市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第29講

第三節 ヤコブ書略解

       ―― この略解は新共同訳とその段落区分に基づいて行います。――

挨拶(一・一)

 著者は、エルサレムのユダヤ人信徒共同体の伝統を継承する者として、その代表者ヤコブの名をもって、ヘレニズム世界の各地に離散し、苦しい状況にあるユダヤ人キリスト者に、信仰生活の指針としての勧告書を送ります。「十二部族」はイスラエルの民であるユダヤ人を指す定型的な用語です。
 ここでヤコブは、パウロ書簡やペトロ書簡のように「使徒」とは言われていません。「神の僕」という旧約聖書に典型的な称号を用い、それに「と主イエス・キリストの」という句を添えています。「神の僕」という称号は、使徒よりも権威ある特別な地位を感じさせます。エルサレム共同体はイエスに「僕」という称号を用いています(使徒四・二七)。
 最後に《カイレイン》という挨拶語がつけられています。この語は「喜びがあるように」(日本語では、ご機嫌よう)という意味で、ギリシア語の手紙では日常の定型的な挨拶語で、新約聖書ではここと使徒言行録で二回(一五・二三、二三・二六)用いられているだけです。
 本書は差出人と宛先で始まる手紙の形式をとっていますが、パウロ書簡のように特定の集会の具体的な問題を扱ってはおらず、一般的な実践的勧告の書となっています。著者はヤコブの名によって書いています。すなわちヤコブが語る勧告として書いているのですから、以下の略解ではヤコブが語る文として講解していきます。

信仰と知恵(一・二〜八)

 挨拶の最後の語を受けて、勧告は「この上ない喜び」に兄弟姉妹たちを招く呼びかけで始まります。喜びが信仰者の基調であることは、パウロ書簡の場合と同じです。しかも、その喜びは苦しい状況の中での喜びです。その苦しい状況は、信仰を鍛えるための「試練」として受け取られ、それを忍耐によって乗り越えることによって、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」になるために与えられているのだとします(二〜四節)。苦難を信仰を鍛えるための訓練と受け取ることは、パウロ書簡(ローマ五・三〜四)やペトロ書簡(T一・六〜七)と同じです。
 ここの苦難の中での喜びを語る箇所はマタイ五・一一〜一二に、完全になることを語るところはマタイ五・四八に並行表現が見られます。ヤコブ書とマタイ福音書は同じイエス伝承を継承していることが、以下の講解で繰り返し指摘されることになります。
 四節最後の「欠けたところのない」という語を受けて、「知恵の欠けている人」に対して勧告がなされます。「知恵」という用語が出てくるのは、ここと三・一三〜一七だけですが、ヤコブ書は全体として知恵の書と言ってよいような内容になっています。信仰者にとって何よりも必要なものは知恵であるとされます。ヤコブ書がいう知恵とは、人間の知識や体験から得られる人生知ではなく、神から与えられる世界と人間に関わる洞察と、そこから生まれる神の御心に従った生き方をもたらす英知です。それは旧約聖書の知恵文学が追い求めた知恵に他なりません。ヤコブは、その知恵を疑うことなく信仰をもって神に祈り求めるように促します(五〜八節)。
 神は「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神」です。この表現には、用語は違いますが、良き者にも悪しき者にも太陽を昇らせ雨を降らせてくださる、無条件の恩恵の父を語られたイエスのお言葉(マタイ五・四五)が響いています。また、「願いなさい。そうすれば、与えられます」という言葉はマタイ(七・七)に伝えられているイエスの語録と同じです(原語の用語は同じです)。

貧しい者と富んでいる者(一・九〜一一)

 ヤコブ書は、貧しい者と富める者との価値の逆転を力を込めて語ります(ここと二・一〜七)。貧しい者を御国の継承者として称揚し(二・五)、反対に富める者を裁きに定められた者として厳しく糾弾します(五・一〜六)。この価値の逆転は、マタイ(五・三〜四)やルカ(六・二〇〜二六)にあるイエスの語録伝承を思い起こさせます。
 ヤコブは貧しい者には「兄弟たち」と呼びかけ(九節)、明らかに信徒を指していますが、富める者については問題が残ります。後で富める者はただ滅びに定められた者として語られていて(五・一〜六)、とうてい信徒の中の富める者を指しているとは考えられませんが、ここでは「自分が低くされることを誇りに思いなさい」と勧告されています。自分が低くされたことを誇りに思う者、すなわち恩恵の場で自分が無価値であることを悟らされた者は、信仰者の姿です。ヤコブは、集会に出入りする富める者たち(二・二)に向かって、富や高い地位に誇っているならば神の裁きによる滅びは免れないと警告し、自分を低くするように求めていると見てよいでしょう。そして、彼らの富がいかにはかないものであるかを、熱風に吹き付けられる草花にたとえて思い起こさせます(一〇〜一一節)。このイザヤ(四〇・七)が用いた比喩は、ペトロ第一書簡(一・二四)でも用いられ、最初期の信徒の間でポピュラーであったことがうかがわれます。

試練と誘惑(一・一二〜一八)

 ヤコブは先に、人生において体験する苦難は信仰を鍛えるための試練だと説きました(一・二〜四)。ここでその主題が再び取り上げられ、「試練を耐え忍ぶ人」の幸いが語られます(一二節)。その幸いは、「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」。同じ《ゾーエー》(命)を用いながら、本書では「命」は終わりの日に受け継ぐことを約束された命、ユダヤ教でいう「永遠の命」を指しています。パウロやヨハネのように、現在信じる者が聖霊によって生きている命ではありません。ここにも本書が当時のユダヤ教の枠組みの中にあるという特色が出ています。

