市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第10講

第二節 サマリアとガリラヤでの宣教活動

10 サマリア人の信仰(4章 27〜42節)

 27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女と話しておられるのに驚いた。しかし、何を求めておられるのかとか、その女と何を話しておられるのかなどと言う者は誰もなかった。 28 そこで女は水がめを置いたまま町へ行き、人々に語る、 29 「さあ、来て見てください。わたしがしたことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この人が油を注がれた方ではないでしょうか」。 30 人々は町を出て、イエスのもとに次々と来るようになった。
 31 その間に、弟子たちは「ラビ、召し上がってください」と言って、イエスに勧めた。 32 ところが、イエスは「わたしには、あなたがたが知らない食べ物がある」と言われた。 33 そこで弟子たちは互いに言った、「まさか誰かが食べ物を持ってきたのではなかろう」。 34 イエスは弟子たちに言われる、「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方の御心を行い、その方の業を成し遂げることである。
 35 あなたがたは『まだ四ヶ月ある。それから刈り入れが来る』と言っているではないか。見よ、わたしはあなたがたに言う、目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れを待っている。既に 36 刈り入れる者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。種を蒔く者が刈り入れる者と共に喜ぶためである。 37 このことにおいて、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』という言葉は本当になる。 38 すなわち、わたしはあなたがたを遣わして、あなたがたが苦労しなかったものを刈り取らせた。他の人たちが苦労し、あなたがたは彼らの苦労の実にあずかっているのである」。
 39 さて、その町のサマリア人たちは、「この方はわたしがしたことをすべて言い当てました」という女の証言の言葉によって、イエスを信じた。 40 そこで、サマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところに留まってくださるように頼んだ。それで、イエスはそこに二日間滞在された。 41 そして、さらに多くの人たちがイエスの言葉によって信じるようになった。 42 彼らは女に言った、「わたしたちはもう、あなたが話してくれたから信じているのではない。わたしたちは自分自身で聞いて、この方こそ本当に世の救い主であることが分かったのだ」。

サマリア人の女の証言活動

 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女と話しておられるのに驚いた。しかし、何を求めておられるのかとか、その女と何を話しておられるのかなどと言う者は誰もなかった。(二七節)

 イエスとサマリア人の女の対話がここまで来たちょうどそのとき、町まで食べ物を買いに行っていた弟子たちが戻ってきます。弟子たちはイエスがサマリア人の女と話しておられるのを見て驚きます。ユダヤ人がサマリア人と親しく語ることは異例のことです。さらに、ユダヤ教のラビは女性と一対一で話すことはありませんでした。弟子たちは、イエスの宗教的対立や伝統的習慣を超える自由な振る舞いに驚きます。しかし、何を求めておられるのかとか、その女と何を話しておられるのかなどと、あえてイエスに訊ねる者は誰もありませんでした。

 そこで女は水がめを置いたまま町へ行き、人々に語る、「さあ、来て見てください。わたしがしたことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この人が油を注がれた方ではないでしょうか」。 人々は町を出て、イエスのもとに次々と来るようになった。(二八〜三〇節)

 先に見たように、サマリア教徒たちは申命記一八章一八節の預言に基づき、モーセのような預言者が再来して、「一切のことを告げる」時代の到来を待ち望んでいました。その預言者は「ターヘーブ(再来者)」と呼ばれていました。このサマリア人の女は、自分がしたことをすべて言い当てたイエスを、「もしかしたらこの人が、わたしたちが待ち望んでいた、一切を告げる《ターヘーブ》ではないでしょうか」と、町の人々に語ったのだと思われます。福音書の著者は、この《ターヘーブ》をギリシア語で《クリストス》(油を注がれた者)という語を用いて、女の言葉を伝えています。

原文の《クリストス》は、底本では小文字で始っています。すなわち、ここでも「キリスト」という称号ではなく(この場合は大文字で始まる)、「油を注がれた者」という普通名詞として扱っていることになります。小文字の《クリストス》については、四・二五の注を参照してください。

