市川喜一著作集 > 第14巻 パウロ以後のキリストの福音 > 第19講

第二節 ペトロ第一書簡の翻訳と略解

挨拶(一・一〜二)

1 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散している選ばれた寄留者たちへ。2 あなたたちが選ばれたのは、父なる神の予知に基づき、御霊の聖化によって、イエス・キリストの従順とその血の注ぎに至るためです。恵みと平和があなたたちに増し加わりますように。(一・一〜二)

 差出人としてのペトロの名と、宛先の人たちの状況については、先の「成立」のところで見た通りです。この挨拶で重要なのは、宛先の人たちが「寄留者」と呼ばれていることと、その「寄留者」につけられている荘重な説明の文です。宛先は「各地に離散している選ばれた寄留者たちへ」とあり、その「選ばれた」に、「父なる神の予知(=あらかじめ立てられた計画)に基づいて」と、「御霊の聖化(する働き)によって」と、「イエス・キリストの従順とその血の注ぎに至るために」という三つの説明句がつけられています。
 キリストの民は、自分たちがキリストに属する者となっているのは自分の功績や価値や決意によるのではなく、神があらかじめ立てられたご自身の計画に基づいて選ばれた結果に他ならないと自覚しています。自分がキリストに属し神の子である根拠は、自分の側には何もない、すべては父の恩恵によるのだという自覚です。それは、パウロが繰り返し強調し、エフェソ書(一・三〜六)が荘重に宣言した通りです。
 その選びは「御霊の聖化によって」具体化します。現在わたしたちがキリストの民であるのは、聖霊によってわたしたちに福音が語られ、聖霊によってわたしたちが福音を受け入れた結果です(テサロニケT一・四〜七)。わたしたちは御霊の働きによって現実に神に所属する者、すなわち「聖なる者」とされたのです。わたしたちが選ばれて現にキリストの民であるのは、聖霊の働きの結果です。
 そして、選びの目標は「イエス・キリストの従順と血の注ぎに至るため」です。わたしたちが選ばれたのは、わたしたちがキリストに従う者となるためであり、キリストの血の注ぎにあずかって贖われた神の民として歩むようになるためです。信仰とは「キリストの従順」(キリストに合わせられて生きることにより実現する神への従順、信仰の従順)に他ならないとしたのはパウロです(ローマ一・五、フィリピ二・一二〜一三)。しかし、「キリストの血の注ぎ」については、伝承された定型句(たとえばローマ三・二五)の中で触れる以外は、パウロはほとんど語っていません。むしろ、キリストの血の注ぎを強調するのはへブライ書です。この点で、キリストの血による贖いを強調する本書(ここと一・一八〜一九)は、ヘブライ書と同じ流れに属しています。「血の注ぎ」は、一つには出エジプト記二四章にあるように、キリストの血によって立てられる新しい契約にあずかる民となるためであり、もう一つは血がもつ贖罪の力によって、罪の支配から贖い出された神の民として歩むようになるためです。
 このように挨拶の短い文の中に、神の救いの働きが、父なる神と御子キリストと聖霊の三重の形で述べられています。このように神の救済の働きの形として父と子と聖霊が重なることが、将来三位一体論に発展することになります。

寄留の民の希望(一・三〜一二)

 寄留の民は、いつかは本国に戻ります。寄留の民は、本国において十分な権利をもつ市民として平安の中に暮らす日が来ることを望み見て、寄留地での苦しい生活に耐えます。そのように、地上では寄留者であるキリストの民は、「わたしたちの本国は天にあります」と言い表し、その口で一息に「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と告白します。寄留者であるという告白は、キリストの来臨《パルーシア》待望の別の表現形式です。キリストが来臨されるときには、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」ことになります(フィリピ三・二〇〜二一)。このように「死者たちの復活」が起こるとき、キリストの民は完成され、神の栄光の御国が顕現します。
 この希望はパウロだけのものではなく、初期の福音の共通の信仰内容です。本書の著者は、使徒たちの福音宣教によって告知され、広くキリストの民の中で伝えられ告白されているこの希望を継承して、ここに書きとどめます。著者はその希望を「生ける希望、命ある希望」と呼び、その内容を「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない相続財産」と表現します(一・三〜四)。本書の一章、とくにその前半を構成するこの段落(一・三〜一二)には、パウロ以後に伝承された福音の内容と信仰理解が凝縮されています。

生ける希望

3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神がほめ讃えられますように。神はその豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、わたしたちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。4 それは、あなたたちのために天に蓄えられている、朽ちることなく、汚れなく、しぼむことのない相続財産への希望であり、 5 あなたたちは、終わりの日に現されるように準備されている救いにあずかるために、信仰により、神の力で守られているのです。(一・三〜五)

 その福音の提示は、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」への賛美から始まります。その神が「豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、生ける希望を与え」てくださったからです。原文の三節から五節までは、希望を与えてくださった神を賛美する長い一つの文です。
 神のわたしたちに対する救いの働きは「新たに生まれさせる」という動詞で表現されています。この動詞は新約聖書の中ではここと一章二三節の二箇所だけに出てくる著者独自の用語ですが、事柄自体はコロサイ書やエフェソ書、またヨハネ福音書三章のニコデモとの対話にもあり、パウロ以後の時期では神の救いの働きは「わたしたちを新しく生まれさせる」という形で理解されていたことが分かります。ここには聖霊が言及されていませんが、ヨハネ福音書の方に明示されているように、この「新しく生まれさせる」のは聖霊の働きです。聖霊によって、生まれながらの古いわたしの中に、別の命に生きる新しいわたしが生まれるのです。
 その救いの働きは「神の豊かな憐れみにより」なされたものです。「憐れみ」は、相手の価値とか資格とは無関係に、無条件によいものを与える姿勢であって、パウロはそれを「恩恵」と呼んでいました。著者は最後でこの手紙全体を「神のまことの恩恵の証し」としています(五・一二)。著者は「恩恵の使徒」パウロの継承者と見ることができます。
 福音が語る神はあくまで「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」、すなわち、イエスを死者の中から復活させて、主《キュリオス》またキリストとしてお立てになった神です。そして、まさにこの「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」わたしたちを新しく生まれさせてくださったのです。初穂としてのキリストの復活の中にわたしたちの復活が含まれていることが、わたしたちの希望の中身であり、わたしたちに与えられた新しい命の質です。復活者キリストに結ばれて生まれた新しい命は、わたしたちの中で「生ける希望」となり、わたしたちを「天に蓄えられている、朽ちず、汚れなく、しぼむことのない相続財産」を受け継ぐ者とします。この「新しく生まれさせ」という過去形の動詞に「希望へと」と「相続財産へと」という目的または結果を示す句がつく構造は、パウロの「わたしたちは救われて(過去形)、このような希望を持つにいたったのです」(ローマ八・二四私訳)と同じです。
 四節と五節は、三節の「生ける希望」の内容を説明しています。それは、パウロが「神の栄光にあずかる希望」(ローマ五・二)と呼んでいた希望の詳しい説明です。それは「終わりの日に現されるように準備されている救い」にあずかることです。「終わりの日」、すなわちキリストが来臨される日、キリストの《パルーシア》において、それまで地上の悲惨な現実や弱い人間性の中に隠されていた新しい命の質が「現される」ことになります。それがここでいう「救い」です。この「現される」(《アポカリュプシス》の動詞形)は、パウロが「やがてわたしたちに現されようとしている栄光」とか「神の子たちの顕現」と呼んで、キリスト来臨への熱い待望を語るときに繰り返し用いていた用語です。パウロはその「顕現」を「子とされること、つまり、わたしたちの体の贖い」とも呼んでいます(ローマ八・一八〜二五)。
 この「終わりの日に現されるように準備されている救い」にあずかるように召されているわたしたちは、現在の苦難の中で「信仰により、神の力で守られている」のです。この「信仰により、神の力で守られる」ということがどういうことか、次の一段(六〜九節)で語られます。

苦難の中の歓喜

6 このことで、今しばらく間は様々な種類の試練によって苦悩しなければならいとしても、あなたたちは歓喜しています。7 それは、あなたたちの信仰が試されて、火で精錬されても結局は朽ちることになる金よりもはるかに尊いものであることが確証され、イエス・キリストの顕現にさいして称賛と栄光と誉れとなるためです。8 この方を、あなたたちは見たことがないけれども愛し、今見ていないけれども信じ、言葉では表せない輝かしい喜びで歓喜しています。9 それは、信仰の実である魂の救いを受けているからです。(一・六〜九)

 「このことで」というのは、先の一段(三〜五節)で見たような「終わりの日に現されるように準備されている救い」にあずかることを指して、このような希望があるのだから、という意味です。この希望が、苦悩や悲しみのただ中で歓喜するという信仰者の逆説的な生のあり方を可能にします(六節)。 続いて、そのように「終わりの日に現されるように準備されている救い」にあずかるように召されている者たちになぜ苦難が来るのか、その意義が目的の視点から語られます(七節)。その苦難は信仰が試され鍛えられて、いっそう堅固なものとなり、「イエス・キリストの顕現にさいして称賛と栄光と誉れとなるため」です。そのことが、この世で人々が何よりも尊んでいる金と比較して語られます。金は火で精錬されて純度を高め、ますます価値あるものとされますが、それでも結局は滅びます。それに対して、信仰は地上の苦難の中で鍛えられ、ますますその確かさと純度を高め、「キリストの顕現」の時にその人の「称賛と栄光と誉れ」になるのですから、永遠に滅びることなく、金よりもはるかに尊いものであることになります。信仰の試練を火による金や銀の精錬の比喩で語ることは、イスラエルの知恵文学の伝統にあり(箴言一七・三、二七・二一、知恵三・六、シラ二・五、詩篇六六・一〇)、パウロもその比喩を用いています(コリントT三・一三)。

 ここで終わりの日のことが「キリストの顕現《アポカリュプシス》」と呼ばれていることが注目されます。普通新約聖書では、終わりの日は「キリストの来臨《パルーシア》」と呼ばれています。そのキリストの《パルーシア》を「顕現《アポカリュプシス》」と呼んだのはパウロです(コリントT一・七)。この《アポカリュプシス》という語は本来隠されているものが現れることを意味する語ですから、「啓示」(ガラテヤ一・一二、二・二)とか「黙示」(エフェソ一・一七、三・三)、または「黙示録」(黙示録一・一)というように使われます。その用語を終わりの日のキリストの来臨を指す用語としたのはパウロです。パウロは終わりの栄光の日をこの「顕現」とか「現れる」という用語で語っています(ローマ八・一八以下)。パウロにとって、キリストの来臨とは、今は不在のキリストが突如来られることではなく、すでに隠された形で臨在し働いておられるキリストが、その栄光をもって世界に現れることだったからです。《パルーシア》を一度も用いず、もっぱら《アポカリュプシス》を用いて終わりの日のことを語る著者(ここ以外でも一・一三、四・一三)は、パウロの継承者であることを示しています。 

 このキリストは、終わりの日に現れるだけの方ではなく、今現に働いておられる方であることが、わたしたちの現実の体験に基づいて語られます(八〜九節)。たしかに、このキリストをわたしたちはこの目で見たことはありません。しかし、わたしたちはこの方を知ることを何よりも価値あることとして、この方を切に慕い求めています。ここで「愛している」と言われているのは、このように大切に思い、慕い求めているという意味でしょう。
 また、今は復活されたキリストを見ているわけではありませんが、キリストが復活して今も働いておられるという福音の言葉を受け入れ、この見えない復活者キリストに自分の存在と人生を委ねた結果(これが「信じ」たこと、信仰です)、「言葉では表せない輝かしい喜び」で歓喜しています。その歓喜は、「信仰の実である魂の救いを受けている」ことの標識です。
 ここで「実」と訳した原語は《テロス》ですが、この語はもともと「終わり」を意味し、目的・目標、成就・完成という意味にも用いられる語です。ここでは「信仰」が目的としているものが成就した結果と理解して「実」と訳しています。信仰は「魂《プシュケー》の救い」を目的としていますが、それがキリストにあって成就した結果、わたしたちは「言葉では表せない輝かしい喜び」で歓喜することができるのです。パウロは、キリストにあって注がれる聖霊によって「勝ち誇って喜ぶ」ことを常としました(ローマ五・一〜五)。このような「喜び」こそ、信仰者の標識、キリストの民の旗印です。
 《プシュケー》という語はもともと「息」から「いのち、生命」という意味で用いられる語ですが、精神的活動をする主体として、「自己」とか「魂」という意味にも使われます。ここで「《プシュケー》の救い」というのは、精神的な働きを含む生命体としての人間全体の救済を指しています。生まれながらの人間の《プシュケー》は、神に背き、神の命から切り離されて、罪の支配下にあり、死に定められたものになっています。その《プシュケー》がキリストにあって罪と死の支配から解放されることが「救い」であり、その結果、その生命活動は充実した喜び溢れるものとなるのです。その喜びが「言葉では表せない輝かしい喜び」です。この喜びは、生命の充実ですから、心理的な悲しみや苦悩の中でも溢れることができる種類の喜びであり、先に見た「悲しみや苦悩の中の喜び」という逆説を可能にします。

