市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第33講

第三節 ユダヤ教内の信仰共同体とその消長

ヤコブ以後のユダヤ教内共同体

 いわゆる「公同書簡」の中の三書(ヤコブ書、ユダ書、ペトロ第二書簡)を扱ったこの「附論」の二つの章では、ユダヤ教の枠内で進展したキリスト信仰の姿を描くことになりました。ユダヤ教の枠内でのキリスト信仰(イエスをメシア・キリストと信じる信仰)の運動は、エルサレム共同体が担い手でした。イエスの復活後、イエスをメシア・キリストと告知した信仰運動は、ユダヤ教の中で新しい流れを形成し、エルサレムにイエスを信じる者の共同体が形成されました。このユダヤ教徒で形成されるエルサレム共同体は、当初ガリラヤでイエスの弟子として従ったペトロらイエスの弟子たちが指導しましたが、ユダヤ人共同体の常として長老たちによって指導されるようになり、その長老の中でもイエスの家族が重要な位置を占めるようになります。とくに、42年頃に十二弟子の一人のヤコブが殉教し、ペトロ(や他の弟子)がエルサレムを去ってからは、「義人」と呼ばれる「主の兄弟ヤコブ」がエルサレム共同体を代表し統率するようになります。その状況は、62年の「義人ヤコブ」の殉教まで続きます。この時期のエルサレム共同体の歩みについては、この附論の第一章第一節「主の兄弟ヤコブ」にまとめておきました。しかし、この時期のエルサレム共同体については、使徒言行録にあるルカの断片的な報告だけで、パウロの場合のように一次資料がないので、正確な歴史を描くことは困難です。
 使徒言行録で「主の兄弟ヤコブ」とエルサレム共同体の動向が触れられるのは、パウロが献金を届けるためにエルサレムに来てヤコブと会った時(56年)のことが最後です(使徒二一章)。その後のことは、ヤコブの殉教も含めて、ヨセフスの著作とかエウセビオスの『教会史』に保存されている伝承に頼らざるをえません。それによると、ヤコブの殉教の後、エルサレムのユダヤ人信徒共同体はいよいよ過激化する反ローマナショナリズム(それは「律法への熱心」という合い言葉で表現されます)の流れの中で孤立し、周囲のユダヤ教社会からの圧迫や迫害で存立が困難になります。ヤコブ殉教(62年)の数年後にローマに対するユダヤ戦争が始まりますが(66年)、その前後の時期にエルサレム共同体は荒廃するエルサレムを脱出して、ヨルダン東岸デカポリス地方のペラに移ります。エルサレム神殿崩壊にともなう「大いなる患難の時」の予言がマルコ福音書(一三・一四?二三)にありますが、この予言はもともと、ローマの軍勢によるエルサレムの陥落が避けられない情勢になってきたとき、共同体の中で霊感を受けた預言者によって主イエスの名によって語られたものと見られます。この予言により、ユダヤにいたイエスの民はゼーロータイ(熱心党)の者たちと一緒にエルサレムに立てこもることなく、ヨルダン川東岸のペラに脱出します。
 イエスを信じるユダヤ教徒の共同体は、エルサレムだけでなくガリラヤや他のパレスチナ諸地方にもあったと推察されますが、資料がなく、その詳細は判りません。ペラに移ったエルサレム共同体のユダヤ教徒やパレスチナのユダヤ教徒の共同体は、ユダヤ戦争後も細々と存続しますが、どんどんと拡大するヘレニズム世界の異邦人信徒の共同体の陰に埋没して影が薄くなり、影響力を失っていきます。エルサレム共同体も、もはやエルサレム陥落以前の時期のように、救済史の担い手としてキリストの民の中核に位置する共同体ではなくなります。パレスチナのユダヤ教徒の信徒共同体は、ヘレニズム世界で主流となった異邦人の共同体から「エビオーン派」と呼ばれる(主流派の教父から見て)「異端的な」一セクトとなります。
 「エビオーン」という語は、ヘブライ語の《エビオニーム》(貧しい者たち)から来ています。クムランの人たちは自分たちをこの語で指し、死海文書はクムラン共同体を「貧しい者たちの共同体」と呼んでいます(詩編三七編注解など)。最初期のエルサレム共同体は自分たちを「貧しい者たち」と呼んでいたことが、パウロの手紙からも推察されます(ガラテヤ二・一〇、ローマ一五・二六)。エルサレム共同体の人たちが自分たちを「貧しい者たち」と呼んだことは、イエスがしばしば「貧しい者たち」への祝福を語っておられる事実から、またエルサレムにおけるエッセネ派共同体からの強い影響からも、十分推察できることです。この《エビオニーム》という自称が、後に律法順守に固執するパレスチナユダヤ人の信徒グループを指すニックネームになったようです。
 この「エビオン派」という用語を最初に用いたのは、二世紀末に活躍した教父エイレナイオスです。エイレナイオスやその後の教父たちによると、エビオン派はマタイ福音書だけを用い、エルサレムを尊重し、割礼を含むユダヤ教律法順守に固執し、イエスの誕生は自然の誕生とし(処女降誕を否定)、イエスをたんなる預言者とするなど、主流派のキリスト告白とは異なる「異端的な」一派とされています。四世紀のエピファニウスやヒエロニムスによる言及を最後として、エビオン派は歴史の舞台から消えていきます。この一派のユダヤ人によるものとされる「エビオン人福音書」の断片が伝えられていますが、この福音書はヤコブの流れをくむヨルダン川東岸のユダヤ人共同体が二世紀前半に生み出したものとされています。

