市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第25講

第二節 福音書の時代

福音書の成立

福音書の時代

 「使徒名書簡」の時代は福音書の時代と重なっています。使徒の後継者たちが、使徒から伝えられた信仰と伝承を維持・確認するために、自分たちの状況に即して、使徒たちの名によって書き上げた諸文書が「使徒名書簡」でした。その使徒名書簡が多く生み出された時期、すなわち第一次ユダヤ戦争から一世紀末あるいは二世紀初頭までの四〇〜五〇年の時代は、同時に新約聖書に保存されている四つの福音書が生み出された時代でもありました(そうすると、新約聖書の二七の文書の内、パウロ七書簡以外の二〇の文書が、この時代に書かれたことになります)。このことからも、この時代の重要性がうかがわれます。
 福音書が書かれた目的は、「使徒から伝えられた信仰と伝承を維持・確認するため」という点で、使徒名書簡の目的と同じです。しかし、使徒たちから伝えられた「イエス伝承」(イエスの働きや教えの言葉の伝承)を素材としてキリストの福音を物語るという、使徒名書簡にはなかった新しい形態を生み出した点で、福音書の成立は福音の史的展開の中で、決定的な、そしてもっとも重要な意義をもつ出来事となりました。
 イエスの教えの言葉やその生涯と働きを物語るイエス伝承は、直接イエスにつき従った使徒たちから伝えられて、イエスを信じる者たちによって口頭で語り伝えられ、共同体の共有資産になっていました。その一部は書きとどめられて文書になっているものもあったようです。その語り伝え方と文書化は、時代と地域によって違いがありました。その伝承の過程を探求する伝承史研究は新約聖書学の重要部門ですが、議論は複雑で、決定的な説が確立するまでにはいたっていません。
 イエスの生涯の中でもっとも重要な十字架の死にいたる受難の出来事については、かなり初期から一定の内容をもった「受難物語」が形成されていたようです。そのほか、イエスがなされた力ある業(奇蹟)を物語る奇蹟物語も、様々な形で伝えられていました。一部のものは書きとどめられて「しるし資料」として流布していたとも見られています。また、イエスが折に触れて語られた言葉は、「語録資料」として文書にまとめられていました。このような「語録集」は、それを形成した共同体の人たちによっては、自分たちの信仰の拠り所となる文書であり、言葉の広い意味で「福音書」と言ってもよいでしょう。それは、やがて成立するようになる四福音書の先駆形態と見ることもできます。
 使徒たちが世を去る時期になって、使徒たちが伝えたイエス伝承を保持すると共に、その諸伝承を用いてイエスの働きと言葉を伝えて福音を世界に提示する文書、「福音書」が成立するようになります。福音書は、イエスの生涯と教えを世に伝えるための伝記ではなく、あくまでもイエスに関する伝承を用いてキリスト信仰を世界に提示しようとする文書、すなわち、イエスを復活者キリストとして世に告知するための文書です。そのような信仰から生み出された、まったく新しい類型(ジャンル)の文書です。
 「使徒名書簡」の時代を語るにさいしては、この時代のもっとも重要な出来事である福音書の成立に触れないでおくことはできません。しかし、各福音書の成立事情とその内容に関して論じることは本書の課題ではありません。それは各福音書の講解に委ねなければなりません。ここでは、本書の「終章」の一部として、本書が扱った「パウロ以後」の福音の舞台であるエーゲ海地域で、この時代のキリスト信仰が最後に取った形として、ルカ文書(ルカ福音書と使徒言行録)成立の意義に触れておきたいと思います。そのために、他の三つの福音書の成立を簡単に見た上で、ルカ文書の位置づけを試みたいと思います。