 ヤコブ書で《ゾーエー》が出てくるのは、ここと四・一四だけですが、四・一四では地上の身体的な命を指しています。

 続いてヤコブは、この「試練」と同じ用語を用いて「誘惑」について語ります(一三〜一五節)。「試練」《ペイラスモス》は名詞形でしたが、誘惑について語るこの箇所はみな「誘惑する」《ペイラゾー》と動詞形で用いられています。人生の様々な体験が、一面では信仰を鍛える試練の意味を持ち、同時に罪へいざなう誘惑としての面を持つことは、「主の祈り」の講解でも触れました。ここでヤコブは、人生の諸々の体験が罪への誘惑となることについて、ユダヤ教知恵文学の路線で解釈しています。
 神が世界のすべてを統御しておられるのであるから、人生のすべての出来事も神から来るという敬虔な思想の中で、だから罪へ駆り立てる誘惑も神から来るのだという論理的な帰結がユダヤ教内にありました。しかし、すでにヘレニズム期のユダヤ教知恵思想はそれを克服しています。そのことは、たとえば「ベン・シラの知恵」(シラ書、一五・一一〜二〇)などによく出ています。ヤコブは、その知恵をほとんどそのまま継承して、誘惑に遭うとき、だれも「神に誘惑されている」と言っては(=考えては)ならないと説きます。神の本質からして、神が人を罪や悪に誘惑する方ではありえないのです(一三節)。
 その上で、人生の出来事が「誘惑」となるメカニズムを明らかにします(一四〜一五節)。人生の諸体験が「誘惑」となるのは、人間の内に巣くう本性的な欲望に引かれ唆されるからだとし、それを女性の妊娠・出産を比喩として描きます。人間の本性的な欲望が、女性の胎のように、人生の出来事や思いを欲望という胎内で育て、ついに神に背く罪の生活を生み出します。そして、その罪の生涯が熟して(満ちて)、その人の死、すなわち永遠の破滅を結果することになります。ここは、パウロが「肉」について語っているところ(ローマ書七章)と一脈通じるものがあるように感じます。
 罪と悪が人間の内から(すなわち下から)生じるものであることを明らかにした上で、それと対照して、完全な善は上から、すなわち御父から来るものであることを説きます(一六〜一八節)。ここで神が「光の源である御父」と呼ばれています。ここの「光」は複数形で、「もろもろの光」という表現です。これは、太陽や月や星などの天体は創造者なる神の栄光を反射して輝いている生命体であるというユダヤ教の思想から出た表現です。このような天体はその動きによって陰が生じたりして変転します(日蝕や月蝕)。それに対して、そのもろもろの光の源である御父は、いっさいの移り変わりはなく、常に完全な善を意志し行ってくださる方です。
 その方が、御心のままに、「真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」。この表現は、「あなたがたは・・・神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」という(パウロ的色彩の強い)ペトロ第一書簡(一・二三)の言葉と呼応しています。その上、こうして真理の言葉によって生まれたわたしたちが「造られたものの初穂」と呼ばれていることも、パウロを思い起こさせます。もっとも、パウロにおいてはキリストが死者の中から復活する者たちの初穂ですが、ここではキリストの民が最終的な完成に先立つ神の創造活動の初穂とされています。しかし、「初穂」という見方に共通点が感じられます。パウロとの対立面が強調されるこのヤコブ書も、意外にパウロとの共通面があることに気づきます。

 もしヤコブ書がローマで成立したものであれば、ローマのヤコブ・グループと(ペトロ書簡を生み出した)ペトロ・グループは、共にパウロの影響の下にあったので、このような共通点が出てきたと見ることになります。

神の言葉を聞いて実践する(一・一九〜二七)

 前節でわたしたちが「真理の言葉」によって生まれたことを述べたヤコブは、続いてその御言葉をよく聞いて、自分から言葉を発するには慎み深くあるように勧告し、信仰者は総じて「聞くのに早く、話すのに遅い」ように勧めます(一九〜二一節)。軽はずみな発言を戒める警告の言葉は、箴言(二九・二〇)やシラ書(四・二九)などの旧約知恵文学にもあります。しかし本書では、魂を救う神の言葉を聞くことに重点がかかっています。また、怒りを抑えるようにという勧告もイスラエルの知恵です(箴言二九・八、シラ書二七・三〇など)。ただ、人の怒りが神の義を実現しないことをその理由にしていることはヤコブの洞察でしょうか、旧約の知恵文学には見あたりません。
 神の言葉を聞き心に深く植え付けることは、魂の救いにとって大切なことですが、しかし「御言葉を聞くだけで行わない者」にならないように警告します(二二〜二五節)。御言葉を聞くだけで行わない者は、自分を欺く者だとし、その愚かさを鏡の比喩で説明します。「御言葉を聞くだけで行わない者」の愚かさは、マタイ福音書(七・二四〜二七)では砂の上に家を建てた人の比喩で語られています。御言葉を行うことを求める点で、マタイとヤコブは共通しています。両者の背後には共通のイエス語録伝承があるものと考えられます。
 ヤコブは、わたしたちを生んだ「真理の言葉」を「完全な自由の律法」(直訳)と呼んでいます。神の言葉は、それを聞く者にその言葉に即した行動を求めるという意味で「律法」です。しかも、それは父が完全であるように人間に完全なあり方を求める「完全な律法」です。それが「自由の律法」と呼ばれているのは、「自由をもたらす律法」(新共同訳)ではなく、自由の場で行われる律法と理解すべきでしょう。福音における律法は、外から人に行動を要求し強制するものではなく、内にある御霊の命によって自発的にそれを行わせる質の律法です。このように御霊によって御言葉を生きる者は、その生き方の中に神の祝福を実感し、「幸せになります」。

