市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第6講

第二節 新しい神殿

5 神殿から商人を追い出す(2章 13〜22節)

 13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上って行かれた。 14 そして、神殿境内で、牛や羊や鳩を売っている者たちや両替をする者たちが座っているのをご覧になった。 15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をみな神殿境内から追い出し、両替商の金をまき散らし、その机を倒し、 16 鳩を売る者たちに言われた、「このような物をここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家とするな」。 ―― 17 弟子たちは、「あなたの家に対する情熱がわたしを食い尽くした」と書かれていることを思い起こした。―― 18 そこでユダヤ人は答えてイエスに言った、「このようなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれるのか」。 19 イエスは答えて言われた、「この神殿を壊してみよ。わたしは三日で起こすであろう」。 20 そこでユダヤ人は言った、「この神殿は建てるのに四六年かかった。それをおまえは三日で起こすのか」。 21 イエスはご自分のからだという神殿のことを語っておられたのである。 22 そこで、イエスが死者の中から起こされたとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉を信じた。

神殿崩壊を預言する象徴行為

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上って行かれた。(一三節)

 ヨハネ福音書では、過越祭が近づいたことが三回言及されています(ここと六・四と一一・五五)。この事実は、イエスの活動が少なくとも二年から三年に及んだことを意味します。この点は、受難の過越祭だけを語るマルコ福音書(およびマルコに従っている共観福音書)と大いに異なっています。さらに大きな違いは、共観福音書が神殿から商人を追い出されたイエスの行動を受難直前の出来事としているのに対して、ヨハネ福音書はこれを第一回目の過越祭の出来事として、イエスの宣教活動の最初に時期に置いていることです。このことの意義については後で考察することにして、まず物語の進展を追うことにします。
 著者は過越祭のことを「ユダヤ人の過越祭」と呼んでいます。これは異邦人の読者に向かって書いていることを示しています。ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、年に三回の大祭にはエルサレムに上って、神殿で行われる祭りに参加しなければなりませんでした。イエスもユダヤ教社会に生きる一人として、三大祭の一つである過越祭に参加するためにガリラヤからエルサレムに上って行かれます。

 そして、神殿境内で、牛や羊や鳩を売っている者たちや両替をする者たちが座っているのをご覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をみな神殿境内から追い出し、両替商の金をまき散らし、その机を倒し、鳩を売る者たちに言われた、「このような物をここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家とするな」。(一四〜一六節)

 「牛や羊や鳩」は、神殿での礼拝のさいに供える犠牲の動物です。遠くの地から巡礼して来る者は、犠牲の動物を連れてくることができないので、そのような遠くから来る人たちのために犠牲の動物を売る者が必要でした。また、日常使用している通貨はローマ帝国の貨幣で、皇帝の像が刻まれていたので神殿で用いることはできませんでした。また、神殿に納める貨幣は特殊な神殿貨幣であったので、日常の通貨を神殿貨幣に両替する必要があり、神殿境内には「両替をする者たち」が店を出していました。

「神殿境内」と訳した語の原語《ヒエロン》は「神殿」という意味のギリシア語です。しかし、ここでは庭を含む聖域全体を指しており、また、一九〜二一節の神殿本体の建造物を指す《ナオス》と区別するため、「神殿境内」と訳しています。犠牲の動物を売る者や両替商がいるのは境内の一番外の「異邦人の庭」です。

