市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第27講

第一章 ユダヤ教内のキリスト信仰

       ―― 主の兄弟ヤコブとヤコブ書 ――


       (本章で書名のない引用箇所はすべてヤコブ書の章節をさします。)




第一節 主の兄弟ヤコブ

はじめに―問題点

 新約聖書には五人のヤコブが登場します。
1 ゼベダイの子ヤコブ(マルコ一・一九他)
2 アルパヨの子ヤコブ(マルコ三・一八他)
3 ヨセフとマリアの子、イエスの兄弟ヤコブ(マルコ六・三他)
4 小ヤコブ(マルコ一五・四〇他)
5 使徒ユダの父ヤコブ(ルカ六・一六他)
 この中で、著者が自ら「ヤコブ」と名乗っている「ヤコブ書」の著者である可能性があるのは、3の「ヨセフとマリアの子、イエスの兄弟ヤコブ」だけです。このことは、ほとんどの研究者が認めています。たしかに、他のヤコブである可能性はまず考えられません。問題は、このヤコブが実際の著者であるのか、あるいは他の誰かが「主の兄弟ヤコブ」の名を用いてこの手紙を書いたのかの問題、すなわちこの手紙の真正性の問題です。この問題に関する研究者の見解は分かれています。現代では真正性を疑う人の方が多いようですが、真正性を擁護する研究者もかなりいます。聖書辞典類には両論併記が見られます。この問題を考察するために、まず「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれている人物がどのような人物であるのか、知りうる限りの資料に基づいて、この人物の輪郭を描いた上で、この人物が「ヤコブ書」を書いた可能性について考えてみます。

イエスの弟ヤコブ

 福音書にはイエスの家族のことを紹介するためのまとまった記事はありません。他の事柄を語るときに、家族のことが触れられているので、その断片的な記事からイエスの家族のことが伝わってくるだけです。その中で代表的な箇所は、マルコ福音書六章三節です。イエスが故郷のナザレの会堂で教えられたとき、イエスの家族を身近に知っている故郷の人々は、その教えに驚いて、こう言ったと伝えられています。

「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。(マルコ六・三)

 マタイ福音書とルカ福音書にあるイエスの誕生物語は、復活者イエスを賛美する信仰告白という一面をもっていますが、そこにあるイエスの両親がヨセフとマリアであったという事実は疑う理由がありません。イエスは「ヨセフの子」と呼ばれています(ルカ四・二二、ヨハネ一・四五)。またイエスは二人の最初の子ですから、ヤコブやその後で生まれた兄弟はイエスの弟ということになります。ここに用いられている「兄弟」という用語は、実際の兄弟を意味する語であって、従兄弟というような他の意味では用いられません。ヨセフとマリアは、イエス誕生後は普通の夫婦として、数人の息子と娘を産んだということです。
 ところが、マリアの永遠の処女性を教義とするようになったローマカトリック教会は、マリアが普通の夫婦生活で子供を産んだことはありえないとして、ここの「兄弟」を「従兄弟」と解釈しました。また東方正教会は、ヤコブらをヨセフが先妻との間にもうけた子であって、ヤコブはイエスの年上の異母兄だとします。しかし、これらは教会教義からする無理な解釈であって、わたしたちは故郷の同時代人たちの証言から、イエスには弟や妹たちがいたと理解すべきです。ここで父親ヨセフが出てこないのは、イエスが公に活動された時には、ヨセフはすでに亡くなっていたと考えられます。なお、「マリアの子」という呼び方に、イエスの出生に関して世間の人たちが問題視していたことが示唆されていますが(拙著『マルコ福音書講解』の当該箇所参照)、ここではその問題には触れず、イエスにヤコブという弟がいたという事実に限定しておきます。
 ヨセフは息子たちに家業の大工の技術を教えました。それで、イエスは大工と呼ばれていますが、ヤコブも同じく大工の技術を身につけていたと考えられます。ヨセフは家業の技術だけでなく、忠実なユダヤ教徒として息子たちに律法(聖書)を熱心に教えました。聡明なイエスは、十二歳でエルサレム神殿の律法学者たちと対等に渡り合える高度な律法知識をもっていました(ルカ二・四一〜五二)。ヤコブにはそういうエピソードは伝えられていませんが、同じ親と同じ会堂での教育という環境で育った者として、彼も高度な律法の知識を身につけていたと見られます。彼は後に律法を厳格に守る人物として「義人ヤコブ」と呼ばれるようになりますが、その素地は彼の青年期までの律法教育にあったと考えられます。このヤコブの姿は、イエスの育ちを理解する上で参考にすべき材料です。イエスもヤコブも決して無学な「貧農」ではありません。
 イエスがナザレの家を出て洗礼者ヨハネの運動に身を投じ、それからガリラヤに戻って独自の「神の国」宣教の活動を始められたとき、家族たちはイエスの宣教活動に対してどのような態度を取ったのでしょうか。普通はマルコ三・二〇〜二一やヨハネ七・一〜五などを根拠にして、家族は大いに困惑したとか批判的であったと見られています。しかし、イエスの家族はイエスと行動を共にしていたという重要な証言があります。ヨハネ福音書(二・一二)は、「その後、イエスと母、兄弟たち、弟子たちはカファルナウムに下って行き、そこにしばらく滞在した」と伝えています。ここに明言されているように、イエスの母マリアとヤコブをはじめ兄弟たちがイエスに同行しているのであれば、家族はイエスの宣教活動に協力的であったと見ることができます。少なくともイエスを拒否したり、その活動に反対はしていなかったと推察されます。母マリアはカナの婚宴ではイエスを信じる者として行動しています。

