市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第26講

第二節 ラザロが生き返る

38 ラザロが生き返る(11章 28〜44節)

 28 このように言ってから、マルタは去って、姉妹のマリアを呼んで、そっと言った、「先生が来ておられ、あなたを呼んでおられますよ」。 29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに来た。 30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 31 家の中でマリアと一緒にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がり出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思って、後を追った。32 そこで、マリアはイエスがおられるところに来て、イエスを見ると足下にひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。 33 イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをごらんになって、霊に激し、心騒ぎして、 34 「彼をどこに置いたのか」と言われた。人々は言った、「主よ、来て、ごらんください」。 35 イエスは涙を流された。 36 そこで、ユダヤ人たちは言った、「ごらんなさい。どれほどラザロを愛しておられたことか」。 37 しかし、彼らの中のある者たちは言った、「目の見えない人の目を開けたこの人でも、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」。
 38 イエスは再びご自身の中で激して墓に来られる。墓は洞穴で、石が塞いでいた。 39 イエスが「その石を取りのけなさい」と言われると、死んでしまった者の姉妹マルタが言う、「主よ、もう臭っています。四日たっているのですから」。 40 イエスは彼女に言われる、「わたしはあなたに言わなかったか、信じるならば、神の栄光を見ることになると」。 41 そこで、人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を上げて、言われた、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださったことを賛美します。 42 わたし自身は、あなたがいつもわたしの願いを聞き入れてくださることを知っています。しかし、こう言ったのは、回りに立っている群衆のためです。すなわち、あなたがわたしを遣わされたのであることを、彼らが信じるようになるためです」。 43 こう言って、大きな声で叫ばれた、「ラザロよ、外に出て来なさい」。 44 死んでいた者が、足と手を布で巻かれたままで出て来た。顔は覆い布で包まれていた。イエスは言われた、「解いて、行かせてやりなさい」。

マリアとの対話

 このように言ってから、マルタは去って、姉妹のマリアを呼んで、そっと言った、「先生が来ておられ、あなたを呼んでおられますよ」。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに来た。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。(二八〜三〇節)

 ここから場面は変わり、マルタは去って、姉妹のマリアが登場し、イエスとマリアとの対話の場面になります。この対話が、このドラマの第三場になります。場所は、マルタがイエスを出迎えたベタニヤの村はずれのままです。

 家の中でマリアと一緒にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がり出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思って、後を追った。(三一節)

 この場面では、ギリシア悲劇のコロス(合唱隊)のように、主要人物を取り囲んで、状況や人物の心情を描く役割を果たす「ユダヤ人たち」が登場しますが、そのユダヤ人たちがどうしてこの場面に居合わせるようになったのか、ここで説明されます。
 「ユダヤ人たちの多くが、兄弟ラザロのことで慰めるために、マルタとマリアのところに来ていた」わけですが(一九節)、そのユダヤ人たちがマリアの後を追って来ます。彼らは、マリアが墓に泣きに行くのだろうと思って後を追ったのですが、マリアは墓にではなく、村はずれに待っておられるイエスのもとに急ぎます。故人の死を悼んで声を上げて泣く(とくに女性が泣く)ことは、当時の葬送の習慣でした。葬儀で泣くことを職業とする女性もいたのです(マルコ五・三八参照)。

 そこで、マリアはイエスがおられるところに来て、イエスを見ると足下にひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。(三二節)

 マリアは、マルタがイエスに言ったのと同じように言って(二一節参照)、イエスがラザロの死の前に到着されなかったので、愛する兄弟を失ったことを嘆きます。マリアの場合には、マルタが続けて言った「けれども、あなたが神に求められることは何でも、神があなたにあたえてくださることは、今でもよくわかっています」(二二節)という言葉はありませんが、イエスの足下にひれ伏している姿に、マリアも同じようにイエスを信じていることがうかがわれます。

 イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをごらんになって、霊に激し、心騒ぎして、「彼をどこに置いたのか」と言われた。人々は言った、「主よ、来て、ごらんください」。(三三〜三四節)

 彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをごらんになって、イエスは「霊に激し、心騒ぎして」言われたと、イエスの激しい感情を描く珍しい表現が出てきます。人の感情の中に立ち入ることは難しいことですから、この表現がイエスのどのような感情を指しているのかについて、様々な解釈が唱えられることになります。
 まず「霊に激し」という表現ですが、「霊に」という三格は、同じことを言っている三八節で「ご自身の中で」と言われているのとほとんど同じと見られ、人間存在の奥底を指しています。「心底から激して」と訳してもよいのですが、「霊」という語が用いられていることを示すために、あえて直訳しておきます。
 ここに用いられている動詞「激する」は、激しく息を吐く様子を指す動詞で、激しい感情の動きを示す動詞です。不快や憤りを表に表す時によく用いられます。「深く感動し」(RSVなど)とか「激しく感動し」(協会訳)よりも、激しさが表面に出ています。また、この動詞はマルコ一・四三(およびマタイ九・三〇)の「厳しく命じた」や、マルコ一四・五の「厳しくとがめた」と同じ動詞ですが、ここではその感情の激しさを(新共同訳、新改訳、岩波版、塚本訳のように)「憤り」と特定する必要はないと考えます。この私訳では解釈の余地を残し、それがどのような感情であるかは特定しないで訳しています。人々が「泣いているのをごらんになって」という説明の文や、次の三五節の「イエスは涙を流された」という事実からも、この時の激しい感情の高まりは、「憤り」よりも人間の悲惨に対する嘆きとも理解できます。文語訳はこの箇所を「心を痛め悲しみて言い給ふ」と訳しています。

この動詞は、ギリシアのペルセポネー神話で、大母神デメーテールがその娘ペルセポネーをハデス(地獄)の王プルートーンにさらわれた時に、「憤怒に燃えて」娘を救いに黄泉に降りていくという物語に出てくる、「憤怒に燃えて」と同じギリシア語であることが指摘されています(私市元宏)。この動詞は、不幸に直面したときに霊に感じて興奮したり、憤怒に燃える様子を指すのに、古代から広く用いられていたようです。このような場面で、宗教的な祈祷者が陥る状態を指すのにも用いられていたとされています。

 「心騒ぎして」は、一二・二七、一三・二一、一四・一、一四・二七で用いられている動詞と同じです。一二・二七ではギリシア語の詩編六・四がそのまま引用されています。どの場合にも適用できる表現として、「心を騒がせる」が適当でしょう。

 イエスは涙を流された。(三五節)

 イエスはまだ墓に来ておられません。墓に来られるのは、この後の三八節以下の次の場面です。「マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをごらんになって」、イエスも涙を流されたことになります。
 イエスが「涙を流された」ことを伝えるのはここだけです。イエスが「泣かれた」ことは、もう一箇所、最後の過越のときオリーヴ山からエルサレムを望み見て泣かれたことが伝えられています(ルカ一九・四一)。この場合は明らかに、聖都エルサレムの悲惨な最期に対する嘆きの涙ですが、ラザロの場合も、愛する者を失う人間の悲しみを共にして泣かれたと理解してよいでしょう。イエスもラザロを深く愛しておられました。

 そこで、ユダヤ人たちは言った、「ごらんなさい。どれほどラザロを愛しておられたことか」。(三六節)

 ラザロを愛しておられたというイエスの心情を、(古典劇のコロスのように)周囲のユダヤ人たちが語ります。イエスが流された涙は、イエスがラザロを深く愛しておられたことを示していると、著者はユダヤ人たちの口を通して語ります。

 しかし、彼らの中のある者たちは言った、「目の見えない人の目を開けたこの人でも、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」。(三七節)

 登場人物の心情やその場の状況を説明するコロスの役割を果たすユダヤ人たちの声のなかから、もう一つ別の声も聞こえてきます。彼らは、エルサレムでイエスが生まれながらの目の見えない人をみえるようにされたことを知っていました(九章参照)。彼らはその出来事の証人です。しかし彼らは、イエスがあえてラザロの死の後に到着された意図を知りません。彼らは、イエスがラザロを死なないようにすることができることの証人としてではなく、イエスが死んだラザロを生き返らせることができるという事実の証人となるようにこの場に居合わせているのです。

ラザロが生き返る

 イエスは再びご自身の中で激して墓に来られる。墓は洞穴で、石が塞いでいた。(三八節)