 犠牲の動物を売る商人や両替商人を見ると、イエスは「縄で鞭を作り、羊や牛をみな神殿境内から追い出し、両替商の金をまき散らし、その机を倒し」という激しい行動を起こされます。イエスがこのような行動をされたことは、共観福音書も同じように伝えていますが、イエスが縄で作った鞭を用いたことを語るのはヨハネ福音書だけです。
 イエスは彼らに言われます、「このような物をここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家とするな」。共観福音書(マルコ一一・一七と並行箇所)では、「わたしの家はすべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」というイザヤ書(五六・七)の言葉を引用されたとしていますが、ヨハネ福音書は初めからイエスを神の子として描いているので、ここでもイエスは「神の家」である神殿を、「わたしの父の家」と呼ばれることになります。ヨハネ福音書の本体部分(一・一九以下)で「父」が出てくるのは、ここが最初です。
 また、共観福音書では、「あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」となっています(マルコ一一・一七と並行箇所)が、「強盗の巣」という表現はエレミヤ七・一一から来ています。ヨハネ福音書は共観福音書伝承には依存せず、「商売の家」という独自の表現を用いています。この表現はゼカリヤ書から来ていると見られます。預言者ゼカリヤは「エルサレムの救いと浄化」を告げる託宣を語っていますが(一二〜一四章)、その託宣の最後に「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」(一四・二一)と叫んでいます。
 神殿を「商売の家」にしているのは、実は犠牲の動物を売ったり両替をしている人たちではなく、神殿祭儀制度の担い手として、彼らの背後にあって彼らに神殿で商売をさせ、彼らから利益を吸い上げている神殿貴族階級です。その頂点が大祭司です。彼らは、本来民の罪を贖うための犠牲祭儀制度を、お金を払うことで流れ作業のように礼拝が行われる制度にし、富を吸い上げるためのシステムに変えていました。イエスの激しい批判は、大祭司を頂点とするこのような神殿祭儀制に向けられています。大祭司が、自分の富と権力の基盤を否定する者に対して厳しい弾圧を加えるのは当然です。
 神殿で鞭を振るわれるイエスの姿は、民の背反を怒りをもって糾弾する預言者の相を示しています。この相を、「小羊の書」であるヨハネ黙示録は「小羊の怒り」(黙示録六・一六)という姿で表現しました。イエスは神の慈愛と恩恵を伝えて無抵抗非暴力の愛を説き、その極致として民の贖いのために十字架の上にご自身を捧げられたのでした。その姿は柔和な小羊、犠牲として屠られる小羊で象徴されるにふさわしい生涯でした。しかし、その小羊であるイエスに、このような激しい怒りの相があることを忘れてはなりません。それは、神の慈愛を自己の欲望(権力欲)のために利用して、民を抑圧する者への神の怒りを身を賭して表現しておられるのです。
 イエスの激しい行動は、神殿祭儀を否定する預言者的な象徴行為であると見られます。広大な前庭からすべての動物や商人をイエス一人で追い出すことは実際上は困難で、この行動は庭の一隅で行われた象徴的な行為であると見るべきでしょう。これは、たんに堕落した神殿祭儀を本来の純粋な形に戻すための粛正、いわゆる「宮清め」の行動ではなく、神殿の崩壊を預言する象徴行為です。昔預言者が軛を負った姿をしてイスラエルの民の捕囚を預言したように(エレミヤ二七章)、イエスもこの行動によって神殿の崩壊を預言されるのです。イエスの行動は、神殿で行われる祭儀を否定する象徴行為、従って神殿の存在理由を全面的に否定する象徴的宣言です。

共観福音書でも、神殿粛正ではなく、神殿崩壊の象徴的預言行為と意味づけられています。このことについては、拙著『マルコ福音書講解U』の62「神殿から商人を追い出す」を参照してください。

 弟子たちは、「あなたの家に対する情熱がわたしを食い尽くした」と書かれていることを思い起こした。(一七節)

 著者をはじめイエスの弟子たちは、この行動がイエスの処刑にいたる原因の一つとなったことを知っています。それで、イエスを死にいたらしめたこの行動も聖書の成就であるとして、聖書を引用します。「あなたの家に対する情熱がわたしを食い尽くした」は、詩編六九編一〇節からの引用です。弟子たちは、その時には理解できなかったのでしょうが、後になって(二二節の場合と同じく)「イエスが死者の中から起こされたとき」、あのイエスの行動は聖書に書かれていることの成就であったことに気づくことになります。

別の神殿

 そこでユダヤ人は答えてイエスに言った、「このようなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれるのか」。(一八節)