奥義の告知としての福音

10 この救いについては、あなたたちへの恩恵について預言した預言者たちも、探求し、丹念に調べました。 11 彼らは自分たちの内にいますキリストの霊が、キリストに臨む苦難と後に続く栄光をあらかじめ証ししたとき、それが誰を、またどのような時を指しておられるのかを調べたのです。 12 預言者たちには、それらのことが自分たちにではなく、あなたたちに仕えるものであることが啓示されていましたが、それらのことは今や、天から遣わされた聖霊によってあなたたちに福音を伝えた人たちによって告知されたのです。実にそれらのことは、天使さえも垣間見たいと切望したのです。(一・一〇〜一二)

 今キリストの民が受けている「救い」は旧約の預言者たちが預言していたものであるということは、福音の基本的な内容の一つです。福音においてはいつも、イエス・キリストの出来事は旧約聖書の成就として宣べ伝えられました(コリントT一五・三〜五)。そして、その成就の時は「恩恵の時」と呼ばれていました(ルカ四・一九)。それは、すべての約束が成就する終わりの時は、神がご自身の民を恩恵によって完成してくださる時であるからです。それで、終わりの時に召されて神の民となった「あなたたち」に向かって、著者は「あなたたちへの恩恵について預言した預言者たち」と語ります(一〇節)。彼ら預言者たちは、その恩恵による成就の時がどのような時となるのか、イスラエルの伝統を参照しながら、熱心に探求し、丹念に調べたのです。その探求の姿が次節(一一節)で描かれます。
 預言者たちは熱心に注意深く調べました(一一節)。その探求を促したのは、預言者たちの内にいて語らせる「キリストの霊」です。旧約の預言者たちは「主の霊」によって霊感され、「主の言葉」を語りました。その事実は、福音の立場からは「キリストの霊」によって「キリストの出来事」を「あらかじめ証しする」ことだとされます。福音は、彼らの預言がキリストにおいて成就したことを知っているからです。預言者たちを霊感して語らせたのは、やがてキリストにおいて成就することを知っている霊、キリストの出来事を準備するためにイスラエルの中に働かれた方の霊、すなわち「キリストの霊」に他なりません。
 もっとも預言者自身はいつも「メシア」の時代を預言していると自覚していたわけではありません。預言者たちは時代に向かって主の言葉を語りました。その中に終末に関する預言が出てきますが、その内容は様々であって、けっして一様に「メシア」のことを語ったわけではありません。しかし、来るべき救済者「メシア」は、神の力によって主の民を敵対する勢力から解放して、栄光の地位につくという待望が基本にありました。
 キリストの民はその多彩な旧約預言の中に、「受難のメシア」の預言を聞き取りました。イザヤの「主の僕」の預言に代表されるように、また、受難の預言者エレミヤが体現していたように、来るべき救済者「メシア(ギリシア語ではキリスト)」は苦しみを受けた後に栄光の座につくという預言を聞き取っていました。それで、旧約の預言者たちも「自分たちの内にいますキリストの霊が、キリストに臨む苦難と後に続く栄光をあらかじめ証しした」と言うことができたのです。
 預言者たちは「キリストに臨む苦難と後に続く栄光」をあらかじめ証ししただけでなく、「それが誰を、またどのような時を指しておられるのか」を、アブラハムやモーセ以来イスラエルの民に伝えられてきた啓示の伝統に照らして、熱心に探求し、丹念に調べました。その探求は、知恵文学や黙示文学を代表とする新約直前のイスラエルの諸文書に跡をとどめています。その探求をした預言者や知者たちは、それが「自分たちにではなく、あなたたちに仕えるものである」ことを示されていました。すなわち彼らは、そのようなメシアの出来事は自分たちの時代のイスラエルに関わるものではなく、「あなたたち」すなわち終わりの日に召される主の民に関わるものであることを知っていました。しかし、「それが誰を、またどのような時を指しておられるのか」を確定することはできず、ただ待望するだけでした。
 ところが、「それらのこと」、すなわち預言されていた「キリストに臨む苦難と後に続く栄光」が現実に地上の出来事として起こり、それが「今や、天から遣わされた聖霊によってあなたたちに福音を伝えた人たちによって告知された」のです。ナザレのイエスの身に起こった十字架の死と、それに続く復活によって高く栄光の座に上げられた復活者イエスの栄光の出来事が、神の終末的な救済と啓示の業として、世界に告知されたのです。この告知が「福音」です。この「福音」は今や、「天から遣わされた聖霊によって」世界に派遣された「使徒たち」によって世界の諸民族に伝えられるに至りました。「あなたたち」もこの福音によって呼び集められて、終わりの日の「主の民」となっているのです。
 この手紙を生み出したローマのペトロ・グループの人たち、とくにシルワノやマルコにとって、ペトロもパウロも「天から遣わされた聖霊によって福音を伝えた人たち」、まさに同じ「キリストに臨む苦難と後に続く栄光」を福音として告知した「使徒」であって、違いはありません。シルワノやマルコは、パウロと共に宣べ伝えた福音をペトロの名で書き送ることに、何の違和感もなかったはずです。
 「実にそれらのこと(キリストに臨む苦難と後に続く栄光)は、天使さえも垣間見たいと切望した」奥義です。熱心に探求した預言者たちや知者たちも、「それらのこと」を明確に見ることはできませんでした。それは世々に隠された神の奥義、救済史の奥義であって、「天使さえも垣間見たいと切望した」ほどの秘められた奥義でした。今その奥義を福音という明白な言葉で告げ知らされて、御霊によりその奥義を与えられている民、キリストの民は幸いです。このことをイエスはこう言っておられます、「言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(ルカ一〇・二三〜二四)。

聖なる生活への呼びかけ(一・一三〜二五)

聖なる者となれ

13 こういうわけで、あなたたちはその思いの腰帯を引き締め、醒めた姿で、イエス・キリストの顕現のときにあなたたちにもたらされることになる恩恵だけを、全面的に待ち望んでいなさい。 14 従順の子として、あなたたちが以前無知であったときの諸々の欲望に自分を同化させることなく、15 あなたたちを召された聖なる方に従って、あなたたち自身も生き様のすべてで聖なる者となりなさい。16 「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となるのだ」と書かれているのですから。(一・一三〜一六)

 前段(一・三〜一二)でキリストにあって与えられている希望を提示した著者は、「こういうわけで」と、その希望を根拠にして、あるいはそのような希望を持つことができるように救われている現実を根拠にして、実際の生き様について勧告します。それは、パウロがローマ書一二章一節で、それまでの福音の提示を受けて、「こういうわけで」という語で実践的な勧告に入ったのと同じです。ローマ書と較べると、本書の場合は福音の提示の部分がきわめて簡潔で短く、手紙の大部分が実践的な勧告になっている点が違います。
 まず、本書の全体でなされる勧告の動機あるいは根拠が改めて確認されます。キリストの民の歩みは「イエス・キリストの顕現のときにもたらされることになる恩恵」だけを「全面的に」待ち望むことから出てくる生き方です(一三節)。ここで「キリストの《パルーシア》(来臨)」ではなく「キリストの《アポカリュプシス》(顕現)」という表現が用いられていることの意義については、先に述べました(315頁の注記参照)。
 ここで、その時に信じる民にもたらされる終末的な事態が、「恩恵」という用語で指されていることが注目されます。パウロは、罪と死の支配に対して「恩恵の支配」を対比強調し、それを自分の現在の体験として力強く告白しました(たとえばローマ五・二、二〇〜二一)。パウロにとって「恩恵」は、現在の自分の存在を可能にする根拠でした(コリントT一五・一〇)。しかし、キリストの来臨にさいして起こる終末の事態について「恩恵」という語を用いることはありませんでした。著者も現在の救いの体験を「恩恵」によるものとしている点ではパウロと変わりませんが、それを終末の場面にまで用いている点に違いを感じます。パウロの終末待望の中心にあった「死者の復活」という具体的な出来事は語られず、「恩恵」という一般的な表現になっている点に、パウロからの距離を感じさせます。
 終末待望がキリストの民の生き方を形成する原動力ですが、その待望の姿が「その思いの腰帯を引き締め、醒めた姿で」と具体的に描かれます。「腰帯を引き締め」というのは、当時の引き摺るように長く垂らした衣服を、腰帯で引き上げて歩きやすいようにする姿を指しています。「醒めた姿で」は、酩酊していないということですが、これは眠りから「覚めた姿で」と重なって用いられる表現で、共に終わりの日が近いことを自覚していることを意味しています。このような終末を自覚した心で、すぐに行動できるような心構えで、キリストの顕現の日をひたすら待ち望んで暮らしなさいという勧告です。
 この基本的な勧告(一三節)が、二つの生き方の対比で描かれます(一四〜一五節)。まず、「あなたたちが以前無知であったとき」、すなわち福音を知らず、キリストにおける神の恩恵を知らなかったとき、あなたたちは「諸々の欲望」に身を任せて、自分の欲望のままに生きていたが、今はその欲望に「自分を同化させることなく」生きるように求められます(一四節)。
 ここで「自分を同化させる」という特色のある動詞が用いられていますが、これはパウロがローマ書一二章のはじめで、実践的勧告を導入する部分で用いていた動詞です。パウロは「この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられて・・・・」(ローマ一二・二私訳)と言っています。この動詞はこことローマ書の二箇所だけに出てくる動詞で、著者に対するローマ書の影響を示唆しています。
 このように以前の欲望に引き摺られることのないようにという勧告が、「従順の子として」という句で根拠づけられていますが、この「従順」もパウロの信仰理解の中心に位置する重要な用語です(一・二の講解を参照)。「従順の子として」、すなわち神の子として神への従順を本性としているのだから、以前の欲望に身を任せることのないように勧告されるのです。
 さらに、パウロが「あなたがたの身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ一二・一)と言っているところを、著者は「生き様のすべてで聖なる者となりなさい」という表現で繰り返し(一五節)、それを聖書(レビ一一・四四)からの引用で根拠づけています(一六節)。
 「聖なる者となる」とは具体的にはどういうことか、この書簡全体で語られることになりますが、聖書(旧約)の「聖《カードーシュ》」が本来世俗の用から神に関わる用に取り分けられるという意味であることから、この書簡でも、キリストに属する者が世間一般の生活様式から取り分けられて、キリストによって啓示された神にふさわしい別の生き方をするようにという意味が基本にあります。引用されているレビ記でもそうですが、神はご自身に所属する民に、ご自身と同じ性質をもって生きるように求めておられると言えます。

キリストの血による贖い

17 また、あなたたちは人をかたより見ることなく、それぞれの業に従って裁かれる方を「父」と呼んでいるのですから、この寄留の期間中を畏れもって生きるようにしなさい。18 あなたたちも知っているように、
  あなたたちは贖われた、
先祖伝来のむなしい生活から、
  銀や金のような朽ちるものによってではなく、
19 きずや汚れのない
小羊キリストの尊い血によって。
20 キリストは
  世界の始まりよりも前に知られていたが、
  諸々の時の終わりにあなたたちのために現れた。
21 あなたたちはこの方によって、
  この方を死者の中から復活させて栄光を与えた
  神を信じる者となっている。
  こうして、あなたたちの信仰は
   神に向かう希望ともなる(一・一七〜二一)。