 この女性は町ではよそ者であり、いかがわしい経歴の女として避けられていました。この女性は、人目を避けて昼間に水を汲みにくるような立場でした。その女性が今や大胆に町の人たちに語りかけます。「油を注がれた者」の到来は、一私人の悩みの解決というような問題ではなく、世界の救済に関わる大ニュース、時代の転換を告げる重大な告知です。それは、個人的な事情や恥を考慮して秘められるべき事柄ではありません。著者はこのことを、サマリアの女の行動を描くことによって訴えているのです。
 この女性がサマリアの人々に呼びかけた、「さあ、来て見てください」という言葉は、メシアとしてのイエスに出会ったフィリポがナタナエルに向かって、「来て、見なさい」(一・四六)と言った言葉と同じです。ユダヤ人の間で起こったことと同じことが、ここではサマリア人たちの間で起こっているのだ、と著者は書いているのです。

あなたたちの知らない食べ物

 その間に、弟子たちは「ラビ、召し上がってください」と言って、イエスに勧めた。(三一節)

 この女の証言を聞いて、町の人々が次々とイエスのもとにやって来ます。「その間に」、すなわち女が町へ去って行った後、町の人たちがやって来るまでの間に、弟子たちが町で買ってきた食べ物をイエスに勧めたことがきっかけとなって、「食べ物」についてのイエスと弟子たちの対話が行われます(三二〜三四節)。

 ところが、イエスは「わたしには、あなたがたが知らない食べ物がある」と言われた(三二節)。

 この文では「あなたがた」が強調されており、食べ物についてイエスと弟子たちの見方の違いが強調されています。弟子たちは日常の食べ物のことだけしか念頭にありませんが、イエスは別の種類の食べ物ことを考えておられます。この違いの強調は、ヨハネ共同体が、自分たちはこの世の人たちが知らない「まことの食べ物」、すなわち霊なる復活者キリストという食べ物を持っているという自覚(六章)が背景にあって、それをイエスと弟子たちとの対話という形で表明していると見られます。。

 そこで弟子たちは互いに言った、「まさか誰かが食べ物を持ってきたのではなかろう」。(三三節)

 サマリア人の女がイエスが語られた「生ける水」を井戸の水としか理解できなかったのと同じように、この段階の弟子たちはイエスが霊的な次元での食べ物のことを語っておられるのを理解せず、物質的な次元でしか考えていません。

 イエスは弟子たちに言われる、「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方の御心を行い、その方の業を成し遂げることである」。(三四節)

 この段階の弟子たちが、ひいては世の人たちが知らないイエスの食べ物とは、自分を世に遣わされた父の御心を行い、父の働きを地上で成し遂げることであると、イエスは御自分の秘密を明らかにされます。このことがイエスを世の人々とは違う命に生かす糧であるのです。しかし、このイエスと父との一体性は、この福音書が繰り返し繰り返し語るところで、ここもその一例に他なりません。

刈り入れの時は来ている

 「あなたがたは『まだ四ヶ月ある。それから刈り入れが来る』と言っているではないか。見よ、わたしはあなたがたに言う、目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れを待っている。既に刈り入れる者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。種を蒔く者が刈り入れる者と共に喜ぶためである」。(三五〜三六節)

 パレスチナでは穀物の種蒔きから収穫までが四ヶ月です。「まだ四ヶ月ある。それから刈り入れが来る」というのは、苦労の成果を刈り取るのはまだ先のことだという意味の諺であったのでしょう。ところで、聖書では「刈り入れ」は終末的な救いの時を指し示す比喩です。それは審判と選別の時であり、同時に歓びに満ちた栄光の顕現の時です(イザヤ九・三、ヨエル四・一三、マタイ三・一二、黙示録一四・一五)。イエスの譬でもこの意味で用いられています(ここ以外ではマルコ四・二九、マタイ一三・三〇など)。「あなたがたは『まだ四ヶ月ある。それから刈り入れが来る』と言っているではないか」というのは、弟子たちがユダヤ教徒の常識として、終末の審判と完成がまだ先のことだと考えていることを指しています。
 三五節は、前半の「あなたがたは言っているではないか」と、後半の「わたしは言う」の対照が強調されています。それは現状認識について、あるいは時の認識について、弟子たちとイエスの違いを強調していることになります。そして、この福音書では通例のことですが、イエスと弟子たちとの対照はヨハネ共同体と外の人たちとの対照を語るためです。この場合の「あなたがた」と呼ばれる外の人たちとは、終末の審判と完成を未来に待ち望んでいるユダヤ教徒だけでなく、著者の現在終末論を理解せず、未来のキリスト再臨を待望している一般のキリスト教運動の人々をも指していると見られます。著者はこの諺を用いて、終末はまだ先のことだと言っている人たちの考えを指し、彼らに対して、刈り入れの時がすでに来ていることを強調するのです。
 イエスは言われます、「見よ、わたしはあなたがたに言う、目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れを待っている」。著者はイエスの言葉によって、世界がすでに「刈り入れの時」を迎えていることを宣言しています。他の人たちは刈り入れはまだ先だと言っているが、イエスは既に来ていると断言されます。「目を上げて見なさい」というのは、霊的次元の真相を見るように促す表現です。イエスと共に、「畑が色づいている」、すなわち収穫の時が来ていることを認識するように促しています。

