市川喜一著作集 > 第15巻 対話編・永遠の命T > 第3講

第一部 救済者の地上の働き 




第一章 イエスの宣教開始

        ―― ヨハネ福音書 一章(一九〜五一節)――




第一節 洗礼者ヨハネの証し 

はじめに

 福音書の冒頭に、共同体でうたわれているロゴス賛歌(一・一〜一八)を置いて、復活者イエス・キリストを賛美した著者ヨハネは、すでにその中に「まことの光」であるイエス・キリストについて証言する証人としての洗礼者ヨハネの姿を組み込んでいました(六〜八節と一五節)。序詩をうたい終えて、その方の地上の働きを語り始めますが、その物語は序詩に姿を現していた洗礼者ヨハネの証言から始まります。死の闇から人々を救い出すために世に来られたキリスト・イエスの地上の働きを描く部分は、一二章まで続き、この部分(一章一九節〜一二章)が福音書の第一部を構成します。イエスの地上の働きを描くにさいして、共観福音書がガリラヤを舞台にしているのに対して、ヨハネ福音書はエルサレムをおもな舞台としていることが大きな違いです。

2 洗礼者ヨハネの証し (1章 19〜34節) 

 19 さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちがエルサレムから祭司たちとレビ人たちをヨハネのもとに遣わして、「あなたは誰か」とたずねさせた時、 20 彼は隠さず言い表し、「わたしはメシアではない」と言い表した。 21彼らはさらに、「では、誰なのか。あなたはエリヤなのか」と彼にたずねると、ヨハネは言う、「そうではない」。「では、あなたはあの預言者なのか」とたずねると、「いや違う」と彼は答えた。 22 そこで、彼らは彼に言った、「では、いったい誰なのか。わたしたちを遣わした人たちに、わたしたちが答をするためだが、あなたは自分を誰だと言うのか」。 23 ヨハネは言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道を真っ直ぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」。 24 彼らはファリサイ派の人たちから遣わされていた。
 25 彼らがヨハネをさらに問いつめて、「あなたがメシアでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないのなら、どうしてバプテスマしているのか」と言うと、 26 ヨハネは答えて言った、「わたしは水でバプテスマしているが、あなたがたの間に、あなたがたが知らない者が立っている。 27 わたしより後に来ようとしている方で、わたしはその方の履物の紐を解く値打ちもない」。 28 これはヨルダン川の向こう側のベタニアでの出来事である。ヨハネはそこでバプテスマしていたのである。
 29 その翌日、彼はイエスが自分の方に来るのを見て言う、「見よ、世の罪を負う神の小羊。 30 『わたしの後に一人の人が来られる。その方はわたしより優れた者とされている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。 31 わたしもこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは来て、水でバプテスマしているのである。
 32 また、ヨハネは証しして言った、「わたしは御霊が鳩のように天から降り、この方の上に留まるのを見た。 33 わたしも彼を知らなかった。しかし、水でバプテスマするようにわたしを遣わされたその方が、わたしに言われた。『御霊が降って、ある人の上に留まるのを見たら、その人こそ聖霊によってバプテスマする方である』。 34 わたしは見たので、この方こそ神の子であると証ししたのである」。

洗礼者ヨハネ

 さて、ヨハネの証しはこうである。(一九節前半)

 イエスを復活者キリストと宣べ伝える最初期の福音宣教は、洗礼者ヨハネの出現から始まるのが通例でした。そのことは、最初期の宣教の原型を示していると言われるコルネリオ宅でのペトロの説教(使徒言行録一〇・三四〜四三)にも現れています。最初に成立した福音書であるマルコ福音書は、この型に従って、イエスの物語を洗礼者ヨハネの出現と活動から書き始めています。マタイとルカは、地上のイエスの生涯を語るのにさいして、伝記としての形をより完全にするために、それぞれの執筆意図にふさわしい内容の誕生物語を前に置いていますが、イエスの宣教活動を洗礼者ヨハネの活動から説き起こすことは同じです。ヨハネ福音書は、誕生物語を置かず、初期の福音宣教の型通りに、洗礼者ヨハネの活動から始めている点でマルコ福音書と共通しています。
 このように四福音書はみな、イエスの物語を洗礼者ヨハネから始める点では同じですが、洗礼者ヨハネについての報告の仕方はそれぞれ違います。洗礼者ヨハネの歴史的な実像を、不完全ながら比較的よく伝えているのはマタイとルカです。それによると、洗礼者ヨハネは終末の神の裁きが切迫していることを宣べ伝え、激しい言葉で悔い改めを迫り、悔い改めのしるしとしてバプテスマを受けることを求めた預言者でした。

洗礼者ヨハネの実際の活動に関するマタイとルカの記事は、「語録資料Q」から取られていると見られます。イエスの語録集を形成したユダヤ人の信仰運動は、自分たちと同じくユダヤ教会堂に受け入れられないで敵視される洗礼者ヨハネを、イエスと同じ戦線に立つ同志として扱うようになり、ヨハネに関する伝承を集め含むようになったと見られます。この点に関しては、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語――マタイ福音書講解』の洗礼者ヨハネに関する箇所を参照してください。ヨハネ福音書の著者またはヨハネ共同体が「語録資料Q」を知っていたかどうかは不明です。おそらく知らなかったと見てよいでしょう。共観福音書を知っていたかどうかは微妙な問題です。
 イエスを復活者キリストと告白する教団は、この洗礼者ヨハネが予告した自分の直後に現れて火をもって裁きを行う者を、キリストであるイエスを指す預言であると解釈して、洗礼者ヨハネをキリスト・イエスの先駆者と位置づけました。そして、洗礼者ヨハネが「火でバプテスマする」と、火の象徴を用いて語った終末的な裁き(または清め)を、復活者キリストが聖霊を注ぐ方であることを預言する言葉として伝えました。最初の福音書マルコは、洗礼者ヨハネの預言をこの一点に絞っています(マルコ一・七〜八)。
ヨハネ福音書も、洗礼者ヨハネの実際の終末審判の預言をすべて省略し、キリストへの証言としてだけ扱っています。この点で、ヨハネ福音書はマルコ福音書と同じ線上にあります。ただ、マルコ福音書が聖霊によるバプテスマの預言だけに絞っているのと比べると、ヨハネ福音書はやや詳しく洗礼者ヨハネのキリスト証言を書いています。ヨハネ福音書を生み出した共同体は、(後で見るように)洗礼者ヨハネと深い関わりを持った共同体であったので、他の福音書と比べると、イエスに対する洗礼者ヨハネの証言を重視する傾向があったと見られます。
 すでに序詩で、光についての証人として洗礼者ヨハネの出現を取り上げた著者は、「さて、ヨハネの証しはこうである」(一九節前半)と言って、洗礼者ヨハネの証言を詳しく伝えます(一九〜三四節)。