 新約聖書ではパウロ書簡だけに七回出てくる「自由」《エレウセリア》という用語が、ヤコブ書に二回(ここと二・一二)とペトロ書に二回(T二・一六とU二・一九)用いられていることは注目されます。これは、両書に対するパウロの影響を示すものかどうか、検討に値する現象です。

 さらに、行いのない「信心」の空しさが続いて語られます(二六〜二七節)。ここに用いられている「信心」という語は、宗教的な祭儀の勤めを指し(コロサイ二・一八)、それをいくら熱心に行っていても、「舌を制する」こともできず、軽率な発言で人を傷つけたりしているようでは、そのような人の信心は無意味であるとされます。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守る」という倫理的な実生活こそ、父である神の御前に価値のある「信心」だとされます。これは、祭壇の供え物よりも隣人や兄弟とのよい結びつきを求められたイエスのお言葉(マタイ五・二二〜二四)と相通じています。

人を分け隔てしてはならない(二・一〜一三)

 この段落の最初の文は、直訳すると「人の分け隔ての中で、わたしたちの栄光の主イエス・キリストの信仰をもつことがないように」となります(一節)。これは、わたしたちのキリスト信仰は、それにふさわしい行動を伴わない場合は空しいものであるという本書の中心的な主張そのものであり、それを以下の数節で、集会での人の分け隔て扱いという実際的な場面で具体的に説明することになります(二〜四節)。
 「集まり」には《シュナゴゲー》という語が用いられています。これは本来ユダヤ教の会堂を指す用語です。ここでは、ユダヤ人のキリスト信徒が集まっている集会を指しています(《シュナゴゲー》がこの意味で用いられているのは、新約聖書ではここだけです)。この集会の場所に、金の指輪をはめた立派な身なりの人と、汚らしい服装の貧しい人が入って来たとき、金持ちは丁重に扱い、貧しい人を粗末に扱うならば、それは「自分たちの中で差別をし」、神のなさり方と反対の「悪しき判断の裁判官になった」(直訳)ことだと決めつけます。 
 ここでヤコブは、貧しい者こそ「約束された国を受け継ぐ者」として神が選ばれた者であり、反対に富める者は貧しい者を虐げ、辱める者であることを思い起こさせます(五〜七節)。ここには、貧しい人たちを幸いとされ、「神の国はあなたたちのものである」とされた主イエスのお言葉(マタイ五・三、ルカ六・二〇)が響いています。富める者は、貧しい者たちが信じているイエスの名を蔑み、冒?する(あしざまに罵る)者が多いのが、この時代にも事実だったのでしょう。
 そしてさらに、人を分け隔てすることは律法の違反者として断罪されることになると警告します(八〜一三節)。当時のユダヤ教では、律法のすべては一体であり、その中の一つに違反することは、律法全体に背くことだとされていました。垣根を一カ所で破って乗り越える者は、垣根全体を乗り越える者となるのです。ヤコブは、このユダヤ教の原理をもって「人を分け隔てする」ことの重大さを説きます。
 ここでヤコブは、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を「王の律法」と呼んでいます。王としての神が与えられた律法という意味か、律法の中の王様という意味かわかりませんが、イエスご自身も律法全体の要約として引用されたように、ヤコブも「最も尊い律法」という意味で用いていることは間違いないでしょう。その律法を行っているのであれば、人を分け隔てできないはずです。もし分け隔てするなら、律法全体の違反者となるという論理です(八〜一一節)。
 最後に、キリスト者の行動の動機として、「自由の律法によって裁かれることになる者として」語り、ふるまうように勧告します(一二節)。「自由の律法」とは自由の場に成立する律法ですから、自発的になした憐れみのわざに生きた者は、神も「憐れみは裁きに打ち勝つ」という憐れみの原理で扱われますが、「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」ことになります(一三節)。だから、貧しい者、価値なき者に対して憐れみ深い者として生きるようにと励ますことになります。

行いを欠く信仰は死んだもの(二・一四〜二六)