 マルコ三・二一で「身内の人たち」(文語訳から新共同訳、岩波版に至るまで、拙著の『マルコ福音書講解』も含め、すべての日本語訳)と訳されているギリシア語《ホイ・パラ・アウトゥ》は、「彼と共にいる人たち」と言う意味の表現であって、必ずしも家族を指すわけではありません。マルコ福音書ですぐ後に現れる「イエスの母と兄弟たちが来て・・・」(三・三一)と一組にされて、21節の句が家族を指すと理解されて、「身内の人たち」と訳されたのだと考えられます。しかし、文脈からすれば直前の十二弟子の選びが「自分の側に置くため」(三・一四)ですから、この「彼と共にいる人たち」は十二弟子を指すと見る方が自然です。「身内の人たち」という訳は再検討されなければなりません。また、「あの男は気が変になっている」と言っていたのは、「彼と共にいる人たち」ではなく世間の人たちであり、ここをイエスに対する家族の批判的な態度を示す根拠とすることはできません。ヨハネ七・五の「兄弟たちはイエスを信じていなかったのである」という表現も、ヨハネが求める意味での信仰ではまだないのであって、その意味では十二弟子も同じく「イエスを信じていなかった」と言わなければなりません。弟子たちはイエスがエルサレムに入られるならば、人々の前に大いなる働きがなされると期待していたように、兄弟たちもイエスにエルサレムで公に活動することを期待したに過ぎません。家族がイエスの「神の国」宣教活動に批判的ではなく協力的であったことについては、ペインター(John Painter)が その著 "Just James, The Brother of Jesus in History and Tradition " Fortress 1999 の Ch.1 で説得的に論じています。

復活者イエスのヤコブへの顕現

 イエスが最後に過越祭のためにエルサレムに上られたとき、母マリアとヤコブをはじめ兄弟たちもイエスと一緒にエルサレムに上って行きます。これは忠実なユダヤ教徒として過越祭に参加するためにエルサレムに上っただけなのか、イエスの働きに協力するために上ったのかは、確認することが困難です。母マリアとヤコブをはじめとする兄弟たちは、弟子たちと同様、エルサレムでのイエスの目覚ましい働きを期待し、それに参加するために上った可能性があります。ところが、イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑の判決を受けて処刑されます。目の前で起こったイエスの十字架上の刑死は、母や兄弟たち家族にとって衝撃的な出来事であったはずです。
 ところが、その後、復活されたイエスがヤコブに現れて、御自分が生きていること、神から遣わされた者であることを示されるという出来事が起こります。ルカによると、ヤコブを含むイエスの家族は、過越祭の後エルサレムに残り、生前にイエスに従った弟子たちと一緒に、ある家でひたすら祈っていますので(使徒一・一四)、この期間のあるとき復活されたイエスがヤコブに現れるという出来事が起こったのかもしれません。あるいは、過越祭が済んで失意の中に故郷のガリラヤに戻った後で、復活されたイエスがヤコブに現れ、後にヤコブがエルサレムに来て、弟子たちの集団に参加した可能性も否定できません。マルコとマタイによると、ペトロをはじめとする弟子たちはガリラヤに戻って、そこで復活者イエスの顕現を体験したのですから、ヤコブもそうであったことは十分考えられます。
 いずれにせよ、復活者イエスの顕現を体験したヤコブは、イエスをイスラエルに遣わされたメシアであると信じるようになり、メシア・イエスに仕える者となります。復活されたイエスがヤコブに現れたという出来事は、重要な出来事として信徒の間で語り伝えられて伝承を形成します。その伝承のもっとも古い記録はパウロの書簡にあります。パウロは、復活されたイエスが現れた出来事を列挙してこう書いています。

「ケファに現れ、その後十二人に現れました。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」。(コリントT一五・五〜八)

 パウロは「次いで」という語を繰り返し、復活者イエスの顕現がこのような順序で順次に起こったように書いていますが、「ケファに現れ、その後十二人に現れた」という伝承と、「ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れた」という伝承はもともと別の系列の伝承であり、それぞれケファ(ペトロ)とヤコブの首位性を強調する別の顕現伝承があって、パウロがそれらを一つにまとめてここで報告していると見られます。ヤコブを筆頭にあげる顕現伝承は、エルサレム教団の首座についたヤコブの権威を基礎づけるために形成されたものと見られます。復活されたイエスが最初にヤコブに現れたという伝承は、「ヘブル人福音書」(断片一七)などにも伝えられています。