荒野で叫ぶ声

 ユダヤ人たちがエルサレムから祭司たちとレビ人たちをヨハネのもとに遣わして、「あなたは誰か」とたずねさせた時、彼は隠さず言い表し、「わたしはメシアではない」と言い表した。(一九節後半〜二〇節)

 ヨハネ福音書が洗礼者ヨハネについて最初に強調する点は、洗礼者ヨハネはメシアではないということです(一九〜二八節)。このような書き方は、当時洗礼者ヨハネをメシアと信じる人々がかなりいたことを示唆しています。事実、諸福音書が成立するまでの時期に、洗礼者ヨハネをメシアとして奉じる宗団がパレスチナで活動しており、イエスをメシア・キリストと告白する共同体と競合していました。

洗礼者ヨハネを神から遣わされた啓示者と仰ぎ、そのバプテスマを救いの契機として重視する洗礼教団が、後にグノーシス主義的な傾向を強め、「マンダ」(《グノーシス》と同じ意味の語で認識を指す)を得ることを救済とする「マンダ教」となります。マンダ教団は、洗礼を中心とする典礼を行い(それで彼らは川の近くに定住しました)、マンダ語(南東アラム語方言の一つ)で書かれた聖典を残しています。このマンダ教徒はごく少数ながらイラクを中心に現存しています。ブルトマンは、このマンダ教文書とヨハネ福音書の関係を指摘しましたが、この説は無理だとして現在では認められていません。

 イエスをメシア・キリストと宣べ伝えるためには、当時多くのユダヤ人からメシアではないかと期待された洗礼者ヨハネ(ルカ三・一五)がメシアでないことを明らかにしなければなりません。ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネがメシアでないことを、洗礼者ヨハネ自身の口で語らせます(一九〜二〇節)。
 「ユダヤ人たちがエルサレムから祭司たちとレビ人たちをヨハネのもとに遣わし」とありますが、この福音書では「ユダヤ人」というのは、イエスとイエスを信じる者の共同体に敵対する勢力、とくにその指導階層を指します。彼らの本拠地はエルサレムです。イエスが活動された当時のユダヤ教指導層は、民衆に大きな影響を及ぼしているカリスマ的な宣教者を警戒し、その教えに律法違反がないか、その運動が反ローマのメシア運動としてローマの支配層から嫌疑をかけられないか、神経質になっていたようです。イエスの場合も、エルサレムから律法学者が派遣されて、イエスの宣教を監視したことが,共観福音書に伝えられています(マタイ一五・一など)。

派遣された者は「祭司たちとレビ人たち」とあります。「祭司」は神殿の祭儀をとり行う者たちで、ここではレビ人と組みになって律法の専門家として扱われています。「レビ人」というのは、祭司が神殿の祭儀を行うさいにその下働きをしたり、神殿警護の任務を果たす階層の人たちです。

 洗礼者ヨハネは、「あなたは誰か」とたずねるこの監視団に対して、はっきりと「わたしはメシアではない」と言い表します。この洗礼者ヨハネの答えから逆に、彼らの「あなたは誰か」という質問は、「お前は自分をメシアとしているのか」という尋問であることが推察できます。それに対して洗礼者ヨハネは、隠すことなく「わたしはメシアではない」と言い表します。この「言い表す」という動詞は法廷用語で、公式に証言するという意味で用いられています。

 彼らはさらに、「では、誰なのか。あなたはエリヤなのか」と彼にたずねると、ヨハネは言う、「そうではない」。(二一節前半)

 エリヤは王国時代に活躍した大預言者であり、預言者を代表する預言者です。エリヤは火の車に乗って天に昇ったと伝えられており(列王記下二章)、終わりの日メシアが現れる前に天から下ってきて、メシアの出現を準備すると期待されていました(マラキ三・二三)。そのエリヤかという質問に、洗礼者ヨハネは、「そうではない」と答えます。

共観福音書には、洗礼者ヨハネをエリヤだとする初期の教団の見方を伝える記事がありますが(マタイ一一・一四)、ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネ自身は自分をエリヤではないとしていると伝えます。ヨハネ福音書でエリヤの名が出てくるのはここだけで、他では扱われていません。

 「では、あなたはあの預言者なのか」とたずねると、「いや違う」と彼は答えた。(二一節後半)

 エルサレムから派遣された審問官が、「では、あなたはあの預言者なのか」とたずねると、彼は「いや違う」と答えます(二一節後半)。「あの預言者」というのは、申命記一八章(一五〜一八節)で、モーセが「わたしのような預言者」が立てられることを預言したことに基づいて、終わりの日にイスラエルに出現すると待ち望まれていたモーセのような預言者を指します。

当時のユダヤ教において、申命記のこの箇所が終末的な指導者を指す預言とされていたことは、死海文書の中の証言集(4Q175)に引用されていることからもうかがわれます。この「証言集」 Testimonia (成立は前一世紀初期)は、終わりの日のメシア的人物の預言として、申命記五・二八〜二九、一八・一八〜一九、三三・八〜一一、民数記二四・一五〜一七、ヨシュア記六・二六を列挙しています。