 ヤコブ書は、御言葉を行うことの重要性を説くことを主要な主題としています。それはすでに「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(一・二二)と言って、ここまで多くの勧告の言葉や実例や比喩でそのことを説いてきました。ここに来て、その主題がもっとも直接的で明快な形で提示されます。しかもその提示はここで、信仰者の間での合い言葉である「信仰」との関係でなされることになります。
 まず、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つか。そのような信仰が、彼を救うことができるか」という問いの形で問題が提起されます(一四節)。そして、実際に生存のために必要な最小限の衣食がない人に、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないという場合を、例示としてあげます(一五〜一六節)。その上で、「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と結論します(一七節)。
 ここで間違ってはならない点は、ヤコブは信仰には慈善行為(貧しい人を助ける行為)が必要であると言っているのではなく、口先だけの援助が何の役にも立たないことを比喩として、「同じように」行いの伴わない信仰も役に立たない死んだものだと主張しているのです。信仰も、「わたしはこう信じている」と口先で言うだけで、その信仰にふさわしい行い(現実の生活)を結果しないならば、そのような信仰は空しい(実質のない観念に過ぎないものだ)と言っているのです。
 行いのない信仰は空しいものだという主張をさらに確実にするため、ヤコブは反対者の抗弁を予想して取り上げ、それに反論する形で議論を進めます(一八節)。ところが、この抗弁の文は以下の反論と論理的に整合せず、解釈者を苦しめることになります。もしこの抗弁が、「あなたには行いがあるかもしれないが、わたしには信仰がある。信仰のない行いは神の前に無意味ではないか。行いがなくても信仰があれば、信仰によって義とされるのだ」という内容であれば、「では、行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」という反論が成り立ちます。このような抗弁の文を補ってみると、そのような抗弁をする者に向かってヤコブが、「あなたは信仰をもっている」というが、ではその行いのない信仰なるものを見せよと迫り、続いて「わたしには行いがある」、その行いによってわたしの信仰を見せましょうと、自分の立場を述べていることになります。

 一八節の論理的不整合を解決するために協会訳は、ここの「あなた」と「わたし」には意味の上で力点はないとして、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と訳していますが、原文では強調の代名詞を用いて「あなた」と「わたし」が強調されていますので、この訳には無理があります。

 行いを伴わない信仰が空しいことを、ユダヤ人(ユダヤ教徒)であれば当然規範として受け入れている聖書(旧約聖書)を論拠にして説き進めます。最初に、「神は唯一である」というユダヤ教至高の信仰箇条を取り上げ、あなたはそう信じているのは結構だが、その信仰で義とされている(神の民としての資格がある)のだとする立場を、「悪霊どももそう信じておののいています」という一撃で退けます(一九節)。
 さらにアブラハムがイサクを献げるという従順の行為(創世記二二章)を実例として取り上げて、「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたこと」を例示します(二〇〜二二節)。そして、パウロが行いによらず信仰によって義とされるのだという主張の根拠にした、あの「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という創世記(一五・六)の箇所を、まさにこの従順の行為によって完成した信仰を指しているとして引用します(二三節)。こうして、聖書の実例を列挙した上で、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」という結論を掲げます(二四節)。
 さらに、娼婦ラハブも、イスラエルの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって義とされたという実例をあげ(二五節)、「魂のない肉体が死んだものであるように」という比喩を用いて、「行いを伴わない信仰は死んだもの」という主張を繰り返します(二六節)。
 このように、くどいまでに繰り返される主張は、パウロの「人は行いによらず信仰によって義とされる」という主張に反論しているという印象を受けます。はたして、ヤコブはパウロの主張をよく知っていて、それを危険な主張だとして反論しているのでしょうか。この点がヤコブ書理解にとって一番重要な問題になるところですが、これは問題が大きいので、次節の「ヤコブ書の位置と意義」で「パウロとヤコブ」の関係としてまとめて扱うこととし、ここでは文意の確認にとどめます。

舌を制御する(三・一〜一二)

 ここでヤコブは話題を教師の仕事に移します(一節)。すでにパウロの時代に御霊の賜物によって霊的な信仰の事柄を教える教師の働きをする人たちがいましたが(使徒一三・一、コリントT一二・二八)、使徒名書簡の時代になると教師は福音宣教者や預言者と並んで集会の指導層を形成していました(エフェソ四・一一)。それで、教師になりたがる人もいたのでしょう。ヤコブはその傾向にブレーキをかけます。それは、教師は言葉によって人を導く役目ですが、人間は言葉において多くの過ちを犯す者ですから、教師はその立場上その言葉の上の誤りについて、他の人たちよりも厳しく責任を問われることになるからです(一節〜二節前半)。人が自分の発した言葉に対して終わりの日に責任を問われることについては、イエスの語録にもあり(マタイ一二・三六)、ヤコブはこのイエスのお言葉を背景にしてこう語っているのでしょう。
 言葉の上で多くの過ちを犯す人間の弱さに触れたヤコブは、ここから言葉を発する器官である舌を制御することの重要性を語ります(二節後半以下)。しかしその語り方は、もっぱら舌を制御することがいかに困難であり、その結果がいかに重大であるかという事実を述べることに終始しています。それを語ることによって、「言葉で過ちを犯さないで、自分の全身を制御できる完全な人」になるように説き勧めているわけです。
 小さな器官である舌が大きな全身を制御するものであることを、馬を御すくつわと、船を操る小さな舵の比喩で語り、舌は小さな器官であるが大きな結果を生じるものであり、その使い方が重要であると説きます(三節〜五節前半)。その上で、舌がいかに深く悪に染まっているかを述べて、舌の使い方に心するように警告します(五節後半以下)。
 まず、小さな火が大きな森を燃やしてしまう事実を例としてあげて、「舌は火です」という隠喩が語られ、その隠喩が意味するところが「不義の世界」とか「生成の車輪」というような特別な用語を用いて語られます(五節後半〜六節)。舌は「不義の世界」であるというのはどういう意味であるのか議論が多いところですが、不義の塊という意味に理解してよいでしょう。この小さな不義の塊が全身を汚すのです。また、「舌は・・・・『生成の車輪』(直訳)を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされる」という表現は、いったいどこから来たのか、また何を意味するのかも議論が多いところですが、舌は自身地獄の火に燃やされている悪の根源であり、そこから発する火は「移り変わる人生」全体を焼き尽くしてしまう業火であると言っているのでしょう。

