市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第24講

第二節 イエスを石打にしようとするユダヤ人

35 神殿奉献記念祭での論争(10章 22〜42節)

 22 その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 23 イエスは、神殿の境内でソロモンの柱廊を歩いておられた。 24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちをじらすのか。あなたがメシアであるならば、はっきりとわたしたちに言ってほしい」。 25 イエスは彼らにお答えになった、「わたしはあなたたちに言ってきたが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によってしている業が、わたしについて証ししている。 26 ところが、あなたたちの方が信じないのである。あなたたちはわたしの羊たちに属さないからである。 27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分け、わたしもまた彼らを知っており、羊たちはわたしについて来る。 28 わたしは彼らに永遠のいのちを与え、彼らは永遠に滅びることはない。また、わたしの手から彼らを奪う者は誰もない。 29 わたしに与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、父の手から奪うことができる者は誰もない。 30 わたしと父は一つである」。
 31 ユダヤ人たちは、イエスを石打にしようとして、再び石を取り上げた。 32 イエスは彼らにお答えになった、「わたしはあなたたちに父からの良い業を多く見せた。その中のどの業のために、わたしを石打にするのか」。 33 ユダヤ人たちはイエスに答えた、「良い業のために、お前を石打にするのではない。冒涜のためだ。お前は人間でありながら、自分を神にしているからだ」。 34 イエスは彼らにお答えになった、「あなたたちの律法に、『わたしは言った、あなたたちは神々だ』と書かれているのではないか。 35 もし聖書が神の言葉の臨んだ人たちを神々と言っているのであれば――聖書が廃棄されることはありえない――、 36 父が聖別して世に遣わされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからといって、あなたたちは『お前は冒涜している』と言うのか。 37 もしわたしが父の業をしていないのであれば、わたしを信じるな。 38 しかし、もしわたしがしているのであれば、わたしを信じなくても、業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることがわかり、悟るにいたるであろう」。 39 そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れて、去って行かれた。
 40 イエスは、再びヨルダン川の向こう側、ヨハネが最初にバプテスマを授けていた場所に行き、そこに留まっておられた。 41 大勢の人たちがイエスのもとに来て、こう言った、「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、ヨハネがこの人について言ったことはすべて本当だった」。 42 こうして、そこでは多くの人がイエスを信じた。

神殿奉献記念祭

 その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。(二二節)

 神殿奉献記念祭とは、ヘブライ語で「ハヌカ」(聖別、奉献の意)と呼ばれる祭りを指しています。セレウコス朝のアンティオコス四世エピファネス(在位前175〜164年)は、ユダヤを徹底的にヘレニズム世界に組み込もうとして、ヤハウェ礼拝と割礼を初めとするモーセ律法の順守を禁止して、違反者を死刑で処罰し、エルサレム神殿にはゼウス・オリンピオスの祭壇を建てたりしました。これに対して、ユダヤ教に忠実な「敬虔な者たち」は、マカベヤ家のユダに率いられて反乱に立ち上がり、苦戦の末勝利しました(マカベヤ戦争)。前164年にはエルサレムのセレウコス側のエルサレム守備隊を撃ち破り、キスレウの月(現行暦では一一〜一二月)の二五日に神殿から異教の神像を除き、神殿を清めました(マカバイ記T四・三六〜五九)。それ以後ユダヤ教では、これを記念する「ハヌカ」の祭りが年ごとに祝われるようになります。この祭りは同時に、ソロモンの神殿と第二神殿の奉献を回顧する祭りとして、仮庵祭にならって八日間燈火をつけて祝われました(マカバイ記U一・一八以下)。

協会訳・新改訳・岩波版では「宮清めの祭り」と訳していますが、新共同訳では「神殿奉献記念祭」と訳しています。「宮清め」という用語は、イエスの「宮清め」のような場合にも用いられるので、内容を正確に伝える新共同訳「神殿奉献記念祭」に従って、ここでもこの名称を用います。

 神殿奉献記念祭はキスレウの月(現行暦では一一〜一二月)の二五日であるので、季節は冬になります。ヨハネ福音書では、イエスの最後のエルサレム(およびユダヤ地方)滞在は、秋の仮庵祭(七・二)、冬の神殿奉献記念祭(一〇・二二)、春の過越祭(一一・五五)と、三つの祭りにまたがり、半年近い長い期間になります。この点で、春の過越祭の直前にガリラヤからエルサレムに到着されて、一週間ほどの短い滞在であったとする共観福音書と大きく違っています。

