をされます。弟子たちにはイエスの行動の意味が分かりません。ただ不審に思い驚くだけです。食事の席でイエスが弟子の一人が裏切ると語り出されると、弟子たちはますます困惑し、どうしてよいか分からなくなります。イエスが「今や人の子は栄光を受けた」(一三・三一〜三二)と語られるとき、それがどういう事態を指しているのか理解できないでいます。弟子たちは最後の最後まで、イエスがエルサレムで大きな働きを成し遂げてメシアとしての栄光を現されると期待していますから、イエスが十字架上に刑死されることになるなど想像もしていません。ところが、イエスは「わたしが行くところにあなたたちは来ることができない」(一三・三三)と言われます。弟子たちはイエスの言葉の意味が分かりません。最後の食事の席での対話は、御霊の次元から語り出されるイエスと、そのイエスを理解することができない弟子たちとの間の深い淵を残したまま、すれ違いの平行線をたどります。
 弟子たちはイエスの言葉の意味を理解することはできませんが、イエスが自分たちだけを後に残して去って行こうとしておられることは分かり、自分たちはどうなるのだろうかと不安に陥り、心を騒がせます。その不安と心騒ぎに対してイエスは語りかけられます。

 「あなたたちは心を騒がせないがよい。神を信じ、わたしを信じなさい」。(一節)

 イエスは弟子たちに言われます、「あなたたちは心を騒がすことはない。神を信じ、わたしを信じていなさい。そうすれば、わたしが去った後も、わたしがあなたたちと一緒にいる今以上に、力強く歩むことができるようになるのだ」と、イエスが去って行かれた後のことを語り出されます。それが一四章の内容になります。
 イエスは「神を信じ、わたしを信じなさい」と言われます。ここの表現は、「信じなさい」という動詞が、「神の中へ」という句と、「わたしの中へ」という句をつけて繰り返されています。神の中へ、そしてわたしの中へ自分の全存在を投げ入れて任せなさい、という勢いの表現です。ヨハネ福音書では、「神を信じる」と「イエスを信じる」が完全に重なっています。「イエスを信じる」ことが直ちに「神を信じる」ことになるのです。

 「父の家には住まいが多くある。もしなければ、わたしはあなたたちのために場所を用意しに行くのだと言ったであろうか」。(二節)

 イエスが行かれるところは、イエス一人しか入れないような狭い場所ではない。多くの人がイエスと一緒にいることができる広い場所であることを、イエスは住居のたとえで語られます。イエスが行かれるところを「父の家」と呼び、それが多くの人が入れないような場所であれば、あなたたちのために場所を用意しに行くなどと言うことはないであろう、とイエスは言われます。
 たしかにイエスはこれまでに「わたしはあなたたちのために場所を用意しに行く」というような発言をされていません。ここで初めて言われます。しかし、ここで言うことをすでに言ったこととして(言うという動詞は過去形)、父の家には多くの住まいがあることを強調されます。
 イエスは「場所を用意しに行く」と言われます。イエスは、これから受ける苦しみ(十字架の死)と栄光(復活)を、弟子たちが父の家に入ることができるようになるための準備としておられます。弟子たちが父の家に入るためには、足を洗うという象徴行為で指し示しておられた、御自身の血による贖い(清め)という準備が必要なのです。

二節後半は二通りの読み方があります(同じ写本でも句読点の付け方で読み方が変わります)。一つは、「もしなければ、あなたたちに言ったであろう。わたしはあなたたちのために場所を用意しに行くのだから」という読み方です(KJV、文語訳、協会訳)。もう一つは、「そうでなければ、あなたたちのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」という読み方です(RSV、塚本訳、新共同訳、岩波版)。この読み方は、「あなたたちのために場所を用意しに行く」というイエスの発言は以前にはなく、ここで始めて出てくるのが難点ですが、次節との意味の流れからすると、自然に続きます。前の読み方(協会訳)の方は、「わたしはあなたたちのために場所を用意しに行く」をまとめている《ホティ》をbecauseという意味にとらなくてはならず、何を理由づけているのかが明確でないという難点が残ります。底本の句読点に従い、後の読み方をとります。

 「行って、あなたたちのために場所の用意をしたら、また来て、あなたたちをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいるところに、あなたたちもいることになる」。(三節)