三五節の末尾に「既に」という語があります(この語を欠く写本もあります)。底本はこの語の前に終止符を付けているので、(この語は三六節の一部となり)「刈り入れる者は既に報酬を受けて――」と訳すことになります(新共同訳)。本訳は底本に従ってこう訳しています。しかし、後ろに終止符をつけて、(三五節の一部として)「既に色づいている」と読むこともできます(岩波版)。三五節後半と三六節は同じことを言っているので、どちらに用いても意味は変わりません。どちらの文も、終末的な「刈り入れ」が既に始まっていることを語っています。ここにも終末の現臨を強調するヨハネ福音書の特色が出ています。

 「既に刈り入れる者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。種を蒔く者が刈り入れる者と共に喜ぶためである」。(三六節)

 ここの「刈り入れる者」は、「永遠の命に至る実を集めている」という表現から、福音を宣べ伝える者を指していることが分かります。すでに今、福音の呼びかけに応えてイエスを信じた者には、人を永遠の命に至らせる聖霊が与えられ、その命を持つ者たちがイエスの名のもとに集められているのです。三五〜三八節の「刈り入れ」は、いま現にヨハネ共同体が体験している福音の宣教による終末的な神の民の招集を比喩で語っています。

 「報酬を受けて」とあるのは、収穫期には臨時雇いの労働者が報酬を受けて収穫作業をしたことが比喩として用いられています。ここで「刈り入れる者」が受けるのは人からの報酬ではなく、神からの報酬です。その報酬が何であるかは語られていませんが、歓びなど、忠実な働きに対する神からの霊的賜物を指すと見てよいでしょう。そのように現に働きの場で受ける報酬だけでなく、来るべき決算の時には、その忠実さに応じたふさわしい形で神の栄光の富にあずかるという報酬を受けることになります。
 普通、種蒔きは苦労の時、刈り入れは喜びの時とされます(詩編一二六・五)。そして、収穫の時はすぐには来ないのですから、種を蒔く時は喜びの時ではありません。ところが、福音の宣教においては、御言という種を蒔く時が同時に収穫の時となり、蒔く者は同時に刈り入れる者として喜ぶことができます。「種を蒔く者が刈り入れる者と共に喜ぶ」ということが起こるのです。福音の言葉という種は、それを受け入れる者に直ちに永遠の命に至る実を与えるからです。ここにも「刈り入れ」という終末が、種を蒔く現在においてすでに成就しているというヨハネ福音書の現在終末論が現れています。

 「このことにおいて、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』という言葉は本当になる。 すなわち、わたしはあなたがたを遣わして、あなたがたが苦労しなかったものを刈り取らせた。他の人たちが苦労し、あなたがたは彼らの苦労の実にあずかっているのである」。(三七〜三八節)