 このイエスの激しい行動に対して、「そこでユダヤ人は答えて」イエスに言います。「答えて」というのは、質問に対する答えではありませんが、イエスの行動に応答してということです。もっとも、イエスの行動は神殿祭儀制に対する厳しい糾弾の問いかけになっていますから、「答えて言った」は意味ある表現かもしれません。「ユダヤ人」は言います、「このようなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれるのか」。
 大祭司でもないのに、神殿運営に対して命令する権威があるかのように振る舞うイエスに、「ユダヤ人」はその資格を証明する「しるし」を見せるように要求します。資格を証明する「天からのしるし」を要求するのは、共観福音書ではいつも「ファリサイ派、祭司長、律法学者たち」という階層の人たちですが(マルコ八・一一〜一三、一一・二七〜二八と並行箇所)、ヨハネ福音書は「ユダヤ人」とくくってしまいます。著者とヨハネ共同体にとって、現に敵対する勢力はユダヤ教会堂勢力ですから、イエスに敵対する勢力も(ユダヤ教会堂を指す意味で)「ユダヤ人」と呼ばれることになります。ヨハネ福音書では、共観福音書に見られるユダヤ人民衆と指導者階級の区別は、(多くの場合)なくなっています。

 イエスは答えて言われた、「この神殿を壊してみよ。わたしは三日で起こすであろう」。(一九節)

 イエスは「しるしを見せろ」という要求を拒否し、《マーシャール》(謎)の言葉で答えられます。共観福音書では、イエスが神殿から商人を追い出された時の報告にはこの言葉はなく、最高法院での裁判の時に、イエスがそう言ったのを聞いたという証人が伝えています(マルコ一四・五八)。マルコはそれを「偽証」としていますが、この証言の場合も(他のイエスの言動についての証言と同じく)複数の証人の証言が食い違っていて、証拠としては採用できないものであったというだけで、そういう意味の発言がなかったことを主張できるものではありません。むしろ、イエスの十字架のそばを通りかかった人々が、「おやおや、神殿を打ち壊して三日で建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救ったらどうだ」(マルコ一五・二九〜三〇)と嘲笑したという事実が、そういう意味の発言があったことを傍証しています。
 イエスは「あなたたちはこの神殿を壊して見なさい。すると、わたしは三日でそれを起こすであろう」(直訳)と言っておられます。「わたしはこの神殿を壊す」とは言っておられません。この点で、「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し」という最高法院での証言(マルコ一四・五八)は「偽証」になります。イエスは、「あなたたちのかたくなな反抗がこの神殿を破壊に至らせるであろう。しかし、わたしは別の神殿を起こそう」と言っておられるのであって、「わたしは壊す」と言われたのではありません。
 イエスは「わたしは三日でそれを起こすであろう」と言っておられます。まず、「建てる」という動詞ではなく、「起こす」という動詞が用いられていることが重要です。「起こす」は、新約聖書では「神がイエスを(死者の中から)起こした」とか、「イエスは(死者の中から)起こされた」(二二節)というように、イエスの復活を語るときに用いられる動詞です。著者はこの動詞を用いることで、神殿の建物ではなく、イエスの復活が主題であることを指し示しています。
 ところで、この動詞はふつう神が主語であるか、主語である神を隠して受動態で用いられますが、ここでは「わたしがそれを起こす」と言われており、イエス自身が「起こす」という動詞の主語になっています。ラザロの記事にも見られるように、ヨハネ福音書では、イエスが死者を復活させる神の立場で行動されています。イエスは「わたしがその人を終わりの日に復活させる」と言われます(六・四〇、五四)。
 また、イエスのお言葉にある「三日で」とか「三日目に」という表現は、セム語法で「すぐに」という意味です。地上のイエスが「三日目に」という表現を用いてご自分の復活を語られたとする福音書の記事(ここやマルコ八・三一)は、ケリュグマの「三日目に」(コリントT一五・四)がイエスの口に置かれた結果だとする見方が多いのですが、事実は逆で、イエスが「三日で」と言っておられたので、それがケリュグマの表現に入ってきたと理解すべきです(エレミアス)。
 イエスがこの言葉にどのような意味をこめられたにせよ、神殿の破壊を口にすることは、最大の神聖冒?として裁判と処刑の対象になります。この神殿崩壊を預言する象徴行為と発言が、イエスの処刑の直接の原因になったことを、弟子たちはよく知っています。この出来事を逮捕と裁判の直前に置いた共観福音書の方が、歴史的事実としては正確なのでしょう。このような過激な行動をされてからも数年にわたって、しかもしばしば神殿の境内でイエスが宣教活動を続けられたことは考えにくいことです。しかし、ヨハネ福音書はあえてそれをイエスの宣教活動の初期に置きます。そうすることで、この出来事を十字架の原因としてではなく、復活の預言としての面を前面に出し、イエスの宣教の質を指し示す象徴的出来事としています。