 イエスは今弟子たちを地上に残して天の父のみもとに帰ろうとしておられます。イエスが世を去られるのは、十字架の死と復活という形によってですが、それは弟子たちのために「場所の用意をする」ことです。その働き、すなわち御自身の血による贖いの業を成し終えて父のもとに帰ったら、「また来て、あなたたちをわたしのもとに迎える」と言われます。
 ここの「わたしは再び来る」というのは、後の時代の教会が「再臨」と呼ぶようになる《パルーシア》(天にあげられたキリストが終わりの日に現れること)を指すのではなく、後で語られるように(一四・一五〜二〇)、聖霊という形で「別の同伴者」として復活者イエスが弟子たちのところに来られることを指しています。イエスは、はっきりとそのことを指して「わたしはあなたたちを孤児とはしない。わたしはあなたたちのところに戻って来る」と語っておられます(一四・一八)。初期の教団が全体としては、ユダヤ教黙示思想を受け継いで、「人の子」の世界への来臨《パルーシア》を待ち望んでいた中で、ヨハネ福音書は聖霊の到来こそ復活者キリストが来られることであるとして、ユダヤ教的黙示思想を克服します。この点は重要ですので、後であらためて取り上げます。
 イエスは「あなたたちをわたしのもとに迎える」と言われます。これは、弟子たちを復活者イエスのもとに迎えることを指しています。その結果、「わたしのいるところに、あなたたちもいることになる」のです。この文は、「わたしのいるところに、あなたたちもいるようになるために」と訳すこともできます。イエスが十字架の死を受けて去って行かれるのは、弟子たちが復活の命の次元にイエスと共に生きるようになるため、という目的を示しています。これはパウロが、キリストの十字架の死は信じる者が約束の聖霊を受けるためであると言っている(ガラテヤ三・一四)のと同じことを、ヨハネ流に表現したものです。聖霊によって復活者キリストとの交わりが実現します。すなわち、復活者キリストがおられるところにキリストに属する者もいるという霊的交わりが、聖霊によって実現するのです。
 パウロは、わたしたちが自分のために死なれたキリストを信じることでキリストの死に合わせられるのは、「キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた命の新しい次元に歩むようになるためです」(ローマ六・四後半私訳)と言っています。同じことをヨハネは、「わたしのいるところに、あなたたちもいるようになるため」と表現するのです。これは、ヨハネ共同体が現在生きている現実です。ヨハネ共同体は、自分たちが復活の質の命をいただいて、いま復活者キリストが生きておられる「命の新しい次元に歩む」者であることを自覚しています。ただ、ヨハネはそれを福音書という形で書いていますから、地上のイエスが受難の直前に語られた約束の言葉として書くことになります。

道についての問答

 「あなたたちはわたしが行くところに至る道を知っている」。(四節)

 イエスは父のもとに帰ろうとされています。イエスは、これまで長い間一緒にいて弟子たちを教えてこられたのですから、弟子たちはその道が分かっているはずだとされますが、弟子たちにはそれが分かっていないという落差がここにも現れます。

 トマスがイエスに言う、「あなたがどこに行かれるのか、わたしたちは知りません。どうしてその道を知ることができましょうか」。(五節)

 ヨハネ福音書のイエスは、繰り返し自分が父から遣わされて世に来た者であることを告げてこられました。それで、弟子たちはイエスが世から去って行かれるのは父のものに帰られるのだということが分かっていなければなりません。ところが、イエスが世から去ることを告げられると、ペトロは慌てて「主よ、どこへ行かれるのですか」と訊ね(一三・三六)、トマスは「あなたがどこに行かれるのか、わたしたちは知りません」と驚きます。弟子たちもユダヤ人たちと同様(七・三五)、イエスがどこへ行かれるのか理解できないで戸惑っています。
 弟子たちも、この時点ではまだ他のユダヤ人と同じく地に属する者として、天から来られ天のことを語られるイエスを理解することができません。この弟子たちの無理解は、先のペトロの質問にも、次のフィリポの質問(一四・八)にも繰り返し現れます。
 イエスは、「あなたたちはわたしが行くところに至る道を知っている」と言われました。それに対してトマスは、あなたの行き先が分からないのに、どうしてあなたのおられるところに行く道が分かるでしょうかと、不審の思いをぶつけます。この質問は、「わたしが〜である」というこの福音書独自の形で福音を提示する次節の言葉を登場させるための、対話編著者の構成です。

