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第七章 キリストの民の形


              ―― 牧会書簡におけるキリストとその民 ――

はじめに―「牧会書簡」について

 新約聖書正典の中でパウロ書簡を集めたグループは、集会に宛てた九書簡の後に、個人に宛てた四書簡が置かれています。個人に宛てた四書簡は、テモテあてのものが二通、テトスあてが一通、フィレモンあてが一通です。この中で、フィレモンにあてた手紙はその内容が全く私的な用件であるのに対して、テモテとテトスにあてた三通の手紙はその内容が私的な用件ではなく、集会の指導という信仰上の問題を扱っており、集会での公の朗読を予想しているという点で共通しています。この三通は、集会を指導するという牧者の責任を担う者(テモテとテトス)に、使徒パウロが牧会の仕方を指示しているという点で内容が共通しているので、「牧会書簡」という名で一括して扱われます。

 私的な書簡のフィレモン書が正典に入っている事情については、拙著『パウロによるキリストの福音V』の「第五章 奴隷も自由人もない(フィレモン書)」を参照してください。

 この牧会三書簡は、内容が共通しているだけでなく、用語や文体に共通点が多く、同じ著者によって、同じ時期に、同じ目的のために書かれたと見られるので、一括して扱われる場合が多いようです。ここでも、この三書簡をひとまとまりの書簡集として扱い、第一節でその成立の事情、第二節でその内容の概略、第三節で福音展開史における位置とわたしたちにとっての意義を見ていくことにします。



第一節 牧会書簡の成立

使徒名書簡としての牧会書簡

 新約聖書にはパウロの名を冠した書簡が十三ありますが、その中でパウロ自身が書いたことが問題とされない書簡が七つあります。ローマ書、コリント書TとU、ガラテヤ書、フィリピ書、テサロニケ書T、フィレモン書の七書簡です。それに対して、テサロニケ書U、コロサイ書、エフェソ書などは、これまでに見てきたように、パウロ以外の人物(パウロの協力者とか後継者)がパウロの名を用いて書き送った書簡であると見られます。ここでパウロ自身が書いた手紙を「パウロ書簡」、パウロ以外の人物がパウロの名によって書いた手紙を「パウロ名書簡」と呼ぶならば、今回扱う牧会書簡は「パウロ書簡」か「パウロ名書簡」のどちらになるのかが議論されています。
 牧会書簡がパウロの真筆であることを擁護する議論もそれなりの論拠があり、無視することはできません。しかし、わたしは以下の事実を総合的に考慮すれば、牧会書簡は「パウロ名書簡」だと判断せざるをえないと考え、この牧会書簡を「パウロ以後のキリストの福音」シリーズで扱うことにしています。
 「パウロ以後のキリストの福音」シリーズの初めに、「使徒名書簡」の成立について簡単に解説しました。使徒たちが世を去った後、それ以後の世代の指導者が使徒の名を用いて書簡を書き、使徒の権威によって諸集会を指導した時代が来ます。そのような「使徒名書簡」の代表格が「パウロ名書簡」です。パウロ以後に「パウロの名による書簡」が大きな働きをしたことが、「使徒名書簡」の時代を招来しました。今回、その「パウロ名書簡」の(おそらく)最後のものとなる牧会書簡を取り上げます。
 パウロの名を冠する書簡が「パウロ書簡」であるか「パウロ名書簡」であるかの判断は、その書簡を問題なくパウロの筆になるとされている七書簡と較べて行われますが、その比較は用語と文体、神学思想、背景となっている社会的状況などの分野でなされます。牧会書簡の場合は、各分野での比較の結果、パウロ名書簡であると判断されることになりますが、各分野での比較を簡単に見ておきます。

