市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第30講

第三節 ユダヤ人の不信仰

43 前半部の結び ( 12章 37〜43節)

 37 ところで、イエスは彼らの前でこれほど多くのしるしを行われたにもかかわらず、彼らはイエスを信じなかった。 38 それは預言者イザヤの言葉が満たされるためであった。彼は言った、
 「主よ、わたしたちが聞いたことを
   誰が信じたでしょうか、
  主の御腕は誰に顕されたでしょうか」。
 39 彼らが信じることができなかったのはこのためであると、イザヤはまたこうも言った、
 40 「神は彼らの目を見えなくし、
  彼らの心をかたくなにされた。
  こうして、彼らは目で見ることなく、
  心で悟ることなく、立ち帰ることがなく、
  わたしも彼らを癒さない」。
 41 イザヤはイエスの栄光を見たので、このように言ったのであり、彼はイエスについて語ったのである。 42 とはいうものの、議員の中でさえもイエスを信じる者が多かったが、彼らはファリサイ派の人たちをはばかり、会堂から追放されないために、公に言い表さなかった。 43 彼らは神の誉れよりも、むしろ人間の誉れを愛したのである。

預言されていたユダヤ人の不信仰

 ところで、イエスは彼らの前でこれほど多くのしるしを行われたにもかかわらず、彼らはイエスを信じなかった。(三七節)

 ヨハネ福音書の前半(二〜一二章)は、「しるしの書」と呼ばれるイエスの奇跡集を基にして構成されたと見られています。この段落(三七〜四三節)は、その部分の結論をまとめる位置にあり、イエスが「これほど多くのしるしを行われたにもかかわらず」、イエスを信じなかったユダヤ人の不信仰を責める内容になっています。著者ヨハネは、このユダヤ人の不信仰を預言者によって預言されていたことだとして、イザヤ書から二カ所引用します。

 それは預言者イザヤの言葉が満たされるためであった。彼は言った、
 「主よ、わたしたちが聞いたことを
   誰が信じたでしょうか、
  主の御腕は誰に顕されたでしょうか」。(三八節)

 第一の引用は、七十人訳ギリシャ語聖書のイザヤ書五三章一節からです。「聞いたこと」と訳されている語の原意はたしかに「聞いたこと」ですが、この語は「聞いて報告したこと」、「告げ知らせたこと」という意味にも用いられます。それで、「わたしたちが告げ知らせたことを誰が信じたか」という訳もあります。いずれにしても、預言者イザヤは自分が示されて民に伝えた「主の僕」の姿が、あまりにも人間の思いを超えたものであることに驚いて、誰もそれを信じることがないのではないかと予感してこう言ったのですが、ヨハネはそれを自分が告げ知らせる十字架されたキリストをユダヤ人が信じなかったことの預言とします。

 彼らが信じることができなかったのはこのためであると、イザヤはまたこうも言った、
  「神は彼らの目を見えなくし、
  彼らの心をかたくなにされた。
  こうして、彼らは目で見ることなく、
  心で悟ることなく、立ち帰ることがなく、
  わたしも彼らを癒さない」。(三九〜四〇節)

 ヨハネはもう一つイザヤの預言を引用して、ユダヤ人がイエスを信じることができなかった理由を説明します。この引用は六章一〇節からの自由な引用です。イザヤ書(六・一〇)では、「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ」という預言者に対する命令文ですが、ヨハネは「彼(神)は〜した」という形にして引用しています。イザヤ書のこの箇所(六・九〜一〇)は、イエスに対するユダヤ人の不信仰を預言する句として、初期の教団においてよく用いられました(マルコ四・一二、マタイ一三・一三〜一五、使徒二八・二五〜二七)。ヨハネも、イエスに対するユダヤ人の不信仰を語る聖書証明として、この箇所を引用します。

 イザヤはイエスの栄光を見たので、このように言ったのであり、彼はイエスについて語ったのである。 (四一節)

 ヨハネはイザヤ書六章のイザヤの体験を、イザヤが主(キュリオス)としてのイエス、すなわち復活者イエスの栄光を見た体験と解釈します。その結果、六章一〇節の言葉を、イエスに対するユダヤ人の不信仰の預言とすることになります。
 旧約聖書の預言や出来事がすべてイエスにおいて成就したというのは、初期の福音宣教に共通する基本的な告知内容ですが、その中でも神《ヤハウェ》の栄光を見たとされるイザヤの体験を、イザヤはイエスの栄光を見たのだとするヨハネの解釈は突出しており、イエスを神とするヨハネ共同体の信仰告白にふさわしい解釈となっています。

隠れ信者の議員たち

 とはいうものの、議員の中でさえもイエスを信じる者が多かったが、彼らはファリサイ派の人たちをはばかり、会堂から追放されないために、公に言い表さなかった。彼らは神の誉れよりも、むしろ人間の誉れを愛したのである。(四二〜四三節)