 そこで、彼らは彼に言った、「では、いったい誰なのか。わたしたちを遣わした人たちに、わたしたちが答をするためだが、あなたは自分を誰だと言うのか」。ヨハネは言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道を真っ直ぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」。 (二二〜二三節)

 洗礼者ヨハネの宣教をイザヤ(四〇章三節)の預言で意義づけるのは、共観福音書と同じです(マルコ一・三とその並行箇所)。洗礼者ヨハネは「ユダの荒野に現れて、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野密を食べていた」のですから、彼をイザヤの「荒野で叫ぶ声」預言の成就としたのは自然であり、これは初期の教団の共通の伝承であったと見られます。ヨハネ福音書もこの伝承を取り入れます。ただ、共観福音書ではこの「荒野で叫ぶ声」はメシアの道を準備する使者と意義づけられている(マルコ一・二、マタイ一一・一〇)のに対して、ヨハネ福音書の文脈では、メシアとかエリヤとか「あの預言者」というような終末的救済者ではなく、荒野で叫ぶ一人の預言者にすぎないという、洗礼者ヨハネ自身の謙虚な告白を意味することになります。

二一節は二五節に自然につながるので、二二〜二四節は後の時代の編集者による挿入であると見ることもできます。そうだとすると、編集者は主流教会で一般的なイザヤ預言の成就という伝承を取り入れて(二二〜二三節)、調和を図ったとも考えられます。
 さらに、「彼らはファリサイ派の人たちから遣わされていた」(二四節)という説明が挿入されています。ここは「遣わされていた人たちはファリサイ派の者たちであった」(協会訳、新共同訳)という訳も可能です。しかし、一九節には「ユダヤ人たちがエルサレムから祭司たちとレビ人たちをヨハネのもとに遣わし」とありました。祭司たちは大体サドカイ派であり、レビ人もファリサイ派ではないので、この訳は不適切です。私訳の方も、ファリサイ派が反対の立場の祭司やレビ人を派遣するのは不自然ですし、ファリサイ派がそのような査問の使節を派遣する権限をもっていたとも考えられないので、当時の現実とは合わない面があります。二四節は、当時のユダヤ教諸派の実情を知らない後の編集者による挿入であると見られます。七〇年以後の編集者にとって、対立するユダヤ教指導層は「ファリサイ派」だけですから、エルサレムのユダヤ教指導層が(イエスの時代の実情を無視して)ファリサイ派と呼ばれることになります。

なぜバプテスマするのか

 彼らがヨハネをさらに問いつめて、「あなたがメシアでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないのなら、どうしてバプテスマしているのか」と言うと、(二五節)

 彼らは、「あなたがメシアでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないのなら、どうしてバプテスマしているのか」と、ヨハネをさらに問いつめます(二五節)。この尋問は二一節に自然に続きます。洗礼者ヨハネは、自分がメシアとかエリヤとか「あの預言者」というような終末的な救済者でないことをはっきりと表明しました。ではなぜバプテスマをするのか、と審問官は追求します。これは、エゼキエル(三六・二四〜二八)やゼカリヤ(一三・一)などの預言によって、終わりの日に清めの水を注いで民を清め、神の民を集めるのは、メシアまたはその先駆者というような終末的救済者の業であるとされていたからです。そのような者でないと自分で言うお前が、どうしてバプテスマをするのかという尋問です。

 ヨハネは答えて言った、「わたしは水でバプテスマしているが、あなたがたの間に、あなたがたが知らない者が立っている。わたしより後に来ようとしている方で、わたしはその方の履物の紐を解く値打ちもない」。(二六〜二七節)

 洗礼者ヨハネは、預言の解釈を争うことはしないで、自分が行っているバプテスマの意味を端的に言い表します。すなわち、自分が水でバプテスマをしているのは、「わたしより後に来ようとしている方で、わたしはその方の履物の紐を解く値打ちもない」方を指し示すためである、というのです。この表現は共観福音書にある洗礼者ヨハネの言葉(マルコ一・七)と同じです。
 しかも、その方はすでに「あなたがたの間に、あなたがたが知らない者として、立っている」と証言します。洗礼者ヨハネが指し示す「わたしより後に来ようとしている方で、わたしはその方の履物の紐を解く値打ちもない方」とは、何百年も後に出現する方ではなくて、すでに「あなたがたの間に立っている」方、すなわち、あなたがたと同時代の人物だというのです。ただ、あなたたちはその方を理解せず、受け入れることもしないので、その方は「あなたがたが知らない者」としてとどまっているのです。
 これは、ヨハネ共同体がユダヤ人に向かって語りたいことを、洗礼者ヨハネに語らせているのです。洗礼者ヨハネの後にイスラエルに現れたイエスこそ、洗礼者ヨハネが自分よりも限りなく優れた方であると証言し、その意義を証言した方であるのに、ユダヤ人は自分と同時代のイエスがそのような方であることを理解せず、受け入れることなく、ついに十字架につけてしまいました。イエスは最後まで「あなたがたが知らない者」であったのです。
 「わたしは水でバプテスマしているが」という言い方は、「わたしの後に来ようとしている、わたしより限りなく優れた方」は、水でする以上のバプテスマをする方であるということを示唆しています。そして、その意味はすぐ後で、「聖霊によってバプテスマする方」(三三節)という表現で明示されます。しかし、そのことを語る前に、その方が「聖霊によってバプテスマする方」となるために通られる道、「世の罪を負う神の小羊」(二九節)の道が証言されることになります。この二つの証言が、洗礼者ヨハネの「来るべき方」についての証言であり、実にこの二つはキリスト証言の典型です。洗礼者ヨハネは、この福音書ではキリスト・イエスを証言する者の代表、模範的証言者とされるのです。

 これはヨルダン川の向こう側のベタニアでの出来事である。ヨハネはそこでバプテスマしていたのである。(二八節)。

 ここで本文に、この出来事があった場所の説明が加えられています「ヨルダン川の向こう側のベタニア」とはどこを指すのか不明です。イエスが泊まられたエルサレム近くのベタニアとは違います。ヨハネ福音書では、大きな出来事や長い講話の後に、それを締めくくるように、そのことが行われた場所を示す傾向があります(他に六・五九や八・二〇など)。これは、その出来事が作り話ではなく、この地上での具体的な出来事であることを印象づけるための著者の手法であると見られます。