1 用語と文体

 まず用語と文体の面で牧会三書簡は共通の特徴を強く見せていますが、その特徴はパウロ七書簡と大きく違っています。牧会書簡には、「義」、「律法の業」、「自由」などのようなパウロに特徴的な用語は出てきませんし、またパウロの用語が別の意味で用いられています(たとえば《アルカイ》は、パウロでは霊的諸力、牧会書簡では世の権力者)。牧会書簡に出てくる用語の約三分の一はパウロ書簡には出てこない用語です。牧会書簡の著者は、「敬虔」とか「健全な教え」とか「思慮深い」など、パウロが用いていない用語を教えの中心にしていることが目立ちます。牧会書簡の用語はパウロ的・聖書的というよりは、当時のヘレニズム世界の高尚な日常語とか通俗哲学の用語に近いものです。また、牧会書簡の用語の四分の一は、二世紀のキリスト教著述家たちに一般的な用語であると言われています。
 文体においても、パウロの畳みかけるような生き生きとした書簡を読んだ後に牧会書簡に入ると、コロサイ書やエフェソ書で感じたのと同じように、別の世界に入ったという印象を避けられません。牧会書簡のギリシア語の文章は、冷静に考え抜かれた複雑な構造を見せています。
 用語と文体がパウロ書簡とはあまりにも大きく離れているので、真正性を擁護する注解者(たとえばNTDのエレミアス)も、パウロが秘書とか筆記者を用いたとし、当時の筆記者は大意を指示されただけで書き方はかなり自由であったので、このような違いが出て来たと説明せざるをえないことになります。そうであれば、実質的にパウロ名書簡と見ることになります。

2 神学思想

 著者がパウロの協力者とか後継者である以上、その神学思想がパウロと基本的には同じであることは当然です。しかし、キリスト論や救済理解や終末思想など個々の神学思想を仔細に見ると、コロサイ書やエフェソ書の場合のように、微妙な違いがあることも見えてきます。また、異端として戦っている思想が、パウロの時代のものとは違うことも問題になります。このような違いは、やはり牧会書簡がパウロ自身の筆になるものではないことを示唆します。個々の問題点は第二節と第三節で触れることにし、ここでは書簡の基本的な姿勢だけを較べてみます。
 パウロ書簡が読者である集会に直截にキリストの福音を提示し、その福音にふさわしく生きる生き方を勧告することに徹しているのに対し、牧会書簡では(もちろんその面もありますが)外の人々にキリストの教えがそしられることなく、社会的に認知されるような集団となるように指導するという面、すなわち護教的な面が前面に出て来ます。このような護教的な姿勢は、牧会書簡がパウロの時代からかなり時間が経っていることを示唆しています。護教的な姿勢は、集会がある程度確立し、キリスト者の集団の存在が社会的に注目され問題になってきている時期のものと考えられるからです。したがって、成立の時期は、使徒自身の時代ではなく、早くても第二世代(ほぼ七〇〜一〇〇年)か、あるいは第三世代(一〇〇〜一三〇年)の可能性も考えられます。

3 集会の組織

 牧会書簡(とくにテトスとテモテT)が「監督」、「長老」、「奉仕者」という、集会を指導し、その運営に奉仕する階層の人たちについて強い関心を示し、大きく取り扱っていることは、顕著な事実です。たしかに、パウロにも「監督と奉仕者」に言及している箇所が一箇所だけありますが(フィリピ一・一)、集会の在り方について主要な関心事ではありません。それに対して牧会書簡では、それが集会にとって重要な事柄として大きく取り扱われています。この違いは、牧会書簡の成立が集会の組織化が進んだパウロ以後の時代であることを示唆しています。「寡婦」を世話する制度が問題にされていることも、パウロ以後の時代を指しています。
 パウロ書簡では「監督」も複数形であり、監督と奉仕者との区別は明確ではありませんが、牧会書簡では「監督」、「長老」、「奉仕者」は別個に扱われ、明確に区別されています。「監督」は単数形ですが、これは必ずしも複数の長老と一人の監督からなる(二世紀以降に一般的になった)単独監督制の確立を意味するものではないと見られています。この三者の相互関係と序列の問題は複雑で、様々な理解の仕方が提案されていますが、ここでは牧会書簡が示している集会組織は、パウロ時代よりは後のものであることを指摘するだけで十分でしょう。

4 執筆の状況

 テトス書によると、パウロはテトスと一緒にクレタ島で福音を伝える活動をした後、テトスをクレタ島に残して自身は大陸に戻り、ニコポリスで冬を過ごしています(テトス一・五、三・一二)。そして、このニコポリスからクレタ島のテトスにこの手紙を書いています。
 テモテ書Tは、パウロがマケドニア州に出発するにさいしてエフェソに残してきたテモテに書き送られていますが(テモテT一・三)、どこでこの手紙が書かれたのかは確認できません。テモテ書Uは、裁判を受けているどこかの牢獄から、おそらくエフェソにいるテモテに、急いでパウロのもとに来るように書き送っています(テモテU四・九以下)。
 このような状況はパウロ書簡と使徒言行録のパウロについての最後の記述と合わないので、真正説をとる研究者は、パウロはローマでの最初の裁判では無罪となり、釈放されて再びエーゲ海の諸地域で宣教活動を行い、その後再び訴えられて二回目の裁判を受けることになったとします。その上で、牧会書簡はこの二つの裁判の間の時期の成立とします。
 しかし、使徒言行録が伝えるローマでの裁判が無罪釈放となったことは確認できません。むしろ、前著『パウロによるキリストの福音V』の第七章「使徒パウロ最後の日々」で見たように、パウロはその裁判で有罪となり処刑されたと見なければなりません。そうすると、牧会書簡をパウロの生涯の中に位置づけることは困難になります。
 ただ牧会書簡をパウロ名書簡とするとき、テモテU四・九以下にあるような個人的で具体的な記事はどう理解すべきかが問題になってきます。この問題は、次の第二節で当該箇所を扱うときに触れることにします。