マルコ福音書の成立

 この福音書の時代の幕を切って落としたのはマルコ福音書です。四つの福音書の前後関係については諸説がありますが、マルコ福音書が一番早く成立したことは広く認められており、ほぼ定説として確立していると見られます(もっともK・ベルガーのようにヨハネ福音書が最初に書かれたと見る有力な研究者もいます)。マルコ福音書は、その内証(文書そのものの中に見いだされる根拠)から、第一次ユダヤ戦争(66〜70年)の時期、あるいはエルサレム陥落の直後くらいの時期に書かれたと見られます。すなわち、「使徒名書簡」の時代のもっとも初期に書かれたことになります。この福音書の成立と流布が、この時代を「福音書の時代」とすることになります。
 このように重要な意義を担う福音書ですが、このマルコ福音書がどの地域で、どのような状況で、誰によって書かれたのかなどについては決定的な見方はなく、詳しいことが分かりません。古代教会からの伝統では、ペトロの通訳者であり協力者であるマルコが、ペトロがローマで殉教した後、ペトロから聞いていたイエス伝承を用いて、この福音書をローマで書いたとされてきました。マルコがローマでペトロと一緒にいたことは、ペトロ第一書簡(五・一三)にも記されているので、このような成立事情も十分考えられますが、最近はシリア地域を推察する傾向が強くなっています。どこで成立したにせよ、この福音書はペトロを代表者とするイエスの直弟子たちの語り伝えたイエス伝承を継承していることは確実で、ペトロと働きを共にしたマルコを著者と見ることは自然なことです。いずれにせよこの福音書は、ペトロを通して伝えられたイエス伝承を継承している文書として、きわめて重要な位置を占めています。
 そしてそれ以上に重要なことは、このマルコ福音書がはじめてイエス伝承を用いてキリストの福音を物語るという、新しい類型の文書を生み出した事実です。しかもマルコは、パウロの福音活動に同行して協力した体験もあり、パウロとのつながりも深い人物ですから、彼が語るキリストの福音は、パウロの「十字架の言葉」、すなわちキリストとしてのイエスの十字架の出来事に神の救いの働きが成し遂げられているという宣教を中心に据えています。その結果、この福音書は「長い序文をもつ受難物語」だと言われるような内容と構成になっています。実際の著者が誰であれ、この最初に書かれた福音書は、ペトロが伝えるイエス伝承と、パウロが宣べ伝える十字架の福音が融合した希有の作品となっています。

マタイ福音書の性格

 使徒マタイの著作として伝えられたマタイ福音書は、その堂々たる構成と内容から、新約聖書の冒頭に置かれるにふさわしいとされ、後世のキリスト教に絶大な影響を及ぼしました。しかし実際は、使徒時代以後の律法学者的素養のある人物が、先に成立していたマルコ福音書を物語の枠として用い、その中にこの福音書を成立させた共同体の伝承(おもにイエスの言葉を伝える語録伝承)を組み入れて書いた著作と見られます。
 この福音書を生み出した共同体は、イエスをメシア・キリストと信じるユダヤ教徒の共同体であると考えられます。しかし、この福音書がアラム語からの翻訳ではなく、はじめから立派なギリシア語で書かれていた事実は、この共同体がギリシア語を使う「ヘレニスト・ユダヤ人」の共同体であることを示しています。このユダヤ人の共同体は、おそらくユダヤ戦争で戦火のパレスチナを逃れて、北のシリア方面に移住し、そこで異邦人のヘレニズム世界へ乗り出そうとしていました。そのような時期(おそらく80年代)に、この福音書が書かれたと見られます。
 この福音書を生み出したユダヤ教徒の共同体は、使徒マタイが源とされるイエスの言葉伝承を奉じて、パレスチナのユダヤ人の間で信仰運動を進め、その期間にイエスの語録を集成して文書にしていたと見られます。その文書はギリシア語で書かれていました。この語録資料文書は、後にルカの著作にも資料として用いられるので、現代の研究者の間では「Q」と呼ばれています(Qはドイツ語で資料を意味するクウェレの頭文字)。マタイ福音書の著者の最大の貢献は、黙示思想的な終末切迫の預言と実際生活上の格言のような知恵の言葉をおもな内容とする「語録資料Q」を、十字架の福音を物語るマルコ福音書の枠の中に置いたことです。このことによって、ともすれば倫理的な要請になりがちなイエスの語録が、十字架の福音の場に置かれることによって、「恩恵の支配」を告げる深みのある言葉となったことです。恩恵の場で受け取るとき、マタイ福音書は実に堂々たる「福音書」の様相を見せることになります。