 「生成の車輪」という表現は、もともとは「輪廻転生の車輪」というインドの輪廻思想に発し、オルフェウスの密儀宗教に受け継がれ、ヘレニズム期のユダヤ教にも影響した結果だと考えられます。しかし、本書はこの表現を、その起源の意味とは無関係に、人生全体、存在全体という一般的な意味で用いていると見られます。とにかく、このような表現が本書に現れることは、広範な宗教史的関連を考えさせる示唆深い事実です。

 さらに続けて、人間はあらゆる種類の獣や鳥や、また這うものや海の生き物を「飼い慣らす」(原文の動詞)ことができるのに、悪の塊であり、死をもたらす毒に満ちているこの小さな舌を「飼い慣らす」ことができる人は一人もいないという人間の現実が描かれます(七〜八節)。舌が邪悪であるということは、心が邪悪であることを意味し、そこから発する行為が邪悪であることを意味しています。この段落の人間の描写は、パウロが「正しい者はいない、一人もいない」と言って、罪の支配下にある人間の現実を語ったところ(ローマ三・九〜一八)と相通じるものがあります。
 さらに、舌がいかに邪悪なものであるかを、人間は同じ舌で父である主を賛美すると同時に、神にかたどって造られた人間を呪うという事実をあげて描き(九〜一〇節)、それは自然の理法にも反する、あってはならないことだとして、自然界から三つの実例をあげます。泉の同じ穴から甘い水と苦い水が同時にわき出ることはないし、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことはありません。さらに、塩水が甘い水を作ることはできません(一一〜一二節)。自然界はこのように創造者の秩序を守っているのに、人間は同じ舌で賛美と呪いを出すという、あってはならないことを止めることができないでいます。

 舌を制御することの重要性と難しさを語るこの段落は、ユダヤ教知恵文学の流れの中にあります。それは、とくに箴言とシラ書によく見られる主題です。同時に、イエスの語録の解釈において、「完全な者」になることを志向するなど、マタイと同じ方向にあることをうかがわせる表現が見られます。

上からの知恵(三・一三〜一八)

 先にヤコブは行いが伴わない信仰の空しさを語りましたが、ここで行いが伴わない知恵は偽りであることを語ります。真の知恵は、立派な生き方の中で「知恵にふさわしい柔和な行い」として現れるはずです(一三節)。知恵を誇りながら、「内心ねたみ深く利己的であり、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしている」ようでは、その知恵は「上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たもの」に過ぎないと、その虚偽を暴きます(一四〜一六節)。ヤコブはここで、人間の利己的な本性から出てくる知恵と「上から出た知恵」を対比して、「上からの知恵」、すなわち人間の本性から出たものではなく、神の御霊によって与えられる知恵は、「何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものであり、憐れみと良い実に満ち、偏見はなく、偽善的でもない」と、それが行いに結果する姿を列挙します(一七節)。これは、パウロが「御霊の実」を列挙しているところ(ガラテヤ五・二二〜二三)を思い起こさせます。

 一五節の「悪魔から出たもの」は、厳密に訳すと「悪霊からのもの」となります。この用語は新約聖書ではここだけです。

 一八節の「義の実」という表現は、パウロも用いています(フィリピ一・一一)。義の実(神に喜ばれる正しい行い)を人生において収穫するための種は、「平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれます」。義の実は、利己心や傲慢な生活からは生じません。この一八節の表現は、真の知恵の結果としてあげられている「柔和な行い」(一三節)と一組になって、本書とマタイの親近性を示しています。「平和を実現する人たち」は、マタイ(五・九)と同じです。「柔和」はマタイ特愛の用語です(マタイ五・五、一一・二九)。マタイとヤコブは、イエスの語録を同じ方向で解釈して用いていることが、ここにもよく出ています。

 マタイにおける「柔和」の用例については、拙著『マタイによる御国の福音―山上の説教講解』77頁以下を参照してください。また、「平和を実現する人たち」については、 同書102頁以下を参照してください。

神に服従しなさい(四・一〜一〇)

 先の段落で柔和さとか平和が強調されましたが、実際にはキリストの民の間にも「戦いや争いが起こる」現実をヤコブは見据えて、厳しく悔い改めを求めます。パウロも集会員の間に起こる不品行や争いごとに対処しなければなりませんでした(たとえばコリントT五・一や六・一)。パウロは異邦人信徒の間で、それをキリスト信仰の場で解決するように努めていますが、ヤコブはユダヤ教の枠の中で、聖書の言葉の権威により、神への服従を原理として悔い改めを迫ります。
 まず、戦いや争いが起こるのは、人間の内にある欲望がぶつかりあって起こるのだと、その原因が示され(一節)、欲望しても得られない現実から、他人を妬んだり、争ったり、(ついには法廷などで)戦ったりするのだと、その原因と程度が高じて行く過程が分析されます(二節)。

 「人を殺します」という表現は、キリスト者の集会内ではあまりにも極端なケースであるとして、エラスムス以来よく似たスペルの「妬む」という語の誤りとして読み替える解釈が用いられています(三・一四〜一六参照)。この段落の「あなたがた」を世間一般の人たちとするならば、殺人や実際の戦争のことを言っているとすることができますが、この段落も信徒への呼びかけとする以上は、このような解釈も許されるかもしれません。