内村鑑三と牧会書簡

 内村鑑三は、彼の時代に活躍した欧米の聖書学者たちの諸説を参照し紹介しながらも、学説によってではなく自分の「キリスト的意識」をもって読んで抱く感じから判断し、これをパウロ自身の著作ではないとします。内村は、牧会書簡はパウロ書簡と較べて次の諸点で大いに違ってきているとします。

パウロは福音にふさわしく歩むように親が子にするように勧めるのに対して、牧会書簡は上に立つ者が下の者に「命令」している。その結果、「服従」が重視され、信仰がパウロにおけるように自由な(自発的な)キリストへの従順ではなく、権威ある「信仰箇条」への服従となっている。神は、イエスが示された親しい父であるより、近づき難い恐るべき神となっている。信仰が表面的になった分、「儀礼」(按手など)が重んじられ、「教会」が重んじられている。また「現世的な実益」が重んじられ、「世評」を恐れている、等々。

 このような諸点をあげて、信仰の質の観点から牧会書簡がパウロの著であると受け取ることはできないとした上で、これを学問的に明らかにした近代の聖書批評学の成果を高く評価しています。内村はこのような理由でパウロ著作説を否定していますが、もちろん牧会書簡そのものの価値と意義を否定するのではなく、すでに腐敗の相を見せている当時の教会(内村は牧会書簡を「教会腐敗の活写真」と呼んでいます)を福音によってキリスト化しようとしているものとして、また、その中に含まれているキリストの告知の尊さから、これを蔑視することなく尊重すべきことを説いています。
 その上で最後に、パウロ著作説を主張する学者たちの意見を受け容れたらどうなるかを「付記」して次のように言っています。

 もし牧会書簡がパウロの作であるならば、それはパウロの老年時代の作であって、その価値は彼の壮年時代の作に及ばない。ここにパウロは全く別人となって現れていることになる。わたしは愛するパウロが老衰してついに保守家となり、牧会書簡のごときものを残したとは信じたくない。

 以上は一九〇九年九〜一一月の『聖書之研究』の「疑わしき書簡―いわゆる牧会書簡の研究」の要約です。

書簡集としての牧会書簡

 パウロ諸書簡はもともと、別の集会にそれぞれ特別の事情の下に書き送られた独立の書簡であり、それらが後の時代に「パウロ書簡集」としてまとめられたものです。それに対して、「牧会書簡」は初めからひとまとまりの書簡集として成立したものと見られます。
 先に見たように、用語と文体、思想内容、背景となる集会組織などから、牧会三書簡は一人の著者によって、ほぼ同じ時期に書かれて、初めから書簡集として用いられたと考えられます。そのことはこの三書簡の正典内の位置からも観察されます。
 パウロ書簡集は長さの順番に並べられています。元来の収集は、ローマ書、コリント書TとU、ガラテヤ書の四書簡であり、この四つが長いものから順に並んでいます。それにエフェソ書、フィリピ書、コロサイ書、テサロニケ書TとU、フィレモン書の六書簡が加えられて、一〇書簡からなるパウロ書簡集が成立します。この六書簡が付加であることは、ガラテヤ書よりも長いエフェソ書が、元来の四書簡集の集成を破らないために、ガラテヤ書の後に置かれていることからも分かります。この書簡集の成立は、その中にパウロ名書簡が含まれていることからも、おそらく一世紀末か二世紀に入ってからのことと推察されます。
 この一〇書簡のパウロ書簡集が確立してからかなり後に、それに牧会三書簡が加えられたと見られます。そのことは、先に加えられた六書簡の中でエフェソ書以外のどれよりも長いテモテ書Tが後に置かれていることから分かります。そのさい、全く私的で短いフィレモン書が、個人宛書簡の最後に回されます。牧会書簡の中でも三書簡は長さの順に並べられています。