 イエスは彼に言われる、「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」。(六節)

 これは先のトマスの「どうしてその道を知ることができましょうか」という問いかけに対するイエスの答えですから、「わたしが道である」という部分に強調があります。「わたし」すなわち復活者イエスこそが、人間が神に至ることができる唯一の道だという宣言です。人は、復活者イエスに自分を投げ入れ、復活者イエスと合わせられて共に生きるのでなければ、神を父として知り、父との交わりに生きるようになることはできない、という宣言です。

ここは、《エゴー・エイミ》(わたしはある)の後ろに「道、真理、命」という補語が来る形です。ヨハネ福音書は繰り返しこの形で福音を提示していますが、ここが最後になります。この形については本書T319頁以下の「特注・ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」を参照してください。

 ここの「道」は、定冠詞つきの単数形の道、すなわち唯一の道であることを語っています。ユダヤ教では「律法《トーラー》」が神に至る唯一の道でした。人は《トーラー》によらなければ神を知ることはできないとされていました。人は《トーラー》を学び、《トーラー》を守るのでなければ、神との契約に生きる神の民となることはできないのです。《トーラー》を知らない異邦人はもちろん、ユダヤ人であっても《トーラー》を学ばず守らない者は、神と無縁の者です。
 それに対してヨハネ共同体は、イエスこそ父に至る唯一の道であると宣言します。もはや《トーラー》は唯一の道ではないのです。《トーラー》によって成り立っているユダヤ教はそれなりの意味がありましたが、もはや神に至る唯一の道ではありません。復活者イエス・キリストがその道です。ユダヤ教徒であろうが、異教徒であろうが、人は誰でもイエス・キリストに合わせられることによって御霊を受け、その御霊によって「アッバ、父よ」と、父との交わりに生きる子となるのです。このパウロ以来の福音の真理を、ヨハネは「わたしは〜である」という独自の福音提示の形式で宣言するのです。
 このような意味で復活者イエスが「道」であるならば、この復活者イエスは同時に「真理であり、命である」ことになります。この福音書はこれまでも繰り返し、復活者イエスこそが「真理」《アレーセイア》であること、すなわち霊なる父との交わりの現実であることを提示してきました(一・一四と一七、四・二三〜二四など)。また、復活者イエスとの交わりに生きることこそ「永遠の命」《ゾーエー》であることを中心主題として語り続けてきました(六・三五、一一・二五など多数)。今ここで最後に「わたしは〜である」という形式を用いて福音を提示するにあたって、ここでの対話の主題である「道」と合わせて、復活者イエスこそが「道であり、真理であり、命である」と一息に語って、福音書全体の福音提示をまとめます。
 「わたしは〜である」という復活者イエスの自己宣言の後には、普通「わたしを信じる者は〜する」という救いの約束が続きます。しかしここでは、「わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」という否定の形で、イエスだけが父に至る唯一の道であることが強調されます。
 日本には「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という有名な歌があります。世には多くの種類の教えや宗教があるけれども、どれでもその道を極めれば、悟りの境地はみな同じだという主張として、よく引用されます。たしかに人間が到達できる悟りの境地は、どの方法を用いても到達するところは結局同じようなものかもしれません。しかし、イエスが父とされた神、すなわちイスラエルの神、聖書の神、世界の創造者にして救済者である神との命の交わりに至る道は、復活者イエスしかありません。異教の宗教はもちろん、ユダヤ教の律法さえももはやその道ではないのです。イエスを信じる信仰から発展して成立したキリスト教でさえ、それがユダヤ教やイスラームなど他の宗教と並ぶ祭儀システムとして一つの歴史的宗教である限り、神に至る唯一の道ではありません。人間一人ひとりの存在が神を父として永遠の命を生きるようになるには、復活者イエス・キリストだけがそこに至る道となります。それがヨハネ福音書の主張であり、福音の宣言です。

個人の霊性にとって復活者キリストが絶対ですが、キリスト教を含む社会的祭儀システムとしての「宗教」は人間の霊性にとって相対的なものであるという主張については、拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。

 続いて、イエスが父に至る道であるという主張と同じことが、「父を知る」という観点から言い直されます。

 「もしあなたたちがわたしを知ったら、わたしの父をも知るようになる。今からあなたたちは父を知るのだ。いや、父を見たのだ」。(七節)