 イエスは、神殿の境内でソロモンの柱廊を歩いておられた。(二三節)

 「ソロモンの柱廊」は、神殿の前庭を取り囲む柱廊の東側の部分になります。ここには異邦人も近づくことができたので、説教などがよく行われました。イエスと使徒たちもここで活動したと伝えられています(ここの他では使徒言行録三・一一、五・一二を参照)。

 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちをじらすのか。あなたがメシアであるならば、はっきりとわたしたちに言ってほしい」。(二四節)

 「メシア」の原語は《ホ・クリストス》です。これは「油を注がれた者」という意味のギリシア語であり、「メシア」のギリシア語訳として用いられています。イエスと当時のユダヤ人との間の対話では、イエスがメシアであるかどうかが問題になるはずですので、「メシア」と訳しています。

「メシア」と「キリスト」という訳語の問題については、一章四一節への講解を参照してください。

 イエスは彼らにお答えになった、「わたしはあなたたちに言ってきたが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によってしている業が、わたしについて証ししている」。(二五節)
 地上のイエスが自分をメシアであると公言されたことはありません。「わたしはあなたたちに言ってきたが」という文は、ヨハネ共同体がユダヤ人に向かって、「イエスこそメシア・キリストである」と言い続けてきた歴史が重ねられています。ヨハネ共同体はこれまでずっとユダヤ人に向かって、イエスこそメシア・キリストであると言い続けて来ましたが、ユダヤ人たちはそれを信じませんでした。
 また、ヨハネ共同体は、イエスがなされた奇跡の業を示して、その業がイエスが父から遣わされた方であることを示していると主張してきました。「父の名によってしている業」とは、イエスが父から遣わされた方としてなしておられる業を指しています。ヨハネ福音書は、イエスの奇跡の業を「しるし」と呼んできましたが、それはイエスの業が「父の名によって」なされたこと、すなわちイエスが父から遣わされた者であることを指し示す「しるし」であるという主張です。
 イエスが行われた奇跡の中から代表的なものを集めて、その奇跡の業によってキリストであるイエスの救いを説く「しるし福音書」と呼ばれる文書があって、ヨハネ福音書はそれを資料として用いているという見方がありますが、その資料がどのようなものであれ、ヨハネ福音書は一貫して、イエスがなされた「力ある業」(奇跡)を、イエスが父から遣わされた方であることを指し示す「しるし」としてあげて重視しています。
 このように、ヨハネ共同体は言葉によってはっきりとイエスこそメシア・キリストであると宣言し、イエスの力ある業をイエスが父から遣わされた方であることの「しるし」として示してきました。おそらくヨハネ共同体自身がイエスの名によって多くの力ある業(奇跡的な癒しなどの働き)をなして、その主張を裏付けてきたと考えられます。

 「ところが、あなたたちの方が信じないのである。あなたたちはわたしの羊たちに属さないからである。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分け、わたしもまた彼らを知っており、羊たちはわたしについて来る」。(二六〜二七節)

 ところが、ユダヤ人たちはそのヨハネ共同体の証言を信じませんでした。それはなぜか。その理由を著者は、羊飼いと羊の関係を比喩として用いて表現します。すなわち、ヨハネ共同体の証言を信じない(聞き入れない)のは、彼らはもともと真の羊飼いである復活者イエスに所属する羊ではないからだと断言します。
 ヨハネの論理によりますと、ユダヤ人たちがイエスを拒否したから真の羊飼いであるイエスに属する羊でなくなったのではなく、もともとイエスに属する羊でないからイエスを拒否したということになります。今ヨハネ共同体のユダヤ人がイエスを信じているのは、もともと彼らはイエスに属するものであったから、自分たちの羊飼いであるイエスが来られたとき、その声を聞き分けてイエスに従うことになったのです。イエスに従ったから、イエスに属する羊になったのではありません。
 これは一種の予定説です。同じイスラエルの宗教的伝統を受け継ぎながら、一部のユダヤ人はイエスを信じましたが、大部分のユダヤ人はイエスを拒否しました。この区別はなぜ起こったのでしょうか。同じ囲いの中にいながら、すでにイエスが来られる以前に、イエスという羊飼いのものである羊たちとそうでない羊たちがいたのです。それで、羊飼いが来たときに、その声を聞き分けて従った羊たちと、その声を聞き分けることができない羊たちが分かれたのです。
 イエスが来られる前にこの区別があったのだとするのは、今自分たちがイエスの声を聞き分けて従っているのは、自分たちの理解や意志でイエスを自分の羊飼いとして選んだからではなく、神がその選びの恩恵によって自分たちをイエスのものと予め定められていたからであって、自分たちの側に何の根拠もないことを言い表すためです。この問題(大部分のユダヤ人がイエスを拒否している事実)はパウロも苦闘した問題で、ローマ書の九〜一一章で神の恩恵の選びの視点から詳しい議論を展開しています。ヨハネはそれを羊飼いのたとえで簡潔に言い表します。
 ここに一〜五節の「羊飼いと盗人のたとえ」をもってくると、たしかに「わたしの羊たちに属さない」という表現がよく分かります。それで、この「羊飼いと盗人のたとえ」はもともとここにあったものを、編集者が目の見えない人開眼の物語の結びとするために現在の位置に移したのだとする見方も出てくることになります。しかし、そのたとえの核心はここにも十分残されています。