エルサレム共同体の統率者ヤコブ

 イエスをイスラエルに約束されたメシアであるとする新しい信仰運動は、当初はユダヤ教団内の運動として進展していきます。エルサレムで始まったこの信仰運動は、ユダヤ人の中での使用言語の違いによって、ごく初期からアラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人の共同体と、ギリシア語を用いるヘレニスト・ユダヤ人の共同体に分かれていたようです(使徒言行録六章)。ギリシア語を用いるヘレニスト・ユダヤ人の信徒たちは、ステファノの殉教のときの迫害によってエルサレムから追われ、各地に散って行きます。エルサレムにはアラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人信徒の共同体が残ります。当初この共同体を指導したのは、ペトロを筆頭者とする「使徒」たちでした。彼らは生前のイエスにつき従い、その教えを受けた者たちです。そして、復活されたイエスに出会い、復活者イエスから世界にイエスの教えを伝えるように派遣された者たちです。彼らが新しく生まれた信徒共同体の指導をしたのは当然です。
 ところが、ユダヤ人の共同体は、会堂(シナゴーグ)の場合に見られるように、長老によって指導統括されるのが普通でした。シナゴーグに具体的に現れるユダヤ人の共同体は、数名の長老からなる《ゲルーシア》(長老会議)によって指導され、宗教上の問題や刑事・民事の諸問題も、この《ゲルーシア》で裁かれ、諸決定がなされました。エルサレムのユダヤ人信徒共同体が歩み始めたとき、(使徒たちは宣教のために各地に出かけましたから)使徒たちとは別に、このような長老会議が形成されたことは想像にかたくありません。事実、少し後にエルサレム共同体から各地の集会に信仰上の指導の手紙が送られたとき、それは「使徒と長老」たちからの手紙として送られています(使徒一五・二二〜二九)。ヤコブがイエスを信じる者としてエルサレム共同体に加わったとき、彼がイエスの兄弟であるという血縁上のつながりと、すでに周囲のユダヤ人から「義人ヤコブ」として尊敬されていたという事情から、彼が長老の中でも代表格として共同体で重きをなしたと推察されます。
 ヤコブがかなり早期にエルサレム共同体を代表する立場に立つようになっていたことが、パウロの書簡からうかがえます。パウロは、「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました」と書いています(ガラテヤ一・一八〜一九)。「それから三年後」というのは、ダマスコ途上の回心後のことですから、この最初のエルサレム訪問は35年になります。これはエルサレム共同体発足後四年から五年目ぐらいでしょう。パウロが回心後三年経ってはじめてエルサレムに上ったのは、ケファに会ってイエスに関する伝承を聞くためであったと考えられます。イエスをメシア・キリストと宣べ伝えるためには、イエスの働きと教えの言葉についてなるべく確実な情報を持っていることが必要ですから、地上のイエスにつき従った弟子たちの中で代表格のケファ(ペトロ)に会おうとしたのは当然です。しかし、そのためにエルサレムに行ったとき、パウロは他の弟子には会いませんでしたが、「ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました」。エルサレムに行って「主の兄弟ヤコブ」に会わないでおくことはできなかったのは、当時すでに「主の兄弟ヤコブ」がエルサレムの信徒共同体を代表していたからであると考えられます。パウロがヤコブを「主の兄弟ヤコブ」と呼んでいることから、イエスの弟であるという血縁上のつながりがいかに重んじられていたかがうかがわれます。
 このように、エルサレム共同体はかなり初期に長老たち、とくにその代表格である「主の兄弟ヤコブ」に統率されるようになっていました。使徒たちはその使命からしてもエルサレムを離れて各地に宣教に出かけたのに対して、長老たちはエルサレムに定住する有力なユダヤ人であるので(ヤコブはエルサレムから離れることはありません)、エルサレム共同体の指導権が長老会議に移っていったのも自然の流れだったでしょう。
 そのような流れを決定的にする事件が起こります。40年代の前半に、当時のユダヤの支配者ヘロデ・アグリッパ一世(在位41〜44年)が、十二人の中の一人であるゼベダイの子ヤコブを殺害します(使徒一二・一〜二)。ヘロデ大王の孫であるヘロデ・アグリッパ一世は、祖母マリアムネを介してハスモン王朝の血を引くためか、律法に忠実なユダヤ教徒に見えるように努力し、ユダヤ教の振興に力を注ぎました。彼はエルサレムのユダヤ教指導層と友好関係を築き、問題が起こったときには彼らの意に適う仕方で対処しました。おそらく何らかの律法に関する紛争でユダヤ教指導者たちがゼベダイの子でヨハネの兄弟であるヤコブを王に訴え、王はヤコブを逮捕処刑します。「それがユダヤ人に喜ばれるのをみて、さらにペトロをも捕らえ」投獄します(使徒一二・三〜四)。ペトロは奇跡的に脱獄することになります。あるいは危機一髪で逮捕を免れたことが、このような奇跡的脱獄の物語になった可能性もあります。
 ペトロはそのとき集会が行われていた家に戻り、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言って、エルサレムから姿を消します(使徒一二・六〜一七)。ペトロが獄から解放されて戻った家は、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」でした。ペトロは投獄されるまでこの家に住み、この家を拠点として活動していたことがうかがえます。しかし、ヤコブはその家にいません(いたらヤコブに伝えよという伝言は必要ないはずです)。ヤコブをはじめイエスの家族は別の家に集まっていたと考えられます。そして、この家の「主の兄弟ヤコブ」を中心とするイエスの家族が、エルサレム共同体の指導部を形成していたと見られます。
 この物語(使徒一二章)の「ヤコブ」は「主の兄弟ヤコブ」であり、彼がエルサレムの集会を代表していたことは、ここにもよく出ています。ペトロは「ほかのところへ行った」と伝えられるだけで、その後(一五章のエルサレム会議のとき以外は)使徒言行録に現れません。他の「使徒」も、この事件以後は使徒言行録にほとんど現れません。おそらく42年か43年に起こったこの事件を境にして、長老会議とくにその議長である「主の兄弟ヤコブ」がエルサレム集会を統率するという体制は、ますます強くなっていったと考えられます。後で見るように、48年の「エルサレム会議」では、ヤコブが議長として決定を下しています(使徒一五・一三〜二一)。ペトロもパウロもヤコブの権威に服しています。また、57年にパウロが献金を携えてエルサレムに来たとき、エルサレムの長老全員がパウロと会っていますが、そこでもヤコブが会談を取り仕切っています(使徒二一・一七〜二六)。
 ヤコブがかなり初期からその死にいたるまでエルサレム共同体を代表する立場にいた事実は、その後の共同体の伝承の中に保持されることになります。その伝承をまとめて四世紀初頭に『教会史』を著したカイサリアのエウセビオスは、ステファノの殉教を記した直後に、主の兄弟と呼ばれるヤコブがエルサレムの「初代の監督」に選ばれたと伝えています。その後に、「救い主の昇天後、ペトロとヤコブとヨハネは・・・・義人ヤコブをエルサレムの監督に選んだ」というアレクサンドリアのクレメンスの著作の中の言葉を引用して、その経緯を説明しています。その際、二人のヤコブを区別すべきだとして、一人は斬首されたヤコブ(ヨハネの兄弟)、他の一人が義人と呼ばれ、神殿の塔から突き落とされて殺されたヤコブ(イエスの兄弟)という説明も加えています(エウセビオス『教会史』U一・二〜三)。