ヨハネ福音書の独自性

 四つの福音書の中でヨハネ福音書は特異な位置を占めています。他の三つの福音書が、マルコ福音書の物語を枠として用い、語録資料など共通の伝承を用いて構成されているので、ほぼ並行した記述になっています。それで、この三つの福音書は「共観福音書」と呼ばれます。それに対してヨハネ福音書は、イエスの働きを物語る枠も共観福音書とは異なり(イエスの働きのおもな舞台は、共観福音書ではガリラヤですが、ヨハネ福音書ではエルサレムになります)、イエスの言葉の伝え方も大きく違ってきています。共観福音書では、地上のイエスが語られた言葉がイエスの語録としてかなり忠実に伝えられていますが、ヨハネ福音書では、伝承された地上のイエスの言葉とヨハネ共同体が御霊による復活者イエスとの交わりの中で聴いている言葉が継ぎ目なく重なっていて、イエス(実質的には復活者イエス)と弟子たち、あるいはイエスとユダヤ人たちとの対話を構成しています。ヨハネ福音書はその主要部分が、このような長大な対話で構成されていて、一種の霊的対話編となっています。
 このような特異な福音書が、いつどこで、誰によって、どのような事情の中で書かれたのかは、いまだに激しい議論の渦中にあります。この福音書は、現代の著作のように、ある個人によって一気に書き上げられた著作ではなく、一つの独特な性格の信仰共同体による福音提示の営みとして、多くの編集過程を経て現在の形になった文書です。この福音書は、二世紀の教父たちに「ヨハネによる」福音書という名で知られていたことから、「ヨハネ福音書」と呼ばれるようになり、この福音書を生み出した共同体を形成した指導者、したがってこの福音書の生みの親となった人物が「ヨハネ」という名で知られるようになります。この人物は、ペトロたち十二弟子とは別の形でイエスにつき従った弟子とされ、この福音書の中で「イエスが愛された弟子」とか「もう一人の(別の)弟子」という形で出てきます(ヨハネ二一・二四)。
 ヨハネ福音書の特色は長大な霊的対話編で構成される部分にありますが、イエスの地上の生涯と働きを伝える部分にも、共観福音書にはない重要な情報があり、イエスの生涯と働きを考察する上で貴重な資料となります。それは、この福音書の伝承の源流に、ペトロたちとは別に、イエスに直接つき従った「イエスが愛された弟子」がいるからです。神殿での過激な象徴行為や最後の晩餐の性格、十字架死の日付などの重要な事実について、マルコ福音書よりも重視すべき伝承を伝えています。
 この福音書を生み出した共同体(ヨハネ共同体)は、ある時期にパレスチナからエフェソに移ったことが推察されます。二世紀の教父たちの証言は、この共同体がエフェソにあったことを指し示しています。その移住がいつごろか正確には確認できませんが、六〇年代のユダヤ戦争の頃ではないかと推察されます。ヨハネ共同体は「使徒名書簡」の時代には、エフェソを拠点として活動していたと考えられます。その福音書の成立は、おそらくこの「使徒名書簡」時代の後期ではないかと考えられますが、正確に年代づけることはできません。そうすると、ヨハネ共同体の活動の舞台は、エーゲ海地域に展開したパウロ系の諸集会と一部重なってきます。ヨハネ福音書には、用語や思想においてコロサイ書やエフェソ書と共通する面があることも示唆的です。パウロとは別の、パレスチナの預言者的伝統を表現するヨハネ黙示録を、それがエフェソを中心とする地域で成立・流布したという事情から、エーゲ海地域における「パウロ以後のキリストの福音」を主題とする本書で取り上げましたが、そうするとヨハネ福音書も同じ理由で取り上げて考察しなければなりません。しかし、それは大きすぎて本書の課題からはみ出しますので、その重なりがあることだけを指摘するに止めます。エフェソを中心とするエーゲ海地域におけるパウロ系の伝承とヨハネ系伝承の重なりは、今後の重要な検討課題だと思われます。

