市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第20講

第三節 ペトロ第一書簡の位置と意義 

ペトロとパウロ

 このようにきわめて強くパウロの影響を受けている書簡がペトロの名によって書かれたという事実に、この書簡がもつ重要な意義があります。この事実がもつ意義を理解するために、ここで改めてパウロとペトロの関係をまとめておきましょう。
 ペトロとパウロはよく対立的に描かれます。ペトロはイエスの直弟子であり、ユダヤ人への宣教を委ねられた使徒であり、パウロは直接イエスに接したことがなく、復活のイエスから異邦人への宣教を委ねられた使徒であるとされます。しかし、これは不正確な理解です。ペトロはユダヤ人だけでなく異邦人にも福音を宣べ伝え、パウロの宣教にも「まずユダヤ人に、それから異邦人に」という面があります。二人のユダヤ人と異邦人に対する福音宣教活動は、それほど大きな違いはありません。
 たしかにパウロはガラテヤ書(二・一〜一〇)でエルサレム会議のことを語るとき、「わたしたち(パウロとバルナバ)」と「ヤコブとケファとヨハネ」を対置して、「わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼の人たちのところに行くことになった」と言っています。この対比はパウロとヤコブについては正確です。ヤコブ(主の兄弟のヤコブ)はエルサレムから離れることなく、エルサレム共同体を拠点としてもっぱらパレスチナのユダヤ人たちにイエスをキリストとして宣べ伝え、ユダヤ教の枠の中で新しい信仰運動を導きます。それに対して、パウロはその福音活動のごく初期から異邦人にキリストの福音を宣べ伝えています。もっとも最初の手がかりとしては、まずヘレニズム諸都市のユダヤ人会堂でユダヤ人と神を敬う異邦人にキリストを宣べ伝え、彼らを中核として周囲の異邦人に福音を伝えるという形をとっています。このような形ですが、パウロの働きはもっぱらユダヤ教の外の異邦人に向かいます。
 しかし、ペトロの場合は(ヤコブとは)事情が違います。たしかに、パウロは「彼らは、ペトロに割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました」と言っています(ガラテヤ二・七)。しかしこれは、その時のエルサレム会議の判断(彼らは・・・・知りました)としてはこう言えますが、その後のペトロには不正確な言い方になります。これはあくまで、エルサレム会議がパウロに「無割礼の福音」を認めたことを強調するために、パウロが自分との対比でペトロを割礼の人たちへの使徒として語ったものです。実際には、ペトロはその後異邦人への宣教を進め、ユダヤ教徒だけに限定された使徒でないことを示しています。
 ペトロは42年のヘロデ・アグリッパの迫害の時、エルサレムを離れます(使徒一二章)。その後、エルサレム会議に参加するなど臨時のエルサレム滞在はありますが、その働きはおもにアンティオキアから西に向かい、エーゲ海地域を含み、ついにはローマに達しています。ペトロも異邦都市のユダヤ人会堂を拠点として異邦人に福音を伝えています。ルカはペトロを異邦人伝道の開拓者とし、エルサレム会議でのペトロはパウロと同じ原理で異邦人伝道を擁護していると描いています(使徒一五・六〜一一)。
 パウロは回心後三年目に、「ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在」しています(ガラテヤ一・一八)。ケファと知り合いになろうとしたのは、「イエス伝承」(イエスの働きと教えの言葉についての伝承)をその源流である直弟子のケファ(ペトロ)から直接聴き、また最初期のエルサレム共同体の信仰を確認するためだったと見られますが、同時に聖書学者であるパウロが、その聖霊体験によって新たにされた聖書理解を情熱的にペトロに語るという面もあったと考えられます。この二人の偉大な使徒の最初の会合は、けっして一方通行ではなく、ペトロが体現するイエス伝承とパウロの新しくされた聖書理解とが同じキリストの御霊が働く場で出会うことで、将来の福音を形成する最初の重要な出来事となります。
 このような体験があったので、その後のペトロは十二人の使徒の中でも異邦人伝道に積極的にあることができ、その結果コルネリオの場合に見られるような神からの啓示にあずかり、ユダヤ教律法を乗り越えるような働きをなし(使徒一〇章)、エルサレム会議ではパウロを擁護することができたのだと考えられます。しかし、ペトロは律法との関わりでは、パウロのように徹底できず、ユダヤ人には律法遵守を求めるヤコブと、律法から自由なパウロの間に立って動揺し、アンティオキアでパウロとの衝突を引き起こしたりします(ガラテヤ二・一一〜一四)。
 しかし、この衝突の意義を過大に見てはなりません。モーセ律法を順守しようとするユダヤ人信徒と、もともとモーセ律法とは関係のない異邦人信徒との交わりの問題は、その後パウロ自身も大いに苦労した複雑な問題です。当時のパレスチナの緊迫した情勢の中で、ペトロやバルナバがエルサレム共同体からの(ユダヤ人信徒はモーセ律法を順守するようにという)強い要請を断り切れなかった立場にも同情できます。