「義人ヤコブ」

 ヤコブがエルサレム共同体を代表する立場になっていったのは、彼が「主の兄弟」であるというイエスとの血縁関係からだけではなく、彼が厳格に律法を順守する者として「義人」と呼ばれ、共同体内のユダヤ人たちからだけでなく、外のユダヤ人たちからも尊敬されていたからです。当時のエルサレム共同体は、時代の要請から、このような「義人ヤコブ」を共同体の顔として代表者にする必要に迫られていました。
 「時代の要請」というのは、四〇年代から五〇年代にかけて、エルサレムでは宗教的民族主義がだんだんと熱気を帯びてくる時代でした。異教徒ローマ人の支配下にあって、ヤハウェだけを王とする本来のイスラエルを回復しようとする運動は、ファリサイ派やエッセネ派の律法順守の熱心として高揚し、その中でも過激な「熱心党」はローマへの税の不払いやローマに協力的なユダヤ人指導者の暗殺など、武力による反ローマ運動を展開していました。時代の合い言葉は「律法への熱心」です。そのような時代の流れの中で、イエスをメシアと信じる者の共同体が、少しでも律法に不忠実な態度を見せるならば、ユダヤ人たちの敵意の火に油を注ぐことになり、存立そのものが危うくなります。事実、共同体発足後三年ほどの時期に、ヘレニスト・ユダヤ人(ギリシア語を用いるユダヤ人)がイエスへの信仰によって神殿や律法に対して自由な態度を示したとき、それを代表して語ったステファノがユダヤ教徒の憤激を招き、石打にされるという事件が起こっています。この事件をきっかけにして、ヘレニスト・ユダヤ人の信徒に対する迫害が起こり、彼らはエルサレムから散らされて行きます。しかし、律法に忠実なパレスチナ生まれのアラム語系のユダヤ人信徒はエルサレムに残ります。エルサレム共同体は、この時から律法に忠実なパレスチナ・ユダヤ人だけの共同体となります。そして、自分たちが律法に忠実であることを周囲のユダヤ人に示すために、厳格な律法順守のゆえに周囲のユダヤ人たちからも尊敬されている「義人ヤコブ」を代表者として押し立てることになります。
 ヤコブの義人ぶりは、まとまった文書とか記事があるわけではありませんが、この時代のことを伝える断片的な資料や伝承からうかがい知ることができます。たとえば、エウセビオス(『教会史』第二巻二三・四〜七)が引用しているヘゲシッポス(二世紀半ばのパレスチナのユダヤ人キリスト者の著述家)による伝承は、次のようにヤコブを伝えています。

 「教会の監督権は使徒とともに主の兄弟ヤコブに譲渡された。ヤコブは主の時代から今日まで誰もが義の人と呼ぶ人物である。他にも多くのヤコブがいるが、彼だけが生まれつき聖なる者である。ぶどう酒や酒をいっさい口にせず、動物の肉も食べない。頭に剃刀を当てることも、香油を体に塗ることも、沐浴もしない。彼だけは聖所に入ることができる。そのため、彼が身に着けているのは、毛織物ではなく麻布である。常に一人で聖所に入り、跪いて人々のために神に赦しを乞う。長い時間祈るので、その両膝は駱駝の膝のように堅くなっている。この上ない敬虔さのゆえに、彼は義人、あるいは砦(擁護者)と呼ばれている。彼は預言者の言葉通りの人物である」。

 ぶどう酒を飲まず、頭に剃刀を当てないことは、ヤコブが生涯「ナジル人の誓願」(民数記六章)を立てていたことを示唆しています。しかし、それだけでなく肉を食べず、香油を体に塗ることも、沐浴もしないことは、厳格な禁欲主義者の敬虔を貫いたことを示唆しています。しかし、ヤコブの禁欲主義を過大に強調してはなりません。ヤコブはあくまで社会生活の中で律法を厳格に順守したユダヤ教徒であって、砂漠の世捨て人のような修道僧ではありません。ヤコブは、他のイエスの兄弟たちと同様、結婚していたと考えられます(コリントT九・五)。結婚して子孫を得ることは、敬虔なユダヤ教徒の義務でした。
 ヤコブが「ぶどう酒を飲まず、肉を食べない」生活をしたことは注目されます。コリントやローマにおいてユダヤ人と異邦人が混じった集会の交わりの中で、「ぶどう酒を飲まず、肉を食べない」人たちと、自由に飲み食いする人たちとの関係が難しい問題になったことが、パウロ書簡からうかがえますが、このコリントやローマの「ぶどう酒を飲まず、肉を食べない」人たちとヤコブとの間に何らかの関係があったのかどうかは、十分に解明されていません。
 このようなヤコブに率いられるエルサレム共同体、およびこのエルサレム共同体を中核とするメシア・イエス運動のユダヤ人たちは、一世紀の半ばには、クムランを拠点とするエッセネ派と並んで、当時の主流を形成していたファリサイ派のラビ・ユダヤ教と対抗する一派を形成するに至っていました。もっとも一世紀には、ファリサイ派の中の過激派が「熱心党」を形成し、ヨセフスはこれを、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派に並ぶ「第四の哲学」と呼んでいますが、イエスをメシアとして信奉するヤコブ派も有力な一派をなしていたと見てよいでしょう。