 そこでユダヤ人は言った、「この神殿は建てるのに四六年かかった。それをおまえは三日で起こすのか」。(二〇節)

 いまイエスがその庭で鞭をふるっておられる神殿は「ヘロデの神殿」と呼ばれ、ヘロデ大王が前19年に再建築の工事を開始し、前9年に一応落成して献堂式が行われますが、その後も工事は続き、64年にようやく竣工した神殿です。この「ヘロデの神殿」の壮麗さは、「世界の七つの驚異」の一つに数えられるほどでした。イエスの時代にはまだ工事が続いており、「46年かかった」と言われている年は27年から28年ということになります。この神殿は、完成後間もなく70年にティトゥス指揮下のローマ軍によって破壊されることになります。イエスがその象徴行為によって神殿の崩壊を預言されてから四〇年ほど後に、その預言通りに神殿は破壊されます。
 ユダヤ人はヘロデ神殿については「建てる」という普通の動詞を使っていますが、イエスの行為については「起こす」を用いています。この動詞の使用は、この物語は復活を象徴するという思想を一貫するために、著者が選んでユダヤ人にも用いさせたものと見られます。ユダヤ人は、イエスの言葉を神殿の再建築のことを語っているものとして、四六年かかってもまだ完成しないこの神殿を三日で建てるというのは、狂気の人間が言うことだという気持ちで反問します。イエスが霊の次元のことを語っておられるのに、それを象徴する言葉を地上の体験の範囲でしか理解できない周囲の人たちが、的はずれな質問をするのは、この福音書の対話の特色ですが、それがここでも起こっています。

 イエスはご自分のからだという神殿のことを語っておられたのである。(二一節)

 このユダヤ人との対話における食い違いを、著者自身が解説します。原文は「ご自分の体の神殿」とあります。「体の」という二格は同格の二格と見られるので、「ご自分のからだという神殿」と訳しています。あるいは、さらに意訳して、「イエスが言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである」(新共同訳)とするのも分かりやすいと思います。

 そこで、イエスが死者の中から起こされたとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉を信じた。(二二節)

 ここで著者ははっきりと、イエスはご自分の復活を預言されたと言っていることになります。「わたしは三日でそれ(神殿)を起こす」というイエスの言葉は、復活者キリストを信じないユダヤ人には謎の言葉のままですが、すでにイエスを復活者キリストとして知っている著者とその共同体は、それを復活の預言と理解することができます。「そこで、イエスが死者の中から起こされたとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉を信じた」。
 イエスが地上におられる間は、弟子たちも周囲の他の人たちと同じように、イエスの言葉を自分たちの地上の体験の範囲内でしか理解できませんでした。神殿で語られたこのイエスの言葉も、他のユダヤ人と一緒に驚きの思いで聞いたことでしょう。しかし、「イエスが死者の中から起こされたとき」、そして、聖霊を受けて復活者イエス・キリストとの交わりに生きるようになったとき、神殿でのあの御言葉は、「別の神殿」としてのご自分の体のことを指しておられたのであり、復活を預言されたのだと理解することができるようになります。
 イエスは最後の夜の食事の席でこう言われました。「かの同伴者、すなわち父がわたしの名によって遣わされる聖霊であるが、その方があなたたちにすべてのことを教え、わたしがあなたたちに話したことを思い起こさせてくださる」(一四・二六)。この御言葉は、聖霊がイエスが地上におられた時に語られた言葉を思い起こさせるだけでなく、それが何を意味していたのかを理解させてくださるという約束です。その約束通りに、弟子たちは「イエスがこう言われたことを思い出し」、イエスが言われた「わたしは三日でそれを起こす」という言葉の意味を理解しました。そして、それが聖書(旧約聖書)に書かれていたことの成就であることを悟り、「聖書とイエスの語られた言葉を信じた」のです。