 「わたしは彼らに永遠のいのちを与え、彼らは永遠に滅びることはない。また、わたしの手から彼らを奪う者は誰もない」。(二八節)

 良い羊飼いが羊たちを牧草地と水辺に導いて豊かに命を与えるように、イエスは御自分に属する者たちに永遠の命を与えてくださいます。また、良い羊飼いに導かれる羊たちは飢えて滅びることがないように、復活者イエスから命を受ける者は「永遠に滅びることはない」のです。
 ヨハネ福音書では、永遠のいのちを与えるのは「わたし」、すなわち復活者イエスです。この文では「わたし」が強調されています。パウロや共観福音書では、神がイエス・キリストを通して永遠のいのちを与えます。また、復活についても、パウロや共観福音書ではあくまで(イエスと共に)復活させるのは神ですが、ヨハネ福音書では復活者イエスが死者を復活させます(六・三九、六・四〇参照)。ヨハネ福音書では、復活者イエスと父が一つに重なっています(三〇節で明白に宣言されます)。
 さらに、良い羊飼いは自分の命をかけても野獣から羊を護りますから、野獣は羊を奪うことができません。そのように、イエスに属する者を復活者イエスの手から奪うことができる者は誰もありません。イエスは復活して、霊界のすべての権威や支配にまさる名を与えられた方です。その復活者イエスから奪い取る力をもつ者はありません。

 「わたしに与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、父の手から奪うことができる者は誰もない。わたしと父は一つである」。(二九〜三〇節)

 イエスに属する者を復活者イエスの手から奪うことができる者は誰もないことを保証する事実として、彼らをイエスに与えてくださった父がすべてのものより偉大であることがあげられます。「すべてのものより偉大な父の手から奪うことができる者は誰もない」のですから、イエスの手から奪うことができる者はないのです。

「偉大である」の主語は、ほとんどの日本語訳で「わたしの父がわたしに与えてくださったもの」になっていますが、「わたしに(彼らを)与えてくださった父」を主語と読む方が、文脈から見て自然です。KJV、RSV、新改訳はこう読んでいます。

 このように、ヨハネ福音書では復活者イエスと父の働きが一つに重なっています。そのことが「わたしと父は一つである」(三〇節)という一文で宣言されます。
 ヨハネ福音書では、「キリストにあって」神がなされる働きが、復活者イエスの働きとして受け取られ、体験され、告白されています(二八節の講解を参照)。この「わたしと父は一つである」という宣言は、復活者イエスと父の働きが重なって一つになって体験されていることを告白する実践的な命題と理解されるべきです。三位一体論の父と子の関係を議論するさいの理論的根拠とするような性格のものではありません。

再度の石打の試み

 ユダヤ人たちは、イエスを石打にしようとして、再び石を取り上げた。(三一節)