ルカの福音提示

ルカの二部作

 このような使徒名書簡の時代、すなわち福音書の時代の最後に、本書の主要な舞台であるエーゲ海地域で、この時代を締めくくるような位置を占める重要な文書が生み出されます。それは、共にルカの著とされる「ルカ福音書」と「使徒言行録」です。
 この二つの著作が同じ著者によって、同じ意図をもって書かれたことは、両書の序文からも明らかです。両書の共通の意図と性格については後で述べることにして、ここでは著者が同じであることだけを確認しておきます。「使徒言行録」の著者はその序文(一・一〜二)で、同じ献呈者であるテオフィロ(ルカ一・三)に向かって、「わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、・・・・天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と書いています。これは先に書いた福音書を指していることは間違いありません。用語や文体も、両書が同じ著者による著作であることを指し示しています。著者は、先の第一巻(福音書)に続いてこの第二巻(使徒言行録)を書いて、同じテオフィロに献呈しています。
 ルカは二つの別の著作をなしたのではなく、第一部と第二部からなる一つの著作をなしたと見るべきです。もしその一つの著作に標題をつけるとしたら、それは「イエス・キリストの福音 ― その史的展開」としてよいでしょう。第一部(ルカ福音書)ではイエスによる福音の展開、第二部(使徒言行録)では使徒たちによる福音の展開を記録したといえます(「展開」という用語については後述)。世に福音を提示する文書を福音書というのであれば、第一部だけでなく、第二部を含む全体を「ルカによる福音書」と呼ぶべきです。
 しかし、これは一つの著作が二つの部に分けられるというのではなく、別の著作であったことは事実です。それぞれの著作は、当時の書物の最大容量の長さであると見られ、別の書巻として制作され、別の時期にテオフィロに献呈されたと見られます。その間隔は正確には分かりません。一〇年ぐらいであったと見る研究者もいます。それで、ここでも伝統的な呼び方に従って、第一巻を「ルカ福音書」、第二巻を「使徒言行録」と呼んでいきますが、両者は一つの著作であるという視点を見失わないようにしなければなりません。両書をまとめて「ルカ文書」と呼ぶこともあります。

ルカ二部作の意図と性格

 著者は、この著作の意図を自ら第一巻(ルカ福音書)の序文でこう明言しています。

「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」。(ルカ一・一〜四)

 ルカはここで《ディエーゲーシス》(ここで「物語」と訳されている語)という、新約聖書ではここだけに出てくる注目すべき用語を使っています。この語は、「わたしたちの間で実現した事柄について」の「歴史的説明」という意味で用いられています。この事柄については、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに」書き連ねて、「歴史的説明」の書を著すことを、すでに多くの人が試みてきた、とルカは言っています。その中にはマルコ福音書が含まれていることは確かです。ルカは、マルコ福音書を前に置いてこの福音書を書いています。マルコ福音書だけでなく、ルカは他の奇蹟物語や比喩物語集、また現在「語録資料Q」と呼ばれているイエスの語録集などの文書も手元にもっていたでしょう。ルカは、「すべての事を初めから詳しく調べている」者として、それらを「順序正しく書いて」、自分なりの「歴史的説明」の書を著して、「敬愛するテオフィロ」に献呈しようとします。
 そして、このような「歴史的説明」の書を献呈する意図を、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」からだとします。献呈する相手の人物は、すでに「教えを受けている」者とされています。すなわち、この「歴史的説明」の書は、すでに信者である人たち、キリストの民《エクレーシア》内部の人たちに宛てて書かれています。彼らが、自分たちの受けた教えが歴史上に実現した出来事という確実な根拠に基づいていることを確認して、信仰を確かなものにするために書かれた書です。
 同時に、この書が「テオフィロ」に献呈されている事実は、この「歴史的説明」の書が、外のローマ社会の人々に向かって、キリストの民の信仰を弁証するために書かれた書であることを示唆しています。というのは、「テオフィロ」につけられた《クラティストス》という語は、高位高官の人物に敬意をもって呼びかけるときの敬称(英語では Most Excellent)ですから、この人物はローマ社会を代表する教養ある高位の人物であり、ルカはこの人物にこの書を献呈するという形で、ローマ社会に向かって、この信仰が「わたしたちの間で実現し、最初から目撃した人々がわたしたちに伝えた」確かな歴史的出来事に基づくものであり、それを報告することでその確かさ、健全さを説明しようとしていることになります。このように、外の人たちに向かって自分の信仰の根拠と内容を説明し、外の人たちの承認や同意を得ようとする文書を「護教文書」と言い、そのような著作をもって世に働きかける著作家を「護教家」と呼びます。ルカの著作は、そのような「護教文書」のはしりです。ルカの後に出た二世紀の多くの「護教家」は、ローマ皇帝などローマ社会を代表する人物に宛てて、多様な護教書を書くことになります。ルカの二部作には、このような護教書としての性格が見られます。なお、「テオフィロ」が実在の人物かどうかが議論されていますが、たとえ実在の人物ではなくても、ルカの著作の意図や性格を理解する上で変更はありません。