 最初の「このことにおいて」の「このこと」とは、内容から見て、直前の三六節ではなく、直後の三八節を指していると理解しなければなりません。このつながりを示すために、三八節を「すなわち」で始めています。
 「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」という言葉は、本来自分の苦労が報われないことを嘆く言葉です(ヨブ三一・八、コヘレト二・二一)。それが諺のようになって広く用いられていたのでしょう。ここではその言葉が、福音宣教において起こることを予告する言葉として引用されています。
 種を蒔く者と刈り入れる者とが別の人であるという点では諺通りですが、方向は逆になります。諺では、蒔く者の報われない苦労が語られていますが、福音における成就では、蒔く苦労なしの刈り入れが語られます。
 地上のイエスも弟子たちを宣教に派遣されました。しかし、ヨハネ福音書には共観福音書で詳しく語られているような派遣記事はなく、弟子たちは復活の霊なるキリストから地上に派遣されているという現在の事実が語られています。ここでも、「わたしはあなたがたを遣わして」と、父から派遣されたイエスが弟子たちを派遣しているという構造で、この福音書独自の派遣記事が構成されています。
 「あなたがたが苦労しなかったものを刈り取らせた」とありますが、ここでは(三六節とは異なり)種を蒔く苦労をした者と刈り入れをする者が(三七節の諺のように)区別されています。今弟子たちは、自分が種蒔きの苦労をしなかった実を刈り取っていると言われます。
 そこで、先に種蒔きの苦労をした「他の人たち」とは誰を指すのかが議論されることになります。初期のサマリア伝道という局面に限って見て、先にフィリポがサマリアに福音を伝え、その後でペトロとヨハネが派遣されてサマリアに教団を形成したこと(使徒八・四以下)を指すとする見方もありますが、これは福音書の言葉をあまりにも狭く局限していることになります。やはり、これは福音宣教一般について語っていると見なければならないでしょう。そうすると、先に苦労した「他の人たち」、弟子たちが「彼らの苦労の実にあずかっている」とされる「彼ら」とは、(複数形にこだわれば)福音が世に現れるまでの時代に、神のご計画の進展のために苦労したすべての預言者や聖徒たちを指すことになります。いまイエスの弟子たちは福音を宣べ伝えることによって、これまでの聖徒たちが苦労して形成してきた救済史の成就という実を集めていることになります。
 しかし、この「他の人たちが苦労し」というところは、彼ら旧約の聖徒たちすべてが目指したことを成就したイエス、すなわち、地に落ちて死ぬことによって多くの実を結ぶ「一粒の種」となったイエス自身をも含むと理解することもできます。弟子たちは、旧約の成就者としてのイエスがその苦難によって成就された結果を収穫していることになります。著者が「他の人たちが苦労し、あなたがたは彼らの苦労の実にあずかっているのである」と書くとき、彼はとくに、「わたしが地から上げられるならば、すべての人をわたしのもとに引き寄せるであろう」(一二・三二)と言われたイエスに思いを馳せているのでしょう。

イエスのサマリア伝道

 さて、その町のサマリア人たちは、「この方はわたしがしたことをすべて言い当てました」という女の証言の言葉によって、イエスを信じた。(三九節)

 この女性の証言は、その町のサマリア人がこぞってイエスを信じるという大きな結果を生みました。これは、サマリアの人たちが「一切のことを告げてくださる」メシアを待ち望んでいたので、「この方はわたしがしたことをすべて言い当てました」という証言に驚いて、イエスを受け入れたからでしょう。

 そこで、サマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところに留まってくださるように頼んだ。それで、イエスはそこに二日間滞在された。(四〇節)

  ヨハネ福音書は、「イエスはそこ(シカル)に二日間滞在され」、ご自身がサマリアで伝道されたとしています。このようなサマリアの扱い方に、ヨハネ福音書(ひいてはヨハネ共同体)とサマリアの深いつながりが感じられます。

 そして、さらに多くの人たちがイエスの言葉によって信じるようになった。(四一節)

 著者はシカルという小さい町だけではなく、背後のサマリア教の中心地であるシケムも含む地域の多くのサマリア人がイエスを信じたことを語っているのでしょう。これはヨハネ共同体には多くのサマリア人が含まれていたことを反映していると見られます。さらに、ヨハネ共同体はサマリアにあったと見る研究者もいます。

 彼らは女に言った、「わたしたちはもう、あなたが話してくれたから信じているのではない。わたしたちは自分自身で聞いて、この方こそ本当に世の救い主であることが分かったのだ」。(四二節)

 サマリアの人たちは「自分自身で聞いて分かったからだ」と言っています。著者ヨハネは、サマリア人の信仰が他人からの伝聞によるものではなく、直接イエスの言葉に基づくものであり、サマリア人信徒は直接イエスに所属する者であることを強調しています。著者は、サマリア人の共同体はエルサレムのユダヤ人教団と対等の独立した教団であることを強調したいのかもしれません。
 サマリアの人たちはイエスを「世の救い主」と呼んでいます。現在ではわたしたちに広く親しまれているこの称号は、新約聖書に現れることは意外に少なく、ここ以外ではヨハネ第一の手紙四章一四節だけです。著者はこの称号で、サマリア人たちがイエスを、ユダヤ人のメシアでもなく、サマリア人の「ターヘーブ」でもなく、世界全体の救いのために神から遣わされた御子であること(三・一六〜一七)を信じたと言おうとしています。著者ヨハネは、イエスが宣べ伝える福音を最初によく理解して受け入れたのは、ユダヤ人ではなくむしろサマリア人であると言っていることになります。