 「聖なる者となりなさい」という勧告の内容が、「また」という語で導かれて加えられます。わたしたちは寄留者として本国に帰る日を待ちわびていますが、その日は同時に「人をかたより見ることなく、それぞれの業に従って裁かれる方」が最終的な裁きをなして、その支配を完成される日でもあります。わたしたちはそのような方を「父」と呼んで、慕い、信頼し、この「寄留の期間」を歩んでいるのですから、その裁きの日に恥じることがないように、父の御旨を行うように歩みなさい、という勧告です(一七節)。
 「恩恵の支配」は、神の裁きがなくなることを意味するものではありません。イエスも神の裁きを前提にして「神の支配」を語っておられます。パウロも「神はその人のしたことに従って、各人に報われるのです。・・・・ 神には人を偏り見ることはないからです」(ローマ二・六〜一一)と語り、とくに自分たちは律法(ユダヤ教)の中にいるのだから大丈夫だと自負しているユダヤ人の間違った安心を打ち砕いています。わたしたちもキリストの民だからといって、「それぞれの業に従って裁かれる」という裁きの原理が曲げられることはありません。
 ですから、わたしたちはこのような原理の裁きの座に出る者であるという自覚と責任感をもって、この地上の「寄留の期間中」を生きるように求められます(コリントU五・一〇)。「畏れをもって」とは、裁かれて地獄に堕ちるであろうという恐怖ではなく、自分の行為に責任を問われる者であるという自覚をもって、ということです。
 では、キリストの民も外の民も同じように裁かれるのであれば、キリストの民であることの意味はどこにあるのでしょうか。キリストの民が受けている「恩恵」とは何でしょうか。それが一八節以下の信仰告白で語られます。「あなたたちも知っているように」という導入の句が示しているように、これはバプテスマにさいして唱えられ、日常の集会で繰り返されてきた定型文である可能性があります。
 キリストの民はこの世の民とどう違うのでしょうか。それは、「贖われている」という事実に尽きます。わたしたちは神の恩恵によって「贖われている」のです。一八節以下の告白文は「恩恵」の告白です。では、「贖われている」とはどういうことでしょうか。この表現は旧約聖書を背景として用いられている用語ですから、イスラエルの民の宗教的伝統から理解しなければなりません。
 旧約聖書では、「贖う」という動詞には二つの用法があります。一つは「人を贖う」という用法で、他の一つは「罪を贖う」という用法です。「人を贖う」というのは、捕虜や奴隷となっている人を身代金を払って買い戻すことです。「罪を贖う」というのは、犠牲の血によって罪の汚れを拭い清めて神との交わりを回復するという意味です。ここでは「あなたたちは贖われた」となっていますが、これは能動態にすると「神はあなたたちを贖われた」となり、人を捕虜や奴隷状態から解放するという第一の意味で用いられています。しかし、「きずや汚れのない小羊キリストの血によって」という句は第二の意味も含まれていることを示唆しています。「きずや汚れのない」は、犠牲祭儀で用いられる「小羊」の条件です。新約聖書では、この二つの意味がキリストの出来事によって実現したとして、あまり厳密に区別しないでこの語を用いているようです。

 「贖い」については、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解U』の巻末「パウロ書簡・用語解説」の「贖い」の項を参照してください。

 古代で捕虜や奴隷状態に陥った人を身内の者が取り戻すには、金や銀の身代金を支払いました。神がわたしたちを囚われの状態から解放して、ご自分のものとして取り戻してくださるのに支払われたものは、「銀や金のような朽ちるもの」ではなく、「きずや汚れのない小羊キリストの尊い血」です。神がそのひとり子であるキリストを犠牲にしてまで、わたしたちをそこから解放してくださった囚われの状態が、「先祖伝来のむなしい生活」と表現されています。
 わたしたち人間はみな、どれかの民族共同体の中に生まれ落ちます。そして、どの民族共同体もその成立の当初から(太古の昔から)、自分たちの存在と世界の意味を神話によって語り継ぎ、独自の宗教を形成してきました。宗教をもたない民族はありません。神話とそこから出る祭儀共同体としての宗教は、どの民族にも固有のものがあります。わたしたち人間は、どれかの神話共同体、祭儀共同体の一員として、この世に生を受けます。その祭儀は何らかの偶像を伴うのが普通です。天地の創造者である唯一の神を知ったイスラエルは、それらの諸民族の祭儀(偶像)を「むなしい」ものと見ました。すなわち、そこには唯一のまことの神との交わりという真理がなく、人間にとっての真実の生命と知恵がない空疎な形式と見ました。そのような空疎な宗教に生きる民として、その実際の生活も乱れた空しいものになっていると、ユダヤ教徒は異教徒を見ていました。このようなイスラエルの信仰から見た諸民族(異邦人)の「むなしい」宗教生活が、ここの「先祖伝来のむなしい生活」という表現になっています。 キリストの民はこのような「先祖伝来のむなしい生活」から「贖われて」(=解放されて)、「神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになった」のです(テサロニケT一・九)。その贖いは「きずや汚れのない小羊キリストの尊い血」によって成し遂げられました。すなわち、キリストが「きずや汚れのない(犠牲の)小羊」として、その命を捧げられることによって(血は命です)、その血によって罪は清められ、罪(人をむなしい生活に閉じこめる力)の支配下にある人間が解放されたのです。
 このようなキリストによる贖いの出来事は、突然起こった偶発的な出来事ではなく、神の救済史のご計画の成就であることが、「(この)キリストは世界の始まりよりも前に知られていたが、諸々の時の終わりにあなたたちのために現れた」という簡潔な文章で宣言されます(二〇節)。このように人間の救済を実現するキリストは、世界が存在し始めるよりも前にいました方です。すなわち、キリストにおいて成し遂げられる「贖い」は、世界の存在よりも前に計画されていたことです。そのことが「知られていた」と表現されています。
 そして、その救済を計画された神は、準備のための「諸々の時」を経た後、ついにキリストを世界に遣わし、その計画を実現されました。それが、キリストの十字架の死とそれに続く復活の出来事です。そのことが、「キリストは諸々の時の終わりに現れた」と表現されます。
 その出来事は、「あなたたちのために」起こりました。「あなたたち」は、終末の時に現れて贖いを成し遂げてくださったキリストに所属する民、すなわち終末時の神の民です。神はこのようなご自分の民を起こすために、世界の始まる前に救済を計画し、この「終わりの時」に成就者であるキリストを歴史の中に「現れる」ようにしてくださったのです。二〇節は、時の初めと終わりを包摂する永遠の救済史の全体を見渡しています。
 終末時の神の民である「あなたたち」は、「この方」キリストによって、「この方を死者の中から復活させて栄光を与えた神」を信じる者となっています(二一節前半)。キリストを知り、初穂として復活されたキリストを信じるのでなければ、どうして人を死人の中から復活させる神を信じることができましょうか。わたしたちの復活信仰はキリストによって成り立つ信仰です。その他の場では成り立ちません。こうして「あなたたちの信仰は(死人を復活させる)神に向かう希望、神への希望となる」のです(二一節後半)。わたしたちの信仰は、死人を復活させる力をもって世界を完成し、その栄光を現される神に向かっています。それ以下の希望は、この福音の希望ではありません。

 二一節後半の読み方は、二つに分かれています。一つは「こうして、あなたたちの信仰と希望は神に向かう」と読むもの(大多数の訳)、もう一つは(NTDやこの私訳のように)「こうして、あなたたちの信仰は神に向かう希望となる」とする読み方です。文法的には両方とも可能です。後者の場合、「希望」の前にある《カイ》は「もまた」とか「さえも」の意味になります。本書簡における信仰と希望の関係と前後の文脈から、後者が適切と考えます。EKKは、内容的には後者を適切としながらも、他の理由で前者の訳を採用しています。

「贖い」の用例について

 この箇所(一八〜二一節)に見られるように、著者はキリストによる救いを「贖い」という表象で語っています。先に見たように、この「贖い」はイスラエルの宗教的伝統の中心にある重要な表象ですから、全員がユダヤ人である最初期の共同体が、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を神の終末的な救済の業として宣べ伝えたとき、それを「贖い」という表象で語ったことは自然なことです。ところが、パウロはキリストにおける救済を自分の言葉で語るところでは、「贖い」という表象を用いていないことが注目されます。
 もちろんパウロもユダヤ人としてこの「贖い」という用語を用いています。しかしその用例は、パウロが最初期のユダヤ人共同体が形成した定型的な信仰告白を引用する場合に限られています。たとえば、パウロがローマ書で信仰による義という福音の中心的な使信を語る箇所(ローマ三・二一〜二六)で、「キリスト・イエスにある贖いによって」義とされると語っています。しかし、この箇所は、「贖い」を語るユダヤ人キリスト教の信仰告白伝承(二四〜二五節)を無理に入れているので、複雑な破格の構文になっていると大多数の研究者が認めています。

 このローマ書の箇所については、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解T』101頁の「キリスト・イエスによる贖いによって」の項を参照してください。

 ところが、パウロが自分の体験から自分の言葉で罪と死の支配からの救済を語るところ(たとえばローマ書七〜八章)では、「贖い」という用語は出てきません(八・二三の特殊な用例は例外)。そこではキリストによる救済は、「キリスト・イエスにある命の御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放した」と語られています(八・二私訳)。「贖う」ではなく、「解放する」という動詞が用いられ、この「解放する、自由にする」という動詞と、その名詞形「解放、自由」が、パウロが救済を語るときの主要な用語になります。パウロは熱烈なユダヤ教徒でありながら、「贖い」というユダヤ教的な表象を用いず、ローマの奴隷制社会に生きる異邦人に親しい「解放、自由」という用語で救済を語ります。
 このようにパウロが「贖い」という用語を用いないのに対して、コロサイ書やエフェソ書という「パウロ名書簡」になると、福音の使信を語る中心的な位置に、この「贖い」が再び用いられるようになります(コロサイ一・一三〜一四、エフェソ一・七)。しかもその「贖い」は、パウロがほとんど用いなかった「罪のゆるし」と言い換えられています。逆に「解放、自由」という語は用いられなくなります。このような変化の理由を正確に理解することは困難ですが、エルサレム神殿の崩壊の前後にエッセネ派の人たちが多くキリストの民に加わるようになった影響ではないかとも考えられます。福音の「再ユダヤ化」というのは単純化に過ぎますが、福音が一段とヘレニズム世界に進出したパウロ以後の第二、第三世代において、このようなユダヤ教表象への逆戻り現象が見られることは、「福音の史的展開」の視点からして、きわめて興味深い現象です。
 このペテロ第一書簡も、キリストによる救済を「贖い」という用語で語っています。本書は「パウロ名書簡」ではなく、「ペテロの名による書簡」ですが、これまで見てきたように、本書はパウロの福音理解を継承し、パウロの影響を強く残しています。その書簡が救済を「贖い」と語ることは、コロサイ書やエフェソ書の場合と同じく、パウロ以後の世代における変化をうかがわせます。ただ、本書の場合は、本書とヘブライ書との親近性から、「大祭司キリスト」が「ご自身の血によって」成し遂げられた「永遠の贖い」を強調するヘブライ書(九・一二など)と直接間接の関連やその影響を考慮に入れなければなりません。
 このような用例の変遷を見ていますと、わたしたちは「贖い」というユダヤ教的表象に固執することなく、パウロのように命の御霊による人間の現実の解放をしっかりと身に体現し、それを現代のわたしたち自身の用語で語ることが重要であると思います。

福音によって新たに生まれた者

22 あなたたちは真理への従順によって魂を清め、偽りのない兄弟愛をもつようになったのですから、お互いに心から熱烈に愛し合いなさい。23 あなたたちは、朽ちる種からではなく、朽ちることのない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって、新たに生まれたのです。24 この通りです。
 「すべて肉なる者は草のよう、
  その栄華はすべて草花のよう。
  草は枯れ、
  花は散る。
25 しかし、主の言葉は永遠にとどまる」。
 あなたたちに福音として告げられた言葉こそ、これです。(一・二二〜二五)

 「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」という招き、すなわち、神と同じ性質の生を生きなさいという招きが、さらにその内容が「お互いに心から熱烈に愛し合いなさい」という勧告で指し示されます。そして、そのような熱烈なお互いの愛が成立する根拠が、「あなたたちは真理への従順によって魂を清め、偽りのない兄弟愛をもつようになったのですから」と述べられます(二二節)。
 「真理への従順」(直訳は「真理の従順」)という表現も、パウロ以後の時期の特徴です。パウロも「真理」という用語を使っていますが、福音の全体をこの用語で指すことはないようです。ローマ書でも一章と二章で人間の罪を暴くところで「真理」が基準として出てきますが、それ以後でキリストにおける救いの事態を「真理」という語で指すことはありません。ガラテヤ書の「福音の真理」も偽善に対する福音への誠実を指しており、福音の事態の全体を指す意味ではありません。
 それに対してパウロ以後の「パウロ名書簡」になると、福音そのものが「真理」という表現で語られるようになります(コロサイ一・五、エフェソ一・一三)。牧会書簡になると、「真理」という語の用例は圧倒的に多くなり(パウロ七書簡全体で一二回に対して、牧会三書簡で一五回)、継承された信仰告白の内容が議論を許さない「真理」と呼ばれることになります。パウロの福音を継承していると見られるヨハネ福音書が「真理」を中心に置いていることはよく知られています。ヨハネでは、キリストは「恩恵と真理の充満」と語られるようになります。
 このような流れの中で、本書も福音を受け入れ、福音に聴き従うことを「真理への従順」と表現することになります。従って、「真理への従順によって魂を清め」というのは、福音を信じて受け入れた結果、その本体である復活者キリストの働きにより(具体的には聖霊の働きにより)、人間としての在り方が変えられたことを指しています。このことは、先には「信仰の実である魂の救いを受けている」と語られていました(一・九)。その変化は、自己中心の人間性が「愛」に変えられることであり、その結果「偽りのない兄弟愛をもつようになった」ことです。このように福音がもたらす兄弟愛を現に内に持っているのだから、「お互いに心から熱烈に愛し合いなさい」という勧告が出てくることになります。
 この変化、すなわち「真理への従順によって魂を清めた」という変化がどうして起こったのか、著者特有の「新たに生まれる」という動詞を再び用いて説明されます(二三節)。生物は(全部ではありませんが多くは)種から生まれます。種から生まれる生物の誕生を比喩として、わたしたちが「新たに生まれた」のはどういう性質のことかが描かれます。
 植物でも動物でも、種から生まれるものはその種と同じ性質の生物です。朽ちる種から生まれるものは朽ちるものです。わたしたち人間も、死すべき人間である両親から生まれるわたしたち(生まれながらの人)は、同じく死すべきものです。ところが、キリストにあってわたしたちを「新たに生まれさせた」種は、朽ちることのない種です。すなわち、「神の変わることのない生きた言葉」という朽ちない種から生まれたのですから、その命は朽ちることがありません。そして、神の言葉は「朽ちない」ものであることを、著者は「この通りです」と言って、イザヤ書(四〇・六〜八)の言葉を(かなり自由に)引用して印象づけます(二四節)。
 この引用された預言の言葉によって、「肉なる者」に過ぎない人間から出たものは、過ぎ去り、朽ちていくはかないものであることが、草と花にたとえられ、それと対比して、神の言葉だけが「永遠にとどまる」ものであることが際だたされます。そして、引用文の最後の「しかし、主の言葉は永遠にとどまる」を受けて、「あなたたちに福音として告げられた言葉」こそ、このような「永遠にとどまる主の言葉」であることが宣言されます(二五節)。福音の言葉こそ、枯れたり散ったりすることのない、「永遠にとどまる」神の言葉です。そのような「朽ちることのない種」から生まれた命ですから、福音によって「新たに生まれた」命は「永遠の命」と呼ばれることになります。
 なお、二五節の「あなたたちに福音として告げられた言葉」には、「福音」という名詞を「〜する」という形にした「福音する」という動詞が用いられ、「福音された」という形で用いられています。