 そして、得られないのは、「願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」と、得られない理由が示されます(二節末尾〜三節)。ここの「願い求めても与えられない」という表現には、イエスの「求めよ。そうすれば与えられる」というお言葉が響いています(ここの「願い求める」とマタイ七・七の「求める」は原語では同じ動詞です)。イエスの語録の「求めよ」は、もちろん神に求めることです。ヤコブが「得られないのは、願い求めないから」と言うとき、それは当然神に求めないからだと言っているわけです。そして、神に願い求めても与えられないのは、神の御心に添って求めることをしないで、自分の楽しみのために求めるという間違った求め方をしているからだとします。こうしてヤコブは、人間の間に争いや戦いが起こるのは、神との正しい関わりの中に生きていない人間の間違った欲求から起こるのだとしていることになります。人間が霊的に神との親しい交わりにあり、正しく神に祈り求めているならば、満たされない欲求から争いや戦いが起こることはないはずです。それが起こることは、世の友となり、神に背いているしるしです。ヤコブは続いて、このように「神に背いている者たち」に向かって、厳しく悔い改めを迫ります(四〜一〇節)。
 ここで「神に背いている者たち」と訳されている原語は、「姦淫する者」という意味の語です(マタイも一二・三九と一六・四で用いています)。ヤコブはホセアやエレミヤなど預言者の伝統を受け継いで、心を神以外の対象に向ける者を「姦淫する者」と呼んで、悔い改めを迫ります。ここでは「世」《コスモス》に心を向け、《コスモス》のものを求める者たちをそう呼んで、世の友となることは神に対して姦淫を犯すことだとします。
 この世界《コスモス》を神と対立する原理で成り立っていると見る見方は、パウロやヨハネも同じですが、ヤコブも「世の友」となることは「神の敵」となることだと、さらに厳しく弾劾します(四節)。このヤコブの言葉の背後には、「神と富に兼ね仕えることはできない」と言われたイエスのお言葉があると考えられます。世の価値を集約するものは富ですから、イエスのこのお言葉は、神と《コスモス》が対立することを語る言葉だと見られます。
 ヤコブはこのことを聖書を引用して強調しますが、その二つの引用の第一、「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられる」(五節)は、聖書のどこを指すのか確定できません。しかしこの引用文は、だから、そのような神が熱愛される霊を宿すわたしたちも、全身全霊で神を愛すべきであると訴えています。それだけでなく、神はさらに豊かな恵みを与えてくださる方だとして、箴言三・三四を引用して「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」と語り(六節)、神の前にへりくだることを求めています。

 RSVなど多くの翻訳は、第一の引用を五節末で切っています。その方が、「もっと豊かに恵みをくださる」を含める新共同訳よりも自然です。

 ヤコブは、ここまでに述べたことをまとめて、「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい」と言います。ヤコブは、わたしたちを誘う世の様々な誘惑の背後に悪魔の働きを見ています。悪魔は神に敵対し、わたしたちを神から引き離そうとする霊的な諸力の頭です。神に服従して、悪魔の働きかけに反抗するならば、悪魔は入り込むすきを見つけることができず、逃げて行くことになります(七節)。このような神に敵対する霊的諸力の頭を「悪魔」《ディアボロス》と呼ぶことは、イエスの語録にも見られます(マタイ一三・三九、二五・四一、ルカ八・一二)。また、パウロの名によって異邦人信徒に向けて書かれた書簡にも見られます(エフェソ四・二七、六・一一、その他牧会書簡に多数)。
 ヤコブは、世に向けていた心を神に向け変えて、神に近づくように求めます。それが悔い改めです。そうすれば、神はわたしたちに近づいてくださり、わたしたちは神との親しい交わりに生き、神の豊かな恵みを味わうことができます。そのような悔い改めを求めて、罪を犯す者たちには「手を清めなさい」と言います。すなわち行動を慎み、汚れた行為に手を染めないように求めます。また、「二心の者たち」(直訳)には、「心を清めなさい」、すなわち心を単一にして純粋な心で神に向かうように求めます(八節)。
 この悔い改める者になるようにという求めが、「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」という表現で具体的に描かれます(九節)。神の前に汚れた自分の現状を認識することなく、地上の価値や快楽を楽しみ、笑い喜んでいる者に向かって、自分の現実をしっかりと見て、「悲しみ、嘆き、泣きなさい」と説きます。この「笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」という勧告には、終わりの日の裁きを前にして、「今泣いている人は幸いである、あなた方は笑うようになる。・・・・今笑っている人は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」(ルカ六・二一、二五)と言われたイエスの語録伝承が背後に響いています。そして、最後に「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」という要約の言葉で、この段落が締めくくられます(一〇節)。

兄弟を裁くな(四・一一〜一二)

 イエスも「人を裁くな」と説き、人を裁くことの倒錯を比喩を用いて語っておられます(マタイ七・一〜五)。ヤコブはすべてを律法との関わりで考える立場から、「兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者」は、「律法の悪口を言い、律法を裁くことになり」、「律法の実践者ではなくて、裁き手」となることだとして、「兄弟を裁く」ことを厳しく批判します(一一節)。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになるというのは、自分の行為によって、それを禁じた律法を無視し、嘲笑することになるという論理でしょう。そして、その律法を嘲笑する行為は、「律法を定め、裁きを行う唯一の方」の権限を侵し、自分をそのような立場の者とする神への冒?行為だと弾劾します(一二節)。