 イエスが自分を父と一つであるとされる言葉を聞いて、ユダヤ人たちはイエスを石打にしようとして、石を取り上げます。「再び」とあるのは、すでに八章(五九節)で、ユダヤ人たちはイエスを石打にしようとしていたので、これは二度目になるからです。
 「石打にする」はユダヤ教における正式の処刑方法の一つです。神の聖性を汚す行為(安息日違反、偶像礼拝、冒涜、背教への誘惑行為など)や性的禁忌の侵犯などは石打刑で処刑されるべきことが、モーセ律法に規定されています(レビ記二四・一三〜一六)。被告は絶壁とか城壁など高いところから後ろ向きに突き落とされ、証人が重い石を投げ落として殺しました。公式の裁判による処刑以外に、神を汚す者だと民衆が憤激して、石を投げて殺す場合(私刑)もありました。イエスの言辞に対して、律法に熱心なユダヤ人たちが憤激して「石打にしようとした」ことは、ここ以外にも八・五九、ルカ四・二九に見られます。使徒言行録(七・五八、一四・一九)では、ステファノ(裁判による処刑か私刑かは争われています)やパウロに対して行われたことが記録されています。ただし、「石打」は必ずしも処刑を意味するのではなく、民衆の憤激の表現として石を投げた場合もあります。パウロの場合はそうであったと見られます(使徒一四・一九、コリントU一一・二五)。
 ルカは、故郷のナザレの人たちがイエスを石打にしようとしたことを伝えています。石を取り上げたことは言われていませんが、「町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」のは石打にしようとしたことを意味しています(ルカ四・二九)。ただ、このナザレでの出来事は、ルカが置いているような、イエスのガリラヤでの活動の初期ではなく、マルコ六・一〜六の場面、すなわちガリラヤでの活動の終わりの時期の出来事と見るべきでしょう(シュタウファー)。
 このように、ガリラヤでも、またヨハネが伝えるようにエルサレムでは二度までも、石打にされようとしたことは、イエスがユダヤ教社会でどのような扱いを受けていたか、また、イエスの宣教の質がどのようなものであったのかを理解する上で重要な事実です。イエスはガリラヤでもユダヤでも石をもって追われる立場、「枕するところのない」立場であったことがうかがわれます。

 イエスは彼らにお答えになった、「わたしはあなたたちに父からの良い業を多く見せた。その中のどの業のために、わたしを石打にするのか」。(三二節)

 以下のイエスとイエスを石打にしようとするユダヤ人たちとの問答は、イエスを律法違反者として(異邦人の手に引き渡すことによって)殺したユダヤ教勢力、今イエスを宣べ伝えるヨハネ共同体に対立して非難するユダヤ教会堂勢力に対するヨハネ共同体の反論です。
 イエスがなされた多くの力ある業は、悪霊を追い出し病人を癒すなど、人が人として生きることを助ける「良い業」でした。それは、人がなしえない業であり、父から賜る力でなされた働きでした。その中のどの業が、石打に相当するような行為になるのか、とイエスは反論されます。それは、ヨハネ共同体の反論でもあります。

 ユダヤ人たちはイエスに答えた、「良い業のために、お前を石打にするのではない。冒涜のためだ。お前は人間でありながら、自分を神にしているからだ」。(三三節)

 この節は、ヨハネ共同体とユダヤ教会堂との対立点がどこにあるのかを明確にしています。イエスご自身は自分を神とするような発言はされていません。イエスを神として宣べ伝えたのはヨハネ共同体です。ヨハネ共同体は復活者イエスを神として拝しました(二〇・二八)。その復活者イエスを地上のイエスと重ねて語るのがこのヨハネ福音書です。したがって、地上のイエスが神として宣言される場面が多くなります。ヨハネ福音書は、本来神の自己啓示の宣言句である《エゴー・エイミ》という重大な句を大胆に用い、イエスがそれを語られたとします。これは、「人間でありながら、自分を神とする」行為、ユダヤ教徒には見過ごせない冒涜になります。
 「冒涜」とは、神または神の名を悪く言う行為、神を汚す行為です(レビ記二四・一四〜一六参照)。神殿を批判攻撃することも、罪を赦すなど神に属する権能を行使することなども、自分を神とする行為として「冒涜」とされます。人間が自分を神と宣言する行為は、もっとも重大な冒涜です。
 共観福音書でも、イエスの行為や言葉のあるものが、このような神の権限を冒す行為として問題とされていました。ヨハネ福音書では、イエスご自身が「アブラハムが生まれる前から『わたしはいる』《エゴー・エイミ》」と宣言され、「わたしと父は一つである」と語られます。これが「人間でありながら、自分を神とする」もっとも重大な冒涜行為として追及されます。
 誰かある地上の人物をメシアであると宣言しても罪にはなりません。最初期に弟子たちがイエスをメシアであると宣べ伝えても、それが直ちに冒涜の罪として追及され迫害されたのではありません。イエスをメシアと信じるユダヤ人の中で、ヘレニスト(ギリシア語を用いるユダヤ人)が神殿や律法を批判したり無用としたために、ユダヤ教側からの迫害を受けたのです。その代表格がパウロです。
 イエスをメシア・キリストと宣べ伝える運動の中で、このヨハネ福音書に見られるように、ヨハネ共同体は復活者キリストを神として宣べ伝える高度のキリスト論を展開します。ヨハネ共同体がイエスをたんにメシアとして告知するだけではなく、地上の人間イエスを神とするような「高度の」キリスト論をどのようにして形成するに至ったのか、その状況や過程は議論されています。ここではその議論に入ることはできませんので、それに対するユダヤ教会堂側からの激しい反発とヨハネ共同体の反論からなるこの段落の議論を追うだけにします。