福音の史的展開

 ルカは自分の著作を《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書としています。その「歴史的説明」は、「わたしたちの間で実現した事柄について」、「すべての事を初めから詳しく調べて」いるルカ自身が「順序正しく書いて」仕上げた著作です。この「わたしたちの間で実現した事柄・出来事」は、本来目に見えない神のご計画とか働きが、わたしたち地上の人間の間で、すなわち地上の歴史のただ中に、目に見える出来事の形で実現したことを指しています。
 福音は、イエス・キリストの出来事において成し遂げられた神の救いの働きを世界に告知する言葉です。このイエス・キリストの出来事(この方の生涯・働き・言葉)こそ、「わたしたちの間で実現した事柄」、わたしたち地上の人間の歴史の中に起こった救いの出来事に他なりません。《ケリュグマ》(福音)はそれを告知する直接的な言葉ですが(たとえばコリントT一五・三〜五)、ルカはそれを《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書として提示します。わたしは、この本来目に見えない神の言葉である福音が歴史上の出来事として起こり、その中に自らの本質を開き示していく相を「福音の史的展開」と呼んでいます。わたしは、この「福音の史的展開」を跡づけて、その中で福音の本質を追究することを生涯の課題としていますが、それはルカがしたことを現代においてしようとしていることに他なりません。
 ルカはこの課題を成し遂げようとして、第一巻(福音書)を書きあらわしました。しかしその課題は、イエス・キリストの出来事を語る第一巻だけで終わることはできませんでした。ルカは、このイエスの復活後、この方をキリストとして世界に宣べ伝えた使徒たちの働きを見ています。彼らが宣べ伝える「福音」と、その結果歴史の中に生み出され、歴史の中に歩む「キリストの民」《エクレーシア》を見ています。それも「わたしたちの間で実現した事柄」、神の働きの歴史的展開に他なりません。ルカは第二巻(使徒言行録)を書きあらわして、イエス復活以後の福音の史的展開を文書にします。その序文(使徒言行録一・一〜二)は、これが同じ著者による第一巻の続編であることを示すだけの短いものですが、その意図とか性格は第一巻と変わりません。福音書の序言で示した著作の目的と性格は、この第二巻にも続いています。
完成と継続―ルカの救済史
 ルカは、「わたしたちの間で実現した事柄」という文で、「実現した」を「満たす」とか「成就する」という動詞の完了形・受動態で表現しています。この動詞は、(マルコやマタイで)預言の成就について用いられる「満たされた、成就した」という動詞とは少し違う形ですが、同系の動詞です。ルカはこの動詞で、イエス・キリストの出来事によって神の救済の働きが「完成に達した」ことを指し示しています。しかし、イエス・キリストにおいて完成に達した神の救いの働きは、なお地上の歴史の中で展開すべき未来をもっています。これは、その救いを受ける人間が時間の中にいるかぎり、すなわち歴史の中にいるかぎり必然の相です。
 最初キリストの福音は、預言された終末の到来として告知されました。キリストの十字架と復活において実現した救いは、すぐにも栄光の中に来臨されるキリストによって完成するという、差し迫った終末的告知でした。使徒時代にはまだその終末待望が熱く燃えていましたが、本書で繰り返し見てきましたように、使徒後の時代、すなわち本書が扱った「使徒名書簡」の時代では、キリストの来臨による完成までの長い期間を、キリストの民は地上の歴史の中を歩んで行く覚悟をしなければならなくなっていました。エルサレム神殿の崩壊後のこの時代、イスラエルに代わってキリストの民《エクレーシア》が、イエス・キリストにおいて完成した神の救済を担って、歴史の中を歩む使命が与えられていることを、この時代の終わりに生きたルカはしっかりと自覚しています。神は歴史の中でその救済の働きを成し遂げ、進められるのだという救済史の思想(神学)が自覚されます。ルカはその自覚で、福音の史的展開を物語る《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書二巻を書き著します。このようにして、ルカの著作は、この時代の《エクレーシア》の救済史的自覚を表現する文書となります。