調停者ヤコブ

 このようにユダヤ教律法を通常以上に厳格熱心に順守するヤコブは、異邦人にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられ、多くの異邦人が信仰に入ってきたとき、異邦人信徒に対してどのような態度を取ったのでしょうか。使徒言行録(一五・一)の「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」という記述と、ガラテヤ書(二・一二)の「ヤコブのもとからある人々が来るまでは」とを短絡的に結びつけて、ヤコブが異邦人信徒に割礼を受けてモーセ律法を順守するように要求した(あるいはそのような要求をした勢力の黒幕である)かのように見られる場合が多いようですが、それは誤解です。ヤコブが異邦人信徒の割礼にどのような態度をとったのかという問題は、もっと正確に検討しなければなりません。
 パウロが異邦人に「無割礼の福音」を宣べ伝えて、多くの異邦人が割礼を受けないままでキリストの民として迎え入れられたとき、それに反対し、異邦人信徒も割礼を受けてモーセ律法を順守しなければならない、すなわちユダヤ教徒にならなければならないと主張して、パウロの伝道を妨害したユダヤ人信徒の勢力があったことは事実です。パウロの書簡は、パウロの活動を妨害する彼らの対抗運動に苦しめられていることを率直に述べています。このままでは自分の異邦人伝道が無意味になると恐れたパウロは、エルサレムに上ってこの問題をヤコブが主宰するエルサレム教団で決着をつけようとします。それが、パウロがガラテヤ書二章で描き、ルカが使徒言行録一五章で語っている「エルサレム会議」です。

 この「エルサレム会議」がいつ行われたのかは、拙著『パウロによるキリストの福音V』の6〜16頁で見たように、諸説があって決定が困難です。しかし、いずれの場合もヤコブがエルサレム共同体を代表している事実は変わりませんので、ここでは時期の問題は保留のまま進めます。

 このエルサレム会議を議長として統括しているのは「主の兄弟ヤコブ」です。ファリサイ派から信仰に入った者たちが、パウロが無割礼の福音を宣べ伝えていることに激しく反対して、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張します。それに対してペトロがコルネリオの場合の体験(使徒一〇章)からパウロの立場を擁護します。パウロとバルナバが立って、改めて自分たちの働きを通して神が無割礼のまま異邦人を受け入れておられる事実を報告します。最後にヤコブが立ち上がって、「わたしはこう判断します」と言って、裁決を下します。この会議の成り行きを見ると、ペトロもパウロも他のユダヤ人信徒と共にヤコブの権威を認めている様子がうかがえます。
 ヤコブは決して異邦人に割礼を求めていません。パウロとバルナバが主張し、ペトロが擁護したように、異邦人で御名を信じた者には割礼は必要でないとします。しかし、死んでもモーセ律法は守らなければならないとするユダヤ人の立場も認め、ユダヤ人と異邦人信徒の交わりが可能になるため、異邦人信徒に最小限度の要求をしています(使徒一五・一九〜二〇)。ヤコブは厳しく対立する二つの立場を調停しようと心を砕いている様子がうかがえます。
 ヤコブは、異邦人信徒には割礼を受けてモーセ律法の諸規定を守ることを要求しませんでしたが、ユダヤ人信徒には当然モーセ律法を厳格に順守してユダヤ教徒としての立場を貫くように要求しました。このことが、異邦人信徒が多く含まれるようになっていたアンティオキアの集会で、共同の食事をめぐって衝突を引き起こすことになります(ガラテヤ二・一一〜一四)。ユダヤ人には食事に関するモーセ律法の厳格な順守を要求するヤコブの立場と、徹底的に信仰だけを義の根拠とし「律法の外で」の義を主張するパウロとの間に立って、自身はユダヤ人でありながら、異邦人に福音を説いて異邦人と食卓の交わりを持っているペトロとバルナバは動揺します。二人は結局「ヤコブのもとから来た人たち」の要求に従って、異邦人と共にしていた食卓から身を引きます。パウロはそれを偽善として批判し、アンティオキアの集会を去って、独立の宣教活動を始めることになります。
 このように、ヤコブが代表するユダヤ人信徒の立場(ユダヤ人にはモーセ律法の厳格な順守を求める立場)と、パウロが主張する「律法の外に現された神の義」の立場との間には、ユダヤ人と異邦人信徒が混在する最初期の集会で解きほぐしがたい軋轢がありました。しかし、ヤコブはパウロの「無割礼の福音」を認め(ガラテヤ二・九)、それに反対するユダヤ人信徒との間を調停しようと努力した人物であることを忘れてはなりません。パウロはこのようなヤコブが率いているエルサレム共同体を信頼し、危険を冒して、エルサレム会議で約束した「聖徒たちへの献金」を携えて来ます。パウロがエルサレムに上ってきたとき、ヤコブは厳格派のユダヤ人長老たちがパウロを受け入れることができるように苦心しています(使徒二一・一七〜二六)。ところが、このときヤコブがナジル人の誓願の儀式に参加するように求めた提案にパウロが従った結果、パウロは神殿で騒乱に巻き込まれ、ローマの守備軍に逮捕されることになります(使徒二一・二七以下)。