 イエスは彼らにお答えになった、「あなたたちの律法に、『わたしは言った、あなたたちは神々だ』と書かれているのではないか。もし聖書が神の言葉の臨んだ人たちを神々と言っているのであれば――聖書が廃棄されることはありえない――、父が聖別して世に遣わされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからといって、あなたたちは『お前は冒涜している』と言うのか」。(三四〜三六節)

 イエスが聖書を「あなたたちの律法」と言われたことは考えにくいことです。これは、すでにユダヤ教会堂と厳しく対立しているヨハネ共同体が、相手の聖典を根拠にして相手を論駁している姿勢を示唆していることになります。引用は詩編八二・六からですが、ここでは詩編もユダヤ教正典の一部として「聖書」に含まれているものと扱われています。

「律法」(モーセ五書)と「預言者」(前の預言者と後の預言者、現在の歴史書と預言書)は、すでに紀元前二世紀にはユダヤ教の正典とされていましたが、詩篇を含む「諸書」が聖典に加えられて、現行の三部(律法、預言者、諸書)が正典として確立したのは一世紀末(おそらく90年代)とされています。ここで「聖書」《ヘ・グラフェー》という語をどの程度厳密に正典として扱っているのか問題がありますが、詩篇を「聖書」とするこの箇所は、ヨハネ福音書の成立が一世紀末であることを示唆していることになります。

 引用されている詩篇八二・六は、七十人訳ギリシア語聖書からです。詩篇の文脈から、これを新共同訳のように「あなたたちは神々なのか」と(否定の答えを予期する)疑問文に訳す近代訳もありますが、文脈から切り離して聖書証明として用いるのは、ラビの通常の仕方です。ヨハネは七十人訳ギリシア語聖書の文言をそのまま引用して、自分の主張の根拠とします。
 「神の言葉の臨んだ人たち」は、直訳すると「神の言葉が生起した人たち」となります。この表現は、旧約聖書において「神の言葉が臨んだ(来た)」という意味で、(とくに預言者の召命体験を語るときに)数多く用いられています。著者は、そのような人たちが「あなたたちは神々だ」と言われていると解釈して、そのような人たちが聖書で神々と言われているのであれば、「父が聖別して世に遣わされた者」であるイエスを、ヨハネ共同体が神の子として告知したからといって、どうしてそれを「冒涜」と言うのかと反論します。
 地上のイエスは「わたしは神の子である」というような発言をされていません。たしかにイエスは神を父と呼んで、子としての全き信頼に生きられましたが、自分が神と等しい者だとか神性を持つ「神の子」であるというような発言はされていません。これはヨハネ共同体がイエスについてしている証言です。ヨハネはこの証言を「聖書」(論争相手の正典文書)で根拠づけて、その「聖書が廃棄されることはありえない」という確信を論争相手のユダヤ教会堂と共有していることを確認します。ヨハネ共同体ももともとユダヤ人の共同体であり、著者ヨハネも生粋のユダヤ人ですから、これは当然です。

 「もしわたしが父の業をしていないのであれば、わたしを信じるな。しかし、もしわたしがしているのであれば、わたしを信じなくても、業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることがわかり、悟るにいたるであろう」。(三七〜三八節)