聖なる民(二・一〜一〇)

乳飲み子のように

1 そこで、あなたたちはすべての悪意、すべての偽りと偽善と妬み、そしてすべての悪口を捨て去って、2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いに至るためです。 3 あなたたちは主が恵み深いことを味わい知ったのですから。(二・一〜三)

 これまでに述べたことを受けて、とくに先祖伝来のむなしい生活から「贖われて」、朽ちることのない種としての神の永遠の言葉(=福音)によって「新たに生まれた」という事実を受けて、「そこで」このように歩みなさいと、実践的な勧告が続きます。
 わたしたち生まれながらの人間性に深く染みついている悪が「悪意、偽り、偽善、妬み、悪口」と列挙され、そのすべてを「捨て去る」ように求められます。「捨て去る」と訳した動詞は、もともとは「脱ぐ」という動詞であり、コロサイ書(三・八)やエフェソ書(四・二二、二五)で衣服の比喩を用いて、古い人を脱ぎ捨て、キリストあるいは新しい人を着るように求めるときに用いられている動詞です。ここで捨て去るように求められている悪が、暴力のような行動ではなく、言葉と心意にかかわるものであることが注目されます。すべての行為は心から出てきます。その心は生まれつき悪に染まっていて、自分で変えることは困難です。そこで、「霊の乳」を慕い求めて、「それによって」それらの悪を捨て去って「救い」に達するように勧告されます。
 わたしたちは「新たに生まれた」のですから、その生まれたばかりの命を養い育てるには「乳」が必要です。御霊によって生まれた新しい命を育て養うのは「混じりけのない霊の乳」、すなわちわたしたちの魂に直接響く神の言葉です。わたしたちの魂はそのような神の言葉を、鹿が谷川の水を慕い求めるように求めないではおれません。食べ物を慕い求めることは命の本質です。
 生物としての命が慕い求めるのは乳とかパンのような食物ですが、「新たに生まれた」わたしたちの魂が慕い求めるのは「霊の乳」です。霊の次元における食物です。「乳」につけられた形容詞《ロギコス》は、本来「《ロゴス》にかなった」という意味であり、「道理にかなった」ということですが、「比喩的な」とか「霊的な意味での」という用法もあります。パウロもこのような意味で用いて、「霊的な礼拝」と言っています(ローマ一二・一)。
 わたしたちの魂は「混じりけのない」神の言葉を求めています。人が説く神の言葉には、多くの人間的な混じりけがあります。聖霊が直接わたしたちの心に神の言葉を響かせてくださるとき、その言葉はわたしたちの魂の光であり命であることを直観します。そのような言葉を受けるには、慕い求める心で待ち望む祈りが欠かせません。慕い求める魂に、神は必ずそのような「霊の乳」を与えてくださいます。
 そのような「混じりけのない霊の乳」によって魂は「成長し、救いに至る」と語られています。ここでは「救い」が成長の過程とその完成と見られています。パウロには、救いをキリストの来臨のときに与えられる栄光への参与とする終末的な待望(ローマ五・二)と、御霊による栄光への変容として現在の体験(コリントU三・一八)とする二つの面がありましたが、コロサイ書やエフェソ書や本書のような「使徒名書簡」になると、前者の面を残しつつも、救いを現在の過程と見る後者の面に重点がかかってきています。終末の完成は、現在の過程の完成、隠された形で進められている救いの顕現という理解が強くなっています。
 以上の(一〜二節の)勧告の後ろに、「もしあなたたちが主が恵み深いことを味わい知ったのであれば」という条件文が続いています(三節)。もしあなたたちが主の恩恵を体験していないのであれば、このような勧告は無意味であるが、あなたたちが主の無条件の恩恵を体験しているならば、このようにしなさいという勧告です。パウロが神の恩恵に基づいて実践的な勧告をしているように(ローマ一二・一)、またイエスご自身が恩恵の支配の場に生きる子としての歩みを「山上の説教」で語っておられるように、本書も恩恵を体験している者たちへの、恩恵を根拠としての勧告ですから、「あなたたちは主が恵み深いことを味わい知ったのであるから」と訳しています。

生ける石

4 この方、すなわち、人には捨てられたが神のもとでは選ばれた尊い生ける石であるこの方のもとに来て、 5 あなたたち自身もまた生ける石となって、霊の家に建て上げられ、聖なる祭司の民となり、イエス・キリストによって神に喜ばれる霊のいけにえを捧げています。 6 聖書にこう書いてある通りです。
 「見よ、わたしはシオンに
   選ばれた尊い隅石を置く。
  これを信じる者は、
   決して失望することはない」。
7 それでこの石は、信じているあなたたちには価値あるものですが、信じない者たちには、「家を建てる者たちが捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、 8 また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、そうなるように彼らは定められていたのです。(二・四〜八)

 前節(三節)にあったように、「あなたたちは主が恵み深いことを味わい知った」こと、すなわち読者であるわたしたちはみな主イエス・キリストの恩恵を体験していることを出発点として、この書簡は書かれています。この恩恵の主を「この方」で指して、「この方」キリストにあってわたしたちが今どのような者になっているのかが、石造りの家を比喩として語られます。

 原文では四〜五節は複雑で長い一文で、定型動詞は五節の「あなたたちは建て上げられている」という現在形の動詞だけです。他の動詞はみな分詞形で、主語の「あなたたち」の状態を描写しています。ところが、両節の動詞をすべて命令の意味に理解して、「来なさい、建て上げられなさい、捧げなさい」と訳す翻訳がほとんどです。しかしこの一文は、動詞の形からしても、また意味の流れからしても、キリストにある民の現実を描いている文と理解すべきです。
 ユダヤ人には拒否されて十字架につけられたイエスが、復活によって神からキリストとして立てられたと宣べ伝えた最初期の共同体は、そのことを預言する聖書の言葉として、詩篇一一八編二二節の「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」を繰り返し引用しました。この言葉はイザヤ書二八章一六節の「選ばれた尊い隅石」と合流して、「人には捨てられたが神のもとでは選ばれた尊い隅石」という表現となって、「十字架された復活者キリスト」を預言し、かつ告知する言葉として用いられていました。
 旧約聖書では神に立てられる救済者が「石」の比喩で語られていますが、復活者キリストを宣べ伝える新約の使徒たちは、その「石」に「生ける」を加えないではおれなかったのでしょう。この「石」は今も生きて働き給う復活者キリストです。土台であるキリストが「生ける石」ですから、この方に結ばれて復活の命にあずかっているわたしたちも「生ける石」となって、「霊の家」を形成しています。
 霊なる神は、木や石でできた建物(神殿や教会堂など)に住まれません。生きた人間が形成する共同体の中に住み、その中で働かれます。そのように木や石と対比された意味での「生きた人間」が「生ける石」として神の家を形成しますが、それだけでなくここでは、「生ける石」であるキリストと同じ命に生きる者として、「あなたたち自身もまた生ける石となって」、霊の家を形成することになります。
 この石を積み上げて家を建て上げていくというイメージは、すでにエフェソ書(二・二〇〜二二)にも用いられていますが、ローマで成立したと見られる本書でも重用されているところから、この比喩はローマのキリストの民の間でポピュラーな比喩となっていたと見られます。おそらくその結果として、この比喩を中心に用いた「ヘルマスの牧者」というような象徴的・黙示文学的な信仰書が二世紀前半のローマで成立するようになったと推察されます。

 「ヘルマスの牧者」については、『使徒教父文書―《聖書の世界》別巻4』(講談社)に荒井献氏の翻訳と解説がありますので、それを参照してください。

 「霊の家」とは、霊なる神が住んで働き、その中で霊の次元の出来事が起こる場のことですが、それはすべて聖霊の働きによります。キリストの民は聖霊によって「霊の家」に建て上げられているのですが、それは同時に世俗の用から清め分かたれて「聖なる祭司の民となる」ためです。祭司の務めは神に献げ物を捧げることです。キリストの民は、神がそこに住まわれる神の家、「霊の家」であると同時に、そこで祭司の務めを果たす者でもあるのです。
 木や石でできた神殿では、祭司が動物を犠牲として捧げていますが、それに対して「霊の家」では、祭司としてのキリストの民が、「イエス・キリストによって神に喜ばれる霊のいけにえを捧げています」。わたしたちキリストの民は、もはや動物を犠牲として捧げたり、祭壇に地の産物を供えたりしません。そのような献げ物に代わって、わたしたちは「イエス・キリストによって」父なる神に賛美の献げ物を捧げます。それは賛美の歌であり祈りです。それは心と口で捧げる献げ物ですが、それだけでなくわたしたちは自分の身体と生涯を「生きたいけにえ」として神に捧げます。使徒パウロは、「あなたがたの身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝です」と言っています(ローマ一二・一)。パウロはそれを勧告として語りましたが、それと同じことがここでは現にしていることとして語られています。もちろん、それはわたしたちのあるべき姿でありますから、そうするようにという勧告の意味も含みます。ここで著者はパウロの「霊的な礼拝」という思想を継承していることを示しています。

 パウロがローマ書で「霊的な礼拝」という表現で用いている《ロギコス》(ロゴス的な)という形容詞を、著者は「霊的な乳」(二・二)で用いていますが、五節の「霊の家」と「霊のいきにえ」では、《プニューマティコス》(霊の、霊的な)という形容詞を用いています。このことから、《ロギコス》が《プニューマティコス》と同じ意味で用いられていることが分かります。

 旧約聖書の伝統に従って、最初期の福音宣教はキリストを「石」の比喩で語りましたが、著者はここでその「石」の比喩の典型的な用い方を示しています。著者はすでに四節でキリストを「人には捨てられたが神のもとでは選ばれた尊い生ける石」と呼び、五節でその石に結ばれた「生ける石」として「霊の家」を形成するキリストの民のことを語りましたが、六節以下で旧約聖書の「石」の比喩を用いた預言を直接引用して、その意義(キリストが石であるということの意義)を解説します。
 著者はまずイザヤ書二八章一六節(七十人訳ギリシア語聖書)を引用します(六節)。わたしたちがそれに依り頼んで救われるべき基礎の石は、主御自身が置いてくださる(歴史の中で成し遂げてくださる)ものですが、「これを信じる者は、決して失望することはない」という言葉から、これを信じる者と信じない者との対比が、やはり聖書を引用して解説されます(七節〜八節前半)。
 この神御自身が置かれた「隅石」(キリスト)は、信じている者には、それに寄りすがって「決して失望することはない」、「選ばれた尊い隅石」として価値あるものですが、信じない者にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石」(詩篇一一八・二二)として無価値なものであり、それだけでなく(預言されているように)「つまずきの石、妨げの岩」(イザヤ八・一四)になります。
 そして、信じない者たちについて、この「つまずき」は「彼らは御言葉を信じないのでつまずくのです」と、その理由が説明されます(八節後半)。原文をこう読めば、彼らはこの福音の言葉を神からの言葉と信じないから、イエス・キリストにつまずくのだという意味になるでしょう。しかし、ここのギリシア語原文は、「彼らは信じないので御言葉につまずく」と読むこともできます。この読み方では、彼らはイエスをキリストと信じて受け入れないので、せっかく神がこの方によって語ってくださった永遠の救いの言葉につまずくのだということになります。どちらの読み方も成り立つと考えられます。
 いずれにせよ、信じないことで「隅石」につまずく者たちは、「そうなるように彼らは定められていた」とされます。これは、キリストの民が自分たちは世のはじめから神に選ばれていたとする告白の裏側です。キリストの民であることに自分の側には何の根拠もないとすれば、つまずいて倒れる者たちも神がそう定められたからだという他はありません(ローマ九・六〜二九参照)。