ヤコブの殉教

 パウロが逮捕されたエルサレムの騒乱事件は、56年のことと考えられます。この時期のエルサレムは、やがて66年に火ぶたを切ることになるユダヤ戦争前夜の時代で、「律法への熱心」、すなわちユダヤ教徒の宗教的民族主義が燃え上がっていた時期でした。その雰囲気は、パウロの逮捕を伝える使徒言行録の二一〜二二章もよく出ています。ヤコブが率いるエルサレム共同体も、周囲のユダヤ人たちからは疑いの目で見られ、厳しい状況に追い込まれていたと推察されます。大祭司を頂点とする体制派は、現体制を批判し否定するあらゆるメシア運動に神経質であり、弾圧の手を伸ばしてきます。
 エルサレムで逮捕されたパウロはカイサリアに護送され、総督フェリクスの裁判を受けることになります。フェリクスは、一度は法廷を開きますが、その後は任期中裁判を放棄して、パウロを二年間拘置したままにします。フェリクスの後任として58年(59年とする説もあります)に着任した総督フェストゥスは、すぐにパウロの裁判を再開します。パウロは皇帝に上訴して認められ、ローマに向かって護送されます。このパウロの裁判に関わった総督フェストゥスは、任期中に急死します。そこで皇帝は後任にアルビノスを任命しますが、彼がローマからアレクサンドリア経由でカイサリアに着任するまでの僅かの期間、総督がいない状況が生じます。この空白期間を利用して、時の大祭司アナノスがヤコブを最高法院に引き出し、裁判にかけ石打の刑で殺します。これは62年の出来事です。この事件は、ヨセフスの著作に次のように伝えられています。

 カイサルはフェストゥスの死を知ると、アルビノスを総督としてユダヤに派遣した。アグリッパ王はヨセポスから大祭司職を取り上げ、その後任にアナノスの子で、父と同名のアナノスを選んだ。・・・・・
 さて、大祭司職に任ぜられた前述の若い方のアナノスは性急な性格で、かつ驚くほど大胆であった。彼はサドカイ派の宗派に属していたが、すでに述べたように、この人たちは裁きという点では、他のユダヤ人よりも冷酷無情なのが通例であった。加えて、アナノスの性格が性格であった。彼はフェストスが死に後任のアルビノスがまだ赴任の途上にあるこの時こそ絶好の機会と考えた。そこで彼はスュネドリオン(最高法院)の裁判官たちを招集した。そして彼はキリストと呼ばれたイエスの兄弟ヤコブとその他の人々をそこへ引き出し、彼らを律法を犯したかどで訴え、石打ちの刑にされるべきであるとして引き渡した。
 市中でもっとも公正な精神の持ち主とされている人たちや、律法の順守に厳格な人たちは、この事件に立腹した。そこで彼らはアグリッパ王にたいしてひそかに使いを出して、今後二度とこのようなことを行わないように命令してほしいと願い出た。・・・・
(ヨセフス『ユダヤ古代誌』二〇・一九九〜二〇一 ― 秦剛平訳、一部人名を新共同訳聖書に準じて変更)


 このヨセフスの記事は、イエスに関する記事に見られるような後の時代のキリスト教徒による改変や編集の跡がなく、ほぼ歴史的事実として信頼できます。ヤコブの殉教の状況が、総督の在任空白期間を利用して行われたことなど、具体的に伝えられています。その他、次のような諸点が注目されます。
 ヤコブは「キリストと呼ばれたイエスの兄弟」と呼ばれています。この時代にエルサレムにイエスをメシア・キリストとする信仰運動があり、イエスの兄弟であるヤコブがその指導者として知られていたことが、ヨセフスのような同時代の歴史家によって証言されていることになります。
 ヤコブの処刑はユダヤ教式の石打の刑でした。イエスの場合は、最高法院に死刑を執行する権限がなかったので、ローマ総督に訴え出て、ローマ式の十字架刑によって処刑されましたが、ヤコブの場合はローマ総督がいない時を利用したのですから、最高法院自身が判決し、石打の刑で処刑しています。
 この処刑に対して、エルサレムの「律法の順守に厳格な人たち」が憤慨して、アグリッパ王に訴え、またアレクサンドリアから赴任途上のアルビノスに使いを出してアナノスの越権行為を訴え、アナノスは大祭司職を三ヶ月で解任されています(先のヨセフスの引用文の続き)。この事実は、ヤコブがエルサレム共同体の外の「律法の順守に厳格な人たち」からも義人として尊敬されていたことを示しています。
 大祭司たちの本当の動機は、自分たちの支配体制にとって危険なヤコブを取り除きたかったのでしょうが、最高法院の法廷では「律法を犯したかどで」死刑を言い渡します。おそらく民を惑わす偽りの教師、異端の扇動者として裁いたのでしょう。

 Robert Eisenman, JAMES THE BROTHER OF JESUS, Watkins Publishing, 2002 は千頁を超える大著で、そこでアイゼンマンはヤコブをユダヤ戦争前の熱心党系反体制諸派を統合する指導者と見ています。そして、そのためにヤコブは大祭司ら体制派によって殺されたとしています。議論は詳細を極めていますが、その基本的諸前提は受け入れられないものです。死海文書の(特異な立場の)研究者であるアイゼンマンは、死海文書の「義の教師」と義人ヤコブを同一人物とし、サウロ(パウロ)を「偽り者、敵」としています。 この書に対する批判は、先にあげた John Painter, Just James, The Brother of Jesus in History and Tradition 巻末の Excursus にあります。また、K・ベルガー『死海文書とイエス』(土岐健治監訳、教文館)も、アイゼンマンの所説を偽りの学問と厳しく批判しています。