 ここでは動詞の時制が微妙に使い分けられています。最初の文の「わたしの父をも知るようになる」の「知る」は未来形です。「もしあなたたちがわたしを知ったら」は、将来弟子たちが聖霊を受けて復活者イエスを知るようになることを指しているので、「父をも知るようになる」のは未来形で語られることになります。これは地上のイエスが弟子たちに約束された将来の現実です。
 ところが後半の「今からあなたたちは父を知るのだ」は現在形です。直前に未来形で言われたことが、ここでは現在形で言い直されています。「今から」は、語っている「今」が直後に起ころうとしている聖霊の到来という出来事と重なって、その出来事によって実現する「父を知る」ことが現在の事実として語られることになります。これはヨハネ共同体が現在体験している信仰の境地の告白です。
 そして、「父を知る」ことがさらに強調されて、「父を見る」と表現されます。ヨハネ福音書で「見る」は体験的に知ることを意味しています。ここの「見る」は現在完了形です。「すでに父を見ている」という意味になります。この文に用いられている「そして」《カイ》は、「それどころか、さらに」という意味合いであると考えられるので、「いや」という語で訳しています。本来「父」は見ることができないはずですが(一・一八)、イエスを「見る」体験は「父を見る」ことになるという、この福音書独自の主張を表現しています。そして、この「見る」を鍵語として、イエスと弟子との対話は新しい展開を見せることになります。

わたしを見た者は父を見たのだ

 フィリポがイエスに言う、「主よ、わたしたちに父を見せてください。そうすれば、わたしたちは満足します」。(八節)

 イエスが「あなたたちはすでに父を見ているのだ」と語られたので、フィリポが驚いてこう言います。フィリポにすれば、まだ父を見たことはないのですから、驚くのは当然です。フィリポは父を見るということを、昔の聖徒たちに神が現れて語りかけたと伝えられているような、何か直接的な霊的体験と考えていたのでしょう。そのような体験が与えられるならば、神を知りたいとか見たいという人間本来の宗教心は満足します。
 神を見たい、神を見える形で拝みたいという人間の欲求が偶像を生み出します。ユダヤ教では偶像は厳しく禁じられていますから、偶像によって神を見えるようにすることは論外です。フィリポは、イエスがもたれる特別な霊的能力によって、弟子たちが直接神を見るようにしてくださることを期待したのでしょうか。このような期待と欲求は人間の本性かもしれません。

 イエスが彼に言われる、「これほど長い間、わたしはあなたたちと一緒にいるのに、フィリポよ、あなたはわたしが分からないのか。わたしを見た者は父を見たのだ。どうしてあなたは、わたしたちに父を見せてくださいと言うのか」。(九節)