 アンティオキアにおけるパウロとペトロの衝突について、とくに背景となっている「当時の緊迫した情勢」については、拙著『パウロによるキリストの福音T』116頁の第二章第四節「アンティオキアでの衝突」を参照してください。

マルコとシルワノ

 このようにもともとペトロがパウロをかなり理解していたすると、パレスチナ生まれのアラム語系のユダヤ人であり、エルサレム共同体でペトロと親しい交わりにあったシルワノやマルコが、パウロの異邦人伝道が始まったときに積極的に協力できたことも理解できます。この二人はペトロを通してパウロの律法から自由な福音に接していたのでしょう。
 パウロとバルナバは飢饉の援助のためにアンティオキアからエルサレムに行ったとき(45年頃)、バルナバの従兄弟になるマルコをアンティオキアに連れて帰っています(使徒一二・二四)。マルコがギリシア語をよくするバイリンガルな青年であったので、アンティオキアでの異邦人伝道に必要とされたのでしょう。それにペトロは、42年にエルサレムを去るまでは「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」を拠点としていたので(使徒一二・一二)、ペトロから「わたしの子」と呼ばれるマルコは、ペトロから親しくイエス伝承を聴いていたと見られます。パウロとバルナバは、アンティオキア集会から派遣されてキプロスに伝道に行くとき、この「マルコと呼ばれるヨハネ」を助手として連れて行きます(使徒一三・五)。マルコは、パウロとバルナバがキプロスからパンフィリア州に渡ったとき、二人から離れてエルサレムに帰ってしまいます(使徒一三・一三)。そのため、パウロがアンティオキア集会から離れて独立の活動を始めるとき、マルコを連れて行くことを拒否して、シラスを連れて行くことになります(使徒一五・三六〜四一)。
 ここでマルコはパウロから離れていますが、その後のパウロ書簡(フィレモン二四)やパウロ名書簡(コロサイ四・一〇、テモテU四・一一)にはその名が出て来て、パウロの晩年まで何らかのつながりがあったことを示唆しています。このペトロ第一書簡が書かれた(と推定される)八〇年代にはローマにいます。それで、70年前後に書かれたとされるマルコ福音書は、マルコによってローマで書かれたとする説が古来から主張されることになります。この書簡を生み出したグループは、ペトロの伝えるイエス伝承をマルコから親しく聴いていたはずです。
 シルワノ(=シラス)については、第一節「成立」のところでやや詳しく見ました。パウロのエーゲ海地域における独立伝道の同労者として、シルワノがパウロの福音理解を継承していることは当然です。このペトロ第一書簡は彼が書いたとする可能性も否定しきれません。彼が実際の著者であってもなくても、シルワノの周囲のペトロ・グループの中で本書が成立したことは確実でしょう。