聖なる民、神の所有の民

9 しかし、あなたたちは選ばれた種族、王の身分の祭司団、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたたちを暗闇から驚くべき御光の中へ招き入れてくださった方の卓越した誉れを、あなたたちが告げ知らせるようになるためです。10 あなたたちはかっては「民でなかった」が、しかし今は神の民であり、かっては「憐れみを受けなかった」が、しかし今は憐れみを受けています。(二・九〜一〇) 

 前節の信じないでつまずく者たちと対比して、「しかしあなたたちは」と、信じている者たちの身分が改めて確認されます。ここでキリストの民の身分が、旧約聖書でイスラエルの民の身分を語るのに用いられた称号を列挙して描かれます。そのさい、「種族」《ゲネア》、「国民」《エスノス》、「民」《ラオス》と異なる用語が用いられていますが、いずれもイスラエルの民を指す旧約聖書の用語であり、その差違にこだわる必要はないでしょう。
 かって神はイスラエルの民を選び、彼らに向かって、「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と言われました(出エジプト記一九・六)。著者はここで七十人訳ギリシア語聖書とまったく同じ用語で、「王の身分の祭司団、聖なる国民」と書いています。また、聖書はイスラエルについて、「あなたは、あなたの神ヤハウェの聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた」と言っています(申命記七・六以下など)。キリスト以前の時代にイスラエルの民が占めていたそのような地位を、今はキリストの民が受け継ぎ、成就しているのです。
 キリストを信じる者たちがそのような身分の者とされたのは、もともと異邦人としてまことの神を知らず、神の恩恵も、それによる命とか希望も持たないで暗闇の中にいたわたしたちが、キリストにあって成し遂げられた大いなる救いの御業によって「彼の(神の)驚くべき(命の)光の中へ招き入れてくださった」イエス・キリストの父なる神の「卓越した誉れ、力」を、自分たちの存在自体によって世界に告知するようになるためです。
 著者は読者の以前の状態をホセア書(二章)の「民でなかった」と「憐れみを受けなかった」を引用して描き、それと対比して「しかし今は」というパウロ特愛の語を用いて、現在キリストにある恩恵によって神の民とされている身分を語ります。

日常生活についての勧告(二・一一〜三・七)

寄留者の自覚

11 愛する人たちよ、あなたたちに勧めます。あなたたちは旅人また寄留者として、魂に戦いを挑む感覚的な欲望を避けなさい。12 異教徒の間で立派な行いを続けて、あなたたちを悪人呼ばわりしている者たちも、訪れの日には、それがあなたたちの善い働きからであると分かって、神をあがめるようになるためです。(二・一一〜一二) 

 著者は最初に「新たに生まれさせる」福音の救いの働きとそれに伴う希望を簡潔に提示して確認した後(一・一〜一二)、「こういうわけで」と聖なる歩みをするように呼びかけて、実際的な勧告を始めました(一・一三〜一六)。ところがそれに続く部分は、結局キリストの民として特別な身分や特質を描くことに費やされました(一・一七〜二・一〇)。そこで、著者はキリストの民としての日常生活の進め方を具体的に勧告するにあたって、改めて「旅人また寄留者」であるとの自覚を促して前置きとした上で、「聖なる」歩みをするように、すなわち、周囲の異教徒のように感覚的な欲望に引き摺られる生活とは違う「立派な」生活をするように求めます。
 「訪れの日」という表現は、イザヤ書(七十人訳ギリシア語聖書一〇・三)では「刑罰の日」を意味し、ここでも最後の審判の日を意味するとする解釈もありますが、新約聖書では「神が救いの恵みをもって民を訪れてくださる時」という意味で用いられています(ルカ一九・四四)。ここは後者の意味に理解すべきでしょう。今はキリスト者を悪人呼ばわりしている異教徒たちも、神が救いの恵みをもって彼らを訪れ、彼らが神の恩恵に目覚めるとき、それまで非難していたキリスト者の行為が善いものであることが分かって、そのような善い働きを与えてくださった神をあがめるようになるという意味です。
 この箇所を総論として、著者は以下で日常生活の主要な局面についての各論に入ります。

市民としての服従

13 人間の立てた制度にはすべて、主のゆえに服従しなさい。支配者としての王であろうと、14 あるいは、悪をなす者を処罰し、善をなす者をほめるために王から遣わされた長官であろうと、服従しなさい。15 というのは、神の御心は、善を行うことによって愚かな人間の無知を沈黙させることであり、16 あなたたちが自由な者として生活し、しかもその自由を悪事を覆う隠れみのとしないで、神の僕として行動することだからです。17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。(二・一三〜一七)

 キリストの民はこの世界では「寄留者」です。しかし、「寄留者」は寄留している国や都市の法律を守らなくてもよいのではありません。「寄留者」であるゆえにかえって、寄留地の定めを守るように注意しなければなりません。そのように、この世では「寄留者」であるキリストの民も、この世に生きる限りはこの世の定め(法律や諸制度)に「服従する」義務があります。具体的には王(皇帝)や長官(総督)の支配に服すことです(一三〜一四節)。
 この箇所はローマ書一三章(一〜七節)のパウロの勧告と基本的に同じで、本書に対するローマ書の影響を示唆しています。しかし、ローマ書の「神によらない権威はなく、現にある権威は神によって立てられたもの」という表現は本書にはなく、「人間の立てた制度」になっています。ネロの迫害を体験した後のローマのキリスト者は、パウロのようには言えなかったのでしょう。
 この世の法律や制度が「人間の立てた」ものであっても、キリストの民は「主のゆえに」従うべきであるとされます。すなわち、主がそう望まれるから服従するのだということです。そして、その内容が「神の御心」として、理由を示す接続詞に導かれた文(一五〜一六節)で説明されます。
 世に生きる御自身の民に対する神の御心は、神の事柄について無知であるためにキリスト者の生き方を非難している世の人たちが、もはや非難することができなくなるようにキリスト者が「善」を行うことです。この場合の「善」とは、キリスト者であろうと異教徒であろうと、人間であるかぎり無条件に善と認める良い行為です。たとえば、困窮している隣人を、キリスト教徒であるか異教徒であるかを問わず、無条件に助けることは誰もが善と認めます。そのような善をキリスト者がなすとき、世の人たちはキリスト者を非難できなくなります。このキリスト者の無条件絶対の善が世の批判や非難を封じます。
 さらに、キリスト者はこの世の様々な習慣や因習から自由な者ですが、その自由を隠れみのとして、快楽や放縦に陥り、そのために隣人を傷つけたりするというような「悪事」を行うことなく、善そのものにいます神に仕える僕として、隣人を助け仕える行動に徹するならば、だれもそのような「自由な」行動を非難することはできないはずです。

 著者が「善と悪」という一般的な表現でキリスト者の生き方を語っているところにもパウロの影響が感じられます。パウロも実践的な勧告において「善と悪」という一般的な用語を多く使っています。パウロの用例については、拙著『パウロによる福音書―ローマ書講解U』154頁と169頁を参照。

 最後に著者は社会におけるキリスト者の生き方をきわめて簡潔な四つの標語にまとめます(一七節)。この「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、王を敬う」という四項目は、ローマ書(一二・三〜一三・七)の実践的勧告を要約しています。

奴隷身分の者たちへの勧告

18 奴隷である者は、まことのおそれをもって主人に服従しなさい。善良で寛大な主人だけでなく、無慈悲な主人にもです。19 もし誰かが不当に苦しみを受けても、神を意識して、それに耐えるならば、それこそ恩恵の証しだからです。20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んだとしても、何の誉れになるでしょうか。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それこそ神の前に恩恵の証しとなります。21 あなたたちはまさにこうするように召されたのです。というのは、キリストもあなたたちのために苦しみを受け、その足跡を踏むように、模範を残されたからです。
 22 彼は罪を犯さず、
その口に偽りは見出されなかった。
 23 ののしられても、ののしり返さず、
   苦しめられても脅さず、
   正しく裁く方に身を任せた。
 24 この方は、木の上で自らその身に
   わたしたちの罪を担った。
   それは、わたしたちが罪とは決別し、
   義に生きるようになるため。
 あなたたちはその方の傷によって癒されました。25 あなたたちは羊のように迷い出ていましたが、今は魂の牧者であり監督者である方のもとに戻ってきたのです。(八章一八〜二五節)

 コロサイ書やエフェソ書などの「パウロ名書簡」には、夫と妻、親と子、主人と奴隷という家庭内の人間関係についてキリスト者としてのあり方を勧告する「家庭訓」がつけられるようになっていました(コロサイ三・一八〜四・一、エフェソ五・二一〜六・九)。本書でも「家庭訓」が加えられていますが、親と子は含まれていません。最初に主人と奴隷の問題が取り上げられますが、奴隷に対して主人への服従を説くだけで、主人の方には触れていません。また、夫と妻の関係においても、妻に対して夫への服従を説くことに重点があり、夫への勧告は簡単です。先に見た世の支配者への服従の勧告を含め、本書の実践的勧告は「服従する」という動詞が繰り返し現れます。社会の秩序を重んじ、下位の者が上位の者に服従することが、実践的な倫理の基調になります。これはコロサイ書やエフェソ書でも同じであり、自由な愛による平等な人間関係を追求したパウロとの距離を感じさせます。
 まず、奴隷の身分の者に対して、主人への「まったきおそれをもって」(直訳)服従するように説かれます(一八節)。「奴隷」と訳した語は、奴隷一般を指す語《ドゥーロス》ではなく、「家内奴隷」を指す語です(当時の奴隷には農場や鉱山で使役される生産奴隷と家の中で家事をするために使役される家内奴隷とがありました)。それで「召使い」と訳されることもありますが(新共同訳)、この訳では古代奴隷制における奴隷身分の者であることが隠れますので、「奴隷」と訳す方がよいでしょう。
 普通の奴隷と違ってキリスト者の奴隷には、「善良で寛大な主人だけでなく、無慈悲な主人にも」心からのおそれをもって服従するように求められます。無慈悲な主人に誠意をもって仕えることは、普通の人間にはできません。キリスト者の奴隷にそのような不可能事が求められるのは、それがキリストの模範に従う道だからという説明が続きます(一九〜二五節)。この説明によって、この段落は奴隷身分の者に対する勧告の枠をはるかに超えて、キリスト者一般の生き方に対する重要な勧告となっています。
 奴隷に限らず誰であっても、「もし誰かが不当に苦しみを受けても、神を意識して、それに耐えるならば、それこそ《カリス》だからです」(一九節)と著者は書きます。「神を意識して」というのは、今自分に不当な苦しみが来ているのは、わたしを鍛えるために神がそれをわたしに与えているのだというように、神との関わりに生きる者として受けとめることを指しています。そう受けとめて、不当な苦しみに耐えるならば、それこそ《カリス》である、すなわちその人が恩恵によって生きていることの証しとなると語ります。
 ここで著者は、「恩恵」《カリス》という語を、パウロが用いたのと違った特別の意味で用いています。パウロはこの語を、人間の資格や価値に無関係に、救いや命などよきものを無条件に与えてくださる神の一方的な愛の行為を指すのに用い、福音を語るさいの基調語としました。しかし、ここ(一九節と二〇節)ではそのような意味ではなく、そのような恩恵を受けた結果とか証しという特殊な意味で用いられています。二〇節でこの語が「誉れ」と一対で用いられていることからも、その意味が確認できます。
 「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んだとしても」、それは当然のことで何の誉れにもなりませんが、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら」、それこそ神の前に《カリス》(恩恵の証し)となるとした後(二〇節)、「あなたたちはまさにこうするように召されたのです」と、キリストに属する者となったことの意義が語られます(二一節前半)。著者はこう言って、当時キリストを信じる者であるゆえに、周囲の社会から不当な嫌がらせや取扱いを受けるようになっていた読者たちを励まします。そして、その根拠として、キリストを模範として引き合いに出します(二一節後半)。これは、互いにへりくだるように勧めるさいに、自分を空しくされたキリストを引き合いに出したパウロ(フィリピ二・一〜一一)の勧告の仕方と同じです。
 著者は模範としてのキリストの姿を、当時の集会で唱えられていたキリスト賛歌を引用して描きます。二一節から二五節までの全体がキリスト賛歌の引用であるとする見方もありますが、「あなたたち」に語りかけている部分は読者に対する著者の呼びかけであり、キリスト賛歌の引用は「彼」を主語としている二二節から二四節前半まで(本訳では一段下げて詩文の形にしている部分)としてよいでしょう。
 引用されたキリスト賛歌を見ますと、当時のキリストの民がどのようにキリストを言い表し、賛美し、信仰の拠り所としていたのかが分かります。当時の人々は聖書や使徒の書簡というような文書に接する機会はほとんどなかったのですから、短い歌の形でキリストを言い表し賛美する文を唱えていたのです。
 このキリスト賛歌を見ますと、当時の信徒たちはキリストをイザヤ書五三章の「主の僕」の預言を成就する方として言い表していた様子がよく分かります。この短い賛歌は、イザヤ書五三章の「主の僕」の姿(とくに四節、九節、一二節)をキリストに重ねて言い表し賛美しています。ただ、最後の「彼は自らをなげうち、死んで・・・・多くの人の過ちを担い」というイザヤ書の部分は、キリストの十字架の死を明確に言い表す形となり、「木の上で、自らその身にわたしたちの罪(複数形)を担った」となっています。これは、キリストは「わたしたちの罪(複数形)のために」死んだというケリュグマの形を変えた告白です。
 キリストの十字架上の死を「わたしたちが罪とは決別し、義に生きるようになるため」であるとするのは、きわめてパウロ的な十字架理解ですが、その表現と内容は微妙に違ってきています。パウロは「罪」を単数形で指し、神に背く霊的支配力を意味していますが、ここでは諸々の罪過の行為を指す複数形が用いられ、パウロが「(支配力としての)罪に死ぬ」と言っているところが、(行為としての)罪過とは「決別する」という表現になっています。これは、パウロの霊的体験を継承することがいかに難しいかを垣間見させます。
 キリスト賛歌を引用した後、このようなキリストに召された者たちに呼びかけるのに、著者はやはりイザヤ書五三章の言葉(五節と六節)を用います。あなたたちは「その方の傷によって癒されました」と、イザヤ書の表現でキリストによる救いを語ります。そして、その救いの内容を、イザヤ書の羊の比喩を用いて、あなたたちは「羊のように迷い出ていましたが、今は魂の牧者であり監督者である方のもとに戻ってきた」ことと表現します(二四節後半〜二五節)。キリストは「魂の牧者」とされていますが、これは、キリストを「羊の大牧者」と呼んでいるヘブライ書(一三・二〇)との親近性を感じさせます。著者も後でキリストを「大牧者」と呼んでいます(五・四)。