ユダヤ教黙示思想の残照

 このように、エルサレム陥落後はヤコブに代表されるエルサレム共同体は影響力を失い、やがて歴史の舞台から消えていくことになりますが、その流れの中から生み出された諸文書は正典の中に入れられて、その後のキリスト教の歴史に永続的な影響を及ぼすことになります。今回、この附論で取り上げた三書簡の中、ヤコブ書とユダ書はパレスチナユダヤ人の共同体から出たものですが、それがギリシア語で書かれているという事実そのものがすでに、パレスチナの枠を超えてヘレニズム世界のキリストの民に広く語りかけ、その信仰に影響を与えるものであることを示しています。また、ユダ書に強く依存しているペトロ第二書簡も、その内容においてこのパレスチナ起源の二書簡と同じく、ギリシア化した環境の中でパレスチナ・ユダヤ教の伝統を維持しようとしています。
 この三書簡が維持しようとしているユダヤ教的伝統とは、一つには急激にギリシア化する環境の中で、霊と身体の二元論に立つギリシア思想から、身体の行為は霊的救済に関わりがないとして、実際の生活において放縦に流れる傾向に対して、身体による行為を重視するユダヤ教の倫理的基準を維持しようとする努力です。これは、この三書簡に共通する重要な側面です。この三書簡の著者たちは、それぞれの仕方で、ユダヤ教の倫理的基準を使徒たちの教えの基準として強くアピールしています。
 しかし、それよりも重要なことは、このような倫理的弛緩の原因として、著者たちが終末待望の弛緩をあげて、ユダヤ教の黙示思想的な終末待望、具体的にはキリスト来臨の待望を熱く説いていることです。エルサレム共同体はもともと黙示思想的な終末待望に熱く燃えていた集団でした。復活されたイエスが栄光の主として世界に現れる「キリストの来臨《パルーシア》」を熱く待ち望んでいました。このエルサレム共同体の来臨待望と、この来臨待望が、パウロを経てパウロ以後の時代に至るまで、その後の福音の展開の歴史の中で、どのように変遷したかについては、本論第三章第一節「来臨待望の変遷」(本書148頁)でまとめておきました。
 そこで見たように、来臨待望はパウロを含め使徒時代にはなお熱く燃えていましたが、エルサレム陥落後の「使徒名書簡」の時代になると、ヘレニズム世界に生きる共同体では黙示思想的な終末待望に代わって、ギリシア的な宇宙論的キリスト理解が前面に出てくるようになります。この傾向はコロサイ書・エフェソ書が代表しています。さらに、ユダヤ教の枠を強く残しながらも、黙示思想的な終末待望を現在化して、現在の命の現実を説くヨハネ福音書のような文書も現れます。この時代には脱黙示思想の傾向が強くなります。ところが他方、ユダヤ教黙示思想的な来臨待望も折に触れ(迫害などに触発されて)激しく噴出してくる場合もありました。その典型がヨハネ黙示録です。
 ヨハネ黙示録はエフェソを中心とするアジア州の諸集会の間で成立していますが、その起源はパレスチナのユダヤ教黙示思想の流れの中にある預言者グループです。おそらくユダヤ戦争を体験したパレスチナの預言者集団が、戦後エーゲ海地域に移住してきて、ローマ帝国側からの迫害に直面してこのような激しい黙示文書を生み出したものと思われます。しかし、この時代にパレスチナのユダヤ教黙示思想を継承する証言はヨハネ黙示録だけではありません。「マルコの小黙示録」と呼ばれる黙示録的終末預言(マルコ一三章)は、この時代を通して継承され、後にはマタイ福音書とルカ福音書にも取り入れられ、「福音書の時代」にこのような黙示思想的待望が受け継がれていたことを証言しています。
 この附論で取り上げた三書簡も、パレスチナユダヤ人共同体の来臨待望を継承・維持するための努力を証言しています。ヨハネ黙示録のように過激ではありませんが、ギリシア化した環境の中に生きるキリストの民に、聖書的な救済史信仰に立つ「キリストの来臨」待望を励まし維持するために、言葉を尽くして説き勧めています。倫理的な実践的勧告が前面に出ていますが、背後には黙示思想的な来臨待望が熱く燃えています。ヤコブ書については、「ヤコブと黙示思想」の項(本書490頁)で見た通りです。ユダ書については、その全体にパレスチナ黙示思想文書の影響が強く見られ、キリストの来臨において与えられる救いにすべてが集中しています(ユダ二〇〜二一節)。
 ペトロ第二書簡はパレスチナ起源ではなく、ローマなどヘレニズム都市での成立が推察されますが、その内容はもっとも明白に「キリストの来臨」への待望を主題としています。「来臨の遅延」が問題になり、この信仰が揺らいでいた時代に、来臨待望を基礎づけ、その待望に生きるように励ましています。先に本論で取り上げたペトロ第一書簡も、ペトロ第二書簡と共に、ユダヤ教黙示思想の路線を継承する文書に入れてよいと考えられます。