神殿宗教の克服

 イエスがエルサレム神殿で行われたこの象徴行為と、その行為の中で語られた「わたしは別の神殿を起こす」という言葉は、神殿宗教の時代が終わったことを宣言する重要な意味を担っています。その「別の神殿」とは、復活者イエス・キリストに他なりません。壮大な神殿で神を礼拝するのではなく、復活者イエス・キリストが神を礼拝する場となったことを、ヨハネ福音書は世界に告知するのです。
 神殿は祭儀を行う場所です。神を礼拝して、神との関わりを維持するために、神から求められているとされる祭儀を行う場所が神殿です。神と人間との関わりを維持するための人間の営みを「宗教」と呼ぶならば、祭儀こそ宗教の中身です。そして、その祭儀が行われる神殿は、そこに「宗教」が具体的にその姿を現す場所です。
 霊的存在である神または神々との関わりを確立するのに、風のように自由に働く霊の働きだけに依り頼むことは、人間には耐えられないようです。何らかの確実な形が欲しいのです。この行為をしておれば、それで神との関わりは確保されるという客観的な形式が欲しいのです。それで、その客観的な形式として祭儀が行われるようになります。
 祭儀にも様々な内容がありますが、一番普遍的な形は「献げ物」を神または神々(礼拝の対象)に捧げるという形でしょう。「献げ物」には、神の恵みに対する感謝の献げ物とか、人間の罪とか汚れを清めるための贖いの献げ物とか、様々な種類があります。様々な「献げ物」を捧げて神または神々の好意を確保しようとする人間の営みが宗教であると言っても過言ではないでしょう。
 そして、その宗教的営みが社会の結合原理であるところでは、社会を支配する権力が大きくなればなるほど、その営みの場である神殿も巨大になっていきます。神殿こそ権力の基盤であり、またその象徴であるからです。人々は巨大な神殿の前で、驚き、ひれ伏し、そこに体現されている力を神として拝みます。古代文明の巨大遺跡はたいてい神殿の遺跡です。たとえば、エジプトのカルナック神殿遺跡の巨大な列柱の間に立つとき、わたしたちはこのことを実感します。
 このように神殿において集中的に具現されている祭儀体系としての宗教を「神殿宗教」と呼ぶならば、イエスの行為は、「神殿宗教」の終焉(しゅうえん)を象徴し、告知するものです。イエスの復活により、神殿で神を礼拝する時代は終わったのです。イエスはサマリアの女に言われました、「この山でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝する時が来る」(四・二一)。「この山」というのはサマリア教徒が神を礼拝していたゲリジム山の神殿を指します。「エルサレム」はユダヤ教徒が礼拝していたエルサレム神殿を指します。そのような神殿で神を礼拝する時代は終わりました。
 神殿という場所が不要になっただけでなく、サマリア教とかユダヤ教というような宗教の区別も相対化されています。イエスは続いて言われます、「まことの礼拝をする者たちが霊と真理によって父を礼拝する時が来るであろう。いや今がその時である。実に父はこのように礼拝する者たちを求めておられるのである。神は霊である。神を礼拝する者は霊と真理によって礼拝しなければならない」(四・二三〜二四)。復活者イエス・キリストにあって、このキリストを通して与えられる御霊によって、父なる神との交わりの現実に生きることが「霊と真理によって父を礼拝する」ことです。その御霊の現実において、象徴である祭儀は真理(リアリティー)となり、宗教はその目標に到達します。イエスの復活によって「その時」が来たのです。これはヨハネ福音書の主要な使信の一つです(詳しくは四章の当該箇所の講解に譲ります)。
 このように「神殿宗教」を乗り越えて「御霊と真理によって父を礼拝する時」、神殿宗教の体制からの迫害、あるいは神殿宗教の原理によって成り立っている社会からの批判や蔑視を覚悟しなければなりません。イエスはそのために生命を捧げられました。わたしたちも神殿宗教を克服して、「御霊と真理によって父を礼拝する」ためには、生涯をかけて戦う覚悟を求められていることを忘れてはなりません。