妻と夫

1 同じように、妻たちよ、自分の夫に服従しなさい。たとえ御言葉を信じていない夫であっても、妻の無言の行いによって獲得されるようになります。2 それは、畏れをもってなされるあなたたちの純真な行いを見るからです。3 あなたたちの装いは、編んだ髪や金の飾り物、あるいは華やかな上着というような外面的なものであってはなりません。4 むしろそれは、柔和で静かな霊という、心の内に秘められた朽ちざる人間性であるべきです。それこそが、神の前に価値あるものなのです。5 昔、神に望みを託した聖なる女性たちも、このように夫に服従して、自分を飾りました。6 サラはアブラハムを主人と呼んで、彼に従順でした。あなたたちも、善を行い、いかなる脅しも怖れないならば、サラの子供たちとなったのです。
 7 夫たちよ、同じように、女性は自分よりも弱い器であることをわきまえて共に生活し、共に命の恵みを受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたたちの祈りが妨げられないためです。(三章一〜七節)

 ここで家庭訓の一つの項目である夫と妻に対する勧告が来ます。下位の者の上位者への服従を秩序の基本とする著者は、(先の社会制度や奴隷の場合と)「同じように」と言って、まず妻に対して夫への服従を説きます(一〜二節)。
 ローマ社会は厳然たる家父長制社会であり、夫は家長として、妻と子と奴隷たちに対して絶対的な支配権を持っていました。その中で妻が夫に服従するのは当然ですが、ここではとくに「御言葉を信じていない夫」に対する服従が取り上げられています。それは、先に無慈悲な主人をもつ奴隷に誠意ある服従が「主のゆえに」求められたように、「御言葉を信じていない夫」からの辛い仕打ちにも「主のゆえに」黙って耐えて服従するように求められています。この場合の「主のゆえに」は、キリスト者である妻の無言の善い行いによって、夫がキリストへと「獲得される」、すなわちキリスト信仰に導かれて、キリストの民となるためであると説明されます。
 三節以下六節に至る勧告は、妻であるという立場を超えて、女性一般に対する勧告となっています。女性が本性的にもっている外面を飾りたいという欲望を克服して、「内なる人」を神に喜ばれる霊性で美しくするように求められます。ここでは、パウロにおける「外なる人」と「内なる人」の対比が受け継がれているのでしょう。
 夫たる者への勧告では、強い立場にある家父長としての心構えが説かれます(七節)。夫が信者である場合は、妻も夫の信仰に従うのが通例でしたので、信者としての妻の場合だけが取り上げられています。その場合でも、女性の弱い立場にたいする配慮と、「共に命の恵みを受け継ぐ者としての尊敬」をもって生活を共にするように説かれます。そうしないと、夫婦間の感情のもつれから祈りが妨げられる結果にもなりかねないからです。この「共に命の恵みを受け継ぐ者としての尊敬」という態度に、人間社会の支配関係や差別を超えて、神の子としての対等の関係が成立する場が示されています。

この段落の用語について。 「御言葉」(定冠詞付きの《ホ・ロゴス》)が福音を指す術語として用いられています(一節)。「獲得する」という動詞が、外の人を信仰に導くことを指す用語になっています(一節)。パウロにおいては区別されていた「服従」と「従順」が、ここでは区別なく用いられています(五〜六節)。

善を行って苦しむ方がよい(三・八〜二二)

無条件に善を行いなさい

8 終わりに、皆が思いを一つにし、同情し合い、兄弟愛をもち、憐れみ深く、謙虚でありなさい。9 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。あなたたちは祝福を受け継ぐためにこそ召されたのですから。
10 命を愛し、
幸いな日々を見ることを願う者は、
舌を悪から、
唇を偽りの言葉から遠ざけ、
11 悪から離れ、善を行い、
平和を願って、これを追い求めよ。
12 主の眼は正しい者たちの上に、
  主の耳は彼らの嘆願に向かうが、
  主の顔は悪を行う者たちに向かうのだから。(三章八〜一二節)

 「家庭訓」を終えた著者は、「終わりに」と続けて、集会での兄弟たちの交わりについて勧告します。兄弟たちの集会では、全員が思いを一つにして、同情し合い、互いに兄弟愛をもち、憐れみ深く、謙虚であるように求められます(八節)。キリストの民の交わりにおいては、悪とか侮辱の言葉はあってはならず、ただ相手に善を願い求める祝福の言葉だけがあるべきです。それは、キリストの民は神からの祝福を受け継ぐために召された民ですから、それに反するような悪とか侮辱はその中にありえません(九節)。そしてその勧告を、著者は詩篇(三四・一三〜一七)の言葉を(幾分か変更して)引用して裏付けます(一〇〜一二節)。
 この「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を祈りなさい」という勧告には、著者たちのグループがペトロを通して聞いていたであろうイエスのお言葉(ルカ六・二七〜二八)と、パウロの勧告の言葉(ローマ一二・一四、一七、二一)の両方が響いています。

義のために苦しみを受ける者の幸い

13 もしあなたたちが善に熱心な者たちであるなら、誰があなたたちに害を加える者となろうか。 14 しかし、もしあなたたちが義のために苦しみを受けるようなことがあるとしても、 あなたたちは幸いです。彼らを恐れたり、動揺したりしないで、15 心の中でキリストを主と崇めていなさい。あなたたちが内に抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。16 それも、穏やかさと畏敬をもって、内なる意識を良く保ってそうしなさい。それは、キリストにあってなされたあなたたちの善い行いをののしった者たちが、悪口を言ったことを恥じるようになるためです。17 悪を行って苦しむよりは、もしそれが神の御心がそう望まれるのであれば、善を行って苦しむ方が優っています。(三章一三〜一七節)

 本来ならば「善に熱心な者たち」を苦しめる者はいないはずですが(一三節)、先に「成立」のところで見たように、この手紙の読者たちは周囲の社会からの様々な形の圧迫に苦しむようになっていました。著者は「もしあなたたちが義のために苦しみを受けるようなことがあるとしても」と、仮定のような書き方をしていますが、これはすでに事実です。だからこそ著者は多くの言葉をもって読者を励まさなければならないのです(一四節)。
 ここで著者は、「使徒名書簡」ではほとんど用いられなくなった「義」という語(コロサイ・エフェソ書では0回、本書ではここと二・二四だけ)を使っています。一四節には、著者のグループがペトロを通して聞いていたであろう、「義のために迫害される人たちは幸いである」(マタイ五・一〇)というイエスの語録が響いています。この場合の「義のための苦しみ」は、キリスト信仰のゆえに受ける迫害です。その時、人間を恐れることなく、自分の心の中ですべてを知りたもうキリストだけを崇めているように勧告されます。ここにも「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな・・・・」(マタイ一〇・二八〜三〇)というイエスの言葉が反響しています。
 このように迫害を受けてもキリストを信じ続けるのは、将来に対する確固とした希望があるからです。迫害の中での忍耐の根拠となっている希望について、周囲の人たちが説明を求めるときは、いつでも弁明できるように備えている必要があります(一五節)。その弁明は、激情とか威圧をもってではなく、穏やかさと相手への畏敬をもってなされるべきであり、自分の内なる意識に恥じるところがない(良心に恥じるところがない)生活を保ってなされるべきことが説かれます(一六節)。
 ここで求められている「弁明」《アポロギア》を、後に(二世紀に入って)文書で体系的になした著述家たちが現れます。彼らは「弁証家」とか「護教家」(アポロジスト)と呼ばれます。
 読者は現に「善を行って苦しむ」状況にあります。著者はその現実を、「悪を行って苦しむ」ことと対比して、それが計り知れない神の御心から出たものである以上、いっそう優ったこと、価値あること、意義あることとして、読者を励まします(一七節)。

模範としてのキリスト

18 というのは、キリストも苦しまれたのだから、
   ただ一度、諸々の罪のために、
   義なる方が不義なる者たちのために。
  あなたたちを神に導くために、
   肉においては死に渡されたが、
   霊においては命を与えられた。
19 その際、彼は獄屋にいる霊たちのところに赴き、宣べ伝えました。20 この霊たちというのは、ノアの時代に箱船が造られていたとき、神が忍耐して待っておられたのに、従わなかった者たちです。この箱船に入った僅かの者たち、すなわち八人の人間だけが、水を通って救われたのです。21 この水が象徴しているバプテスマが、今やイエス・キリストの復活によってあなたたちを救うのです。それは肉の汚れを取り除くことではなく、内なる善い意識の神への誓約です。
22 この方は、天に赴き、神の右にいまし、
天使や権勢や勢力を服従させた。(三章一八〜二二節)

 前段で「義のために苦しむ」者の幸いを語って読者を励ました著者は、義のために苦しみを受ける者の原型(模範)として、キリスト御自身を指し示します。その際、著者は当時の集会で広く唱えられていたキリスト賛歌を引用します。ただ、この目的のために引用されるのは一八節だけで、著者の筆は本筋(義のための苦難)から離れ、当時のキリスト告白(キリスト論)を反映しながら、キリストの救いについての一般論を展開していきます。そして、二二節になって再びキリスト賛歌の引用に戻って締め括ります。

 一八節から二二節の段落で、どの部分がキリスト賛歌の引用であるのか、解釈は分かれています。底本は一八〜一九節を引用としています。岩波版は一八〜一九節と二二節を引用としています。EKKは一八節は本来二二節に続いていたと推定しています。どの説も推定の域を出ませんが、ここでは一八節と二二節を引用と推定して訳しています。当時のキリスト賛歌の形についてはテモテT三・一六が参考になります。

 キリスト賛歌の引用に触発された形で著者が展開している救済論(一九〜二一節)は、その解釈が難しく、議論が絶えません。新約聖書の中で、解釈がもっとも困難な箇所の一つです。ここで詳しい議論に入ることはできませんので、こう飜訳した理由を説明するために必要な最小限の解説にとどめます。
 一九節は元のキリスト賛歌に含まれる可能性も高い文です。最初の《エン・ホー》は、「霊において」と訳される場合が多いようですが、本書では先行する内容全体を指して、「そのことに際し」という接続詞として用いられるのが普通です。この節は、キリストが十字架・復活の出来事に際して、ある所に「赴き、宣べ伝えた」という事実を語っています。ここの動詞には「降った」という意味はありません。
 では「獄屋にいる霊たち」とは誰を指すのか、議論が多い表現ですが、すぐ後に説明が続いています。すなわち、この霊たちというのは、「ノアの時代に箱船が造られていたとき、神が忍耐して待っておられたのに、従わなかった者たち」だというのです(二〇節前半)。実は、このような見方は、当時のユダヤ教の中に生まれていた黙示思想を引き継いでいます。たとえば、エノク書は創世記六章(一〜六節)にある「神の子たち」の堕落と処罰を、堕落した天使たち(=霊たち)が処罰され、繋がれて獄に入れられたと描き、選ばれたエノクが彼らの所に「赴いて告知する」ことになります。そして、この出来事に続いて起こったノアの時の大洪水は彼らのせいで起こったとされます。このようなユダヤ教の黙示思想は、当時のキリストの民にも受け継がれ(エノク書の影響はユダ書やペトロ第二書簡にも顕著です)、このような表現になったと見られます。