誇り高ぶるな(四・一三〜一七)

 わたしたちは将来の計画を立てて生涯を過ごしています。しかし、その計画が「主の御心であれば」という立場から離れて、自分の意志だけで行おうとする計画であるならば、それは自分が主の御許しの下でのみ存在している者であるという限度を忘れた高ぶりであると、ヤコブは指摘します(一三〜一四節)。わたしたちは、「自分の命がどうなるか、明日のことは分からない」存在であることを忘れてはなりません。それを忘れることは高ぶりです。わたしたちは、主によって生かされている存在であることを自覚し、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。すなわち、そう考え、そのような原理で生きるべきです(一五〜一六節)。
 このように、誇り高ぶりはすべて悪であるのですから、高ぶらず主の前にへりくだることが善であることになります。それが人のなすべき善、人のあるべき姿であると知りながら、そうしないことはその人の罪になります。すなわち、神から退けられる原因になります。

富んでいる人たちに対して(五・一〜六)

 ここに来てヤコブは、富の力によって貧しい者を虐げ抑圧している富める者に対して、厳しい断罪の言葉を投げつけます。ヤコブは先に、集会に出入りする富める者に向かって、富のはかなさを説き、自分を低くするように求めました(一・一〇)。また、集会が金持ちと貧乏人を差別しないように求めました(二・一〜一三)。しかし、ヤコブは基本的には、貧しい者と富める者の立場が終末において逆転するという(ルカが伝える)イエスの終末告知の思想を継承しています(ルカ六・二〇〜二六)。ここでヤコブは、その終末告知の中の富める者への断罪を、預言者的な激しさで語ります。
 地上の富は朽ち果てるものであることを語るところ(二節〜三節文頭)は、マタイ六・一九のイエスのお言葉を思い起こさせます。イエスは天に宝を積むように勧められましたが(マタイ六・二〇)、ヤコブは「この終わりの時にさいして」(直訳―終わりの時に直面しているにもかかわらずという意味)地上に宝を積んだ者の不義と愚かさを糾弾します。「さび」は、地上の富が神の慈愛の御心に従って貧しい人たちのために用いられず、空しく朽ち果てた事実を象徴しています。この事実が、終わりの日の裁きにおいて、富める者たちの罪の証拠として神の前に提出され、さびが地上の金銀を朽ち果てさせたように、空しい快楽で肥え太った彼らの肉を火のように食い尽くすことになると、神の裁きを予告します(三節)。
 昔も今も富める者、権力ある者の富は、何らかの形で労働者が働いて生み出した価値を横取りして集めた結果です。それが「畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金」と、具体的に表現されています(申命記二四・一四〜一五、エレミヤ二二・一三参照)。その不義に苦しめられた者の正義を求める叫びが「万軍の主の耳に達している」と、ヤコブは警告します(四節)。

 「万軍の主の耳に達した」という表現は、七十人訳ギリシア語聖書のイザヤ書五・九からです。ヘブライ語聖書は違います。

 このような「不義の富」を蓄え、「地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ」、傲慢になっている者たちが、「義人を罪に定めて殺した」と、ヤコブは弾劾します(五〜六節)。著者がヤコブ以後の人物であるならば、この「義人」(単数形)は「義人ヤコブ」と呼ばれた著者の師を指しているのかもしれません。あるいは、さらにさかのぼってイエスを指している可能性もあります。イエスもヤコブも抵抗することなく、自分を殺す者に身を委ねました。あるいは、この「義人」(単数形)はいつの世にも神に従うゆえに迫害される人たちの総称かもしれません。富める者はいつの世にも、驕り高ぶり、義人を迫害し、裁判所に引っ張っていく者たちです(二・六)。
 この段落に「富める抑圧者への警告」という標題をつけている翻訳もあります(NRSV)。しかし、ここはもはや警告ではなく、断罪の宣告です。けれども、捕囚前の預言者の断罪の宣言がイスラエルへの悔い改めへの呼びかけを背後に響かせていたように、ヤコブも、イエスを信じる貧しい者を迫害する世の富める者に向かって、終末の裁きを指し示して悔い改めを迫っていると理解してよいでしょう。ここにはヤコブの預言者的な一面が顔を見せています。

忍耐と祈り(五・七〜二〇)