ローマにおけるペトロとパウロ

 本書簡がシルワノというパウロの同労者の近辺から出ている以上、パウロの影響が強く見られるのは当然です。しかも、ローマ書の影響がはっきりと認められることは、本書がローマで成立したことを傍証しています。ペトロの影響は、ペトロが残した文書がないので確認できませんが、この講解で見てきたように、ペトロが伝えたと考えられるイエスの語録の痕跡が認められることに示唆されています。
 本書簡は、パウロ的な内容の福音が、ペトロの名によって書かれたという特異な「使徒名書簡」です。使徒名書簡の一つとして、「パウロ以後」の「使徒名書簡の時代」(使徒名書簡が多く成立し、それらの使徒名書簡によってエクレシアが指導されていた時代、ほぼエルサレム神殿の崩壊から一世紀末までの時代)のキリストの福音を証言する貴重な文書です。この書簡は、パウロの主要な活動の舞台であったエーゲ海地域を経由して、帝国の首都ローマに達し、そこでネロ帝の迫害という大きな試練を経て、一世紀末にローマに確立していたキリスト信仰の証言となります。
 本書簡がペトロの名によって書かれ、「バビロン」というローマを指す名と、シルワノとマルコというペトロとパウロの両使徒に深い関わりのある人物の名が出てくる事実が、この書簡の位置を指し示しています。この書簡の存在自体が、ペトロとパウロは対立する使徒ではなく、共に帝国の首都ローマに(ペトロとパウロはネロ帝時代のローマで殉教したと伝えられています)、同質のキリストの福音を確立した使徒であることを指し示しています。このことは、後にローマのサンピエトロ大聖堂の前庭にペトロとパウロの柱像がひときわ目立つ形で建てられたことにも象徴されています。