はじめに置かれた二つの「しるし」

 ヨハネ福音書で「しるし」とは、前述したように、イエスの神的本質を指し示す記号としての意味をもつ奇跡を指しています。その意味からすれば、神殿でのイエスの行為は奇跡ではないので、「しるし」とは言えません。著者も、カナで水をぶどう酒に変えられた奇跡を「最初のしるし」とし、四章の役人の息子の癒しを「二回目のしるし」としていて、この神殿での行為は「しるし」としていません。
 しかし、ここで見たように、この行為の象徴的意義を考えますと、この神殿での行為を、カナの婚礼で行われた「しるし」と並べて最初に置いた著者の意図を考えないではおれません。この二つの出来事には、強い共通点があります。それは、律法順守を原理とするユダヤ教の時代が終わって、復活者イエス・キリストによって父との交わりに生きる新しい時代が始まっているという使信です。「しるし」という語を、(奇跡でなくても)霊的な現実を指し示す象徴行為も指すと広く理解するならば、神殿での行為も「しるし」と言えます。著者はこの二つの「しるし」を、イエスの宣教の働きの最初に置くことで、この福音書の主要な使信を指し示していることになります。

神殿での象徴行為はいつ行われたのか

 ところで、このエルサレム神殿におけるイエスの過激な預言者的象徴行為は、共観福音書が伝えるように十字架の死の過越祭のときのことでしょうか、それともヨハネ福音書が伝えるようにイエスの宣教活動の初期の出来事でしょうか。マタイとルカは、イエスの生涯の枠組みについてはマルコに従っていますから、問題はマルコの語るところか、ヨハネの伝えるところか、どちらが歴史的な事実かということになります。同じ危険な預言者的象徴行為が二回繰り返されたことは考えにくいので(マルコもヨハネも象徴行為は一回であることを当然として描いています)、どちらかが事実であるとしなければなりません。
 マルコは、イエスが公の宣教活動の期間中にエルサレムに上られたのは最後の死の過越祭だけとしていますので、神殿での象徴行為がいつ行われたものであっても、この重要な象徴行為を省略しないで語るためには、それを最後の過越祭の時としなければなりません。それ以外の選択肢はありません。ところが、ヨハネはイエスが何回もエルサレムに上られたことを伝えていますから、その中で最初のエルサレムでの活動の時に置いたのは、それが歴史的な事実であったからか、または(事実ではないが)何らかの意図でそこに置いたのか、どちらかでしょう。ヨハネはマルコ福音書を知っていると考えられますので、マルコがこの行為を死の過越のときに置いて逮捕の直接の理由としている(マルコ一一・一八)のに対して、それを初期に持ってくるのは重大な理由がなければなりません。その理由は推察する他はありませんが、エルサレムの住人としてエルサレムでのイエスの働きをよく知っているヨハネが、エルサレムでのイエスの働きについては不正確なマルコを訂正しようとしたという動機が考えられます。十字架の日付という重要な問題でも、ヨハネはマルコを修正しています。マルコを知っているヨハネがこの行為を初期に置いたのは、それが歴史的事実であったからだという理由を推察するのが順当でしょう。
 ヨハネ福音書の構成では、この神殿での象徴行為(二章)はイエスがサマリアを通ってガリラヤに至り(四章)、そこで本格的な活動を始められる前のことになります。マルコ福音書で言えば、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音を宣べ伝えた」(マルコ一・一四)という出来事よりも前の時期になります。この時期のことはマルコは何も伝えていませんが、ヨハネ福音書はかなり詳しく伝えています。この時期は、洗礼者ヨハネはまだ投獄されておらず、イエスも自らバプテスマを授けるなど(三・二二、四・一)、洗礼者ヨハネと深い関わりをもって活動されていた時期になります。そうすると、この時期の神殿での象徴行為も、洗礼者ヨハネのバプテスマ運動の中での行為と見ることができます。