世の罪を負う神の小羊

 その翌日、彼はイエスが自分の方に来るのを見て言う、「見よ、世の罪を負う神の小羊」。(二九節)

 「その翌日」という出来事の時を指す表現が、ここから三回続きます(二九、三五、四三節)。この句によって、洗礼者ヨハネとイエスの出会いに関する物語(一・一九〜五一)が四つの区分に分けられることになります。これは必ずしも四日という時間の長さを示すのではなく、順次に継起して起こった出来事を区分するためのマークだと理解してよいでしょう。その四つの区分とは、1洗礼者ヨハネの自分に関する証言(一九〜二八節)、2洗礼者ヨハネのイエスに関する証言(二九〜三四節)、3ヨハネの弟子からイエスの弟子へ(三五〜四二節)、4フィリポとナタナエルが弟子となる(四三〜五一節)です。

この三回の「その翌日」と二章一節の「三日目に」を合わせて、一章一九節〜二章一二節を七日間に起こった一連の出来事を語るひとまとまりとし、それをイエスの登場を物語る七日間と見て、この世からの退場を物語る受難週の七日間と対応させる見方があります。この見方については二章で改めて扱うことにして、ここでは洗礼者ヨハネとイエスの出会いに関する物語を区分するマークとしてだけ扱っていきます。

 ここで初めてイエスが舞台に登場されます。共観福音書では、「イエスはガリラヤのナザレから来て」(マルコ一・九)と、イエスの出身地を示していますが、ヨハネ福音書にはそのような地上のイエスに関する記述はいっさいありません。洗礼者ヨハネとイエスの間のやりとりはなく、イエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた記事もありません。この福音書における洗礼者ヨハネとイエスの出会いの記事は、洗礼者ヨハネのイエスについての証言だけに限られています。
 ここでイエスが初めて登場されるのですが、イエスとはどのような方であるのか、地上のイエスを紹介する記事はまったくありません。読者はイエスを熟知しているものとして物語が始まります。そして、物語が進むにつれて、イエスの出身地や家族、経歴や職業、容貌や体型などがだんだんと詳しく分かってくるということもありません。初めから終わりまで、「イエス」という名をあげれば、読者はどのような方であるかを熟知しているものとして、物語は進みます。それは、この福音書の「イエス」は、復活して今も読者の中に働いておられるイエスを指しているからです。そのイエスは、地上に現れるとき、このようにして登場されたのだと語るのです。
 地上のイエスを物語るという形で復活者キリストを告知するという性格は、どの福音書も同じです。しかし、他の福音書に比べると、このヨハネ福音書は、世にイエスを紹介するというより、信じる者たちの共同体に復活者キリストを証言して信仰を励ますという性格が、とくに徹底していると見られます。
 こうして、イエスが自分の方に来られるのを見て、洗礼者ヨハネが「見よ、世の罪を負う神の小羊」と言ったとされるとき、洗礼者ヨハネの指が指し示すイエスは復活者イエスであることを見誤ってはなりません。今復活者としてわたしたちの中に働いておられるイエスは、実に「世の罪を負う神の小羊」として地上に現れ、その生涯を送られたのだと、洗礼者ヨハネは証言するのです。言うまでもなく、これは十字架の死にいたる地上のイエスの姿を指しています。この一言によって、洗礼者ヨハネはイエスの生涯の意義のすべてを言い表すのです。
 この証言は、実に新約聖書全体のキリスト証言を要約しています。まず、エルサレムの原始教団で成立したと見られる最初期のケリュグマ(宣教)は、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(コリントI一五・三〜五)と述べています。これは、「死に、葬られ、復活し、現れた」と出来事の順序を追っていますが、要するに復活者キリストが地上では十字架につけられて死なれたのは「わたしたちの罪のため」であるという、キリストの出来事の意義を告知しているのです。
 続いてパウロは、「十字架につけられたままのキリスト」(ガラテヤ三・一)を宣べ伝えます。パウロが宣べ伝えるキリストは、復活して今も働いておられる霊なるキリストです。そのキリストがわたしたちのための死を身に負っておられるのだと告知するのです。そして、その十字架の死の意義を明らかにしてこう言います。「神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、肉にある罪を断罪されたのです」(ローマ八・三)。パウロが告知するキリストの福音は、エルサレム原始教団のケリュグマと同じ線上にあります。パウロ書簡(とくにローマ書)の講解で繰り返し見たように、罪についてのパウロの理解は、エルサレム原始教団のケリュグマがそこに留まっている当時のユダヤ教の罪理解を超えています。したがって罪からの解放という贖罪理解も独自の内容をもっています。しかし、復活者キリストの十字架の死が、信じる者にとって罪と死の支配からの救いであるという告知は同じです。
 ヨハネ福音書は、このキリストを「世の罪を負う神の小羊」と表現します。ヨハネ福音書は、理想的な証人である洗礼者ヨハネの口を通してこう証言します。ここで「小羊」という象徴が用いられていますが、これは言うまでもなく、旧約聖書の祭儀の中に深く組み込まれている犠牲の小羊を背景にしています。
 まず何よりこの「小羊」は過越の小羊を指しています。ユダヤ教の三大巡礼祭の一つである春の過越祭は、昔イスラエルが奴隷の家エジプトから救い出されたことを記念する祭りですが、この祭りでは一歳の雄の小羊が犠牲として屠られ、家族または巡礼者のグループごとに過越の食事の中で食べられました(出エジプト記一二章)。エジプト中の家が死の使いに打たれて初子が死んで嘆いていた中で、犠牲の小羊の血が入り口の柱と鴨居に塗られているイスラエルの民の家は、死の使いが過ぎ越して初子が死を免れたのです。この犠牲の小羊のおかげでイスラエルの民はエジプトから脱出することができました。
 イエスの十字架上の死が過越の小羊としての犠牲であることは、どの福音書も強調してやまないところです。イエスご自身が過越祭の時期を選んでエルサレムに上り、過越の食事の席でご自分の死の意義を語っておられます。ヨハネ福音書は、イエスの十字架が(共観福音書よりも一日早く)まさに神殿で過越の羊が屠られる時であったとすることで、イエスの死が過越の小羊としての犠牲であったことを強烈に印象づけています。パウロが、「キリストはわたしたちの過越の小羊として屠られた」(コリントT五・七)と言うとき、それは初期の教団共通の告白を引用しているのです。ヨハネ福音書の「小羊」も、この共通の理解を表明しています。
 ところで、洗礼者ヨハネの証言には、この小羊が「世の罪を負う」小羊であるという説明がついています。この表現は、レビ記一六章の「贖罪日」の山羊の姿から来ています。年に一度(第七の月の十日)、祭司は雄山羊二匹を取り、一匹を屠ってその血を「贖いの座」などに注いで、民の罪のために汚された聖所を清めます。そして、もう一匹の雄山羊の頭に両手を置いて、民の罪を告白し、罪をその雄山羊に移し、荒野の奥へ追いやります。「雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く」(レビ一六・二二)ことになります。こうして、民の罪は取り除かれます。