 エノク書については、「聖書外典偽典」(教文館)の第4巻『旧約偽典U』所収の「エチオピア語エノク書」を参照してください。この書の第二部を構成する「天使に関する教説」(六〜三六章)に、天使の堕落と賞罰が語られています(とくに六〜一六章)。

 ノアの洪水は、当時の福音宣教においてすでに広くバプテスマの象徴として用いられていました。それで、キリストが「獄屋にいる霊たちのところに赴き、宣べ伝えた」という表象がノアの洪水と関連づけられたとき、話題はごく自然にバプテスマへと移行します。洪水は世界にとって破滅的でしたが、僅かな者が箱船に入って救われたことに意義があります(二〇節後半)。この事実を象徴として、福音におけるバプテスマの意義が語られます(二一節)。
 二一節は、「今やこのバプテスマがあなたたちを救う」と述べた後、「肉の汚れの除去」ではなく、「善い内的意識の神への誓約」という対比される形の二つの名詞句が続き、その後に「イエス・キリストの復活によって」という句が来ます。この「イエス・キリストの復活によって」という句は、直前の二つの名詞句のどれかを修飾すると見るよりは、少し離れていますが「救う」という動詞を修飾すると見る方が適切です(新共同訳)。キリストの復活が起こった終末時の「今」では、バプテスマを受けてキリストに合わせられる者は、復活されたキリストによって救われるのです。バプテスマは、しばしば誤解されるように、行為的・身体的・祭儀的汚れを清めることではなく、「善い意識の神への《エペローテーマ》」であるとされます。この句の意味については、様々な解釈が提案されていますが、決定的な解決はありません。少なくとも、この句を「善い意識(良心)を神に願い求めること」とするよりは、「善い意識による神への誓約」と理解する方が、バプテスマの意義を語る句として適切でしょう。ただ、ここで語られているバプテスマ理解は、バプテスマをキリストの死に合わせられ復活者キリストの命に生きるようになる霊的体験の象徴としているパウロの理解(ローマ六・三〜四)と較べると、霊的体験の視点よりも、実践的・牧会的視点が前面に出ているという感を否めません。
 最後に、復活されたキリストの現在の栄光と権能を賛美するキリスト賛歌の末尾が引用されて、締め括られます(二二節)。ここで「天に赴き」と訳している動詞は、一九節で「獄屋にいる霊たちのところに赴き」で用いられている動詞と同じです。従って「獄屋にいる霊たちのところに赴き」は、地の下への降下という意味ではありえず、むしろ天界のどこかの層に天使たちが閉じこめられている獄があり、キリストはそこへ赴かれたとしなければなりません。キリストは「天に赴き」、そこで「神の右にいます」方として「天使や権勢や勢力を服従させた」ことになります。この節のキリストは、コロサイ書(二・一〇、一五)やエフェソ書(一・二〇〜二一)に見られる宇宙論的キリストの系譜に属します。

 「使徒信条」の「死にて葬られ」と「三日目によみがえり」の間に、「陰府にくだり」という項目があります。このキリストの陰府への降下という信条と、ペトロ第一書簡の三・一九と四・六の関係が、教理史上の問題として複雑な議論を呼び起こしてきました。ここでその議論に立ち入ることはできませんが、ここで見た三・一九の意味からすると、この箇所が直接「キリストの陰府降下」の信条の起源とか根拠になったとは言えません。この問題について詳しくは、EKKの中のN・ブロックス『ペテロの第一の手紙』(角田信三郎訳・教文館)247頁以下の「付論」を参照してください。

キリストの民の苦難(四・一〜一九)

かっての時と残された時

1 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたたちも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪をやめたのですから。2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉において残された時を生きるようになるためです。3 好色、官能、泥酔、宴楽、暴飲、忌まわしい偶像礼拝などにふけって、異教徒の欲するところを行っていたあの過ぎ去った時は、もうあれで十分です。4 あなたたちがそのような度を超した乱行に加わらなくなったので、彼らは驚き、あなたたちをそしるのです。5 彼らは、やがて生きている者と死んでいる者を裁く権を握っておられる方に、申し開きをすることになります。6 死んでいる者たちにも福音が告知されたのは、彼らが、人間に従って見れば肉において裁かれたが、神に従って見れば霊において生きるようになるためです。(四章一〜六節)

 この段落では「肉」という語がキーワードになっています。ただし、ここの「肉」は、神に敵対する生まれながらの人間本性というようなパウロ的な用例ではなく、この身体で生きる人間の生涯というほどの意味で用いられています。まず、キリストが、地上の御生涯で迫害を受けて、このような意味での「肉」に苦しみをお受けになった事実を上げて、キリストの民であるあなたたちも同じ心構えで、この世に生きる覚悟を固めるように求めます(一節前半)。そのような覚悟の必要な理由が、苦しみを受ける生涯は罪を行うことのない生涯となるのだからと、一般原則が述べられます(一節後半)。
 わたしたちが「同じ心構えで武装する」のは、地上に生きるべく残された「時」を、「もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って」生きるようになるためです(二節)。そして、これからの「肉において残された時」が、かっての「あの過ぎ去った時」と対比されて、その重要さが強調されます(三節)。「あの過ぎ去った時」は、「好色、官能、泥酔、宴楽、暴飲、忌まわしい偶像礼拝などにふけって、異教徒の欲するところを行っていた」時と描かれます。ここで、ユダヤ人が自分たち以外の民を指すのに用いていた「異邦人」《エスノス》という語が、キリストの民以外の人たち、キリストを受け入れていない人たち、すなわち「異教徒」を指すのに用いられています。この用法は使徒名書簡の特色です(エフェソ四・一七)。異教徒として生きていた「あの時」は、もうそれで十分だと言って、これからは地上の生涯の「残された時」を、神の御心に従って生きるように励まします。
 キリストの民が、以前異教徒であったとき周囲の人たちと一緒にふけっていた偶像礼拝とそれに伴う不品行や遊蕩を決然と放棄して、「そのような度を超した乱行に加わらなくなったので」、周囲の人たちはその動機をいぶかり、その生き様をそしります。彼らはことの善悪ではなく、自分たちと違った生き方をすること自体を非難するのです(四節)。
 しかし、彼らは「生きている者と死んでいる者を裁く権を握っておられる方」の前に出て、自分がキリストの民を非難した言葉と、そのような非難が出てくる生き方の責任を問われることになります(五節)。著者は、この事実を思い起こさせて、今は不当な非難と迫害にさらされている読者に、黙って耐えるように励まします。これは、パウロが「自ら復讐しないで、御怒りに場所を譲りなさい」と勧告しているのと通じます(ローマ一二・一九)。
 この「生きている者と死んでいる者を裁く方」という定式的表現は、黙示思想にその源流があるのでしょうが、新約聖書にも現れ(ここや使徒一〇・四二)、使徒教父たちによく用いられ、使徒信条に入れられるようになります。この定式が用いられたので、「死んでいる者たち」にも責任が問われることの前提として、「死んでいる者たちにも福音が告知された」という、当時の福音宣教において広く流布していた観念が引き合いに出されます(六節)。
 イエス・キリストを信じる者は救われるという福音を聞いて受け入れた信徒の間に、ではこの福音を聞く機会なく死んだ者たちはどうなるのかという疑問が起こったのは想像できます。その疑問に対して、すべての人間を公平に裁かれる神は、福音を聞く機会なく死んだ者にも福音を告知して、神に帰る機会を与えておられるのだという思想が生まれ、広く流布するようになります。これには、当時の黙示思想とか神話の影響が複雑に関わっていたと考えられますが、神の公平な裁きという前提から帰結した思想であると言えるでしょう。しかし、誰が、いつ、どのようにして「死んでいる者たちに福音を告知する」のかは何も語られていません。
 「彼ら」すなわち「死んでいる者たち」は、人間の目から見れば、その体が滅びるという形で神の裁きに服したのですが、神の目から見れば、「霊において」、すなわち神との関わりの次元で生きるようになるためにこそ、彼らにも福音が告知されたのです。これが六節の言おうとするところですが、これはあくまで「死んでいる者たち」と福音の関係についての一般論であって、四節と五節の「彼ら」(=迫害者)に関わるものではありません。五節で迫害者も「生きている者と死んでいる者を裁く」神の前に責任を問われるのだと言った機会に、著者が「死んでいる者たち」と神との関係一般に言及したものと考えられます。

 六節は解釈が困難な箇所で、様々な解釈が提案され、議論が絶えません。とくにここが三・一九と一組にされて、キリストの陰府への降下とそこでの福音宣教という教理の根拠とされますが、これはここの文脈からも、三・一九の文意からも不適切です。また、この節が死後に悔い改めて救われる機会が再びあるとする説の根拠とされるのも場違いな議論です。福音は、地上であろうと死後であろうと、あくまで宣べ伝えられている「今」信じることを求めています。

目覚めていなさい

7 万物の終わりが迫っています。それゆえ、祈りのため、思慮深くあり、醒めていなさい。8 何よりもまず、互いの愛を熱く保っていなさい。愛は多くの罪を覆うからです。9 不平を言わずに、互いにもてなし合いなさい。10 あなたたちはそれぞれ賜物を受けているのですから、神の多彩な賜物の良き管理者として、それをお互いの中に役立てなさい。11 誰かが語るなら、神の言葉として語りなさい。誰かが奉仕するなら、神が備えてくださる力によって奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストによって神が栄光をお受けになるためです。この方に、栄光と力が世々永遠にありますように、アーメン。(四章七〜一一節)

 先の段落(四・一〜六)で、かって異教徒として情欲にふけっていた時から決然と離れ、この世での苦難の中で残りの時を神の御心に従って生きる覚悟を促した著者は、ここでそうしなければならない理由を語ります。それは、今が「万物の終わりが迫っている」時だからです。パウロも実際的な勧告を時が迫っているのだからと理由づけています(ローマ一二・一一〜一四)。福音書もキリストの来臨を告知して、目覚めているように呼びかけています(マルコ一三・三二〜三七)。著者も同じように、「万物の終わり」の時が迫っていることを思い起こさせ、「それゆえ、祈りのため、思慮深くあり、醒めていなさい」と説き勧めます(七節)。

 終末を語るさい、キリストの「来臨《パルーシア》」という用語は、パウロ書簡にはよく用いられていましたが、本書やコロサイ・エフェソ書というような使徒名書簡では用いられなくなっています。黙示思想的な《パルーシア》は、テサロニケ第二書簡やペトロ第二書簡だけに残っています。終末的な自覚は保持されていますが、それは「万物の終わり」とか「生ける者と死せる者の裁き」というような一般的原理で表現されることが多くなります。なお、本書では《パルーシア》に代わって《アポカリュプシス》(顕現)という語で終末が語られるようになっていることについては、本書315頁の注記を参照してください。

 「思慮深く、(酔いから)醒めている」というのは、終わりの時が迫っていることを自覚して、自制して生きることです。著者はそのための具体的な勧告を続けますが(八〜一一節)、「互いに」という表現が繰り返されていることから、それはエクレシアの交わりの中での生き方であることが分かります。
 当時のキリストの民は、ローマ社会では迫害される孤立した少数派でしたから、まず集会の交わりの中で愛の一致を保持することが何よりも必要なことでした(八節)。愛を第一にあげる理由として、「愛は多くの罪を覆う」という標語が引用されていますが、これはパウロの「愛はすべてを覆う」という表現(コリントT一三・七)を思い起こさせます(用語は違いますが)。すべてを覆う愛は、お互いの間の傷つけあう行為も覆って、交わりを維持する力だということでしょうか。この愛の交わりが、「不平を言わずに、互いにもてなし合いなさい」という形でさらに具体的に説かれます(九節)。「もてなす」の原語は、「(旅人など)見知らぬ人を大事にする」という語で、どのような相手をも無条件に受け入れて、親切に仕える姿勢です。
 終末を前にしたキリストの民として大切なことは、聖霊によって賜っている「賜物」《カリスマ》を、お互いの中で生かして役立たせ、集会の信仰を熱く燃やし、キリストの交わりを建てあげることです。各自に賜っている霊的能力は、その人の固有の能力ではなく、神から恩恵によって賜っている能力ですから、各自はそれを神の栄光のために用いる責任を負う管理者です。そのことを自覚して、その「賜物」を互いの間でよく用いるように説き勧められます(一〇〜一一節)。この段落の勧告は、パウロが愛を最高の道として、様々な《カリスマ》の使用についてコリントの集会に与えた勧告(コリントT一二〜一四章)を簡略にしたものになります。