時代の総合としてのルカの二部作

 このように見てくると、この時代、すなわちエルサレム陥落以後の「使徒名書簡」の時代は、一方ではユダヤ教黙示思想から脱却してヘレニズム世界の思想の枠組みの中でキリスト信仰を確立しようとする潮流があり、他方にはキリストの来臨を中心にしたユダヤ教黙示思想の枠組みを維持しようとする潮流があり、二つの潮流が絡み合い、対抗し、新しい総合を求めて模索していた時代ではないかと見られます。この総合の試みの一つが、この時代を締めくくるような意義を担って現れたルカの二部作、すなわちルカ福音書と使徒言行録ではないかと、わたしは見ています。
 ルカの二部作の成立年代については議論が続いていて確定はしていません。大体は一世紀の終わり頃と見られていますが、二世紀初頭と見る研究者もいます。実際の成立年代については、ルカ文書よりも遅いものがあるかもしれませんが、福音の展開史の視点からは、わたしはルカの二部作をこの「使徒名書簡」の時代を締めくくる位置にある著作だと見ています。本論終章の最後「ルカの福音提示」(本書427頁)にも書きましたが、ルカ文書はそれまでに伝えられたすべての伝承を統合し、これからキリストの民《エクレーシア》が進むべき方向を指し示す位置にあると見られます。
 今回ここで取り上げた時代の二つの潮流についても、ルカは両者を総合し、そこから生まれる新しい方向を模索していると、わたしは見ています。ルカは、マルコ福音書や「語録資料Q」に伝えられているイエス伝承を継承し、パレスチナユダヤ人が伝えたパレスチナの伝承を十分活用しています。その中にはマルコ一三章の「小黙示録」と呼ばれるパレスチナユダヤ教の黙示思想的伝承も含まれています。しかし同時に、ルカはエルサレム神殿はすでに崩壊し、イスラエルを核とする救済史は成り立たたなくなっていること、「異邦人の時代」が始まっていることもしっかりと見据えています。もはや黙示思想的な来臨待望だけに生きることはできません。キリストの民はこれから何百年も何千年も地上の歴史を歩む覚悟をしなければなりません。イエス・キリストの出来事において成し遂げられた救済の出来事を土台として、その上に《エクレーシア》の中に働く神の救いの歴史を築いていかなければなりません。ユダヤ人である使徒たちが伝えたように、聖書の救済史の枠組みは維持すべきですが、それはもはやパレスチナ黙示思想的な形においてではなく、ユダヤ人と異邦人とからなるキリストの民《エクレーシア》を担い手とする歴史の中での歩みの中で形成されるべきものになります。その歩みの根拠・土台として、ルカはイエス・キリストにおいて成し遂げられた神の救済の出来事と、その土台に立って歴史の中を歩むキリストの民の範例として、最初期の《エクレーシア》の姿を、二部作として書きとどめます。新しい救済史理解が始まります。この方向の先に、エイレナイオスの救済史神学が成立し、それがその後の正統派の教会の神学を方向づけます。
 ペトロ第二書簡の著者は、キリストの来臨が遅れていることをあげつらって来臨待望をあざける者たちに、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のよう」という表現で、人間と神とでは時間の単位が違うのだということを思い起こさせています。これは、たとえ来臨が千年後になるとしても、それは神においては明日起こるというのと同じだ、すぐ来臨があるという神の約束は変わらないのだということを言いたいのです。しかし、逆に考えると、神が明日全世界を裁いて終わりの日をもたらすと決心されても、それはわたしたち人間世界では数千年後のことでもありうるわけです。この表現は、時間の枠を超えた出来事である終末を、わたしたち人間の時間的経験の枠の中で考えたり判断してはならないことを教えています。主の来臨を中心内容とする終末待望は、時間の中に生きるわたしたちの、時間を超えた現実への希望の表現です。この希望を御霊によって内にしっかりと確立して、歴史の現実の中に歩む覚悟を持つこと、これがわたしたちの課題であると思います。