このように、ヨハネ福音書四章は、イエスご自身がサマリアで福音を伝え、多くのサマリア人が信仰に入ったとしていますが、このイエスの姿は、弟子たちに「サマリア人の町に入ってはならない」と命じられたマタイ福音書(マタイ一〇・五)のイエスとは違います。また、サマリア伝道はイエスの復活後、フィリポやエルサレム教団からの伝道活動によってなされたとするルカ(使徒八・四以下)とも違います。おそらく、歴史的事実としては、イエスはサマリアに入られたことはなく、サマリア人が信仰に入ったのは、イエスの復活後、フィリポたちの伝道活動によるものでしょう。しかし、そのサマリア人信徒たちがかなり多く、ある時点でヨハネ共同体に入ってきたのではないかと推察されます。四章のサマリア人に関する記事は、イエスの時代の状況よりもむしろ、復活後この福音書が成立するまでの時代の状況を反映していると見なければなりません。
 この状況について、R.E. Brown, The Community of the Beloved Disciple は次のように分析しています。―― ヨハネ共同体は成立当初は洗礼者ヨハネの弟子であったユダヤ人を中核とするユダヤ人信徒の共同体であったが、フィリポのようにエルサレム神殿祭儀に批判的なヘレニスト・ユダヤ人たちがサマリアに伝道するに及んで、もともとエルサレム神殿と対立するサマリア人が信仰に入り、彼らがヨハネ共同体に加わるようになる。その結果、ヨハネ共同体は周囲の保守的なユダヤ教徒たちと対立を深め、(サマリア人の信仰を語る四章から後では)「ユダヤ人」全体を論敵とするようになり、ユダヤ教側からは「おまえ(たち)はサマリア人ではないか」(八・四八)と非難されるようになる。ヨハネ共同体と保守的なユダヤ教会堂との対立ないし決裂は、サマリア人の加入だけが原因ではないが、それを触媒として始まったキリストを神とする新しいキリスト論(保守的なユダヤ教のメシア論とは異質な信仰)による。――

11 遠くの子供をいやす (4章43〜54節)

 43 二日後、イエスはそこを出てガリラヤへ行かれた。 44 イエスご自身、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と証言しておられたからである。 45 さて、イエスがガリラヤに来られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを受け入れた。彼らも祭りに行っていたので、祭りの間にイエスがエルサレムでなされたことをすべて見ていたからである。
 46 さて、イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこはかって水をぶどう酒にされた所である。カファルナウムに王の家臣がいて、その息子が病気であった。 47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来ておられると聞いて、イエスのもとにやって来て、下って来て息子を癒してくださるように頼んだ。息子は死にかかっていたのである。 48 イエスは彼に言われた、「あなたがたはしるしや不思議を見なければ、決して信じようとはしないのだ」。 49 王の家臣はイエスに向かって言った、「主よ、わたしの子供が死ぬ前に下って来てください」。 50 イエスは彼に、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われた。その人はイエスが彼に言われた言葉を信じて帰って行った。 51 ところが、彼が下って行く途中、彼の従者たちが出迎えて、彼の子供が生きていることを告げた。 52 そこで、彼はよくなった時刻を彼らに尋ねた。すると、彼らは「昨日の第七時に熱が去りました」と言った。 53 父親は、イエスが自分に「あなたの息子は生きる」と言われた時刻であることを知り、彼自身も彼の一家もみな信じた。 54 イエスはユダヤからガリラヤに来て、またこの第二のしるしを行われたのである。

故郷では受け入れられない預言者

 二日後、イエスはそこを出てガリラヤへ行かれた。(四三節)

 四章一〜三節で始まったガリラヤへの旅は、サマリアの町に二日間滞在され(四〇節)、「二日後」そこを出発してガリラヤに向うという行程をとります。そして、イエスがなぜガリラヤへ行かれたのか、その理由がイエスご自身の言葉で説明されます。

 イエスご自身、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と証言しておられたからである。(四四節)