著者と成立年代

 さて、このような「福音の史的展開」を物語る重要な二部作の文書を著した「ルカ」とはどのような人物でしょうか。これまで著者を「ルカ」と呼んできましたが、この二部作の著作自体には、著者が「ルカ」であることを指し示す文言はありません。古代教会の伝承において、この二部作はパウロ文書(パウロ書簡とパウロ名書簡)にパウロの同伴者・協力者としてその名前が出てくる「医者のルカ」(フィレモン二四節、コロサイ四・一四、テモテU四・一一)が書いたとされてきましたので、伝統的に「ルカ」の著作とされてきました。本書でも、この二部作の著者を、この教会伝統に従って「ルカ」と呼んでいますが、著者が誰であるか、その人物像を正確に描くことはできません。
 著者問題においてまず問題になるのは、「使徒言行録」の旅行記の中に出てくる「われら章句」です。「われら章句」というのは、「使徒言行録」の旅行記の中で、主語が「わたしたちは」となって、その旅行記を書いた人物自身がその旅行に参加していることを示している部分です。この「われら章句」は、パウロの旅行のトロアスからフィリピまで続き(一六・九〜一七)、フィリピでいったん途切れ、ずっと後にパウロが第三次旅行からの帰途にフィリピを訪れるときに再び現れ(二〇・五)、それ以後最後まで、フィリピからミレトスへの旅(使徒二〇・五?一五)、ミレトスからエルサレムへの旅(二一・一?一八)、カイサリアからローマへの旅(二七・一?二八・一六)という旅行記に現れます。そうすると、この旅行記の著者はトロアスでパウロ一行と出会い、ひとまずフィリピまで同行し、パウロがそこを去った後もフィリピに滞在し、パウロが第三次旅行から帰ってきたときフィリピで再び一行に加わり、終わりまでずっとパウロに付き添ったと推定されます。この事実から、この「われら章句」の著者はフィリピ出身の人物ではないかと推察されています。
 この「われら章句」については、三つの見方があります。1.古代教会以来、この旅行記の著者は使徒言行録の著者であるルカ自身であるとする伝統的な見方。2.実際にこの部分の旅行に参加した別の人物の旅行記をルカが資料として利用したという見方。3.この「われら章句」はルカの文学的創作であるとする見方。現代の研究者には、2と3の見方が多いようです。
 五〇年代後半のパウロの伝道旅行に同行したのが、ルカが二〇歳前後とか三〇歳前後の時であったとすると、九〇年代後半(一世紀末)には六〇歳前後か七〇歳前後となり、ルカ自身がこの頃に使徒言行録を書いたことは年齢的に十分可能性があります。しかし、この時期のパウロに同伴して活動し、パウロを熟知している人物の著作としては、「ルカの二部作」はあまりにもパウロ書簡から知られるパウロの実像や思想から離れているとして、現代の研究者には2または3の見方をとる人が多いようです。
 ルカは、序文において自分は「わたしたちの間で実現した事柄」の「目撃者」ではなく、「目撃者」たちが記録したことを整理してまとめる役割を果たす者であると明言しています。これは使徒たちから後の第二世代(使徒たちの弟子)、第三世代(さらにその弟子)の仕事です。第二世代ではペトロとパウロの一致を描くことは不可能であるとし、その他の理由もあって、ルカを第三世代と見る研究者が多いようです。この二部作の成立年代も、80〜90年代に見る説が多いようですが、70年代から二世紀初頭まで様々な見方がなされています。実際の成立年代を確定することは困難ですが、この二部作はこの「使徒名書簡」の時代の終わりに位置づけるべき文書であると、わたしは考えています。すなわち、パウロ以後にも継承されてきたパウロの福音と、この終章で見てきたパウロ以後のキリスト信仰の変容がルカの二部作に流れ込み、ここで「福音書」(二部作全体を一つの福音書と見て)という規範的な形でまとめられ、以後の時代の出発点となっていると、わたしは見ています。
 ルカの二部作の成立地域についても、アンティオキアやカイサリアなど諸説がありますが、二世紀末に著述した教父エイレナイオスは、ルカの著作はアカイアで成立したという伝承を伝えています。ルカの二部作は、アカイアを含むエーゲ海地域で成立・流布していたことは現代の批判的な聖書学も認めています(たとえばH・ケスター)。パレスチナとかシリアというような他の地域は別ですが、少なくとも(本書の舞台である)エーゲ海地域では、それまでに伝えられていたケリュグマ伝承とイエス伝承、その地域のエクレシアで成立していた賛歌や説教、伝記などすべてがこのルカの文書に流れ込み、それがこの「使徒名書簡」の時代に形成されたキリスト信仰を受け継ぐルカの神学の枠組みの中でまとめられ、この二部作が生み出されたと見られます。
 ルカの二部作は、新約聖書の中でも群を抜いて巨大な作品です。二部作の合計では全五二章になります。マタイの二八章、ヨハネの二一章に較べても、いかに巨大な作品であるかが分かります。それは、パウロとパウロ以後の時代の福音をまとめあげ、次の時代へ引き継ぐためのピボット(回転軸)の位置を占めています。二世紀以後のエクレシアは、このルカの路線を継承して「教会」を形成していくことになります。