「世の罪を負う」と訳したところは、ほとんどの邦訳は「世の罪を取り除く」と訳しています。用いられている動詞の原意は「取り上げる、背負う」で、そこから「担う、運ぶ、運び去る、取り除く」という意味にも用いられます。たしかに、キリストは十字架の死によって世の罪を取り除かれたのですが、それは結果であって、その結果を得るために十字架の上でなされたことは、世の罪を自分の身に背負うことでした。ここでは、この点に焦点を合わせ、また、レビ記一六章の雄山羊の姿から、あえて「背負う」という原意に即して訳しています。
 なお、過越祭では雄の羊、贖罪日では雄山羊が犠牲として用いられていますが、羊か山羊かは祭儀ではあまり問題ではなかったようです。祭儀の規定に「用意するのは羊でも山羊でもよい」(出エジプト記一二・五)とあります。
 ところで、十字架のキリストを「小羊」という象徴で指すのは、新約聖書ではヨハネ系文書に限られていることが注目されます。先に引用したパウロ書簡の一カ所とペトロT一・一九を別にすれば、ヨハネ福音書に二回(一・二九と一・三六)、ヨハネ黙示録に二九回(原語での回数、福音書と用語は違いますが同じく小羊を指す語)出てくるのがすべてです。ヨハネ黙示録は「小羊の書」と言ってもよい文書です。そこで、ヨハネ黙示録が主題とする「神の小羊」をこのように全体を要約するような位置に用いているヨハネ福音書は、ヨハネ黙示録とどのような関係にあるのかが問題になります。二つの文書の著者が同じであるのか別人であるのかは、古来多くの議論を呼びました。この問題は複雑でここで扱うことはできませんので、別の機会に扱うことにしたいと思いますが、少なくとも両者は同じ系列、同じ流れの中で成立した文書であると見なければなりません。

 このように世の罪を背負い取り除くための犠牲の小羊は、わたしたちが用意したものではなく、神がわたしたちのために備えてくださったのです。この意味で、「神の小羊」と呼ばれています。昔、アブラハムは約束によって与えられた独り子のイサクを犠牲として捧げるように命じられます。アブラハムがイサクを屠ろうとしたとき、神は代わりの雄羊を備えてくださり、アブラハムはその雄羊を屠って犠牲として捧げたと伝えられています(創世記二二章)。そのように、わたしたちが自分の側で用意して捧げる犠牲ではなく、神が備え、神が与えてくださった犠牲の小羊としてのキリストによって、世の罪が取り除かれるのです。わたしの罪の問題が解決するのです。
 イスラエルはアブラハムの時代からずっと動物の犠牲を捧げて神を礼拝してきました。自分たちのために屠られる犠牲の動物たちの姿は、イスラエルの魂の深みに刻み込まれていました。その犠牲の動物の中でも、可愛い小羊の姿はもっとも強い印象を与えたはずです。イスラエル預言の最高峰といわれるあの捕囚期の大預言者が、民を救うために苦しみを受ける「主の僕」の姿を、「屠り場に引かれる小羊のように」と描いたのも、このようなイスラエルの歴史の流れにおいて必然であった言えます(イザヤ書五三章)。このイスラエルの祭儀と預言を集約して、洗礼者ヨハネは今イスラエルに現れようとしている救済者を、「見よ、世の罪を負う神の小羊」と指さすのです。

 「『わたしの後に一人の人が来られる。その方はわたしより優れた者とされている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。(三〇節)

 この洗礼者ヨハネの言葉はすでに序詩でも引用されていました(一・一五)。今この言葉が、「世の罪を負う神の小羊」としてのイエスを指すのだと明確にされます。
 イエスの宣教活動は洗礼者ヨハネの運動の中から始まりました(このことについては後述)。その意味で、たしかにイエスは洗礼者ヨハネの後に来られた方です。しかし、イエスは復活者イエスとして、世界が造られる前にすでに神と共にいました方であり、序詩はその方を永遠のロゴスとして賛美していました。わたしたちをその尊い血で贖ってくださった小羊としての「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださった」(ペトロT一・一八〜二〇)のです。イエスは、このキリストとして洗礼者ヨハネよりも前にいます方であり、洗礼者ヨハネがどれほど優れた人物であっても、比較を絶して優れた方です。そのことは「その方の履物の紐を解く値打ちもない」(一・二七)という表現で語られていましたが、ここで「先におられたからである」と、理由が明示されて繰り返されます。イエスは復活者イエス・キリストとして、歴史の中のいかなる人物よりも、次元が違う存在として「優れた」方です。

 「わたしもこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは来て、水でバプテスマしているのである」。(三一節)