 イエスが墓に来られます。ここから第四の場面(第四場)が始まります。場所はラザロの墓の前です。周囲にはマルタとマリア、ユダヤ人たちが取り巻いていますが、主役はイエスお一人です。いや、イエスとイエスが語りかける父の二人と言うべきかもしれません。この場面で、このドラマはクライマックスに達します。
 ここでイエスは初めて墓に来られたのですから、「再び」は「墓に来られる」ではなく、「ご自身の中で激して」という句を修飾することになります。先に「マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをごらんになって、霊に激し、心騒ぎ」されました(三三節)。いま墓の前に来て「再びご自身の中で激して」行動されます。
 ここで目の前にある墓の様子が説明されます。当時の墓は山腹にくり抜いた横穴の洞窟で、その中に遺体を横たえました。入口には(普通は円形の)石の板が置かれて横穴を塞いでいました。

 イエスが「その石を取りのけなさい」と言われると、死んでしまった者の姉妹マルタが言う、「主よ、もう臭っています。四日たっているのですから」。(三九節)

 イエスは「その石を取りのけなさい」と言われます。この石は死者の世界と生者の世界を厳しく隔てる石です。石という固くて冷たい材質が象徴しているように、死は二つの世界を隔てる冷厳な事実です。イエスが「その石を取りのけなさい」と言われるとき、それはイエスこそ生と死の冷厳な隔てを、何らかの意味で克服し取り除いてくださる方であることを象徴しています。それがどのような意味であるかは、この物語全体の受け止め方に関わることで、最後にまとめることになります。

墓の入口を開けるのは、共観福音書ではイエスの墓について「(塞いでいる円形の石を横に)転がす」という動詞で描かれています(マルコ一六・四)。それに対してヨハネ福音書では、この場合もイエスの墓の場合(二〇・一)も「取りのける」という動詞が用いられています。共観福音書は実際の動作を描いているのに対して、ヨハネは象徴的な意義を表現していると考えられます。

 イエスが「その石を取りのけなさい」と言われたのに対して、マルタは「主よ、もう臭っています。四日たっているのですから」と応えます。イエスは生と死の隔てを克服しようとされていますが、マルタにはラザロの死はもはや克服しようのない冷厳な事実です。死後四日もたって、遺体はすでに死臭を発しています。ラザロの埋葬には、富裕な階層の人にはなされる高価な香料を用いた防腐処理はされていなかったのでしょう。マルタの言葉は、ラザロは仮死状態であったがイエスの祈りによって蘇生させられたのだという見方を退けます。ラザロは完全に死んでいたのです。

 イエスは彼女に言われる、「わたしはあなたに言わなかったか、信じるならば、神の栄光を見ることになると」。(四〇節)

 イエスはマルタに、この通りの言葉では語っておられません。イエスは先にマルタにこう言われました。「わたしが復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は誰でも、いつまでも死ぬことはない。あなたはこのことを信じるか」(二五〜二六節)。こう言って、復活でありいのちであるわたしを「信じるならば」、「死んでも生きる」とか「いつまでも死ぬことはない」という境地に至ることを約束されました。今それを「神の栄光を見ることになる」という言葉で指して、先に語られた言葉を思い起こさせられます。死に閉じこめられている人間が「死んでも生きる」とか「いつまでも死ぬことはない」という境地に至ることは、神だけができることであり、イエスを信じることによってそのような境地に生きるようになった者は、その事実に神の栄光、すなわち神の神としての本質を拝することになります。

 そこで、人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を上げて、言われた、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださったことを賛美します。わたし自身は、あなたがいつもわたしの願いを聞き入れてくださることを知っています。しかし、こう言ったのは、回りに立っている群衆のためです。すなわち、あなたがわたしを遣わされたのであることを、彼らが信じるようになるためです」(四一〜四二節)

