市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第23講

第三節 牧会書簡の位置と意義

はじめに

 今回は、牧会三書簡を読むために必要な最小限のコメントを段落ごとにつけるだけに止めましたが、一読しただけでも現代のわたしたちにとって重要な問題が多く提起されていることを痛感します。さらに徹底した検討と理解が必要ですが、それは別の機会に委ねざるをえません。また、牧会書簡の一部にパウロの最後についての証言があるのであれば、使徒の最後についてもさらに厳密に再検討しなければなりませんが、これも別の機会に委ねます。ここでは、パウロ以後の時代の福音とエクレシアの姿を証言している文書として、牧会書簡が福音の展開の歴史においてどのような位置を占め、どのような意義を担っているのかという問題に限定します。
 先に第一節の「牧会書簡の成立」で見ましたように、この牧会書簡はパウロ以後の時代(おそらく一世紀末か二世紀初頭)にエーゲ海地域に展開したパウロ系諸集会の状況を反映しています。この書簡が示している状況は、パウロの時代の状況とかなり違ってきています。まずこの違いを見ることにします。

集会の制度

 一読してまず目につくのは、牧会書簡がキリストの民の「制度」を重視して発言していることが多いという事実です。パウロもごく稀に「監督と奉仕者」というような語を用いていますが、奉仕の務めは聖霊の賜物《カリスマ》によって自然になされるもので、まだ制度的な役職とはなっていません。それに対して牧会書簡では、「監督、長老、奉仕者」が集会の役職の名となり、その選任がどのようになされるべきかが重要な問題となり、その資格が多くの言葉で論じられています。その選任や資格について、聖霊の賜物は言及されることなく、もっぱら当時のヘレニズム社会の基準にてらして「立派な」人物であることが求められています。
 また、パウロの時代には個々の信徒の自発的な愛の働きに委ねられていた困窮者への援助も、牧会書簡では寡婦への援助が制度として運営されるようになっています。キリストの民は、最初期の聖霊の働きに直接依存するカリスマ的な集団から、制度的な共同体への一歩を踏み出したことになります。この方向の先に「教会」が現れます。

「異なる教え」に対する姿勢

 もう一つ、牧会書簡の重要な主題は「異なる教え」を説く者への対応です。使徒が後継者であるテトスとテモテにその対応の仕方を説くという形で、著者はこのパウロ名書簡において、自分の時代の不健全な傾向を克服しようと努力しています。
 パウロも自分が宣べ伝えた福音とは「異なる福音」を説く者に対して厳しい言葉で対抗しています(ガラテヤ一・六〜九)。パウロの場合は何が問題になっているのかを正面から取り上げて論駁しています。異邦人で信仰に入った者に割礼を受けることを要求し、ユダヤ教律法の順守を求めることは、キリストの福音を台無しにすることだとして、縦横に聖書を引用して激しく議論し、「信仰による義」を主張しています。それに対して、牧会書簡ではその問題は決着済みであり、話題になることはありません。これは、70年のエルサレム神殿崩壊後の状況です。すでにコロサイ・エフェソ書もそういう状況を示していましたが、牧会書簡ではその状況はさらに進んでいるようです。
 牧会書簡で問題になっている「異なる教え」がどのような内容の教説であるのか、詳しい記述はありませんが、(第二節でみたように)断片的な言及からそれはグノーシス主義的な傾向のものであることが推察されます。すでにパウロも萌芽的な形態のグノーシス主義を警戒しなければなりませんでしたし、コロサイ・エフェソ書でもグノーシス的な教説への批判が見られます。どの場合も「異なる教え」の内容を正確に記述して、その違いを知ることは困難です。しかし、パウロ書簡とコロサイ・エフェソ書と牧会書簡の場合を較べますと、「異なる教え」への対応の仕方に違いが見られます。
 パウロは「異なる教え」の誤りを正面から論じて、福音の正しい理解に導く努力をしています。コロサイ・エフェソ書にはまだ議論する傾向が残っていますが、牧会書簡になると「異なる教え」を説く者と議論すること自体が禁じられます。たとえば、死者の復活を否定する者たちに対して、パウロはコリント第一書簡(一五章)で詳しい議論を展開していますが、牧会書簡では何の議論もなく、「真理の道を踏み外した者」として切り捨てられています(テモテU二・一八)。牧会書簡は繰り返し、「異なる教え」を説く者の「作り話や切りのない系図」に関わらないように警告し、彼らとの議論を有害無益なものとして禁じています。