 パウロ書簡集の集成が書簡の長さの順に並べられ、その順序の観察から、ここに見たような二回の付加を経ていることについては、タイセン『新約聖書』(大貫訳・教文館)202頁の表とその解説を参照してください。

 このような牧会書簡を含むパウロ書簡集が成立するのは、二世紀に入ってからかなり時が経ってからではないかと考えられます。それで、二世紀前半にアジア州でパウロ書簡集に接したと見られるマルキオンが、自分たちの聖書として(牧会書簡を含まない)一〇書簡のパウロ書簡集を用いたのは、その頃にはまだパウロ書簡集に牧会書簡が含まれていなかったからだと推察されます(牧会書簡がまだ書かれていなかったという意味ではありません)。もっとも、マルキオンは牧会書簡を知っていて、その内容から拒否したこともありえますが、知らなかった可能性の方が高いと考えられます。
 なお正典では長さの順に、テモテ書T、テモテ書U、テトス書の順に並んでいますが、その内容からすると、テトス書、テモテ書T、テモテ書Uとなります。テモテ書Uが、殉教を覚悟したパウロの遺言書のような内容であり、最後に来ることは明らかです。テモテ書Tとテトス書のどちらが先かは確認できませんが、テトス書一・一〜四の挨拶の部分が、牧会書簡全体への導入としてふさわしい書き方をしていることから、テトス書が最初に来て、それにテモテ書TとUが続くと見るのが順当でしょう。事実、古代の正典表にはこの順序で並べているものもあります(たとえばムラトリの正典表)。本稿でも三書簡をこの順序で扱います。

牧会書簡成立に関する諸説

 牧会書簡がパウロ自身の筆になるものでないならば、では誰が、どういう動機で書いたのかが問題になります。結論から言うと、結局それは分からないということになりますが、様々な提案や仮説が提出されています。参考までに、その中で二三の興味深い説を見ておきます。
 書簡に出てくる地名から、牧会書簡がエフェソを中心とするアジア州で、あるいはもう少し範囲を広くしてエーゲ海域の地域で成立したことは、ほぼ確実と見られます。ケスターは、グノーシス主義に対抗する内容や社会的背景から牧会書簡の成立を一二〇年から一六〇年の間と見て、その時期にこの地域で牧会書簡に見られるような見識と指導力がある人物はスミルナのポリュカルポスだけであるとし、カンペンハウゼンのポリュカルポス著者説を紹介しています。事実、フィリピ集会に宛てたポリュカルポスの手紙(四〜六章)には牧会書簡にきわめて近い内容と表現が見られます。
 ポリュカルポスは、彼の師であるヨハネがエフェソの浴場でケリントスと会い、「真理の敵がいるから浴場が壊れるかもしれない」と叫んで、裸で飛び出したという有名なエピソードを伝えています。牧会書簡が、その当時に影響力を増してきたグノーシス主義に対抗して使徒的伝統を守るために書かれたということは広く認められていますが、このような逸話を伝えているポリュカルポスは著者としてふさわしいと言えるでしょう。テモテT六・二〇の「不当にも知識と呼ばれている反対論」の「反対論」はマルキオンの主著とされる「アンティテセイス」を指すとし、ポリュカルポスはマルキオンとこの著作を知っていて、マルキオンに対抗するために牧会書簡を書いたという可能性も十分にあります。
 もう一つ興味深い仮説にルカ著作説があります。牧会書簡の用語と文体がルカのそれと親近性があることは以前から注目されていました。アンカー聖書事典で牧会書簡の項を執筆したクインは、牧会書簡はルカが彼の著作の第三巻として著したものとします。すなわち、ルカは彼の著作の第二巻である「使徒言行録」でパウロのローマ到着までを述べましたが、パウロの最後については沈黙したまま、唐突にその巻を終えました。その後、ルカは牧会書簡という書簡集の形でパウロの最後を描いたというのです。
 パウロがローマ帝国の司法によって裁かれ、犯罪者のように処刑されたことにショックを受け、パウロに対する信頼を揺るがせていた信徒たちに、ルカは第三巻を著して、パウロが最後まで主に忠実な僕であったことを示し、自分たちの世代に対するパウロの委託を伝えようとしたというのです。ルカと牧会書簡ではその護教的姿勢と動機が共通しています。
 それでは、以上の成立事情を念頭において、またここにあげたような見方もあるということを参考にして、牧会書簡をご一緒に読んでまいりましょう。