 石を取りのける行為は信仰の行為です。イエスを拒否し、イエスの言葉を冷笑する者は、石を取りのけないでしょう。周りの人々は、何が起ころうとしているのか分からないまま、イエスの「石を取りのけなさい」という言葉に従って、墓を塞いでいる石を取りのけます。
 すると、イエスは墓の前に立ち、「目を上げて」、すなわち天を仰いで、父に向かって祈りの言葉を発せられます。イエスが一人で祈られるときは、「地面にひれ伏して」祈られる場合もありますが(マルコ一四・三五)、人々の前で公に祈られるときは、このように立って天を仰いで祈られるのが普通です(たとえばマルコ六・四一)。
 イエスはラザロが生き返るように願い祈る前から、すでに父がその願いを聞き入れてくださっていることを知って、父を賛美されます。イエスは日頃から弟子たちに、「祈り求めるものはなんでも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ一一・二四)と教えておられました。いまイエスは「しるし」として、父がラザロを生き返らせてくださることを祈り求めようとしておられます。弟子へのお言葉どおりに、いまイエスが祈り求められるものを、父がすでに聞き入れてくださっていることを知り、ラザロが生き返ることをすでに起こった事実として、それを為してくださった父を賛美されます。これはイエスと父との深い一体関係を示しています。
 父はイエスの願いをすでに聞き入れておられるのですから、イエスは改めて父に願いの言葉を口に出して祈らなくてもよいのです。ただラザロに向かって「出て来なさい」と命じればよいのです。また、イエス自身は父がいつも自分の願いを聞き入れてくださることを知っておられますから、わざわざ「わたしの願いを聞き入れてくださったことを賛美します」と口に出して感謝しなくてもよいのです。それにもかかわらず、イエスがそれを口にされるのは、「回りに立っている群衆」がイエスの願いは何でも父が聞き入れてくださることを見て、イエスが父から遣わされた方であると信じるようになるためです。これこそ、この福音書が世に伝えようとして繰り返し宣言する使信です。この死んだラザロが生き返るという最後の、そして最大の奇蹟も、人々がこれを信じるようになるためになされた「しるし」に他なりません。

 こう言って、大きな声で叫ばれた、「ラザロよ、外に出て来なさい」。(四三節)

 死んで四日も墓に横たわっているラザロに向かって、イエスは「ラザロよ、外に出て来なさい」と大声でお命じになります。このような命令は、人間の常識からすれば狂気の沙汰です。死んで四日も経っているという事実しか見えない人間の立場からすれば、理解不可能です。しかし、イエスは自分が祈り求めたものはすでに与えられていること、すなわちラザロがすでに生き返っていることを知っておられます。イエスは生き返っているラザロに大声でお命じになります、「ラザロよ、外に出て来なさい」と。

 死んでいた者が、足と手を布で巻かれたままで出て来た。顔は覆い布で包まれていた。イエスは言われた、「解いて、行かせてやりなさい」。(四四節)

 イエスがこうお命じになると、死んでいたラザロが「足と手を布で巻かれたままで」墓から出て来ます。人間の目からみれば「死んでいた」ラザロが出て来たのですが、イエスの目には生き返っていたラザロが出て来たのです。
 ここの「布」は墓に納めるときに遺体を巻く布です。「覆い布」は、普段は汗を拭く布を指しますが、ここでは遺体の顔を包み覆うための布です。「足と手を布で巻かれたままで」どうして歩くことができるのかとか、(普通は遺体を横たえるだけの狭い横穴の)墓の中でどうして立ち上がることができるのかなどの疑問や詮索は、ここでは無意味です。著者は、イエスが死んだラザロを生き返らされたという事実を、見る者を驚嘆させ感動させるドラマにして提示しているのです。わたしたちは、イエスが死んだラザロを生き返らされたという事実に素直に驚き、ひれ伏せばよいのです。
 イエスは人々に、ラザロの体を巻いている布を解いて、行かせるようにお命じになります。これは、ラザロが生きている者として普段の生活に戻るように指示されたことを意味します。ヤイロの会堂司の娘を生き返らされた時も、その娘に食べ物を与えるように指示しておられます(マルコ五・四三)。死んでいた者が完全に生ける者の世界に戻ってきたのです。
 墓から出て来たときラザロを巻いていた布は、命を得て歩いているラザロが表面はまだ死に包み込まれていることを象徴しています。その布が解かれて、ラザロが完全に生ける者の社会に復帰する姿は、復活の命を与えられながらもなお「死のからだ」の中で呻いているわたしたちが、「からだの贖い」により死の影を完全に取り除かれていのちの栄光に輝く時が来ることを予感させます。