信仰告白定型の確立

 このような問答無用の姿勢がとれるのは、この時期には「主イエス・キリストの健全な言葉、信心に基づく教え」が一定の形をとって確立していたからです。その「健全な言葉」に反する教説は、ただそれが「健全な言葉」に合致していないという理由だけで退けられるべきであって、なぜ誤りかという議論はもはやする必要はありません。
 すでにパウロ書簡においても、一定の形式をもった信仰告白の文が用いられています(たとえばコリントT一五・三〜五、ローマ一・二〜四)。また、パウロの時代の集会で用いられていたキリスト賛歌が引用されています(たとえばフィリピ二・六〜一一)。牧会書簡には、そのような告白文や賛歌やその他「健全な言葉」とされる文が、「この言葉は信実です」という断定的な宣言句を伴って出てきます(テトス三・八、テモテT一・一五、三・一、四・九、テモテU二・一一)。このような句が繰り返し用いられるのは、ある内容の信仰告白が使徒から伝えられた権威ある「真理」として確立していたことを示しています。これに反する言説は、議論するまでもなく、「異なる教え」として退けなければなりません。
 このような告白文は、たしかにパウロの福音を継承しています。たとえば、テトス三・三〜七の箇所は、パウロの福音の見事な要約になっています。しかし全体として見ると、牧会書簡における信仰は、そのように権威あるものとして確立している「真理」とか「健全な言葉」を受け容れて告白し、健全な生活をするというような意味になっており、パウロ書簡におけるような霊なるキリストとの交わりという生き生きとした霊的体験の質が希薄になっています。この点でもパウロ書簡との距離を感じざるをえません。

聖書に対する姿勢

 パウロは聖書(旧約聖書)が神からの啓示であることを当然とし、聖書を権威とし、また拠り所として議論を進めています。それに対して、牧会書簡は使徒パウロの権威を拠り所としています。著者は自分の議論を進めるさいに、旧約聖書を引用したり論拠にすることはほとんどなく、パウロのキリスト体験とかパウロに与えられた啓示を根拠にして議論し、パウロを手本にして勧告しています。
 たしかに著者は聖書を神の霊感によって書かれた書として尊重しています(テモテU三・一五〜一七)。しかし、実際の議論において聖書を論拠として用いることはありません。著者の聖書尊重には切実さが感じられず、なにかとってつけたような感じが残ります。著者が基準としているのは聖書ではなく、使徒パウロの体験と言説であり、周囲のヘレニズム世界のモラルです。著者は、キリストの民が周囲のヘレニズム社会の基準から見て「健全な」生活をするように求め、とくに監督、長老、奉仕者というような集会を代表する立場の人たちに、高い水準で満たすように求めています。牧会書簡の勧告には、敵を愛するとか、善をもって悪に報いるというような福音独自の勧告はありません。終末的待望の用語は出てきますが、その待望がキリスト者の生き方を決めているという痕跡はごく僅かです。
 なお、牧会書簡を通読して、祭儀的な面が何も触れられていないことに気づきます。旧約聖書の祭儀が問題にならないのは、キリストの民がユダヤ教の枠の外に完全に出てしまっている時期の著作として当然ですが、当時のエクレシアで行われていたはずのバプテスマや聖餐の儀礼についても触れられていないことが目立ちます。ほぼ同時代のイグナティオス書簡がこれらのサクラメントの有効性と結びつけて司教の重要性を強調しているのと対比すると、牧会書簡の沈黙は目立ちます。著者はこの点について問題を感じていなかったのでしょう。

女性の地位

 パウロは女性が集会で祈ったり預言したりすることを認めています(コリントT一一・二〜一六)。ところが、牧会書簡は女性が集会で教えることを禁じています。これは、当時のローマ社会が男性家長の権力が絶対的な家父長制社会であり、既婚女性が公の場で発言することを嫌う傾向があったので、社会の倫理規範に合わせたという面もあるのでしょうが、グノーシス派に対抗するためという動機も強かったのではないかと考えられます。
 後の時代のグノーシス派に明らかに見られるようになる傾向ですが、グノーシス派では女性が集会で教えたり、礼典(サクラメント)を執り行うことを認めていました。マグダラのマリアをペトロよりもイエスに近い弟子として尊び、女性の活動を歓迎する傾向がありました。それに対抗して、「正統派」教会は女性の聖職者を認めず、女性を聖職者とすることを異端のしるしとして攻撃しました。牧会書簡の時代にこのような女性聖職者をめぐる問題がどれほど具体的な問題になっていたかは確認できませんが、その対立の萌芽的な形態を示していると見ることができます。女性の聖職者を認めるかどうかは、現代においても教会では大問題になっています。 
 女性に沈黙を命じる根拠として、著者はアダムとエヴァの物語を論拠にしますが(テモテT二・一二〜一五)、女性だけに罪の責任があるかのような偏った解釈をしています。「牧会書簡がなければ、新約聖書ははるかに女性に友好的なものとなるだろう」(タイセン)と嘆かれることになります。このような女性観は、ローマの家父長制社会とかグノーシス派への対抗というような時代の状況に規定されたもので、正典にあるからといって絶対化するのは誤りです。男性と女性の関係については、「キリストにあっては男も女もない」(ガラテヤ三・二八)という大原則に従って、それぞれの特質をもって補い合い助け合う平等の関係を構築すべきです。