 それに対して、イエスは「わたしを見た者は父を見たのだ」と答えられます。神が御自身を人間に見せるためになされた業は、御自身の子を地上に遣わすことであり、イエスこそ父を現すために世に遣わされた御子である、これがこの福音書の使信です。このことは最初に序詩で主題として掲げられ(一・一四、一八)、弟子たちやユダヤ人たちとの対話や論争で繰り返し主張されてきましたが、最後の夜に弟子たちとの対話の形で確認されます。
 イエスは父を啓示するために世に来られました。世にいる人々の中で、弟子たちは選ばれてイエスと一緒にいることを許され、長い間イエスを身近に見てきました。そうであれば、イエスの中に父が働き、イエスを通して父が語っておられることが分かるはずです。それが分かっておれば、イエスを見た者は父を見たと言えるはずです。ところがフィリポは「わたしたちに父を見せてください」と言っています。こう言うのは、イエスの中に父が働き、イエスを通して父が語っておられることを理解していないからです。フィリポをはじめ弟子たちはみな、「見れども見えず」の状態であったことになります。
 イエスと長い間一緒にいることを許された弟子でさえイエスが見えていなかったとすれば、地上のイエスを見る機会がないわたしたち後世の者はどうなるのでしょうか。実は、あの時の弟子たちも現在のわたしたちも、イエスを見るという点では同じ立場なのです。肉眼で地上のイエスを見ることは、「わたしを見た者は父を見たのだ」という意味でイエスを見ることに、妨げになっても益にはならいからです。肉眼で見るとき、イエスの人間としての面だけが見えて、それが父と一つであるイエスの霊的本質を見ることを妨げます。「肉は益するところがない」のです。
 「わたしを見た者は父を見たのだ」というときの「わたし」は、この福音書においてはいつもそうであるように、本来は復活者イエスを指しています。そして、あの時の弟子たちも現在のわたしたちも、復活者イエスを見るのは聖霊によるのです。聖霊の働きによって復活者イエスと出会うのです。その時はじめて、わたしたちは十字架された復活者イエスの中に、罪人を赦し死人を生かす絶対恩恵の父を見るのです。あの時の弟子たちも、地上のイエスと一緒にいる間は、このような父を見ることはできませんでした。彼らも聖霊を受けてはじめてこのような父を見ることになったのです。この点で、彼らもわたしたちも同じ立場にいます。彼らも、聖霊によって復活者イエスを見てはじめて、地上におられる時のイエスの言動の真相を理解することができるようになったのです。
 このような理解は、いわゆる「史的イエス」探求の意義と限界について、わたしたちに反省を迫ります。イエスを慕う者にとって、イエスが実際にどのような生涯を送られたのか、その言動の事実を知りたいと願うのは自然なことです。それを知ることは、わたしたちが勝手な思いこみや伝承の歴史的制約から解放されて、真実のイエスの姿によって信仰を純化するのに有益です。そのために、唯一の資料というべき四福音書を綿密に比較検討し、伝承の伝わり方も考慮に入れて、イエスの実際の姿を再現しようと努力が続けられています。しかしそれは、あの時の弟子たちが肉眼で見たイエスの姿を再現しようとする努力ですから、今述べたように、それはわたしたちの信仰の根拠とは別のことです。「父を見る」こととは別の次元のことです。わたしたちの信仰の根拠は、聖霊の働きによる復活者イエスとの出合いと交わりにあり、その体験の中で「父を見る」ことにあります。
 このように復活者イエスを見て、その中に父を見ている者の立場からすれば(著者とその共同体はそのような立場にいます)、ここのフィリポのように「父を見せてください」と求める者に対しては、「信じる」ことを求める他はありません。それが、フィリポの求めに対するイエスの答えとして、次のように語られます。

 「わたしが父の内におり、父がわたしの内にいてくださることを信じないのか。わたしがあなたたちに語っている言葉は、自分から語っているのではない。父がわたしの内にいまして、御自身のわざをなしておられるのだ。わたしは父の内におり、父がわたしの内にいますと、わたしが言うのを信じなさい。そうでなければ、わざそのものによって信じなさい」。(一〇〜一一節)

 イエスが父の内におられ、父がイエスの内におられ、イエスを通して語り働いておられること、これはこの福音書が世に向かって宣べ伝える使信に他なりません。父を見ることを求める世に向かって、ヨハネ共同体はこの使信をもって対し、このように「わたしが言うのを信じなさい」と、この使信を信じるように求めます。

11節の「わたしが言うのを信じなさい」と訳した箇所は、「わたしを信じなさい」の後に《ホティ》で導かれる「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」という文が続いています。接続詞《ホティ》は、「〜だから」という理由を示す意味もあるので、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられるのだから、わたしを信じなさい」と理解することも可能です。しかし、後に続く「そうでなければ、わざそのものによって信じなさい」という言葉との対照から、この《ホティ》を言うことの内容をまとめる接続詞(英語の that)と理解して訳しています(新共同訳と同じ)。

 そして、このように宣べ伝える言葉を信じることができないのであれば、イエスがなされるわざ、すなわちこの福音書が伝える多くの「力あるわざ」にゆえに、イエスがこのような方であることを信じるように促します。ヨハネ福音書は、イエスがなされた力あるわざ(奇跡)の中で代表的なものを集めて、それをイエスが神から遣わされた方であることの「しるし」として世に提示します(二・一一、二・二三、三・二、一〇・三七、一二・三七、一五・二四、二〇・三〇〜三一)。この福音書の前半(二〜一二章)は「しるしの書」とも呼ばれます。

わたしより大きなわざをする

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。わたしを信じる者は、わたしがしているのと同じわざをする。いや、これよりも大きなわざをするようになる。わたしが父のもとに行くからである」。(一二節)