終末の内在

 本書簡は、ローマ書のように福音の全体を提示しようとする文書ではなく、迫害の中で信仰を貫くように励ます実際的な勧告の書簡です。それでも表現の端々にこの時代の福音の片鱗をのぞかせています。その内容は講解の中で触れてきました。最後に、その中でも注目される二三の点を取り上げておきます。
 先にコロサイ書やエフェソ書のところで見たように、エルサレム神殿が崩壊した後の「使徒名書簡の時代」では、パウロが苦闘したユダヤ教律法の問題、すなわち救われるためにはユダヤ教の律法を順守しなければならないかという問題は解決済みで、もはや問題として取り上げられることもありません。異邦人が異邦人のままで、ユダヤ教律法とは無関係に、キリスト信仰によって救われ、神の民を形成するという福音は確立しています。コロサイ書やエフェソ書には「律法」という用語も出てきませんでしたが、本書でも用いられていません。この時代の使徒名書簡の基本的な特色を本書も共有し、「異邦人の時代」が始まっていることを示しています。
 しかし一方、ユダヤ教が預言者以来の確信として受け継いできた終末待望は、ペトロやパウロを通して本書にも継承されています。この時代には、コロサイ書やエフェソ書で見たように、キリストを語るのにヘブライ的な救済史的枠組みよりもヘレニズム的な宇宙論的な枠組みが前面に出るようになっていました。それでも救済史的な終末待望は底流として流れており、ヨハネ黙示録に見られるように、迫害の時代には激しく表面に噴出することもありました。
 本書も迫害の時代を背景として成立し、終末待望を燃え上がらせている書簡ですが、本書の終末待望は独自の姿を見せています。本書は終末待望を語るのに、テサロニケ書簡やヨハネ黙示録に見られるような黙示思想的な枠組みを用いることなく、キリストの民はこの世では「寄留者」であるという自覚に集中しています。「寄留者」はやがて本国に迎えられます。この栄光の御国への待望が、迫害下の信徒を励まします。この点はヘブライ書と共通です。そして、本書では栄光の御国の到来を語るのに、特色のある語り方をするようになっています。
 その特色とは、終末の到来を語るのに《パルーシア》(来臨)という用語を用いないで、《アポカリュプシス》(顕現)を用いているという事実です。初期の福音宣教においては、復活して天に昇られたキリストが、地上に来てその栄光の支配を打ち立てられる終わりの出来事は、「キリストの《パルーシア》(来臨)」と呼ばれていました。パウロもこの表現を用いています(テサロニケT、コリントT、U、フィリピで計11回)。ところがコロサイ・エフェソ書では用いられなくなります。これは黙示思想だけでなく救済史的枠組み自体が後退した結果でした。それに対して本書では、迫害下にあって終末待望が燃え上がっていますが、《パルーシア》という表現は用いられていません。終わりの日の到来はもっぱら《アポカリュプシス》(顕現)または「現れる」というその動詞形で表現されています。
 《パルーシア》は、今はおられない方が到着されるという意味の語で、「来臨」と訳されます。それに対して、《アポカリュプシス》は隠されているものが顕わな姿で現れることを意味する語です。したがって、「キリストの《パルーシア》」は今はおられないキリストがわたしたちのところに来てくださる出来事を意味します。それに対して、「キリストの《アポカリュプシス》」は、今すでにわたしたちの内にいてくださるキリストが、その隠された姿を顕わに現してくださる出来事を指すことになります。
 《パルーシア》は黙示思想の用語です。今は世界におられないキリストが、突如栄光の中に到来されるのです。それに対して《アポカリュプシス》は御霊の内住の現実を前提とする表現です。現在すでに霊なるキリストがわたしたちの内にいて働いてくださっているという信仰と体験から出てくる表現です。現在は隠された姿でわたしたちの内に働いてくださっている御霊のキリストが、時満ちてその栄光の姿を顕わに現してくださいます。その終わりの時をわたしたちは待ち望んでいるのです。
 実は、終末待望に《アポカリュプシス》を用いるようになったのはパウロからです。終末の出来事を指す名詞形の《アポカリュプシス》は二回(コリントT一・七、ローマ八・一九)、動詞形は一回(ローマ八・一八)だけですが、パウロの終末待望を要約するローマ八章(一八〜二五節)が、《パルーシア》を用いず、この用語で語られていることが重要です。ペトロ第一書簡には名詞形と動詞形が合わせて五回出てきます(一・五、七、一三、四・一三、五・一)。《アポカリュプシス》を用いることによって、聖霊による終末の現臨(内在)を語る道が開けたと言えます。終末はもはや、今はまだ存在しない未来ではなく、現在すでにわたしたちの内にある現実となったのです。わたしたちの弱い人間性の中に隠されて到来している神の御霊の現実が、顕わに現される時をわたしたちは待ち望んでいます。それがキリスト者の終末待望です。
 黙示思想的な終末待望が後退しているコロサイ・エフェソ書においても、御霊によって終末的な現実が隠された姿で内在しており、それが必ず栄光の中に顕現するであろうという待望は生きています。コロサイ書(三・三〜四)はこう言っています。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」。ここの「現れる」という動詞は《アポカリュプシス》の動詞形とは別の語が用いられていますが、まさにこれは終末の内在化を語る文です。コロサイ書では内在の現実が「命《ゾーエー》」と表現されていますが、《ゾーエー》は本来「来たるべき世における命」という終末的な現実を指す語です。
 この方向の延長上にヨハネ福音書があります。この福音書では、来たるべき世における命である《ゾーエー》が、現に今来ているのだという告知が主題となっています。ルカ福音書(一七・二一)に伝えられているイエスのお言葉、「神の国はあなたがたの中にあるのだ」も、(その原意については議論がありますが)この終末の内在化を喝破した言葉と理解することができます。
 終末がすでに御霊によってわたしたちの内に現臨しているという「終末の内在化」は、けっして将来への待望を不要にするものではありません。いや、かえってその待望を生活の中でリアルな力にします。それはパウロやこの書簡によく表れています。わたしの福音誌の「天旅」という誌名も、この「終末の内在化」から発する終末待望というキリストの民の在り方を象徴するものです。

付記 ペトロ第二書簡について

 新約聖書にはペトロの名によって書かれた書簡がもう一つあります。「ペトロの第二の手紙」です(一・一)。このペトロ第二書簡は、ペトロ第一書簡に続く「二度目の手紙」であることを示唆していますが(三・一)、同じ著者によるものかどうかは確認できません。ユダ書への依存(二章)やパウロ書簡への警戒(三・一五〜一六)など、第一書簡とはかなり違った傾向を示し、かつ時期的にもかなり遅い文書と見られ、この「パウロ以後のキリストの福音」シリーズではなく、別枠で扱う方が適切と考えられますので、今回は割愛します。