 先にヤコブの義人ぶりを描くのに引用したヘゲシッポスは、その記事の続きでヤコブの殉教の様子を詳しく伝えています(エウセビオス『教会史』第二巻二三・八〜一八)。それによると、律法学者やファリサイ派の人たちは、義人ヤコブがエルサレムの民衆から尊敬されているのを知っているので、民衆にイエスをメシアと信じて誤りに陥らないよう説得することを求めて、ヤコブを神殿の高い所に連れて行き、そこから語らせます。ところが、ヤコブは「人の子は天において大いなる力の右に座し、天の雲に乗って来られる」と叫んだので、彼らはヤコブを突き落とし、石を投げつけますが、ヤコブがまだ死なず、「父よ、彼らを赦したまえ。彼らはしていることが分からないのです」と祈ります。ところが、布さらし職人の一人が仕事に使う棍棒でヤコブの頭を打ち、死に至らしめます。ヘゲシッポスは最後にこう書いています、「人々は彼を神殿の傍らのその場所に葬った。彼の墓石(ギリシア語原語では《ステーレー》)は今も神殿の傍らにある」。

 《ステーレー》は新約聖書には出てこないギリシア語ですが、ヘロドトス以来、石灰岩をくり抜き、銘文を刻んだ石棺を指しています。ヘゲシッポスやエウセビオスは、この語で「骨箱」(次の項で見ることになります)を指していると考えられます。英訳では grave-stone となっています。

 エウセビオスはこのようにヘゲシッポスを引用してヤコブの殉教を描いた後に、「ユダヤ人の中でさえ知恵ある人たちは、これ(ヤコブの殺害)こそヤコブの殉教の直後に起こったエルサレムの包囲攻撃の原因であると考えた」と書いています(『教会史』第二巻二三・一九)。

ヤコブの骨箱

 このように大祭司によって石打刑で殺されたヤコブは、彼を敬愛するエルサレム共同体の信徒らによって「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」神殿の傍らに丁重に葬られます。その「埋葬の習慣」では、遺体を亜麻布で巻き、香料を添えて横穴式の墓穴に安置し、入口を塞ぎます。墓所は、人が立って入れる大きさの小部屋に面して、その奥に数個の遺体安置用の墓穴(一人の遺体が入るだけの寸法の横穴)が掘られていました。そして、一年か二年経って遺体が腐敗して肉が落ちた時期に、乾燥した骨だけを骨箱(オシュアリー)に納めて、定められた区域に並べて安置します。この骨箱は長さ50センチ、幅25センチ、高さ30センチ程度の小さい石灰石の蓋付きの箱で、その前面に誰の遺骨であるかを示す名前や墓碑の言葉が刻まれます。この墓地区域に並べられた骨箱の名前や墓碑は、当時の社会や生活を推察させる重要な考古学的資料であり、最近はその研究が進んでいるようです。たとえば、その墓碑の言語はアラム語かギリシア語ですが、その割合から当時のエルサレムの言語状況が推察され、アラム語系のユダヤ人とギリシア語系のユダヤ人の人口比率も推定されることになります。

 このような「埋葬の習慣」は、紀元前20年頃から始まり、70年のエルサレム陥落までの90年ほどの間、エルサレム近辺で行われた習慣であることが分かっています。骨箱はエルサレム周辺に集中しています。L.Y.Rahmani, A Catalogue of Jewish Ossuaries in the Collection of the State of Israel, 1994 に載っている九〇〇の骨箱の中の約二五〇に被葬者の名を示す銘文があるそうです(Ossuaries は骨箱のことです)。イエスの埋葬もこの習慣に従って(ヨハネ一九・四〇)、骨箱への再埋葬を予想して行われたと考えられます。ただし、イエスの場合は墓は空になっていたのですから、骨箱への再埋葬は行われなかったことになります。

 ところで、最近ヤコブの骨箱と見られる骨箱が発見されて大きな話題になっています。前面に「ヨセフの子、イエスの兄弟ヤコブ」というアラム語の名を刻んだ骨箱が発見されたとして、聖書考古学界だけでなく欧米では一般社会でも大きく取り上げられ、その真贋論争が燃え上がりました(二〇〇二年前後)。それはエルサレム近郊の骨董市場から出たものであるので、専門家からは偽物ではないかと疑われることになりますが、現代の一流の考古学者や古代文字の専門家で本物であることを認める人も多くいます。また、石灰石の材質やパチナ(長年の間に石の表面にできた薄い膜)の科学的な分析結果も本物であることを認めています。
 本物であれば、ヤコブがイエスの兄弟としてエルサレム共同体で尊敬されていた指導者であることを示す物的証拠となり(このような埋葬はそれを示しています)、また、イエスに最も近い唯一の考古学的資料となり、この骨箱の発見は「世紀の大発見」ということになります。現在は、カナダのモントリオール博物館に展示されています。

 この「ヤコブの骨箱」の項(埋葬の習慣も含めて)は、ハーシェル・シャンクス、ベン・ウィザリントンV著『イエスの弟―ヤコブの骨箱の発見をめぐって』(松柏社)によっています。この書の第一部でシャンクスは、この骨箱の発見の経緯を詳しく報告して、これが本物であることを強く主張しています。第二部では、ウィザリントンが「主の兄弟ヤコブ」の生涯と働き、またその思想について簡潔にまとめています。このまとめは、著者自身が認めているように、前記のペインターの著書に負うところが大きいようです。ただし、地上のイエスの宣教活動に対して、ヤコブをはじめ家族は懐疑的・批判的であったとする点で、(協力的であったとするペインターと)違っています。また、ヤコブ書の成立状況についても、ヤコブの著作とする点で、ヤコブの死後の成立とするペインターとは違っています。