 地上でイエスに出会った人たち(ユダヤ人)は、イエスがこのように「優れた方」であることを理解しませんでした。洗礼者ヨハネも、「わたしもこの方を知らなかった」と告白しています。洗礼者ヨハネのバプテスマ活動も、彼自身の意識では終末審判の迫りと悔い改めを告知することが使命であったと見られますが、神の小羊として復活者イエス・キリストが出現された時から見れば、ヨハネのバプテスマはこの方がイスラエルに現れるための道備えという意義をもつことになります。これは、イエスを復活者キリストと告白するヨハネ共同体の洗礼者ヨハネに対する意義づけですが、著者はこれを洗礼者ヨハネ自身の口で語らせてこう言わせるのです。
 ところで、イエスの十字架の死という姿で「この終わりの時代に現れた神の小羊」は、「天地創造の前からあらかじめ知られていた」方であり、序詩が謳っていたように、万象はその方によって成り、その方に向かって帰してゆく方です。すなわち、この「神の小羊」は壮大な神の救済史の全体を担う方です。そのことを描くのが「小羊の書」であるヨハネ黙示録です(とくに黙示録五・六〜一三参照)。
 地上では黙って世の罪を負われた神の小羊は、救済史が完成される終局においては、神に対抗する力を滅ぼし尽くす審判者として現れます。そのとき世界は「小羊の怒り」(黙示録六・一七)を見ることになります。しかし、同時にその時は、「小羊の血で洗って衣を白くした」キリストの民が婚宴の場に入る時になります。ヨハネ黙示録においては、終わりの時は「小羊の婚宴」の成就と描かれます(黙示録一九・五〜一〇)。
 「神の小羊」について語るさい、わたしは藤井武の「羔(こひつじ)の婚姻」に触れないでおくことはできません。藤井武はヨハネ黙示録から霊感を受けて、天地創造からキリストにあって万物が完成する時に至る全救済史を、「羔(こひつじ)の婚姻」と題する壮大な叙事詩でうたい上げました。この書は、わたしが若いときに読んで、もっとも強烈な印象と影響を受けた書の一つです。これは日本が産んだキリスト教文学の最高峰だと思います。パウロやエイレナイオスが「キリストを頭とする万物の再統合」と言ったことを、詩人である藤井武は「小羊の婚宴」という象徴を用いてうたい上げるのです。「神の小羊」を賛美するこれ以上の文学はないと思います。

藤井武(一八八八〜一九三〇年)は、内村鑑三門下の無教会の独立伝道者。その代表作「羔の婚姻」は、「藤井武全集」(岩波書店)の第一巻に収められています。

聖霊がイエスに留まる

 また、ヨハネは証しして言った、「わたしは御霊が鳩のように天から降り、この方の上に留まるのを見た」。(三二節)

 共観福音書はみな、イエスがヨハネからバプテスマを受けられたとき、聖霊が鳩のようにイエスに下った出来事を描いています(マルコ一・九〜一一と並行箇所)。ヨハネ福音書は、その出来事の情景を伝えることはなく、ただ洗礼者ヨハネの証言によってイエスに聖霊が降ったことを伝えます。共観福音書では、御霊が降るのを見たのはイエスご自身ですが、ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネが見たとされています。そして、共観福音書では「これはわたしの愛する子」という声が天から聞こえたとされていますが、ヨハネ福音書では御霊がイエスに降るのを見た洗礼者ヨハネが、「この方こそ神の子である」と証しします(三四節)。
 ヨハネ福音書には、イエスが洗礼者ヨハネからバプテスマをお受けになった記事がありません。ヨハネ福音書は、イエスがしばらく洗礼者ヨハネと同じくバプテスマを授ける活動をされていたことを伝えていますから(三・二二)、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったことを当然の事実として前提していると見られます。わたしたちはマルコの記事によって(マタイとルカはマルコに従っています)、イエスがバプテスマをお受けになったときに御霊が降ったのだと当然のように考えていますが、マルコを度外視してヨハネ福音書だけで考察すると、イエスが御霊をお受けになった体験は、バプテスマをお受けになった時というようにその時点を特定することはできません。そのことはイエスが洗礼者ヨハネと一緒におられた時期に起こったとしか言えません。洗礼者ヨハネがそれを見た唯一の証人ですから、身近にいた洗礼者ヨハネだけがイエスの聖霊体験を理解したとしなければなりません。では、イエスの聖霊体験について、わたしたちはマルコ福音書とヨハネ福音書の報告をどう受け止めればよいのでしょうか。
 イエスの生涯の出来事については、共観福音書は資料として役立つが、ヨハネ福音書はあまりにも霊的・神学的すぎて、歴史的な資料にはならないとよく言われます。しかし、ヨハネ福音書が伝える伝承の方が共観福音書よりも実際に近いのではないかと考えられる場合も多くあります。マルコの方が自分の福音提示の構想にしたがって、実際の出来事を単純に図式化している傾向が見られます。たとえば、ヨハネ福音書によれば、イエスは宣教活動の期間中に数回エルサレムに上っておられますが、マルコは最後の過越祭の一回にしています。これも、ヨハネ福音書の方が事実に近く、マルコはイエスの十字架の死の贖罪的意義を示すために単純化したと見られます。イエスの登場を語るときも、マルコはイエスの受洗・聖霊の降臨・荒野の誘惑・ヨハネの逮捕・ガリラヤでの宣教開始というように単純にしていますが、ヨハネ福音書はイエスが洗礼者ヨハネと一緒におられた期間の出来事を報告し、イエスが洗礼者ヨハネとは別の性格の活動を始めるに至る経緯はそれほど単純ではなかったことを示唆しています。
 拙著『マルコ福音書講解』の終章「復活者の顕現」で見たように、イエスがバプテスマをお受けになったときに聖霊が降り、「これはわたしの子」という声が天からあったとしているのは、イエスは聖霊によって死者の中から復活し、神の子として立てられたという福音の告知(ローマ一・四)を、ヨルダン川におけるイエスの受洗という出来事に重ねて物語るマルコの手法です。ヨハネ福音書は別の仕方で、すなわち洗礼者ヨハネの証言という形でこの福音を提示するのです。その証言によれば、イエスの聖霊体験はマルコとは別の姿で考えなければなりません。
 イエスは洗礼者ヨハネの活動に神の呼び声を聴いて、ガリラヤからユダに来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになります。その後、御霊に促されてユダの荒野に入り、そこでひとり祈りに没頭する日々を過ごされます。おそらくその間は断食されたことでしょう。ヨハネ福音書には荒野の誘惑と断食の記事はありませんが、共観福音書の荒野の誘惑の記事の背後には、イエスが宣教活動を始める前に荒野で断食の祈りに没頭された期間があったという確かな伝承があったと見てよいと思われます。
 それがどのくらいの期間に及んだのかは分かりませんが、かなりの長さであったと推察されます(それが四十日であったとされることについては、拙著『マルコ福音書講解T』47頁を参照してください)。その間に、イエスは神の霊の深い取扱いを受け、最後には聖霊に満たされて洗礼者ヨハネのもとに帰ってこられます。その時、洗礼者ヨハネはイエスに溢れる御霊の現臨に圧倒されて証言します。「わたしは御霊が鳩のように天から降り、この方の上に留まるのを見た」。この証言の中で、「御霊が鳩のように天から降り」という部分は共観福音書の記事と共通していますが、これは神の霊を受けることを語るさい初期の教団で共通の定型的表現になっていたのではないかと推察されます。ヨハネ福音書では、この福音書特愛の「留まる」という動詞を用いて、イエスが聖霊に満たされ、聖霊によって活動される方であると語られていることが注目されます。これは、すでに聖霊を受けて、聖霊が自分たちの内に留まっていることを体験しているヨハネ共同体が、イエスについての自分たちの証言を洗礼者ヨハネに語らせているという面もあるのでしょうが、神の霊を深く受けて活動していた洗礼者ヨハネが、この時イエスの身の上に起こった変化を正確に見抜いて、「わたしは見た」と言ったのも事実でしょう。イエスという方の本質は、完全な意味で神の霊がその上に、いやその内に留まる方であると言えます。
 イエスが洗礼者ヨハネと一緒におられる期間中に、荒野の祈りで聖霊を受けて新しい次元に入られたと理解して初めて、次の段落(一・三五〜五一)で洗礼者ヨハネの弟子たちの中からイエスの弟子となって従う者が出たと伝えられている記事は、自然に理解できるようになります。

