市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第4講

第三節 裏切りの予告

46 裏切りの予告(13章 21〜30節)

 21 このように話してから、イエスは霊が騒ぎ、証して言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちのうちの一人がわたしを引き渡そうとしている」。 22 弟子たちは、イエスが誰のことを言っておられるのかと困惑して、互いに顔を見合わせた。 23 弟子のうちの一人で、イエスが愛しておられた者が、イエスの胸に寄りかかって食卓に着いていた。 24 そこで、シモン・ペトロが、誰のことを話しておられるのか訊ねるように、その弟子に合図した。 25 その弟子は、そのようにイエスの胸元に寄りかかったまま言う、「主よ、それは誰ですか」。 26 イエスが答える、「わたしがパン切れを浸して渡す者が、その人だ」。そして、パン切れを浸して、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになる。 27 ユダがパン切れを受け取ると、その時サタンが彼の中に入った。そこで、イエスは彼に言われる、「しようとしていることを、すぐにしなさい」。 28 席に着いている者は誰も、イエスが何のためにユダにこう言われたのか、分からなかった。 29 ユダは金入れを預かっていたので、祭りのために必要なものを買うようにとか、貧しい人たちに何か施すように言われたのだと、ある者たちは思った。 30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった。

イエスが愛しておられた弟子

 このように話してから、イエスは霊が騒ぎ、証して言われた、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちのうちの一人がわたしを引き渡そうとしている」。 (二一節)

 自分が選んだ弟子の一人が自分を裏切ることになるという事実は、聖書に預言されていることとはいえ、イエスにとってきわめて辛いことであり、人間の心情としては激しい動揺があったことが、「イエスは霊が騒ぎ」という句で描かれます。
 「騒ぎ」と訳した動詞は、ラザロの墓の前でマリアやユダヤ人たちが泣いているのをごらんになった時に、イエスの姿を描くのに用いられていました(一一・三三)。そこでは「心騒ぎして」と訳しましたが、ここでは「霊において」という句を伴っているので、「霊が騒ぎ」と訳しています。

この動詞の意味と用例については、『ヨハネ福音書講解T』422頁を参照してください。

 そのような激しい感情の中から、イエスは「アーメン、アーメン」と語を重ねて、決然とした調子で「あなたたちのうちの一人がわたしを引き渡そうとしている」と語り出されます。この「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」という表現は今まで何回も出てきましたが、いつも福音の重要な告知を要約して、あるいは象徴的に提示するときに使われていました。ここでユダの裏切りが、そのような時に使われる改まった荘重な形式で予告されるのは、この事実がイエスご自身にとって、また共同体にとって、いかに重大なことであったかを感じさせます。

 弟子たちは、イエスが誰のことを言っておられるのかと困惑して、互いに顔を見合わせた。 (二二節)

 有名なレオナルド・ダヴィンチのフレスコ画「最後の晩餐」には、イエスのこの言葉に驚き、「誰のことを言っておられるのかと困惑して、互いに顔を見合わせた」弟子たちの様子が、いきいきと描かれています。

 弟子のうちの一人で、イエスが愛しておられた者が、イエスの胸に寄りかかって食卓に着いていた。(二三節)

 ここで初めて「弟子のうちの一人で、イエスが愛しておられた者」が舞台に登場します。以下、この人物を「イエスが愛しておられた弟子」と呼びます。この弟子は、ヨハネ福音書の後半にペトロと競合するような形で登場します(他に二〇・二、二一・七、二一・二〇)。この弟子は、ペトロと組み合わせて登場するとき、名をあげないで「もう一人の弟子」と呼ばれています(一八・一五〜一六、二〇・二〜八)。この弟子は、この福音書の成立について、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」(二一・二四)と言われている弟子ですから、ヨハネ福音書の理解にとってきわめて重要な人物です。

この「イエスが愛しておられた弟子」または「もう一人の弟子」について詳しくは、本書の補講『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立について』を参照してください。

 「食卓に着いていた」と訳した語は、原語では「横になっていた」という一語です。当時の宴席では、客は卓を囲んで横腹を下にして席に着きました。「胸に寄りかかって」というのは、この弟子の顔が横になっておられるイエスの胸のあたりに来る位置になったことを指しています。この位置は主人または主賓にもっとも身近な者が着く位置で、この弟子がペトロよりもイエスに身近であったことを示唆しています。

エレミアス(前掲書)は、この「横になっていた」という表現をこの食事が普段の食事ではなく特別の食事、すなわち過越の食事であったことを示す根拠の一つにしています。

 そこで、シモン・ペトロが、誰のことを話しておられるのか訊ねるように、その弟子に合図した。(二四節)

 ペトロは離れているので直接イエスに訊ねることができず、目配せとか手振りなどで「誰のことを話しておられるのか訊ねるように、その弟子に合図した」のでしょう。

ユダの行動開始

 その弟子は、そのようにイエスの胸元に寄りかかったまま言う、「主よ、それは誰ですか」。 (二五節)