 洗礼者ヨハネはクムランのエッセネ派の出身ではないかと推察されています。少なくとも、新約聖書の登場人物の中でエッセネ派にもっとも近い人物であることは広く認められています。エッセネ派はもともとエルサレムの大祭司を非正統の大祭司として批判し対立した宗団ですから、洗礼者ヨハネがエルサレム神殿に対して厳しい批判を行い、火による審判の預言もエルサレム神殿とその体制に向けたと見ることもできます。イエスも洗礼者ヨハネと共に預言者的な活動を進めておられた時期に、エルサレム神殿でその崩壊を預言する象徴行為をされたと見ることは十分可能になってきます。その場合、イエスは洗礼者ヨハネの弟子の中で、師の精神をもっとも尖鋭な形で表現した弟子ということになります。
 イエスはガリラヤに行かれてからはもはやバプテスマを授けることはなく、またバプテスマについて語ることもなく、神の支配について洗礼者ヨハネとは違う独自の宣教を開始されています。神殿での過激な象徴行為は、そういう時期の最後にあったと見るよりは、それ以前の洗礼者ヨハネと協力しておられた時期にあったと見る方が自然だとも言えます。
 この象徴行為を初期にもってくることの難点は、このような過激な行為がなされた後に、逮捕されることもなく数年間にわたって宣教活動ができたと見ることは困難ではないかという問題です。マルコでは、この行為の後すぐに逮捕されて裁判にかけられることになっています。この方が理解しやすいのは事実です。しかし、このような行為の後ではエルサレムで活動することは困難ですから、イエスはガリラヤに去って、エルサレム神殿の権力が直接及ばないヘロデの領地のガリラヤで活動されたと見ることができます。そう見ると、イエスのガリラヤ宣教の期間中、エルサレムから派遣された律法学者たちがイエスを監視していたという記述が福音書に繰り返し出てくるのも理解しやすくなります。エルサレム神殿の権力者たちは洗礼者ヨハネの運動を警戒し、監視団を送っています(一・一九)。洗礼者ヨハネの弟子であり、あの神殿で過激な行為をしたイエスを彼らが警戒するのは当然です。彼らは監視団をガリラヤに送り、イエスの宣教に律法違反がないかどうかを探り、何とか訴える口実を見つけようとします。しかし、ガリラヤでは民衆の支持が強く、逮捕を強行することはできませんでした。
 以上の諸点を考慮すると、神殿での預言者的象徴行為は、歴史的事実としては、イエスが洗礼者ヨハネと協力しておられた初期の出来事であると見る方が適切であると考えられます。

現代の聖書学者はほとんど、イエスの生涯と活動の枠組みについては、マルコが歴史的であるとして、ヨハネはあまり信用していません。しかし、タチアノスの「調和福音書」以来、古来からヨハネ福音書をイエスの生涯の枠組みとして用いる見方もあります。最近では、E・シュタウファー『イエス―その人と歴史』(高柳訳・日本基督教団出版部)が、イエスの活動をヨハネ福音書に基づいて構成し、この神殿での行為を初期にもってきています。また、井上洋治『わが師イエスの生涯』も、この行為を洗礼者ヨハネの弟子の時代のイエスの行為としています。

6 エルサレムでの活動(2章 23〜25節)

 23 イエスは過越祭のとき祭りの期間中はエルサレムにおられたが、イエスのなされたしるしを見て、多くの人が彼の名を信じた。 24 しかし、イエスご自身は彼らにご自分をお委ねにはならなかった。イエスはすべての人を知っておられ、 25 誰かが人について証しをする必要がなかったからである。彼はご自身で、人の中には何があるのかをよくご存じだったのである。