 たしかに、パウロも女性に集会では沈黙しているように命じている箇所があります(コリントT一四・三三〜三六)。しかし、これは牧会書簡の記事(テモテT二・一一〜一二)が後で挿入されたものであるという見方があります。この問題については拙著『パウロによるキリストの福音U』232頁の「集会における婦人」の段落を参照してください。

護教的姿勢

 先に「成立」のところで見たように、牧会書簡は用語と文体においてルカ文書と親近性があります。それで両者は同じ著者によって書かれたとする説も出てくるのですが、そこまで行かなくてもどちらかが他方に依存して書かれたと推察する見方も多いようです。少なくとも両者は同じような状況で、同じ傾向の著者によって書かれたことを示唆しています。
 用語と文体だけでなく、両者はその護教的姿勢において共通しています。護教的姿勢というのは、信仰者の共同体が一定の規模となり、社会的に注目される段階になったとき、批判的な外の社会に対して自分たちの信仰と存在の正当性を弁証して、社会からの認証を得ようとする姿勢です。牧会書簡は、第二節の「概観」で見たように、共同体自身が社会的認証を得られる姿になるように内部の人たちに働きかけています。それに対して、ルカ文書は外の人たちに、自分たちの信仰と共同体の成立がいかに正当なものであるかを示すために書かれたという面があります。このようにして始まった護教活動は、二世紀になって、ローマ社会に向かってキリスト信仰の正当性を論じる文書を書く、ユスティノスらの「護教家」に引き継がれていきます。

結び―容器と中身

 福音は神の力です。信じる者を救いに至らせる神の力です(ローマ一・一六)。使徒たちが御霊によってこの福音をヘレニズム世界に宣べ伝えたとき、その力の働きによって、地中海世界に新しい波が起こり、渦が巻き起こりました。それは、聖霊の働きによります。それは新しい運動として、地中海世界の各地に波及してゆきました。しかし、使徒たちの時代においては、それはまだ形なく、渦巻く運動であり、次々と伝わってゆく波のうねりでした。
 しかし、その運動が始まって七十年とか八十年、あるいは百年近く経った牧会書簡の時代には、その運動はようやく一定の形を見せ始めます。聖霊によって与えられる霊なるキリストとの交わりを内容とする信仰は、一定の形式をもった信仰告白の文で言い表されるようになり、その信仰を言い表す者たちの共同体は一定の組織をもった集団となって、社会に現れてきます。この信仰内容の定型化と信徒共同体の組織化は、年と共に進み、やがて明確な信条と聖職者組織を持つ「教会」に成長してゆき、「キリスト教」という宗教の成立に至ります。わたしたちは牧会書簡にそのプロセスの最初の証言をもつことになります。ここに、牧会書簡が福音の展開史上にもつ位置と重要な意義があります。
 このように信仰と民の共同体が一定の形をとるようになるのは、歴史的必然であって、良いとか悪いというような価値判断の対象ではありません。ただ、このような過程を理解することによって、そのような過程を生み出した原動力である福音と、その過程の結果である「キリスト教会」に体現される「キリスト教」宗教とを区別することを学ぶことが重要です。福音は救いに至らせる神の力としてわたしたちにとって絶対的なものですが、その力が生み出した「キリスト教会」と「キリスト教」は社会的歴史的な状況に制約されたもので、相対的なものです。それが正典の中にあるからといって、ある文書の文言を絶対化するのは誤りです。キリスト教は福音という神の力を内に入れて保持している容器です。わたしたちは容器を絶対化して尊ぶのではなく、中身であるキリストの福音を探求、確立して、それを身をもって証示してゆくことが使命です。

 「キリスト教会」と「キリスト教」宗教の成立の過程について、また、それらを相対化しなければならないことについては、拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。