ヤコブ以後のエルサレム共同体

 エルサレム共同体の信徒たちは、殉教した主の兄弟ヤコブを葬った後もすぐエルサレムを去ることはありませんでした。少なくとも数年はエルサレムに踏みとどまり、ヤコブの遺骨を骨箱に再埋葬します。ヤコブなき後、エルサレム共同体はクロパの子シメオンを、イエスの従兄弟に当たるという理由で後継の監督職に選びます(エウセビオス『教会史』第三巻一一・一、第四巻二二・四)。ヨハネ福音書一九・二五のクロパはイエスの叔父になるといわれています。最初期のエルサレムのユダヤ人共同体では、イエスの親族であることが監督であるための重要な要件であったことがうかがわれます。
 六〇年代に入ってエルサレムの情勢は緊迫化し、その中で62年にはヤコブの殉教も起こることになるのですが、その後ローマとの関係はますます険悪化し、ついに66年には第一次ユダヤ戦争が勃発します。この時期、多くのユダヤ人が戦禍を逃れて国外に脱出します。この前後の時期にエルサレム共同体は、食料不足や過激派間の抗争で混乱状態に陥った聖都を見限り、逃れるようにという預言もあって、ヨルダン川東岸のペラに脱出します。これは67年または68年と見られています。一部の者たちは、エルサレムと緊密なつながりのある集会が形成されていたアンティオキアに逃れたと推察されます。
70年に至ってついにエルサレムは陥落し、神殿は炎上します。この神殿の崩壊は、エルサレム神殿を唯一の礼拝の場所としてきたユダヤ教にとって、天地が崩れるほどの衝撃的な出来事でしたが、福音進展の歴史にとっても時代を画する重要な意義をもつ出来事となりました。それまでの時代は、主の兄弟ヤコブを長と仰ぐユダヤ人のエルサレム共同体が福音活動の中核をなし、イエスをメシアと信じて救われたユダヤ人の共同体に、異邦の諸民族が参与するという形で神の救済史が完成すると考えられていました。パウロもそう考えています(ローマ書九〜一一章)。ところが70年以後は、ユダヤ人共同体は福音の表舞台から退場し、異邦諸国民の信徒共同体が救済史を担う時代が始まりました。「異邦人の時代」(ルカ二一・二四)の到来です。このエルサレム神殿の崩壊の前と後では、福音の提示がかなり変わってきていることについては、本論の終章「パウロとパウロ以後」で見たとおりです。
 しかし、イエスの復活からエルサレム神殿の崩壊までという最初期のキリストの民の歴史においてもっとも重要な要の地位にあった「主の兄弟ヤコブ」についての記憶と尊敬は、その後の数百年にわたって多くの伝承や伝説を生み出すことになります。最後に、このヤコブに関する伝承と伝説を、ごく簡単にスケッチしておきます。

ヤコブに関する伝承

 ヤコブに関する伝承は、大きく二つのグループに分かれます。一つは正統派の教会に伝えられた伝承です。他の一つは、グノーシス主義諸派の中で形成された伝承です。
 正統派の教会に伝えられた伝承の多くは、これまでにしばしば引用したように、エウセビオスの『教会史』に保存されて伝えられています。その諸伝承はヤコブをエルサレム教会の初代の司教(監督・ビショップ)として、ここに述べたようなヤコブの姿を伝えています。その他に、新約聖書の正典には入れられなかった「外典」とか「偽典」と呼ばれる文書の中に、ヤコブに関する伝承が残されています。たとえば『ヘブル人福音書』には、復活したイエスが最初にヤコブに現れたとする記事があります(断片七)。ヤコブの殉教に関しては、先に引用したヘゲシッポスの他にも『ヤコブの昇天』という断片的に伝えられた文書があり、よく似た物語を伝えています。また、初期のキリスト教会に大きな影響を与えた文書に、ヤコブが書いたとされる『ヤコブ原福音書』があります。「原福音書」とは、正典福音書が記述しているイエスの誕生に先行する物語という意味で、内容はマリアの誕生から神殿での養育、ヨセフとの縁組み、イエスの誕生に至る、マリアを主人公とする物語です。この書によると、マリアは処女のまま聖霊によって妊娠して、ベツレヘム近くの洞窟でイエスを出産しますが、その後も処女のままであり、ヤコブらイエスの兄弟はヨセフの先妻の子とされています。本書では、イエスとヤコブは母が違うだけでなく、父も違うのですから兄弟とは言えなくなります。
 もう一つのグループは、ナグ・ハマディ文書に含まれるグノーシス系の文書です。『トマス福音書』では、去って行かれるイエスに弟子たちがその後のことを尋ねますが、それに対してイエスは「あなたがたは義の人ヤコブのもとに行くであろう」と義人ヤコブの名をあげ、「彼のゆえに天と地が生じたのである」と言っておられます(語録一二)。他に『ヤコブのアポクリュフォン(秘密の教え)』、『ヤコブの黙示録T』、『ヤコブの黙示録U』などがあります。ヤコブによって書かれたとされるこれらのグノーシス主義的傾向の偽名文書では、イエスが義人ヤコブに特別の秘密の啓示を委ねられたとされています。主の兄弟ヤコブの評価は、時代が下がるに従って高くなっていきます。しかも、それはユダヤ人キリスト教の伝承においてです。ユダヤ人キリスト教に起源をもつグノーシス主義は、自分たちの信仰思想を、ユダヤ人キリスト教の最高の指導者である主の兄弟ヤコブに与えられた特別の啓示によって根拠づけようとして、これらの文書を生み出したと見られます。

 新約聖書の外典や偽典については、『聖書外典偽典』(教文館)を参照してください。また、ここに上げたナグ・ハマディ文書のヤコブ関連の諸文書は、『ナグ・ハマディ文書』(岩波書店)のVとWに収められています。

 しかし、主の兄弟ヤコブを知る上でもっとも重要な文書は、新約聖書の正典に収められている「ヤコブ書」です。この書がどういう書であるのかを理解するために、またこの書によって「主の兄弟ヤコブ」を知るために、まず次の第二節でこの書の成立について考察した上で、第三節でその内容の概略を見ることにします。