市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第2講

T 弟子たちへの告別説教(一三〜一七章)

第一三章 新しい愛

        ―― ヨハネ福音書 一三章――




第一節 最後の食事

最後の食事の日付

 本文の講解に入る前に、以下の「告別説教」がなされる場となった食事の日付について、共観福音書とヨハネ福音書では違いがあるという問題に触れておきます。それは、食事の日付によってこの食事の性格についての理解が影響されるからです。それに、この食事の日付の違いは、イエスが十字架につけられて死なれた日付の違いでもありますので、簡単に見過ごすことはできません。
 共観福音書は最後の食事を「除酵祭の第一日」に行われた「過越の食事」としています(マルコ一四・一二〜一七とマタイ・ルカの並行段落)。ところがマルコは、その日付に「すなわち過越の羊を屠る日」という説明をつけています(マルコ一四・一二)。過越の食事は「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日が始まる夜にしますが、その直前の昼間に神殿で子羊が屠られます。ユダヤ暦では日没から一日が始まるのですから、小羊が屠られる昼間は前日の一四日になります。マルコが小羊が屠られる日と過越の食事が行われる「除酵祭の第一日」を同じ日としたのは、朝から一日が始まるギリシア人やローマ人の日の数え方(われわれも同じ)に従って説明したものと考えられます。
 マタイはおもにユダヤ人読者に向かって書いていますから、この(ユダヤ暦上の)矛盾を避けるためか、マルコの「すなわち過越の羊を屠る日」という説明を省いています(マタイ二六・一七)。マタイでは、弟子たちとの夕食から始まり、夜中の逮捕、明け方の裁判、昼間の処刑、日没前の埋葬というイエスの最後の一日は、問題なく「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日となります。
 ルカは、「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」と、やや曖昧な表現で書いています(ルカ二二・七)。これでは除酵祭の当日なのか、その前日なのか決定できません。ルカの時代の異邦人読者には、どちらでもよい事柄だったのでしょう。一日を朝から始める数え方をする異邦人読者にとって、過越の小羊を屠る午後に続く夕方は同じ日になり、その日のことを「除酵祭の日が来た」と言うのが、ごく自然なことになります。ルカの書き方をこのような意味にとると、ルカも(ユダヤ暦の)ニサンの月の一五日が始まる夜にその食事が行われたと言っていることになります。

イエスの時代のユダヤ教では、本来は別の祭りであった過越祭(一日だけ)と、それに続く除酵祭(七日間)は融合して一つの春の巡礼祭となっており、その全体が「過越祭」とも「除酵祭」とも呼ばれていました。

 それに対して、ヨハネ福音書はここ(一三・一)で、これから語られる出来事が「過越の祭りの前」、すなわち過越祭の前日、過越の子羊が屠られる「準備の日」、ニサンの月の一四日(ユダヤ暦)のこととしています。そうすると、その日の「夕食」(二節)は、小羊が屠られる昼間から見るとその前夜になります。すなわちヨハネ福音書では、イエスはニサンの月の一四日が始まる夜に弟子たちと最後の食事をされ、夜中の逮捕、明け方の裁判を経て、その日の正午過ぎに十字架につけられたことになります。ヨハネ福音書はこの日を「過越祭の準備の日」と明言しています(一九・一四)。イエスが城壁の外で十字架につけられた午後には、神殿では過越祭のための小羊が屠られていたことになります。こうすることによってヨハネ福音書は、最後の食事を過越の食事とする以上に強く、イエスの死を過越祭の意義に結びつけていることになります。
 もう一つ、最後の食事から十字架の死にいたる一日がニサンの月の一四日であることを示す事実は、その日の明け方にイエスを訴えるためにピラトの官邸に連れて行ったユダヤ人たちについて、「彼らは汚れを受けることなく過越の食事をするために、自分たちは官邸に入らなかった」と言われていることです(一八・二八)。そうすると、この時点ではまだ過越の食事は行われていないことになります。彼らが過越の食事を祝っている夜には、イエスの遺体は墓の中に横たわっていたことになります。
 このように、イエスが弟子たちとされた最後の食事の日付は、共観福音書では「除酵祭の第一日」、すなわちニサンの月の一五日が始まる夜となり、ヨハネ福音書では「過越祭の準備の日」、ニサンの月の一四日が始まる夜となります。この一日の違いは、いまだに解決されていません。エッセネ派のような黙示思想的傾向の諸派は、エルサレム神殿が用いた公式の暦とは別の太陽暦を用いていたので、イエスの一行はその暦に従っていたからだという説明も提出されていますが、これも確実な根拠はなく、一般の承認をえていません。