 11節後半の荘重な頌栄から、ここで大きな区切りがあるとして、ここまでを第一部、ここから後を第二部と区切る見方もあります。しかし、この頌栄は文脈から必要とされるもので、四章全体を一つの主題による一連のものとして読んでよいでしょう。

キリスト者としての苦しみ

12 愛する者たちよ、試みるためにあなたたちにふりかかる精錬の火を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光の顕現のときに、歓呼して喜ぶようになるためです。14 もしあなたたちがキリストの名によって非難されるのであれば、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊があなたたちの上にとどまるからです。 15 あなたたちの誰も、人殺し、泥棒、危害を加える者、他人に干渉する者として苦しむようなことがないように。16 しかし、キリスト者として苦しむのであれば、恥じてはなりません。むしろ、その名にゆえに神をあがめなさい。17 裁きが神の家から始まる時だからです。まずわたしたちから始まるのであれば、神の福音に従わない者たちの終わりはどうなるでしょうか。
 18 正しい者がかろうじて救われるのならば、
   不信心な者や罪深い者はどうなるのか。
19 それゆえ、神の御心によって苦しみを受ける者は、善い行いを続けて、自分の魂を信実なる創造者に委ねなさい。
(四章一二〜一九節)

 著者は先に、キリスト者にふりかかる迫害の苦しみを、金を精錬する火にたとえました(一・七)。その精錬の火のイメージを用いて、すでに始まっている迫害の中で、キリストの名のゆえに受ける苦しみ、キリスト者としての苦しみについての励ましを続けます(一二節)。今、信仰のゆえに受けている迫害は、「キリストの苦しみにあずかる」ことだとし、その苦しみが大きければ大きいほど、「キリストの栄光の顕現」のときに喜ぶ喜びが大きくなるとして、苦しみに耐えるように励まします(一三節)。ここでも終末の日が「顕現」《アポカリュプシス》という語で語られていることが注目されます。
 苦難の中での喜びは、終末の日を望み見て喜ぶだけではありません。キリストの名によって非難を受け迫害されているときには、「栄光の霊、すなわち神の霊」が苦しみを受けている者の上にとどまり、その中に働いて(聖霊は内在する神の働きです)、現在すでに内から溢れる歓喜となってくださるからです(一四節)。
 この箇所(一二〜一四節)は、イエスが「義のために迫害される人たち」について語られたこと(マタイ五・一〇〜一二)と同じです。「義のために」は「キリストの名によって」となり、「天には大きな報いがある」は「キリストの栄光の顕現のときに歓呼して喜ぶようになる」となっていますが、何よりもそれが聖霊による内からの歓喜となっているところに、復活後の時代の特色が見られます。おそらく、著者たちのグループは、ペトロがイエスの言葉を伝えながら、このように語るのを繰り返し聴いたことでしょう。この「苦難の中の歓喜」という御霊の励ましが、以後に到来する大迫害時代にキリストの民が勝利する原動力となります。
 著者はこの励ましをさらに具体的な形で進めます。何か悪いことをして逮捕されたり、法廷に引き出されたり、投獄されたりするのは苦しく、また恥ずかしいことですが、それが「キリスト者として」そのような苦しみと辱めを受けるのであれば、決して恥じることはない、むしろキリストの名のゆえに苦しみを受けても、それによってキリストの栄光を現すことができる者、神の栄光を委ねるに値する者と見てくださった神をあがめるようにと励まします(一五〜一六節)。

 一六節に出てくる《クリスティアノス》(クリスティアン、キリスト者、キリスト信者)という呼称は、ルカによれば、アンティオキアに信徒の集会が成立した時に、周囲の異邦人がキリストを信じる者をこう呼び始めたと伝えられています(使徒一一・二六)。その後、この呼称がどれほど使われたのかよく分かりませんが、新約聖書に出てくるのはごく稀で、使徒言行録の二回(一一・二六と二六・二八)と本書のここの計三回だけです。

 著者は現在始まっている迫害を、キリストの民を選別する「裁き」と見ています(一七節)。このような苦難によって「神の家」に所属する民、キリストの民がその真偽を選別されるのであれば、「神の福音に従わない者たちの終わりはどうなるでしょうか」と言って、不信仰者への警告とします。そして、それを根拠づけるために(七十人訳ギリシャ語聖書の)箴言一一章三一節を引用します(一八節)。
 そして最後に、「神の御心によって苦しみを受ける者」の心構えを説いて、この段落の結びとします(一九節)。神の御心を行うように召されたキリストの民は、その結果が祝福であろうと苦難であろうと、自分はひたすら善いことだけを行って、魂の永遠の行く末を、この魂の創造者である方に委ねればよいのです。この方は「信実なる方」、すなわちご自身の言葉に違うことのあり得ない方だからです。

結びの勧告と挨拶(五・一〜一四)

長老たちへの勧め

1 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として、あなたたちの中の長老たちに勧めます。2 あなたたちにゆだねられた神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って進んで[監督]しなさい。利益を得ようとする卑しい動機からではなく、進んでしなさい。3 ゆだねられている人々の上に立って権力をふるう者ではなく、群れの模範となりなさい。4 そうすれば、大牧者が現れてくださるときに、しぼむことのない栄光の冠を受けることになるでしょう。(五章一〜四節)

 当時、集会を指導する立場の人たちは「長老」と呼ばれていました。信仰歴の長い年配者がその役目を担ったのでしょうが、まだ制度として確立した段階ではないと見られます。そういう立場の人たちに勧告するにあたって、著者はペトロを「長老の一人、キリストの受難の証人、やがて現される栄光にあずかる者」と呼んで、そのペトロからの勧告として書き記します(一節)。本書が「ペトロの名による書簡」である以上、自然なことです。
 ここでペトロは、キリストの民を導くべく立てられた「共同長老」(直訳)の一人とされています。また、「キリストの受難の証人」とされていますが、原語の《マルチュス》は、イエスの身近に仕えてその十字架の受難を目撃した「証人」という意味と、キリストと同じ苦しみを受けた「殉教者」という意味が重なっています。著者たちのグループは、ペトロがすでに殉教したことを知っています。ですから、このペトロを「やがて現される栄光にあずかる者」と呼ぶことができたのです。ここのペトロの呼び方は、ペトロ本人よりも、ペトロを師と仰ぐ弟子たちの呼び方とする方が自然です。
 信徒の群れの指導と育成は、牧畜民であったイスラエルの伝統に従って、羊の群れを養い育てる「牧者」のイメージで語られます(二節)。イエスご自身もこの「牧者」の比喩を多く用いられました。「監督しつつ」という語を欠く有力な写本もあるので、底本はこれを[ ]に入れています。もしこの語があるとすれば、直後の「強制されてではなく、神に従って進んで」という句はこれを修飾することになります。
 委ねられた羊の群れを導き養うのではなく、群れの上に立って権力を振るい、群れから奪って自分を養う偽りの牧者のことは、すでに預言者エゼキエル(三四章)が厳しく非難していました。後世の教会の高位聖職者にも、このような偽りの牧者が多く出ます。ここで、真の牧者は信徒の模範となることで、その使命を果たすべきことが説かれます(三節)。
 このように牧者としての使命を忠実に果たす長老は、キリストが神の民全体の「大牧者」としてその姿を現されるとき(=キリストの顕現の時)、「しぼむことのない栄光の冠を受ける」ことが約束されます(四節)。この「大牧者」という表現は、他にはヘブライ書(一三・二〇)だけに出てきます。ここにも本書とヘブライ書の親近性がうかがえます。

若い人たちへの勧め

5 同じように、若い人たちよ、あなたたちは長老に従いなさい。皆お互いに謙遜を身にまといなさい。次のようにあるからです。
  神は高慢な者の敵となり、
  謙遜な者に恵みを与えられる。
6 だから、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。それは、時いたれば神があなたたちを高めてくださるようになるためです。7 心配ごとはみな神に委ねなさい。あなたたちのことは神が気にかけてくださっているのですから。
(五章五〜六節)

 ここで「若い人たち」というのは年齢のことではなく、指導する「長老」に対して、信仰歴の「若い人」、集会の中で指導を受けている信徒一般を指しているのでしょう。使徒名書簡(とくに牧会書簡)では、上位の者に服従することが強調されるようになりますが、先に家庭訓のところで見たように、本書にもその傾向が見られます(五節前半)。
 「若い人たち」に対する勧告は五節前半だけで終わり、すぐに「皆お互いに」と、老若男女など社会的身分を問わず、集会内では誰もが互いに謙遜であるべきことを、著者は箴言(三・三四)を引用して説きます(五節後半)。この箴言の言葉はヤコブ書(四・六)にも引用されています。同じ主旨の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉が、マタイ(二三・一二)にもイエスのお言葉として伝えられています。ただ、本書では「時いたれば」という句が添えられています。著者の終末待望からすれば、終末の時を意味する「かの時には」(新共同訳)の可能性が高いですが、冠詞なしの《カイロス》を用いているこの句は、「適切な時に」の意味にも理解されますので、両方の意味を含めてこう訳しておきます(六節)。
 最後の「心配ごとはみな神に委ねよ」という勧め(七節)には、すべての必要を知りたもう父に委ねて思い煩わないように説かれた、あの有名なイエスの「空の鳥、野の花」の説話を思い起こします。著者たちのグループは、ペトロを通してイエスのこのお言葉をよく聴いていたのでしょう。

信仰に踏みとどまるように

8 醒めて、警戒していなさい。あなたたちの敵である悪魔が、ほえる獅子のように、[誰かを]飲みつくそうとして歩き回っています。9 しっかり信仰に立って、悪魔に立ち向かいなさい。あなたたちも知っているように、世界中のあなたたちの兄弟仲間が同じ苦しみに遭っているのです。10 しかし、あらゆる恵みの神、あなたたちをキリスト[・イエス]において御自身の永遠の栄光へと招いてくださった方が、僅かの間苦しんだあなたたちを回復させ、堅くし、強め、揺らぐことのないように、その方自らがしてくださいます。11 この方に、支配が世々にありますように、アーメン。(五章八〜一一節)

 この手紙は初めから、迫害の中にある兄弟たちを励ますために書かれています。著者はこの手紙を結ぶにさいして、最後にもう一度この主題を取り上げます。ここでは、世からの迫害が「悪魔」から来るものと明示され、それゆえに信仰に堅く立って迫害者の脅迫に屈しないことが、悪魔に勝利し、神の栄光にあずかる道であると励まされます。しかも、この迫害する世の背後にある霊的勢力が「悪魔」と呼ばれるだけでなく、それが「ほえる獅子のように」神の民を呑み込もうとして世界を巡り歩いている、というように野獣にたとえられています。引用は詩篇(二二・一四)からですが、この表象は黙示思想のものです。ヨハネ黙示録に見られるように、黙示文学では神に敵対する霊的勢力は獣の表象で描かれていました。この手紙は決して黙示文書ではありませんが、迫害の時代の霊的雰囲気と、キリストの民の中にある黙示思想的底流をよく伝えています(八〜九節)。エフェソ書(六・一〇〜一八)も最後に「悪魔の策略に対抗して」戦うように説いていますが、そこには黙示思想的雰囲気はなく、本書との違いを感じさせます。
 終わりの時が迫っている今、悪魔は世の支配者たちを煽ってますます神の民を苦しめようとしているが、それは長くは続かない。あなたたちは「僅かの間」苦しむことになるが、キリストにあって栄光に招いてくださった神御自身がすぐに「回復させ、堅くし、強め、揺らぐことのないように」してくださると励まし(一〇節)、そうしてくださる方への頌栄(一一節)をもって、最後の勧告が結ばれます。

結びの挨拶

12 忠実な兄弟と考えているシルワノを通して、勧告をし、これこそが神のまことの恵みであると証しするために、わたしは少しばかり書きました。この恵みの中に踏み止まりなさい。13 バビロンにあって共に選ばれた人たちと、わたしの子マルコから、挨拶を送ります。14 愛の口づけをもって互いに挨拶を交わしなさい。キリストにあるあなたたち一同に平安がありますように。(五章一二〜一四節)

 「シルワノを通して」が、手紙の執筆者ではなく手紙を届ける人物を指していることについて、また、挨拶を送る「共に選ばれた人たちと、わたしの子マルコ」については、第一節の「成立」のところで述べました。「口づけをもって挨拶を交わす」は、ローマ書(一六・一六)や、コリント書簡(TとU)、テサロニケ第一書簡の最後の挨拶にパウロがよく用いています。