 前節の最後にイエスを信じる根拠としてイエスがなされる「力あるわざ」が出てきたので、それを受けて「力あるわざ」についてのイエスの約束の言葉が続きます。この言葉は、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」という特有の定型句で導かれていることから、ヨハネ共同体に伝えられていた預言者たちの霊感された発言を用いているものと考えられます。

ヨハネ福音書に二五回出てくるアーメン句は、福音書成立前のヨハネ共同体において形成されていたものと、福音書成立にさいして解釈や編集を受けて現在の形になったものとがあると見られます。このアーメン句は前者に属すものと見られます。すなわち、福音書成立以前に、霊感により預言者的賜物を受けている人物によって、現臨する復活者イエス・キリストが共同体に語りかける言葉として語り出されたものが、アーメンを繰り返す荘重な定式で保存・伝承されたものと見られます。

 「わたしを信じる者」は、「信じる」の後ろに《エイス》(の中へ)を伴う、ヨハネ福音書独自の表現で語られています。イエスを信じて、復活者イエスの中に自分を投げ入れ、復活者イエスと合わせられている者のことです。このように復活者イエスに合わせられている者は、「わたしがしているのと同じわざをするようになる」(原文は未来形)と約束されます。イエスが地上でされたわざと同じわざをするとは、病人を癒し、悪霊を追い出すという働きだけでなく、貧しい者に恩恵を告知するという福音の働き全般です。イエスの弟子は、イエスが地上でされた働きを継承することが約束され、また期待されています。ここはヨハネ福音書における「派遣説教」です。
 しかも、「これよりも大きなわざをするようになる」と約束されます。力あるわざ(奇跡)という面では、死者を生き返らせたイエスのわざよりも大きなわざは考えられません。しかし、神の福音を告げ知らせるという働きでは、パレスチナの中だけでなされたイエスの働き以上に大きな働きが、弟子たちの手によって全世界に及ぶようになることが予告されています。
 「わたしが父のもとに行くからである」という理由を示す文は、まず直前の「これよりも大きなわざをするようになる」ことの理由としてよいでしょう。地上のイエスの働きは、地上の人間としての制約の下にありました。しかし、父のもとに行かれた復活者イエスの働きは、そのような地上的な限界を超えて大きく拡がることができるからです。
 しかし理由は、イエスを信じる者が「わたしがしているのと同じわざをする。いや、これよりも大きなわざをするようになる」こと全体の理由であると見ることもできます。イエスは死んでしまわれたのではなく、復活して父のもとに行かれた方ですから、イエスと合わせられている者は、イエスがされたわざと同じわざ、いやそれ以上のわざをすることができるのです。
 イエスの場合は、父がイエスの中におられてそのわざをなしておられました(一一節)。しかし、イエスが復活して父のもとに行かれた今(ヨハネ共同体の今現在)では、イエスと父が重なって、父がなされることはイエスがなされることになります。ヨハネ福音書では、本来神がされることを、イエスがされるということになります。その消息が、続く二節で語られます。

 「また、あなたたちがわたしの名によって求めることは何でも、わたしがそれをする。父が子によって栄光をお受けになるためである」。(一三節)

 「わたしの名によって求める」とは、地上で復活者イエスの名代として行動する者が、そのような資格で祈り求めることです。そのように祈り求められたことは、復活者イエス御自身がなしてくださるという約束です(「わたしがそれをする」は未来形です)。「父が子によって栄光をお受けになる」のは、子であるイエスの名によって人を救う働きがなされることによって父の栄光が現れることを指しています。

 「あなたたちがわたしの名によって求めることは、わたしがそれをする」。(一四節)

 前節前半と同じ文が繰り返されていますが、ここでは強調の人称代名詞《エゴー》(わたしが)が使われており、祈り求めたことを成し遂げるのは復活者イエス自身であることを、さらに強調しています。
 普通、「神がなされる」と言うところを、ヨハネ福音書では復活者イエスが「わたしがする」と言われます。たとえば、ラザロを生き返らせるのは、イエスの「ラザロよ、出てきなさい」という一言です。他の文書ではいつも人を復活させるのは神ですが、ヨハネ福音書のイエスは、「わたしが復活させる」と言われます(六章三九、四〇、四四、五四節)。
 こうして、この段落(一四・一〜一四)では、世を去ろうとするイエスが、後に残される弟子たちに、心を騒がせることなく、イエスを信じて、イエスの業を継承していくように励まされます。