 「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」という言葉は、どの共観福音書においてもイエスの言葉として伝えられています(マルコ六・四、マタイ一三・五七、ルカ四・二四)。共観福音書ではガリラヤとかナザレが「自分の故郷」とされていますが、それに対してヨハネ福音書ではユダヤがイエスの故郷として扱われていることになります。
 ヨハネ福音書も、イエスはナザレの育ちであり、「ナザレのイエス」と呼ばれていたことは知っています(一・四五)。おそらく著者ヨハネは、エルサレムこそすべてのユダヤ人の霊的故郷であるという前提で語っていると考えられます。イエスはユダヤ教の本拠地であるエルサレムとユダヤでは受け入れられず、それで「異邦人の地」であるガリラヤに向かわれることになったのだと言おうとしています。

実際にイエスの故郷がユダヤであるという見方も成り立ちます。誕生物語において、ルカはイエスの両親がナザレからベツレヘムに旅してきてイエスが生まれたとしていますが、マタイにはその旅の記事はなく、ヨセフ一家はベツレヘムの住人として扱われています。そして、ヘロデ王の幼児虐殺を逃れてたエジプトからナザレへ移住したことになっています。どちらの場合も、イエスの生地はユダヤのベツレヘムということになります。ヨセフ一家はもともとユダヤ教の中心地であるユダヤの住人であり、熱心なユダヤ教徒であったことは、イエスの弟のヤコブがエルサレムの住人に律法順守に厳格な「義人」として有名であったことからも示唆されています。

 さて、イエスがガリラヤに来られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを受け入れた。彼らも祭りに行っていたので、祭りの間にイエスがエルサレムでなされたことをすべて見ていたからである。(四五節)

 イエスは自分の本来の故郷であるエルサレムとユダヤでは受け入れられなかったのでガリラヤに向かわれますが、途中のサマリアで、ユダヤ人からは異教徒よりも悪い異端者とさげすまれていたサマリア人に歓迎され、「ガリラヤに来られたとき」には、「異邦人の地」ガリラヤの人たちはイエスを受け入れます。このような書き方にも、ヨハネ共同体が「ユダヤ人」と厳しく対立し、異邦人世界を志向している姿が出ています。
 ヨハネ福音書は、イエスがされた主要な奇跡をエルサレムでなされたものとして伝え、ガリラヤでの奇跡は例外的に扱われています。ガリラヤの人たちがイエスを受け入れたのも、イエスがエルサレムでされた奇跡(二・二三)を見たからであるとされます。この福音書はイエスの活動をエルサレム中心に語っていることがここにも現れています。

遠くの子供の癒し

 さて、イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこはかって水をぶどう酒にされた所である。(四六節前半)

 イエスはすでに一度ガリラヤのカナに行っておられます(二・一〜一二)。そのときイエスが婚礼の宴で水をぶどう酒にするという「しるし」をなされたことは、読者がよく知るところです。いまイエスは「再び」カナに行かれます。ガリラヤでのイエスの活動を伝えることが少ないヨハネ福音書が、二度までカナでの出来事を詳しく伝えているのは、おそらくガリラヤのカナ出身の弟子ナタナエル(二一・二)が著者またはその共同体と親しい交わりにあったことと関係があると思われます(ナタナエルはヨハネ福音書だけに登場する弟子です)。

 カファルナウムに王の家臣がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来ておられると聞いて、イエスのもとにやって来て、下って来て息子を癒してくださるように頼んだ。息子は死にかかっていたのである。(四六節後半〜四七節)

 カファルナウムはカナから約30キロ東にあるガリラヤ湖畔の町です(二・一二の講解を参照)。この距離がこの物語では重要な意味を持っています。すなわち、カナでのイエスの言葉が遠く離れたカファルナウムの出来事を起こしたのです。

「王の家臣」とあるのは、原文では「王室に属するある者」です。四九節では「王室の者」という形で出てきます。当時ガリラヤはティベリアスを首都としてヘロデ・アンティパスが支配していました。彼はローマから任命された「領主」ですが、世間ではヘロデ大王の息子として「王」と呼ばれていました。そのヘロデの家の者を指しています。