それは過越の食事であったのか

 この日付は、イエスと弟子たちの最後の食事が「過越の食事」であったかどうかという問題を考える上で前提になりますので、重要な意味があります。イスラエルの出エジプトを記念する過越の食事は、必ず「除酵祭の第一日」に行われます。その以外の日に行われることはありません。共観福音書は、この食事を「除酵祭の第一日」が始まる夜に行われた「過越の食事」としています。それに対してヨハネ福音書は、その食事が「過越祭の準備の日」になされたとするので、それは「過越の食事」ではないことになります。事実ヨハネ福音書には、この食事の内容においてそれが「過越の食事」であることを示唆する表現はほとんどありません。
 そうすると、イエスが弟子たちと取られた最後の夜の食事は過越の食事であったのか、そうではない他の性格の食事であったのかが問題になります。普通は共観福音書に従って、この食事を過越の食事としていますが、そうでないとするヨハネ福音書の証言も無視できません。それに、共観福音書の記事にも過越の食事の主役である小羊が全然出てきませんし、苦菜も出てこないこともあって、これを過越の食事とすることに重大な異論が提出されています。
 この食事が過越の食事ではないとすれば、それは普段の食事の最後のものに過ぎないのか、それとも何か他の性格の特別の食事であったかのが問題となります。過越の食事でないとする立場からは、「キドゥシュの食事」とか「ハヴゥラーの会食」とか、またエッセネ派の聖餐とか、様々な提案がされていますが、どれも根拠が十分でなく、概念も曖昧で、決定的な解決にはなっていません。

この最後の食事の日付と性格についての詳しい議論は、J・エレミアス『イエスの聖餐のことば』(田辺明子訳、日本基督教団出版局)の「第一章 イエスの最後の晩餐は過越の食事であったのだろうか」を参照してください。以下にエレミアスの主張として引用するのは、この書からのものです。ここではその書の詳細な議論に立ち入ることはできませんし、またその詳細を紹介することもできませんので、ヨハネ福音書の講解に必要な限りの最小限に止めておきます。
 なお、日付の問題については、拙著『マルコ福音書講解U』180頁「イエスの最後の日」の項も参照してください。

 エレミアスは多くの資料を綿密に検討した結果、その食事は過越の食事であったと結論し、それに対する異論を丁寧に反駁しています。その食事を過越の食事とする根拠の中で重要と思われるものを上げておきます。
 その食事はエルサレムで行われています(一八・一)。これは当たり前のことではなく、準備の記事(マルコ一四・一二〜一七)が示しているように、危険を冒して細心の注意を払ってなされました。それは、過越の食事はエルサレムでなされなければならないと律法に定められていたからです(申命記一六・七)。他の食事であれば、逮捕の危険を避けていつものようにベタニヤに戻ってすることもできます。
 その食事は夜に行われました。これも普通のことではありません。当時のユダヤ人の生活習慣では、午前に軽い食事をして、仕事を終えた午後に(おそらく午後遅くに)食卓を囲む主要な食事をしました。夜に食事をすることは(婚礼とか特別の祝祭の日以外は)ありませんでした。ところが、この食事は夜に行われています(一三・三〇)。それは、過越の食事は、夜にエジプトを脱出したことを記念する祭りの性質上、夜に行われるように律法で定められていたからです。
 この他に、この食事が過越の食事であることを指し示す指標が多くあります。たとえば、この食事がレビ的清めをもってなされていること(一三・一〇)、横たわって食事をしていること、食事の最中にパンが裂かれていること、赤ぶどう酒が用いられていること、食事の後にハレルを歌っていることなど、過越の食事に見られる特徴が多く報告されています。
 しかし、何よりも重要な根拠は、この食事のときにイエスが目前に迫っているご自身の死の意味をパンとぶどう酒の意味を解釈するという形で語っておられる事実です。特別な食事内容の意味を解説することこそ、過越の食事を過越の食事ならしめる必須の要素です(出エジプト記一二・二六〜二七)。パンとぶどう酒に関するイエスの言葉は、過越の食事をモデルにしていると言えます。イエスがこの食事のときに、パンとぶどう酒をご自身の受難によって成し遂げられる神の救済の働きであり、新しい契約の締結であると語られたことは、最初期の共同体に確立していた伝承です。そのことはパウロの書簡によっても確認されます(コリントT一一・二三〜二五)。
 共観福音書はその伝承を忠実に伝えました。ところが、ヨハネ福音書はこの最後の食事の記事において、このパンとぶどう酒についてのイエスの言葉にいっさい触れていません。この最後の食事が過越の食事であるとするならば、ヨハネ福音書のこの沈黙は何を意味するのか、この問題がこの箇所の講解にとって大きな課題となります。このことは後(ルカ福音書講解V185頁の補論)で扱うことにして、ここではこの食事が過越の食事であるかどうかは保留にして、本文の講解に入ることにします。

なおエレミアスは、この食事を過越の食事でないとする議論に丁寧に反論しています。主役の小羊が言及されていないとされる異論も、この記事の成立の由来に遡って丁寧に反論されています。また過越祭の当日に裁判や処刑が行われることはないという議論も説得的に反駁されています。詳しく触れる余裕はないので、その中でヨハネ福音書に関するものだけを取り上げておきます。一三・一の「過越の祭りの前に」は、「イエスは悟り」を説明する句であって食事の日付ではないし、一九・一四の「過越祭の準備の日」は、ここだけに出てくる特異な句で、アラム語では「過越の週の金曜日」である可能性があるとしています。しかし、一八・二八だけは最後の食事が過越祭の前日であることを示していると認めています。ヨハネ福音書にはそれが過越の食事であることを示唆するところもあるので(先に引照した箇所やその他)、ヨハネ福音書の記述は首尾一貫していないとしています。