 ペトロからの合図を受けたその弟子は、イエスの胸元に寄りかかったそのままの姿勢で、イエスに「主よ、それは誰ですか」と、そっと訊ねます。この表現は、その弟子とイエスの対話が他の弟子には聞こえないようになされたことを示唆しています。したがって、イエスがパン切れを浸して渡すことでユダであることを示された後も、他の弟子たちはユダが裏切ろうとしていることは知らず(二八〜二九節参照)、ゲッセマネでユダが逮捕の軍勢を案内して来るのを見て初めて知ることになります。その弟子だけが、イエスが弟子の裏切りを予告された時から、それが誰であるかを知っていたことになります。

 イエスが答える、「わたしがパン切れを浸して渡す者が、その人だ」。そして、パン切れを浸して、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになる。(二六節)

 パン切れを味のついたソースに浸して食べるのは普段の食事の習慣であって、とくに過越の食事であることを示唆するものではありません。イエスはこの食事の習慣を用いて、その弟子だけにユダが裏切るのであることをそっと教えられます。

 ユダがパン切れを受け取ると、その時サタンが彼の中に入った。そこで、イエスは彼に言われる、「しようとしていることを、すぐにしなさい」。 (二七節)

 二節では「悪魔」と言われていましたが、ここでは「サタン」になっています。この当時、神に敵対する霊の頭目は、悪魔とかサタンとかベルゼブルとか、様々な名で呼ばれていました。サタンはすでにユダにイエスを引き渡そうという思いを吹き込んでいたのですが(一三・二)、ここでサタンが彼の中に入り、ユダはサタンと一つになり、その思いを実行するにいたります。
 そのユダに向かってイエスは、「しようとしていることを、すぐにしなさい」と言われます。イエスは、ユダが自分を引き渡そうとしていることをご存じです。それがサタンの仕業であることもご存じです。しかし、それが神の定めであるならば、サタンの仕業も身に受けとめなければなりません。

 席に着いている者は誰も、イエスが何のためにユダにこう言われたのか、分からなかった。ユダは金入れを預かっていたので、祭りのために必要なものを買うようにとか、貧しい人たちに何か施すように言われたのだと、ある者たちは思った。 (二八〜二九節)

 席に着いている弟子たちは、あの「イエスが愛しておられた弟子」以外は、誰もイエスが何のためにユダにこう言われたのか知りません。ユダは一行の会計係をしていたので、祭りのために必要なものを買うようにとか、貧しい人たちに何か施すように言われたのだと思います。過越の夜には貧者に慈善を行うのがユダヤ教のならわしでした。
 「金入れ」というのは、何かを入れる容器(ケース)を指す語です。ここと一二・六で用いられていますが、両方ともお金を入れる容器(多分袋でしょう)を指します。ユダは一行の会計係をしていたと見られます。ユダが一行の活動資金を預けられていた事実は、ユダが弟子たちの中でも深くイエスから信頼されていたことを示しています。おそらくユダはそのように信頼されるに足る立派な人物であったのではないかと考えられます。この推察は、ユダがイエスを引き渡すにいたった動機は、福音書が描くのとは違うところにあるのではないかという議論を生むことになります。福音書は主を裏切ったユダを卑しく描くようになり、マタイ(二六・一四〜一五)は金目当てだとか、ヨハネ(一二・六)は盗人であるとしますが、実際はそのような卑しい人物ではなく、たとえば、ユダはイエスに民を率いてイスラエルの栄光を回復するメシアとしての事業を期待していたのに(これは他の弟子も同じでしょう)、イエスはその期待を裏切るような言動をされるので、師に裏切られたという思いからイエスを引き渡すにいたったとか、エルサレムに入ってからの事態は予想外の方向に進み、このままでは自分たちの運動は潰される恐れがあると感じ、イエスに決然と立ち上がってもらうために、あえてイエスを窮地に陥れようとしたというような説も出てきます。しかし、どの説も推察の域を出ることはできず、ユダの裏切りの動機はサタンからのものであるとしか言いようがありません。

ユダの裏切りの動機と密告の内容について詳しくは、拙著『マルコ福音書講解U』176頁「裏切りの動機」を参照してください。

 ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった。(三〇節)

 これも想像の域を出ませんが、この時までユダにも迷いがあったのかもしれません。自分がしようとしていることがどのような結果になるのか確信できず、ためらいがあったのかもしれません。しかし、イエスがパン切れを浸して渡し、「しようとしていることを、すぐにしなさい」と言われたとき、ユダはもはや迷っていることはできなくなり、行動せざるをえなくなります。ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行きます。
 夕食の席ですから、時刻は夜であることは初めから分かっているのに、著者がわざわざ「夜であった」と書くのは、ここでのユダの行為が闇の力の働きであることを印象づけるためでしょう。