 称号や言葉の上だけの論争は水掛け論に終わります。ヨハネ共同体は、イエスがなされた業を指し示して、事実によって決着をつけようとします。この福音書が集めて伝えているイエスの働きだけでも十分分かりますが、イエスがなされる力ある業は、人間がなしうることではなく、神だけがなしうる業、すなわち「父の業」です。イエスの言葉はあまりにも人間の思いを超えているので、はじめはイエスが語られる言葉を信じることができなくても、イエスがなされる働きが人から出たものではなく、神から出たものであることを信じるならば、イエスの内に父(神)が働いておられ、イエスが父(神)の内におられる方であることが分かるようになるはずだ、とユダヤ人に向かって呼びかけます。
 ヨハネ福音書は、業(奇跡)を見なければ信じないことを非難しながらも(四・四八)、イエスがされる業を父がイエスを遣わされたことの「証し」と意義づけ(五・三六、一〇・二五)、業そのものを信じるように求めます(一四・一一)。それがイエスを信じることへの入り口になるとします。
 ここで「わかり、悟るにいたるであろう」とした部分の二つの動詞は、「知る、理解する、悟る」という意味の同じ動詞が用いられていますが、前者はすでに起こった相、後者はこれから起こる相で用いられているので、このように訳し分けておきます。

 そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れて、去って行かれた。(三九節)

 「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」というような言葉を聞いて、ユダヤ人たちはやはりイエスは神を汚しているとして、イエスを捕らえようとします。しかし、イエスの時はまだ来ていないので、イエスは彼らの手から逃れて、去って行かれます。仮庵祭の時も、石を投げようとしたユダヤ人たちから身を隠して、神殿から出て行かれました(八・五九)。この神殿奉献記念祭でも同じように、イエスは彼らの手を逃れて、神殿から去って行かれます。

ヨルダン川の向こう側で

 イエスは、再びヨルダン川の向こう側、ヨハネが最初にバプテスマを授けていた場所に行き、そこに留まっておられた。(四〇節)

 ここまでは神殿奉献記念祭のとき、神殿境内のソロモンの柱廊での出来事でした。石打にしようとしたユダヤ人たちの手を逃れて去って行かれたイエスは、「ヨルダン川の向こう側、ヨハネが最初にバプテスマを授けていた場所」に行かれます。この「場所」については、一・二八にベタニアという地名が上げられていますが、それがどこを指すのかは不明です。イエスが最後の週に泊まられたエルサレム近くのベタニアとは違います。
 イエスが最後にエルサレムに入られる前に、「ヨルダン川の向こう側」に滞在して活動されたことは、共観福音書にも伝えられています(マルコ一〇・一、マタイ一九・一)。ただ、地名や行程については、福音書の間に相違や混乱が見られます。しかし、イエスが最後にエルサレムに入られる前に、「ヨルダン川の向こう側」に滞在された事実は、確かな共通の伝承であったと見られます。
 ヨルダン川の(エルサレムから見て)こちら側、すなわち西側はローマ総督ピラトの管轄地です。それに対して、ヨルダン川の向こう側、すなわち東側はペレアであり、(ガリラヤと共に)ヘロデ・アンティパスの領地です。イエスは、ローマ総督の支配領域(それは神殿当局の直接の支配領域でもあります)から逃れて、領主ヘロデ・アンティパスの保護下に身を置かれたことになります。しかし、ヘロデ・アンティパスも自分の権力保持のためには洗礼者ヨハネを処刑した人物です。その領地も決して安全な場所ではありません。ファリサイ派の者たちがイエスにヘロデを警戒するように忠告した(ルカ一三・三一以下)のは、この時期のことではないかと考えられます。彼らは忠告の仮面をつけて、イエスがペレアを去って再び(自分たちの直接の支配領域である)ユダヤに戻るように策謀したのです。それに対して、イエスはヘロデに対する恐れからではなく、使命から自らエルサレムに向かうことを言明しておられます。

 大勢の人たちがイエスのもとに来て、こう言った、「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、ヨハネがこの人について言ったことはすべて本当だった」。こうして、そこでは多くの人がイエスを信じた。(四一〜四二節)

 マルコやマタイによると、この期間にもイエスは活動を続けられたことが報告され、多くの出来事や問答が記録されています(マタイでは一九〜二〇章)。ヨハネ福音書も、この期間にこの地域で「多くの人がイエスを信じた」ことを報告しています。彼らが言った「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、ヨハネがこの人について言ったことはすべて本当だった」という言葉から、この時期にもイエスが多くの「しるし」を行われたことが推察できます。「ヨルダン川の向こう側(東側)」は、当時のユダヤ人から辺境扱いされていましたが、初期にはそこにかなりの数の信徒がいたことを、この記事は示唆しています。 イエスについての洗礼者ヨハネの証言が、最初の証言(一・一九〜二八)に呼応して、同じ場所で想起され、イエスの宣教活動全体が囲い込まれることになります。