 この段落は共観福音書の「百人隊長の息子の癒し」の記事(マタイ八・五〜一三、ルカ七・一〜一〇)との並行記事であると見られますが、ヨハネ版ではローマ軍団の百人隊長ではなく、「王の家臣」となっています。共観福音書では異邦人の百人隊長の信仰が賞賛されていますが(マタイ八・一〇〜一二)、ヨハネ福音書では「王の家臣」がユダヤ人であるか異邦人であるかは問題にされていません。
 この「王の家臣」は、息子が病気で死にそうになっていたので、イエスがカナに来ておられると聞いて、イエスのもとにかけつけます。そして、「下って来て息子を癒してくださるように」頼みます。カナはガリラヤ中央部の山地にあり、カファルナウムは海抜下二〇〇メートルのガリラヤ湖畔にあるので、カナからカファルナウムに行くことは「下って行く」と表現されます(二・一二でも)。

「その息子」は原文では「その人の《フィオス》」で、明らかに「息子」を意味しています。共観福音書では百人隊長の《パイス》(マタイ)とか《ドゥーロス》(ルカ)とあるので、「僕(しもべ)」と訳されています。《パイス》には「子供」という意味があるので、もともと自分の子の癒しを求めた人の物語であったと見る方が自然でしょう。

 イエスは彼に言われた、「あなたがたはしるしや不思議を見なければ、決して信じようとはしないのだ」。(四八節)

 ここで「あなたがた」と複数形が用いられています。著者は、しるしを見なければ信じないユダヤ人たちの不信仰を嘆いています。それはユダヤ人だけでなく、人間はみな同じです。共観福音書でも百人隊長の願いに対してイエスは拒絶の言葉を発しておられますが(マタイ八・七は拒否の気持ちを示す疑問文)、この福音書ではこのような言葉で拒否の態度が示されます。カナの婚宴でも初めはイエスはマリアの願いを拒否しておられます(二・四)。

 王の家臣はイエスに向かって言った、「主よ、わたしの子供が死ぬ前に下って来てください」。(四九節) 

 拒否されても、状況の切迫から、この家臣はイエスに食い下がります。この態度は百人隊長の場合(マタイ八・八)や、シリア・フェニキアの女の場合(マタイ一五・二七)も同じで、このようにイエスの内に働く神の力と恩恵に縋りきって全存在を投げかけてくる者に、神の恵みの力が働きます。

 イエスは彼に、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われた。その人はイエスが彼に言われた言葉を信じて帰って行った。(五〇節)

 この家臣はまだ結果を見ていません。彼はイエスの言葉だけを信じて、イエスの「帰りなさい」という命令に従います。この行動に彼の信仰が表れています。彼は「しるしや不思議を見ないで」、イエスの言葉を信じたのです。イエスが「息子は生きる」と言われた以上、息子は死ぬことはありません。息子は生きるのです。
 共観福音書では、百人隊長は自分の命令の言葉がもつ権威からイエスの言葉を信じる動機を説明していますが、この福音書ではいっさいそういう説明はなく、彼はしるしを見る前にイエスの言葉を信じたという結論だけが述べられています。「見ないで信じる者は幸いである」(二〇・二九)という、この福音書の主張がここにも出ています。その後で彼が「見ないで信じた」結果が報告され、イエスの言葉が真実であることが語られます。

 ところが、彼が下って行く途中、彼の従者たちが出迎えて、彼の子供が生きていることを告げた。 そこで、彼はよくなった時刻を彼らに尋ねた。すると、彼らは「昨日の第七時(午後一時頃)に熱が去りました」と言った。父親は、イエスが自分に「あなたの息子は生きる」と言われた時刻であることを知り、彼自身も彼の一家もみな信じた。(五一〜五三節)

 「彼自身も彼の一家もみな信じた」とありますが、当時の家父長制では「彼の《オイキア》」は彼の妻子だけでなく、使用人(奴隷)たちを含む全員を指します。家父長の宗教は、彼の「家」全体の宗教となるのが普通でした。彼がイエスを信じたことにより、彼の家すべてがイエスを信じる信仰に入ることになります。

 イエスはユダヤからガリラヤに来て、またこの第二のしるしを行われたのである。(五四節)

 ガリラヤではカナの婚宴で水をぶどう酒に変えるという「最初のしるし」(二・一一)が行われていますから、これは「第二のしるし」となります。エルサレムでは多くのしるしがなされているのに、順番はつけられず、ガリラヤでなされた「しるし」が第二まで数えられています。この順番は、著者が用いた「しるし資料」における順番がそのまま用いられた可能性があります。
 こうして、ヨハネ福音書四章では、イエスが故郷の民であるユダヤ人には受け入れられず、異端の民であるサマリア人と異邦人の地であるガリラヤの民に受け入れられるようになることが語られます。