 ユダヤ人たち、とくに律法学者たちのようなユダヤ教の指導層は、全体としてはイエスを信じませんでした。しかし、ユダヤ教指導層の中でも最高位にある最高法院の議員の中にも、イエスを信じる者がいたのは事実です。たとえば、この福音書ではニコデモがそうです。イエスを自分の墓に葬ったアリマタヤのヨセフも「議員」と呼ばれています(マルコ一五・四三)。
 ここで「議員」と訳した語は「指導者たち」を意味する語ですが、当時の用語では、具体的には最高法院の議員や会堂の役員を指しています(三・一、七・二六、七・四八)。そのようなユダヤ教指導層にイエスを信じる者がいたことは事実ですが、ヨハネはそのような者が「多かった」として、ただ彼らは「公に言い表さなかった」ので、人々にその事実が知られることはなかったのだとします。
 「公に言い表す」《ホモロゲオー》、すなわち「口で言い表す」ことは、初期の福音宣教において、心で信じることと一体のものとして扱われ、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と言われています(ローマ書一〇・九〜一〇)。ところが、イエスを信じた議員たちは、心では信じていながら、「ファリサイ派の人たちのために」(直訳)それを口で公に言い表しませんでした。
 「彼らはファリサイ派の人たちをはばかり、会堂から追放されないために、公に言い表さなかった」というのは、このヨハネ福音書が成立した時代の状況を示唆しています。イエスが地上におられた時も、イエスを神から遣わされた方だと公に言い表すことは危険なことでした。イエスは律法に違反する教師として最高法院の監視を受ける立場でしたから、その方の仲間であると見られることは、とくにユダヤ教の高位の者にとっては自分の立場を危うくする行為でした。しかし、イエスの時代には、イエスを信じて弟子となることが、直ちに「会堂から追放された者」とされたのではありません。ところが、70年のエルサレム神殿の崩壊以後では、ファリサイ派だけがユダヤ教の担い手となり、そのファリサイ派指導層が「イエスをメシアと言い表す者があれば、会堂から追放される」と決議していました(九・二二)。

この決議については、本書357頁の「会堂からの追放決議」の項を参照してください。

 ユダヤ人にとって「会堂から追放された者」となることは、ユダヤ教共同体からの永久の放逐として、神の民としての特権を失うだけでなく、生きる場を失う恐怖でした。現在もヨハネ共同体の宣教に惹かれて内心ではイエスを信じているが、会堂からの追放を恐れてイエスを信じることを「公に言い表さない」ユダヤ人も多かったのでしょう。著者ヨハネはそのようなユダヤ人について、「彼らは神の誉れよりも、むしろ人間の誉れを愛したのである」と断定します。「誉れ」の原語は「栄光」です。彼らは、神が遣わされたイエスを言い表すことによって神に栄光を帰すことよりも、「人間の栄光」、すなわち人の前で自分の栄光を保つことを優先したのです。
 ヨハネがこのように言うのは、そのような隠れ信徒に、「人間の誉れよりも神の誉れを愛して(求めて)」イエスを公に言い表すように励ましていると見ることができます。

44 イエスの最後の呼びかけ( 12章 44〜50節)

 44 ところで、イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じているのではなく、わたしを遣わした方を信じているのである。 45 わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見ているのである。 46 わたしは光として世に来た。それは、わたしを信じる者が、だれも闇にとどまることがないようになるためである。 47 もしわたしの言葉を聞いて、それを守らない者があっても、わたしはその人を裁かない。わたしは世を裁くために来たのではなく、世を救うために来たのであるから。 48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者には、その人を裁くものがある。わたしが語った言葉そのものが、終わりの日にその人を裁く。 49 それは、わたしは自分から語ったのではなく、わたしを遣わされた父みずからが、わたしに言うべきこと、語るべきことを命じられたからである。 50 父が命じられたことは永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語っていることは、父がわたしに言われたように、そのまま語っているのである」。

前半部の使信の要約

 「イエスは叫んで、こう言われた」とありますが、どのような場面で、誰に向かって叫んでおられるのか分かりません。「イエスはこれらのことを語り、立ち去って彼ら(群衆)から身を隠された」(三六節後半)のですから、現在の文脈では聴衆はいません。この段落(四四〜五〇節)は、おそらく著者または後の編集者が、これまでのこの世に対するイエスの呼びかけをまとめて、第一部(二〜一二章)の結語としたと考えられます。以下に、この段落の各節の言葉がこれまでのこの福音書の主張の繰り返しであり、まとめであることを示す引照箇所をあげておきます。この段落は全体として、この福音書の基本的な主張をまとめています。すなわち、イエスこそ父(神)からこの世に遣わされた方であり、この方を信じることが救いであり、永遠の命であるという使信です。そのさい、この福音書の「わたし」は地上のイエスと復活者イエスとが重なっていることに留意しなければなりません。

 「わたしを信じる者は、わたしを信じているのではなく、わたしを遣わした方を信じているのである」。(四四節後半)

 イエスこそ父から遣わされた方であるという主張については、三・三四、四・三四、五・二三、五・二四、五・三六〜三八、六・二九、六・五七、七・二九、七・三三、八・二九、八・四二、一一・四二を参照。

 「わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見ているのである」。(四五節)

 この主張はこれまでにはなく、これから後に語られることになります(一四・九、一四・一九、一六・一六)。

 「わたしは光として世に来た。それは、わたしを信じる者が、だれも闇にとどまることがないようになるためである」。(四六節)

 一・九、八・一二、九・五、一一・九、一二・三五を参照。

 「もしわたしの言葉を聞いて、それを守らない者があっても、わたしはその人を裁かない。わたしは世を裁くために来たのではなく、世を救うために来たのであるから」。(四七節)

 三・一七、八・一五を参照。

 「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者には、その人を裁くものがある。わたしが語った言葉そのものが、終わりの日にその人を裁く」。(四八節)

 五・三〇、八・二六を参照。

 「それは、わたしは自分から語ったのではなく、わたしを遣わされた父みずからが、わたしに言うべきこと、語るべきことを命じられたからである」。(四九節)

 三・三四、六・三八、七・一六を参照。

 「父が命じられたことは永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語っていることは、父がわたしに言われたように、そのまま語っているのである」。(五〇節)

 「父が命じられたこと」、すなわち「父が遣わされた者を信じること」が永遠の命であることについては、三・一六、三・三六、四・一四、五・二四、六・四〇を参照。
 「父がわたしに言われたように」については、八・二六を参照。