聖霊による啓示と証言

 「わたしも彼を知らなかった。しかし、水でバプテスマするようにわたしを遣わされたその方が、わたしに言われた。『御霊が降って、ある人の上に留まるのを見たら、その人こそ聖霊によってバプテスマする方である』。わたしは見たので、この方こそ神の子であると証ししたのである」(三三〜三四節)。

 洗礼者ヨハネは、「わたしも彼を知らなかった」と言っています。「御霊が鳩のように天から降り、この方(イエス)の上に留まるのを見た」その時までは、洗礼者ヨハネもイエスが誰であるかを理解していなかったのです。その時まではイエスも、はるばるガリラヤから洗礼者ヨハネのもとに来てバプテスマを受けた多くの敬虔なユダヤ教徒の中の一人にすぎませんでした。イエスが聖霊に満たされて荒野から戻ってきて洗礼者ヨハネの前に現れたとき、洗礼者はイエスを「知った」のです。この方こそ「聖霊によってバプテスマする方」であることを理解したのです。そして、そのような方として、イエスこそ「神の子」であると知ったのです。
 このように、洗礼者ヨハネがイエスに聖霊が留まるのを「見る」ことによってイエスを「知る」に至ったのも、聖霊の働きです。洗礼者ヨハネにイエスの本質を見させ、イエスが誰であるかを理解させたのは聖霊です。洗礼者ヨハネはもともと聖霊によって神の召しをうけて、水でバプテスマする活動をしていました。「水でバプテスマするようにわたしを遣わされたその方が、わたしに言われた」とあるように、今イエスと対面する場で、洗礼者ヨハネを水のバプテスマ活動に召した聖霊、そしてイエスに降り留まったまさにその聖霊が、洗礼者ヨハネにイエスの本質を見させ、理解させるのです。そして、洗礼者ヨハネは自分が見て理解したことを証言するのです。ここでは洗礼者ヨハネは、聖霊によってイエスが神の子キリストであることを知って、それを証言する者(それがキリスト者です)の模範として登場しています。
 洗礼者ヨハネは、「わたしは見たので、この方こそ神の子であると証ししたのである」(三四節)と言っています。「見よ、世の罪を負う神の小羊」で始まる洗礼者ヨハネの証言全体(二九〜三四節)が、「御霊が鳩のように天から降り、この方(イエス)の上に留まるのを見た」後の(見たゆえの)証言です。イエスが神の子であってはじめて、その十字架の死が「世の罪を負う神の小羊」となるからです。したがって、「その翌日、洗礼者ヨハネはイエスが自分の方に来るのを見て」(二九節)というのは、イエスが荒野から聖霊に満たされて洗礼者ヨハネのもとに戻ってこられた時を指すことになります。そこでも、それまでは「わたしは(神の小羊としての)彼を知らなかった」(三一節)と言われています。
 洗礼者ヨハネがイエスを神の子と証言するとき、その方の救済者としての働きが二つにまとめられています。すなわち、「世の罪を負う神の小羊」と「聖霊によってバプテスマする方」の二つです。この二つの働きは、同等に救済者キリストの本質を形成する働きです。すなわち、どちらの一つが欠けても、キリストがキリスト(救済者)でなくなります。「世の罪を負う神の小羊」については、すでに詳しく述べました。ここでは、「聖霊によってバプテスマする方」という証言に耳を傾けたいと思います。