人間を知るイエス

 イエスは過越祭のとき祭りの期間中はエルサレムにおられたが、イエスのなされたしるしを見て、多くの人が彼の名を信じた。(二三節)

 過越祭では、過越の羊を食べるニサンの月(現行暦の三月から四月)の十五日から七日間、種を入れないパンを食べる除酵祭が続きます。この「祭りの期間中」は、巡礼のユダヤ人たちはエルサレムに留まることになっています。イエスもこの規定に従い、「祭りの期間中はエルサレムにおられた」のです。
 イエスは、エルサレムにおられる間にいくつかの奇跡を行われます(「イエスのなされたしるし」は複数形です)。ヨハネ福音書では、イエスはおもにエルサレムで奇跡の業を行っておられます。この点は、ほとんどの奇跡をガリラヤで行われたとする共観福音書と異なっています。ヨハネ福音書では、ガリラヤの人たちもイエスが祭りのときにエルサレムでなされたしるしを見ていたので、イエスがガリラヤに来られたとき歓迎したとされているほどです(四・四五)。
 イエスがなされた「しるし」を見て、エルサレムの人たちの多くの者が「その名を信じた」とされます。「名を信じる」という表現はヨハネ系文書だけの特色です。(一・一二、三・一八、T三・二三、T五・一三)。名は本来中身を指し示す言葉です。「イエスの名を信じる」というのは、神から遣わされた方としてのイエスの神的本質を受け入れることを意味しています。
 エルサレムの多くの人たちがイエスを信じたことは、ヨハネ福音書だけが伝える事実です。共観福音書では、イエスは最後の過越祭までエルサレムには来ておられないので、十字架以前にはエルサレムの住民には誰もイエスを信じる者はいないことになります。ヨハネ福音書が伝えるように、イエスの地上の働きの期間中すでに、エルサレムにイエスを信じる者が多数いたと見る方が、イエスの復活後すぐにエルサレム原始教団が成立したことが理解しやくすくなります。

 しかし、イエスご自身は彼らにご自分をお委ねにはならなかった。イエスはすべての人を知っておられ、誰かが人について証をする必要がなかったからである。彼はご自身で、人の中には何があるのかをよくご存じだったのである。(二四〜二五節)

 ところがここで著者は、著者の立場からする説明を加えます。「しかし、イエスご自身は彼らにご自分をお委ねにはならなかった」(二四節前半)。「委ねる」と訳した動詞は、前節の「多くの人が彼の名を信じた」という文の「信じる」と同じ動詞ですが、「彼らに自分を」という句が付いているので、「かれらに自分を委ねる(任せる)」という意味に理解します。著者は、一方では「しるし」を見て信じるように求めていますが、他方それだけでは弟子としてイエスとの信頼関係に入ることはできないとしています。そのことは、次のニコデモとの対話でも明らかになります。ニコデモはイエスがなされた「しるし」を見て、イエスが「神から来られた教師である」ことを認め、イエスのもとに来るのですが(三・二)、イエスの弟子として、イエスと共に歩むには肝心なこと(御霊による新生)が分かっていないことが明らかにされます。
 著者は「イエスご自身は彼らにご自分をお委ねにはならなかった」理由を続けます。「イエスはすべての人を知っておられ、誰かが人について証しをする必要がなかったからである」(二四節後半〜二五節前半)。直訳では「イエスはすべてを知っておられる」となりますが、ここの「すべて」は中性名詞ではなく男性名詞であるので、「すべての人」と理解すべきでしょう。その意味は、二五節の「人の中には何があるのかをよくご存じであった」と同じく、人間の本性をよく理解しておられたということです。それで、「誰かが人について証しをする必要がなかった」、すなわち、彼以外の誰かが、人間の本性について彼に説明したり証明したりする必要がなかったということです。
 著者は最後にもう一度、イエスが人間の本性を熟知しておられることを繰り返します。「彼はご自身で、人の中には何があるのかをよくご存じだったのである」(二五節後半)。イエスが人間本性を深く洞察しておられることを強調するこの段落は、内容からすると、三章の「ニコデモとの対話」の導入部と見る方が適切でしょう。