 最後にヤコブは、「主の来臨《パルーシア》」まで忍耐するように励まします。「主の《パルーシア》が近い」のだから、心を堅くして、苦難の中で忍耐しなさいと励まします。ヤコブはそれを「秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つ」農夫を引き合いに出して、農夫はみなそうしているのだから、「あなたがたも」(強調)忍耐しなさいと説きます(七〜八節)。
 この最後の段落に、新共同訳は「忍耐と祈り」という標題をつけています。しかし、この段落は「主の来臨は近い」という標題の方が適切ではないかと考えられます。全体を貫く主題は《パルーシア》の切迫です。その来臨に備えてどうあるべきかを説く内容に、忍耐とか祈り、不平を言うなとか誓うなという勧告が含まれるのです。
 ヤコブ書は、信仰者の実際の生き方の知恵を説くことに終始していて、パウロ書簡のようにキリストの出来事の意義とかキリストを信じることの中身について語ることはほとんどありません。その中で、「主の来臨」については、このように明確に語っていることは注目されます。この事実は、ヤコブ書が継承しているエルサレム共同体の信仰が《パルーシア》待望を基調としていたことを示唆していると見られます。この来臨の切迫を語る「(裁く方が)戸口に立っておられる」(九節)という表現は、マタイ二四・三三と同じであり、それはパレスチナのユダヤ人共同体の伝統を受け継ぐとされるヨハネ黙示録にも現れます(黙示録三・二〇)。
 主の来臨の時は裁きの時です。その時に「裁きを受けないようにするため」、互いに不平を言わず、苦しい状況の中で辛抱し忍耐するように説きます(九節)。ヤコブが「裁かれないために、不平を言うな」というとき、彼の念頭には、エジプトから救い出された後、荒野で不平を言ったため滅ぼされたイスラエルの民のことがあったのでしょう(コリントT一〇・一〇参照)。
 ヤコブは「辛抱と忍耐の模範」としてまず「主の名によって語った預言者たち」を指し示します。この預言者たちは、昔ヤハウェの言葉を語ったイスラエルの預言者たちも含みますが、とくに主イエス・キリストの名によって語り、その名によって苦しみを受けた預言者たちを指していると見られます。そしてさらに、ユダヤ教徒の間では諺となっている「ヨブの忍耐」を取り上げ、「慈しみ深く、憐れみに満ちた」主がヨブの最後を栄えさせられた物語を思い起こさせて、忍耐するように励まします(一〇〜一一節)。
 さらに続いて、終わりに日に「裁きを受けないようにするために」、誓いを立てることを厳しく禁止します(一二節)。ヤコブがとくにこの戒めを重視していたことは、「何よりもまず」という導入の句が示しています。当時のユダヤ教徒の間では、自分の言葉が真実であることを保証するために様々な形の誓いが用いられていました。直接神の名を用いることを避けるために、天とか地、エルサレムとか祭壇にかけて誓うというような形が用いられていました。イエスはそのような誓いを一切否定されました(マタイ五・三三〜三七)。ヤコブも同じように「天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと」誓ってはならないとします。
 誓いとは人に対して責任をとる言葉と責任をとらなくてもよい言葉を区別していることになり、すべての言葉に責任を求められる神(マタイ一二・三六)の前に不誠実な生き方になります。主に属する民においては、然りと言った以上は無条件に然りとし、否とした以上は無条件に否としなければなりません。自分の言葉すべてに無条件に責任をとらなければなりません。誓いを禁止するのは、すべての言葉に無条件の信実を求めているのです。誓いを利用して、自分の言葉に偽りを忍び込ませる者は、終わりの日の裁きにおいて偽りの責任を問われます。

 誓いの禁止についてマタイ福音書とヤコブ書に同じように伝承されている事実は、イエス語録の伝承について示唆的です。誓いの禁止について、その意義、二つの伝承の関係、エッセネ派との比較、現代の実生活における誓約の問題など、詳しくは拙著『マタイによる御国の福音―山上の説教講解』 193頁以下の「神の信実」の節を参照してください。

 差し迫っている「主の来臨」を前にして、ヤコブは実際的な勧告を続けます。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」と、各人の実際の状況に応じた勧告をします(一三節)。その上で、「苦しんでいる人」に向かって、祈りを励ます言葉を続けます(一四〜一八節)。
 昔も今も病気が人生の大きな苦しみであることは変わりません。主イエス・キリストを信じる民の中で病気で苦しむ者に向かって、ヤコブは「教会《エクレーシア》の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」と指示します(一四節)。当時すでに各地の集会《エクレーシア》には「長老(複数形)」が立てられ、信仰の指導に当たっていたことがうかがわれます。
 集会を代表する長老たちが「主の名によって」祈り、病人も信仰によって祈るならば、「主がその人を起き上がらせてくださる」と、主の力ある働きが保証されます(一五節前半)。ユダヤ教徒に向かって語っている本書では、「主」は神を指すことが多いのですが、ここの「主」は「主イエス・キリスト」を指しています。「主イエス・キリスト」の名が、その御名を信じる信仰に応えて、癒しの業をなしてくださいます。そのさい、病人の信仰が触発される機縁として「オリーブ油を塗る」という行為がなされています。今はオリーブ油を塗ることはなくても、按手とか他の形での接触を通して、御名を信じる信仰が御霊の働きをもたらします。
 病気の癒しを求める祈りにおいて、「罪を犯した」という意識があれば、それは祈りを妨げます。ここの「罪」は複数形で、ユダヤ教徒の個々の律法違反の行為を指しています。そのような罪が赦されるために、罪を告白しあって「主イエスの赦し」を受け、「正しい者」とされて祈るならば、その祈りは「大きな力があり、(癒しの)効果をもたらす」とされます(一五節後半〜一六節)。ここでは「主イエス」の名が罪の赦しの名であり、癒しの力をもたらす名であるとされています。そして、「正しい人の祈りは大きな力がある」ことが、エリヤの実例で保証されます(一七〜一八節)。
 「主の来臨」を前にした実際的な勧告の最後に、「真理から迷い出た者」を「迷いの道から連れ戻す」こと、すなわち正しい信仰へと引き戻し、正しく来臨に備えさせることの意義(その罪人の魂を死から救い出す)と功績(多くの罪を覆う)が説かれて、締めくくられます(一九〜二〇節)。
 なお、この「苦しむ者」への祈りの励ましにおいて、ペトロ書簡などのように迫害による苦難が視野に入っていないことが注目されます。これは本書の成立事情について示唆的です。