聖霊によってバプテスマする方

 はじめ福音は、十字架上に死なれたイエスを神は死者の中から復活させてメシア・キリストとされたと告知し、このイエス・キリストを信じてその名を言い表す者に、来るべき世における救済(罪の赦し)と栄光(永遠の命)を約束しました。この人の思いを超えた告知は、それを語る者に働く神の霊の力によって聴く者の心を捕らえ、また、神の霊は信じた者の内に働いて、あらゆる困難と苦難に耐えて熱烈に信仰を言い表す力となりました(テサロニケT一・五〜六)。福音宣教の初期においては、聖霊は宣教の内容というより宣教の場に実際に働く力として理解されていたと見られます。そのことは、最初期のケリュグマ(コリントT一五・三〜五、ローマ一・四)に、信じる者への聖霊の賜物が触れられていないことからもうかがわれます。
 パウロは、自分が復活者キリストと遭遇し、キリストを知り、キリストにある神の奥義を知ったのも聖霊の働きによるものと自覚し(コリントT二・一〇〜一三)、また、自分が告知する福音を聴いて信じた者は、聖霊を受け、聖霊の働きによって信仰の歩みをするようになることを理解していました(ガラテヤ三・一〜五など)。それで、パウロにおいて聖霊は福音告知の内容になります。すなわち、パウロは福音を、信じる者に聖霊の賜物を与える神の恵みの告知として宣べ伝えるようになります(使徒言行録一九・一〜七)。しかし、パウロはまだ「聖霊のバプテスマ」という表現は用いていません。
 福音書が書かれる頃(七〇年頃から一世紀末の時期)になると、信じる者に聖霊が与えられることは福音の重要な内容になっています。しかも、聖霊を受けることは、(洗礼者ヨハネがキリストの先駆者と位置づけられるようになったことと対応して)洗礼者ヨハネが授けたバプテスマと対比されて、復活者キリストが授けるバプテスマと表現されるようになります。すなわち、洗礼者ヨハネは水でバプテスマしたが、復活者キリストは聖霊でバプテスマする方として宣べ伝えられるようになります。「聖霊によるバプテスマ」という表現は、新約聖書ではマルコ福音書(一・八)に初めて出てきて、マタイにもルカにも受け継がれています。そして、この二つのバプテスマは比べることができないほど、価値が違うものとされます。

マルコ福音書が初めて「聖霊によるバプテスマ」という表現を用いるようになったことの歴史的意義について、またマタイとルカの「火と聖霊によってバプテスマする」という表現の意義については、拙著『教会の外のキリスト』107頁の「聖霊のバプテスマ」を参照してください。

 ヨハネ福音書も復活者キリストを「聖霊によってバプテスマする方」と宣べ伝えます。しかもそれを洗礼者ヨハネ自身に語らせています。この点は他の福音書と同じです。しかし、(次の段落で見ますように)ヨハネ共同体の中核メンバーが洗礼者ヨハネと深い関係にあったことを考慮すると、ヨハネ共同体が自分たちの聖霊体験を「キリストが授ける聖霊のバプテスマ」と自覚したのは、マルコ福音書を継承したからというより、むしろヨハネ共同体自身の中で形成された理解と見てよいのではないかと思われます。当初イエスの弟子となったユダヤ人はほとんどみな洗礼者ヨハネからバプテスマを受けていました。彼らはイエスの復活後、聖霊を受けた体験を語るとき、自分たちをキリストに導いた証人である洗礼者ヨハネのバプテスマと重ねて語らないではおれなかったはずです。この事情は、他の福音書よりもヨハネ福音書を生み出した共同体においていっそう強く働いたと考えてよいでしょう。復活者キリストを「聖霊によってバプテスマする方」と世界に告知するのは、ヨハネ福音書が告げる福音の中心的内容の一つです。

ヨハネ福音書は、マタイやルカのように洗礼者ヨハネの宣教内容を伝えることなく、従って「火と聖霊でバプテスマする」という表現を用いることなく、洗礼者ヨハネの宣教を「聖霊でバプテスマする方」の予告に絞っています。この点でマルコ福音書と同じ線上にあります。これは、著者またはヨハネ共同体が「語録資料Q」を知らなかったことを示唆していると見られます。
 なお、ヨハネ共同体の聖霊体験とその自覚は、イエスが最後の夜に弟子たちに語られたとされる「訣別遺訓」(一三〜一七章)にまとめられていますが、そこでは「聖霊のバプテスマ」という表現は出てきません。(共観福音書にみられるように)初期のキリスト共同体で一般に広く用いられていたこの表現がここだけに出てくる事実は、洗礼者ヨハネによって語られているキリスト証言(一・二九〜三四)の成立と性質について考慮すべき材料になります。

神の子イエス

 洗礼者ヨハネの証言は、「わたしは見たので、この方こそ神の子であると証ししたのである」(三四節)という言葉で締めくくられています。「わたしは見たので」というのは、「御霊が鳩のように天から降り、この方(イエス)の上に留まるのを見た」ことを指しています。御霊によって神に立てられた方を「神の子」とするのは、原初のケリュグマである「聖なる御霊によれば死者たちの復活によって大能の座にある神の子と公示された方」(ローマ一・四)と同じ線上にあります。ただ、ここでは復活前の予言的証言ですから「死者の復活によって」という句はありません。しかし、福音において「神の子」という称号は、復活者であることを含んでいます。洗礼者ヨハネはここで復活者キリストについて証言しているのです。
 イエスが復活者として「神の子」であるから、その十字架の死が「世の罪を負う(取り除く)神の小羊」であり、現在「聖霊によってバプテスマする方」として信じる者に聖霊を与える働きをすることができるのです。ここで洗礼者ヨハネは、復活者イエス・キリストと、その方の救済者としての働きを証言しているのです。
 こうして、ここでの洗礼者ヨハネの証言は、十字架の上に死なれたイエスを復活者キリストと告知し、その十字架の死を贖罪のための死と意義づけ、このイエス・キリストを信じて御名を言い表す者に聖霊の賜物を約束した初期の福音宣教の内容とぴったり一致します。ヨハネ福音書は、その導入部にこの証言を置くことによって、ヨハネ共同体が当時のキリスト共同体一般の信仰内容と基本的に一致していることを確認した上で、著者の独自のキリスト論を華麗に展開することになります。